夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

一粒万倍、一粒の麦も、死なずば

2007年11月30日 | 日記・紀行

一粒万倍、一粒の麦も、死なずば

畝を作って、麦を蒔く。

スコップの手を休めて、麦畑から市街地を望む。柿もたわわに実をつけている。

ヨハネ書第12章第24節の、一粒の麦のたとえ話を思い出す。「一粒の麦の種が地に落ちて死ななければ、一粒のままである。しかし、もし死ねば、それは万粒の実を結ぶ。」

この言葉を、イエスは弟子アンデレを通じてギリシャ人たちにくれぐれも念を押して語られた。こうして、イエスはご自分の死の意味をたとえでお語りになった。イエスの死によって、イエスの御霊は聖霊として多くの人々の心に実を結ぶことになる。

そして、奇しくも本日の十一月三十日は、アンデレの十字架に架せられて殉難したとされる日である。アンデレの苦難を想い、アンデレの忍耐に学ぶ。

イエスは大工をなりわいにしていたそうだが、きっと麦を植えられたこともあったに違いない。

願わくは蒔いた麦の種に多くの収穫のありますように。

2007年11月30日 

 

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「汝自身を知れ」(グノーティ・セアウトン)

2007年11月20日 | 哲学一般

 

「汝自身を知れ」(グノーティ・セアウトン)

 

年齢をとればとるほど、多くの事柄に慣れきってしまったり、細々した日常生活の必要に追われたりして、やがて新鮮な感動などほとんど覚えなくなる。その上に、温暖化だの高齢化だの対テロ特措法など、人間を悩ませる種につきることはないから、ますます子供のような新鮮な感覚は失われてゆく。そんな最近の気ぜわしい生活のなかで、久しぶりにというか、小さな感慨に浸らせてくれたニュースがあった。

JAXA(宇宙航空研究開発機構)が打上げた月周回衛星「かぐや(SELENE)」と日本放送協会(NHK)が、2007年11月7日に、月面のハイビジョン撮影に成功したそうである。37万キロの宇宙の彼方から、暗黒のなかにくっきりと浮かび上がる地球の美しい姿が、ネット上にも公開されている。
地球の出
http://space.jaxa.jp/movie/20071113_kaguya_movie01_j.html
地球の入り
http://space.jaxa.jp/movie/20071113_kaguya_movie02_j.html

映像で見れば実に小さな青い球体の上に、人類はその歴史を刻んできた。現在の科学の知見によれば、この青い球体は46億年前に太陽系の惑星として形成されたという。そして、一億年くらい前に原始的な猿が誕生し、そこから現在の人類が進化してきたという。そして、21世紀である現在は、キリスト生誕からもまだわずかに2000年ほどにしかならない。

この小さな青い球体の上に、人類はさまざまに歴史と文化文明を刻んできた。ピラミッドを造り、アレキサンダー大王は世界征服に乗り出し、ギリシャ文明は花開き、シーザーは暗殺される。近代に至ってはフランス革命やアメリカの独立があり、この百年の間に二度にわたって世界大戦もあり、多くの兵士たちがボロ屑のように死んでいった。私たちの父や母もこの惑星の上でわずか百年足らずの生涯を終え、やがてまもなく、私たちも彼らの跡を追ってゆく。個としての人間はまことにはかないものである。

それにしても、なぜ人間は、これほどにまで労力を払って、月探査機を作り、それにハイビジョンカメラまで積み込んで、宇宙から地球の姿を捉えようとするのだろうか。それは決して単なる経済的な動機にのみよるのではない。

古代ギリシャのデルフォイの神殿には「汝自身を知れ」(グノーティ・セアウトン)というアポロ神より下された神託が刻まれていたという。それが人類の宿命にもなっているからである。

ふつうには「汝自身を知れ」というと、「自分の姿をよく知って、身の程を弁えよ」とか「自分の分を弁えよ」といったことわざの意味に使われることが多い。「わがままはいけない。」「身の程知らずの目的を追求して身を滅ぼしてはならない」といった人間についてのいわゆる世知を示すものとして受け取られていた。

それを歴史的にさらに深い意味に発展させたのは、哲学史上ではソクラテスであるとされている。ソクラテスは、「汝自身を知れ」という神託によって、多くの若者や哲学者との対話のなかで、自身の無知を自覚することによって、もっとも優れた知者であるとされた。

ソクラテスの弟子には出藍の誉れ高い哲学の父プラトンがいる。さらにアリストテレスなどの先覚者たちの跡を受けて、哲学や宗教史上の多くの英才たちが、「汝自身を知れ」というデルフォイの神託の意味を営々として限りなく深めてきた。


近現代において、「汝」を「自我」と捉え、それをさらに個人の「主観的な精神」「有限な精神」として捉え直し、さらに、家族や市民社会や国家における法や道徳や人倫を「客観的精神」として、精神の必然的な発展として考察し、「汝自身を知れ」というアポロ神の神託にもっとも深く徹底的に応えたのはヘーゲルである。彼は言う。「自己を認識するように駆り立てる神とは、むしろ、精神自身の絶対的な掟そのものである。そのために精神のあらゆる働きはもっぱらに自己自身を認識することである」と。いかにも彼らしい人間観である。

地球から生命が、人間が生まれたように、自然から精神が生まれる。人間の肉体は物質であり自然に属するが、人間の自我、意識、精神は観念的な存在である。そして、この精神は、さらに芸術や宗教やさらに哲学そのものにおいて絶対的な精神として捉えられる。

人類は宇宙の創造の神秘と自分の姿を知るために、月や火星に向けて、宇宙に向けてこれからも、探査機は打上げられるだろう。しかし、また、宇宙の創造者である神に似せて造られたといわれる人間の精神を探求することによっても、絶対者、すなわち神の認識へと至ることができるのではないだろうか。それが「汝自身を知ること」「人間の真実の姿」を知ることにもつながるはずである。それらはヘーゲルの師カントを驚嘆させた二つのもの、天体に輝く星辰と、我が内なる道徳律でもある。

 

 

 

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聖霊とは何か

2007年11月15日 | 宗教・文化

聖霊とは何か

キリスト教の神は、三位一体の神として知られている。父なる神、子なるイエス・キリスト、そして、聖霊である。この三者は本質的には同じものであり、それぞれとして現象として異なっているにすぎないとされる。

父である神とは、天地万物を創造された主体である。子であるイエス・キリストとは、言うまでもなく、新約聖書に記録されている神としての人であり、その精神は言葉・理性(ロゴス)としてとらえられている(ヨハネ書第一章)。イエスは父なる神と性質を同じくする。

そして、イエスの「死後」に、私たちにイエスの「精神」を告げ知らせ、教えるものが、いわゆる「聖霊」であるとされる(ヨハネ書14:16)。また、この「聖霊」とは、私たちに真理とは何かを悟らせるものでもある(ヨハネ書16:13)。同じキリスト教でも正教会においては、「聖霊」は「聖神」と訳されている。

使徒言行録には、イエスが使徒たちに、まもなく「聖霊」が降って力を受けることを告げられた後に、天に昇られたことが記録されている(使徒言行録1:8)。また、使徒言行録の同じ章には、「聖霊がダビデの口を通して預言している」(使徒言行録1:16)とも書かれている。この「使徒言行録」は「聖霊」の働きを受けた初期のキリスト教徒たちの活動の記録である。

もともと聖書で「霊」と訳されている言葉は、原語では「ルアハ」である。父なる神が土から人間を形作られたあと、その鼻から吹き込まれたものが「ルアハ」である。(創世記2:7)それによって人は生き(息)るものになった。ルアハには「息」とか「風」の意味がある。

英語では「スピリット」に相当する語である。そして、息を吹き込み、ふるいたたせるのは、「インスパイアー」である。芸術家が創作する原動力となるものが「インスピレーション」であり「霊感」である。ドイツ語では「ガイスト」に相当する。

もともと漢字の「霊」には、「雨の水玉のように清らかな、形や質量をもたない精気」を指すらしい(漢字源)。それは、目に見える形ある肉体に対して、目には見えない精神を指している。それはまた、目には見えない力であり、やがて、生きている人間に幸いや災いをもたらす、神や死者などの眼にはとらえることのできない主体を指すようになった。とくに、中国や日本では、この意味合いに使われる場合が多い。

しかし、「聖霊」の「霊」とは、ヘブライ語聖書の「ルアハ」や「吹く」という意味を持つギリシャ語の「プネウマ」の訳語であり、漢語や日本語の「死者の霊」や「怨霊」などに残っている死者の魂というような意味合いはもともとない。

イエスの死後は、イエスの精神は「聖霊」として働き、「信仰」によってその働きを受けた(インスパイアーされた)人々は教団を形成する。だから「聖霊」とはいわば、教団や教会などの共同体の精神でもあり、「ハギオ・プネウマ」「HOLY SPIRIT」「Der Heilige Geist」とは、むしろ、個人の観点からすれば「良心」としてとらえた方が、事柄をより的確に捉えることになるかもしれない。しかし、いずれにせよ、この「聖霊」の概念は、倫理的な存在である人間の精神に由来するものである。

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ユダヤ人、プロテスタントそしてカトリック

2007年11月11日 | 宗教・文化

ユダヤ人、プロテスタントそしてカトリック

イエスはカトリック教徒ではなかった。また、必ずしもユダヤ人でもなかった。
イエスはキリスト教徒そのものである。イエスはキリスト教徒の初心であり概念である。

それではカトリックでもないプロテスタントは、ユダヤ教にもどるのか。確かに、ユダヤ人とプロテスタントの間には共通項は多い。プロテスタントとユダヤ人は似ている。プロテスタントは現代のユダヤ人と言ってもよい。

しかし、本当のプロテスタントは、ユダヤ人に還るのではない。ユダヤ人でもないカトリックでもない、イエス・キリストそのものに還るのである。


神と私の間に、誰をも介在させることなく、神に私が直ちに接する。父なる神、聖霊、イエスのみが唯一の権威である三位一体の神に還るのである。そこに自由と独立がある。

 

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戦後民主主義の人間群像

2007年11月06日 | 宗教・文化
 

協栄ジム、亀田家処分を発表…興毅は「反則指示」認め謝罪(読売新聞) - goo ニュース

戦後民主主義の人間群像

少し前に、亀田一家兄弟がボクシング界に華々しくデビューしたとき、この一家と兄弟に戦後民主主義の新しい日本人像の典型を見るような気がして、この兄弟や一家についての感想を書いたことがある。

戦後日本人の、その品格のなさ、モラルの退廃をこの兄弟に象徴的に見るような気がして、新しい戦後日本人像として、こうした人格が生まれてくる日本の「文化的」背景について考察してみようと思ったからである。

悲しきチャンピオン―――亀田興毅選手一家に見る日本人像

一年ほど前に、数学者、藤原正彦氏の新書『国家の品格』が大ベストセラーになったけれど、その背景には、日本社会から事実として品格が失われつつあるという本能的な自覚が日本国民の間にも感じられているからだろうと思う。

心配していたとおり、今回の件でも亀田興毅君は一連の汚い反則行為について謝罪はしたけれども、人間は仮面を脱ぐように、そんなにはすぐに人格を取り替えられるものではない。

この一人の亀田興毅君の背後には、何十万人の小興毅君、何百万人の小大毅君の存在があるはずである。そして、こうした一人一人の日本人の累積が日本人像となって映る。彼に戦後民主主義の日本人像の典型を見るのは、偏見にすぎるだろうか。

そこには幸福な人間関係に必要な文化的な潤いや、芸術的な香気とか、高い道徳性とかは薬にしたくともない気がする。かって諸外国から礼賛されもした伝統的な礼儀正しさや慎ましやかさといった面影はない。

二十一世紀の日本人は、こうして無数の小亀田興毅君のような人格を自分たちの身近な隣人として、付き合いながら生きてゆかなければならないのである。果たしてそんな社会が暖かく幸福感にひたれるものになるだろうか。

 2007年10月27日

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沖縄県民の民主主義

2007年11月06日 | 国家論

沖縄県民の民主主義

先の「集団自決」に関する教科書書き換え問題で、沖縄県の一部の人たちは、多数を動員することによって、政治家や歴史家へ圧力をかけられると考えているようだ。教科書の内容の書き換えを、自分たちの要求する方向に変えるために、明らかに多数意見であることを誇示することによって政治的な圧力をかけようとしていた。

確かに民主主義は多数決によって意志決定が行われるけれども、それは必ずしも、多数決とされる判断が「真理」であるからではない。多数意見であるということは、ただ単に比較的に多数の人々がそのように考えているにすぎないことを示しているだけである。多数の判断が必ずしも正しいとは限らない。

実際にも科学の歴史は、大多数の信じている「常識」や偏見や迷信を、少数者が覆してきた歴史であると言ってよい。また、たとえばキリストの処刑に関しても、その糾弾と告訴がユダヤ人大衆の嫉妬に駆られてのものであることを知っていたピラトは、何とかイエスの命を救おうとしたけれども、結局、「多数の声」に押されて、イエスの処刑を認めざるを得なかったのである。

何が「真理」であるかといった問題について、神ならぬ人間の争いにおいては、最終的な判断基準を得られないことが多い。しかし、実際の生活においては何らかの意志決定を行わなければならないから、とりあえず便宜上、多数者の意見をもって問題を処理してゆくことを原則としているにすぎないのである。

しかし、後になってから、多数者の意見がまちがっていて、少数者の意見が真理であることがわかるということも事実としてある。そうした歴史的な経験から、現代の民主主義では、多数者の意見も誤りうるという謙虚な姿勢をとり、少数意見も尊重して、きちんとそれを記録して保存しておくのである。

先の「教科書書き換え反対」の沖縄県民集会では、ひたすら自己の見解が真実であることを前提にして、多数者の圧力によって強権的に書き換え変更を要求しているという印象を受けた。

たしかに、多数の意見、世論、一般常識というものは尊重されるべきであることはいうまでもない。多数者の見解が確率的にも正しい場合であることが多いだろう。また、何でもかでも少数者や特異な個人の「恣意的な」見解をいつでも尊重しなければならないということでももちろんない。

しかし、だからといって、多数の見解であるということだけをもって、「真理」であることを断定させようという姿勢は、論理的には、多数者の少数者に対する狂暴でもっとも悲惨な行為に行き着く。そこでは真理の秩序は失われて、理性の圏外にある恣意的な大衆の、時には暴徒と化した盲目的で狂信的な破壊活動に行き着く。

それは、フランス革命の末期や、スターリニズムの強制収容所、日本赤軍のリンチ事件、ポルポト・カンボジアでの大量殺戮、中国の文化革命における紅衛兵の青年たちの暴走などの実際の歴史が証明している。

民主主義の精神を、単に多数意志の結集による統治というルソー流の民主主義においてとらえるだけでは、それは往々にして悟性的で破滅的な結果を招くことになる。それは、人類から理性を失わせ、その獣的本能を解放させるだけである。

まして、経験も浅く、多面的な見方も十分にできない高校生男女を使って、かって毛沢東が「紅衛兵」を扇動し、教唆したようなやり方は、理性的な民主主義からはほど遠い。

沖縄県民の民主主義だけではなく、日本国民の民主主義は、ただ多数支配であることを目的とする小沢一郎民主党党首流の民主主義であってはならず、真理を目的とする品位のある理性的な民主主義であるべきである。そして、ただ単に多数であることだけをたのみとするルソー流の民主主義の限界を克服して行かなければならないのである。

 旧日本国軍の総括

2007年10月21日 

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灰谷橋

2007年11月05日 | 日記・紀行

灰谷橋

文化の日。晴天の秋空が広がっている。携帯電話の新しい機種が入荷したという連絡があり、それを受け取りに行った帰途、時間にも余裕があったので少し遠出してみることにする。

テレビ報道によると、福田首相と民主党の小沢代表が密室で党首会談を行ったそうである。福田康夫氏小沢一郎氏などに代表される自由民主党の旧世代に欠けているのは、正しい民主主義の精神と方法についての自覚である。与党と野党の党首がそろって密室会談を開くことに何ら恥じることもない。


密室談義ほど民主主義の精神から遠いものはない。民主主義の考え方では原則的に情報は公開され、国民はその正確な情報の共有に基づいて公論として討議するのである。

与党と野党の党首がそろってこのていたらくだから、民主主義国家日本の看板には偽りがある。食品会社の虚偽表示と同じだ。これからは「民主主義国日本」の前に「自称」を付さなければならない。

こうした民主主義的な政治文化の貧困の背景には、日本の大学、および大学院における教育の貧困というさらなる根本問題が存在する。繰り返し述べているように、政治文化をふくめ国家国民の学術文化の水準は、その国家国民の保有する大学、大学院の哲学的能力の水準に規定され、それ以上には高まらないからである。

それにしても、私たちは短い生涯のうちに世界のごく一部分を見て、これが世界だと納得して死んでゆく。それは日常のこんな小さな散歩にも、新しい発見があることからもわかる。世界は無限であるのに、人間は有限である。この有限と無限との間にある質の違いは言葉にできない。宇宙の大きさに比べれば、吾々をさておいてカゲロウのはかなさを嘆くまでもないことである。世界を知り尽くすことはできない。

久しぶりに向日神社に立ち寄り、北山遺跡の近くから京都の市街地を眺望する。その後、二つの別れ道を左にたどる。少し山道をたどるが苦になるほどでもない。大原野をなお右を行くと長峰寺、左へ行くと小さな私のアルカディアがある。やがて里山に入り、眺望も開ける。

昔、中国の詩人の陶潜が『桃花源記』という奇跡的な散文を残している。そこから「桃源郷」という言葉も由来しているが、西欧にも古代ギリシャにアルカディアがあった。人間はつねに理想郷を求めて止まないのかもしれない。

 

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