沖縄県民の民主主義
先の「集団自決」に関する教科書書き換え問題で、沖縄県の一部の人たちは、多数を動員することによって、政治家や歴史家へ圧力をかけられると考えているようだ。教科書の内容の書き換えを、自分たちの要求する方向に変えるために、明らかに多数意見であることを誇示することによって政治的な圧力をかけようとしていた。
確かに民主主義は多数決によって意志決定が行われるけれども、それは必ずしも、多数決とされる判断が「真理」であるからではない。多数意見であるということは、ただ単に比較的に多数の人々がそのように考えているにすぎないことを示しているだけである。多数の判断が必ずしも正しいとは限らない。
実際にも科学の歴史は、大多数の信じている「常識」や偏見や迷信を、少数者が覆してきた歴史であると言ってよい。また、たとえばキリストの処刑に関しても、その糾弾と告訴がユダヤ人大衆の嫉妬に駆られてのものであることを知っていたピラトは、何とかイエスの命を救おうとしたけれども、結局、「多数の声」に押されて、イエスの処刑を認めざるを得なかったのである。
何が「真理」であるかといった問題について、神ならぬ人間の争いにおいては、最終的な判断基準を得られないことが多い。しかし、実際の生活においては何らかの意志決定を行わなければならないから、とりあえず便宜上、多数者の意見をもって問題を処理してゆくことを原則としているにすぎないのである。
しかし、後になってから、多数者の意見がまちがっていて、少数者の意見が真理であることがわかるということも事実としてある。そうした歴史的な経験から、現代の民主主義では、多数者の意見も誤りうるという謙虚な姿勢をとり、少数意見も尊重して、きちんとそれを記録して保存しておくのである。
先の「教科書書き換え反対」の沖縄県民集会では、ひたすら自己の見解が真実であることを前提にして、多数者の圧力によって強権的に書き換え変更を要求しているという印象を受けた。
たしかに、多数の意見、世論、一般常識というものは尊重されるべきであることはいうまでもない。多数者の見解が確率的にも正しい場合であることが多いだろう。また、何でもかでも少数者や特異な個人の「恣意的な」見解をいつでも尊重しなければならないということでももちろんない。
しかし、だからといって、多数の見解であるということだけをもって、「真理」であることを断定させようという姿勢は、論理的には、多数者の少数者に対する狂暴でもっとも悲惨な行為に行き着く。そこでは真理の秩序は失われて、理性の圏外にある恣意的な大衆の、時には暴徒と化した盲目的で狂信的な破壊活動に行き着く。
それは、フランス革命の末期や、スターリニズムの強制収容所、日本赤軍のリンチ事件、ポルポト・カンボジアでの大量殺戮、中国の文化革命における紅衛兵の青年たちの暴走などの実際の歴史が証明している。
民主主義の精神を、単に多数意志の結集による統治というルソー流の民主主義においてとらえるだけでは、それは往々にして悟性的で破滅的な結果を招くことになる。それは、人類から理性を失わせ、その獣的本能を解放させるだけである。
まして、経験も浅く、多面的な見方も十分にできない高校生男女を使って、かって毛沢東が「紅衛兵」を扇動し、教唆したようなやり方は、理性的な民主主義からはほど遠い。
沖縄県民の民主主義だけではなく、日本国民の民主主義は、ただ多数支配であることを目的とする小沢一郎民主党党首流の民主主義であってはならず、真理を目的とする品位のある理性的な民主主義であるべきである。そして、ただ単に多数であることだけをたのみとするルソー流の民主主義の限界を克服して行かなければならないのである。
旧日本国軍の総括
2007年10月21日