夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

ヘーゲル『哲学入門』目次(2)

2020年03月31日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

ヘーゲル『哲学入門』目次(2)

 

 

 

 

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』第一章 法 第三節 [個人の自由意志と法の普遍性]

2020年03月30日 | ヘーゲル『哲学入門』
 
§3

Das Recht besteht darin, dass jeder Einzelne von dem Anderen als ein freies Wesen respektiert und behandelt werde, denn nur insofern hat der freie Wille sich selbst im Andern zum Gegen­stand und Inhalt.(※1)
 
三 [個人の自由意志と法の普遍性]

法は、各個人が他人から自由な存在として、互いに尊重され、かつ取り扱われるということのうちに成立している。というのも、ただそのように取り扱われる限りにおいてのみ、自由な意志は、他人のうちにおいても自己自身を対象として、また内容としてもつからである。
 
Erläuterung.

Dem Rechte liegt die Freiheit des Einzelnen zu Grunde und das Recht besteht darin, dass ich den Andern als ein freies Wesen behandele. Die Vernunft fordert ein rechtliches Verhalten. Seinem Wesen nach ist Jeder ein Freier. Durch ihre besonderen Zustände und Eigenheiten sind die Menschen unter­schieden, aber dieser Unterschied geht den abstrakten Willen als solchen nichts an. Hierin sind sie dasselbe und indem man den Andern respektiert, respektiert man sich selbst. Es folgt daraus, dass durch die Verletzung des Rechts eines Einzelnen Alle in ihrem Recht verletzt werden.(※2)
 
説明.

法においては個人の自由が基礎にあり、かつ、私が他人を自由な存在として扱うことのうちに法は成立している。理性は合法的な行為を要求する。各人はその本質において自由人である。人々は特殊な境遇やその固有性によって区別されるが、この区別は抽象的な意志そのものからは出て来ない。自由な意志という点においては人々は同じものであり、そして人が他者を尊重する限りにおいて、人は自己自身を尊重することになる。そこから、一個人の権利(法)を侵害することは、すべての個人の 権利が侵害される結果になる。

Es ist dies eine ganz andere Teilnahme, als wenn man nur an dem Schaden eines Andern Teil nimmt. Denn 1) der Schaden oder Verlust, den Jemand an Glücksgütern erleidet, deren guter Zustand zwar wünschenswert, aber nicht an sich notwendig ist, geht mich zwar an, allein ich kann nicht sagen, dass es schlechthin nicht hätte ge­schehen sollen; 2) gehören solche Zustände zur Besonderheit des Menschen. Bei aller Teilnahme trennen wir Unglücksfälle von uns selbst ab und sehen sie als etwas Fremdes an.(※3)

それは、ただ単に他人の損害 に人が関わる場合とは、まったく異なった関わりである。というのは、1)或る人が財産の損害や損失に苦しんでいるとしても、もちろん財産は良い状態にあることが望ましいのだが、しかし、元々それが当然であるわけではなく、まあ、それが私に関わることであるとしても、しかしながら私はそれが絶対に起きるべきことではなかったと言うことはできない。;2)このような状態は人間の特殊性に関わることである。私たちは、そのすべての関わりにおいて、その不運から私たち自身を切り離して、何か余所ごとのように眺める。

Hingegen bei der Kränkung des Rechts eines Anderen fühlt Jeder sich un­mittelbar getroffen, weil das Recht etwas Allgemeines ist. Also eine Rechtsverletzung können wir nicht als etwas Fremdes be­trachten. Wir fühlen uns durch sie, weil das Recht notwendig ist, härter gekränkt.(※4)(※5)

これに対して、他人の権利(法)が毀損される場合には、誰しもが直接に傷つけられたように感じる。というのも、法(権利)は普遍的なものであるからである。したがって、私たちは不法を他人事のように見なすことはできない。私たちは法の侵害されることによって、法が私たちにとって必須不可欠なものであるゆえに、ひどく傷つけられたように感ずる。


(※1)
黄檗宗のあるお坊さんは「己」と「他の己」という言い方をしている。自己も他者もいずれも「自己意識」すなわち「己」であることで共通している。

(※2)
「人間は自由な存在である。」これはヘーゲルの人間観の根本規定である。(§22参考)この人間観からすれば、たとえば共産主義者マルクスやレーニンたちの階級闘争史観、プロレタリア独裁などの「自由抑圧」の思想とは相容れないことは明らかである。事実これらの思想は歴史的にも破綻した。

(※3)
ここは民事法の領域についての説明といえる。私たちの財産が他者の過失によって損失を被った時には、その過失は賠償によって償うことはできる。それゆえに他人が被った財産の損失についても、何か他人事のように見なすこともできる。

(※4)
ここは刑事法の領域についての説明といえる。本来の法の領域である。盗み、放火、殺人、内乱や外患誘致などが刑法において犯罪として規定されており、これらの犯罪は、自由な意志をもった個人が犯すのであり、この自由な意志は万人が共有する「普遍的な」ものである。法は、人間に普遍的なこの「意志の自由」のうちに存在の根拠をもつゆえに、法(権利)の侵害は、全ての個人のうちにある法を侵害することになる。

(※5)
「私」「自我」「意識」は個別的なものであるとともに、また普遍的なものである。ヘーゲルのこれらの論考を通じて、「普遍」「特殊」「個別」等の概念がどのように用いられているかを確認してゆく必要がある。
 
 
 
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ヘーゲル『哲学入門』第一節 法学[法そのものと国家社会における法]

2020年03月19日 | ヘーゲル『哲学入門』

Erster Abschnitt. Rechtslehre.

§1
Es muss; 1) das Recht an sich und 2) sein Bestehen in der Staats­gesellschaft betrachtet werden.

第一節  法学

まず、 1)法それ自体が、ついで 2)国家社会における法の存在、 が考察されなければならない。

Erstes Kapitel. Das Recht.

§2

Nach dem Recht soll bloß der allgemeine Wille geschehen, ohne Rücksicht auf die Absicht oder Überzeugung des Einzelnen und das Recht hat den Menschen nur als freies Wesen überhaupt zum Gegenstande.

第一章  法


法に関しては、個人の意図や信念については考慮されることなくして、ただ普遍的な意志のみが取り扱われなければならない。法は、ただ普遍的な自由な存在としての人間のみを対象とする。



(※1)
ここでは

Erster Abschnitt. Rechtslehre.  
 第一節 法学 
の 下位に
Erstes Kapitel. Das Recht.
 第一章  法  

という構成になっている。普通の構成では、章 Kapital が 上位に来て
節 Abschnitt が下位に来る。
誤記ミスなのかどうかよくわからない。さらに全体をみたのちに再検討したい。


(※2)
法学 Rechtslehre は科学として、法の概念を研究することである。その方法として、まず認識が具体から抽象へ、個別→特殊→普遍 と向かうのに対して、概念の研究は記述としては、普遍→特殊→個別 へとそれぞれの次元を対象として進行する。
ここでは、まず普遍としての、1)法そのもの、それ自体が、すなわちその潜在態 an sich において考察される。さらに、2)その顕在態 für sich  において、現実の国家社会における法の存在が法学の対象となる。

(※3)
§2のこの個所は、すでに先に「序論についての説明 二十二〔普遍的な意志(法)について」において概略的に説明されている。



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ヘーゲル『哲学入門』序論についての説明 二十五〔宗教の意義について〕

2020年03月09日 | ヘーゲル『哲学入門』
 
§25
 
Der moralische Wille in Rücksicht auf die Gesinnung ist unvollkommen. Er ist ein Wille, der das Ziel der Vollkommenheit  hat, aber: 1) wird er zur Erreichung desselben auch durch die Trieb­feder der Sinnlichkeit und Einzelheit getrieben; 2) hat er die Mittel nicht in seiner Macht und ist daher, das Wohl Anderer zu Stande zu bringen, beschränkt. 
 
二十五〔宗教の意義について〕
 
道徳的な意志は心情の面においては不完全である。道徳的な意志は完全であることを目的とする意志である。しかし、1)また、感覚の原動力と主体性を通して、道徳的な意志は自己自らを達成すべく駆り立てられる。;2)道徳的な意志は自分の実力のうちに手段をもたない。だから、道徳的な意志が他者の福利を成し遂げることには限界がある。
 
In der Religion hingegen be­trachtet man das göttliche Wesen, die Vollendung des Willens, nach seinen beiden Seiten, nämlich nach der Vollkommenheit der Gesinnung, die keine fremdartigen Triebfedern mehr in sich hat, und alsdann nach der Vollkommenheit der Macht, die heili­gen Zwecke zu erreichen.(※1)
 
これに対して、宗教においては、人々は神的な存在を、意志の完遂を、その神的存在の両面から考える。すなわち、もはやなんらの不純な動機を自分のなかにもつことのない心情の完璧さによって、それに次いで、神聖な目的を実現する威力の完璧さによって。
 
 
(※1)
先の§23〔法と道徳について〕において、人間については次のように語られていた。
「そもそも生まれついて人間は思慮の欠いたその自然の傾向から、あるいは、なお一方的で歪んだ、正しくない感性に自ら隷属した反省に追従する。」
 
人々は道徳において、人間関係においても自ら良心的に善であろうと欲する。彼は自ら道徳的にも完全であることを目的とする。そのことは彼の個性と感性が自ずからに要求するものである。

しかし、人々はそれを実現するだけの手段を、十分な意志と実力をもたない。ただ宗教においてのみ、不純な動機のない心情の完璧さと、その目的を実現する威力の完全性を目の当たりにすることができる。
ここには、カント哲学の「Sollen の立場」に対する批判が含まれている。
 
 
 
 
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ヘーゲル『哲学入門』序論についての説明 二十四〔道徳の対象とその限界〕

2020年03月04日 | ヘーゲル『哲学入門』

§24(原典では§24は§23に含まれ、節としては独立していない。)
 
Nach dem Recht ist der Mensch dem Menschen Gegenstand als ein absolut freies Wesen; nach der Moral hingegen als ein ein­zelnes nach seinem besonderen Dasein als Familienglied, als Freund, als ein solcher Charakter u. s. f. Wenn die äußeren Um­stände, in denen der Mensch mit Anderen steht, so beschaffen sind, dass er seine Bestimmung erfüllt, so ist das sein Glück. Eines Teils steht dieses Wohl in der Macht seines Willens, andern Teils hängt es von äußeren Umständen und anderen Menschen ab.

二十四〔道徳の対象とその限界〕

法律からみれば、人間は絶対的に自由な存在として、人間の対象となる。これに対して、道徳からみれば、人間は家族の一員としてとか、友人として等々のそうした性格をもったものとして、その特殊なあり方にしたがって人間の対象となる。人間が他者と関係するなかで、もしその外部の状況が、その人間の適性にかなったものであるなら、それは彼の幸運である。この幸福は、一面においては彼の意志の力のうちにあり、他面においては、外部の状況や他の人々に依存している。

Die Moral hat den Menschen auch nach seinem besonderen Dasein oder nach seinem Wohl zum Gegenstande und fordert nicht nur, dass der Mensch in seiner abstrakten Frei­heit gelassen, sondern auch dass sein Wohl befördert werde. — Das Wohlsein als die Angemessenheit des Äußeren zu unserm Inneren nennen wir auch Vergnügen. Glückseligkeit ist nicht nur ein einzelnes Vergnügen, sondern ein fortdauernder Zu­stand, zum Teil des wirklichen Vergnügens selbst, zum Teil auch der Umstände und Mittel, wodurch man immer die Mög­lichkeit hat, sich, wenn man will, Vergnügen zu schaffen. Das Letztere ist also das Vergnügen der Vorstellung.
 
道徳はなお人間を、彼の特殊なそのあり方(Dasein)について、あるいは彼の福利(Wohl)について対象としており、人間が抽象的な自由のうちに置かれることを要求するだけでなく、むしろまた、彼の福利の促進されることをも要求する。⎯ 私たちの内なるものが私たちの外なるものと適応しているような福祉(Das Wohlsein)をまた私たちは満足( Vergnügen)とも呼ぶ。幸福であること(Glückseligkeit) は、ただたんに個々人の満足だけをいうのではなく、一方においては、現実の満足そのものが継続している状態であり、他方においては、もし人々が満足を実現したいときには、つねに人々自らがその機会をもてるような環境と手段の継続しているような状態である。後者はだから想像上の満足である。
 
In der Glück­seligkeit aber wie im Vergnügen liegt der Begriff des Glückes, dass es zufällig ist, ob die äußeren Umstände den inneren Be­stimmungen der Triebe angemessen sind. Die Seligkeit hinge­gen besteht darin, dass kein Glück in ihr ist, d. h., dass in ihr die Angemessenheit des äußeren Daseins zum inneren Verlangen nicht zufällig ist. Seligkeit kann nur von Gott gesagt werden, in welchem Wollen und Vollbringen seiner absoluten Macht dasselbe ist. Für den Menschen aber ist die Übereinstimmung des Äußeren zu seinem Inneren beschränkt und zufällig. Er ist darin abhängig.(※1)
 
しかし、幸福であることのうちには、満足の中においてのように幸運の概念が含まれている。すなわち幸運の概念とは、衝動という内にある規定に外部の環境が合致しているかどうかは偶然であるということである。これに対して、至福は、そのうちには何ら幸運が存在しない。すなわち、至福においては、外部のそこの存在が内にある欲求に合致していることは偶然ではない。至福はただ神についてのみ語ることができる。神においては、その意欲することと成就することは神の絶対的な威力そのものである。しかし、人間にとっては、彼の内なるものと外なるものが一致することは限られており、偶然的である。人間はその偶然に依存している。
 

(※1)
法律は、意志における絶対的に自由な存在として人間をその対象にするが、人間の内心の信念や確信などの心情は問題にならない。それに対して、道徳は、家族の一員としてのあり方や友人としてのあり方などにおいて、その満足や福利など心情と幸福を問題とする。
人間のうちにある欲求と外部の人間関係や衣食住などの物質的な条件によって充足感と満足のもたらされるものであるならば、彼は幸福である。しかし、その充足、満足はあくまでも偶然的なものであるから、それは幸運(Glück)によってもたらされるものである。それが人間の道徳と幸福の限界である。
それに対して、至福(Die Seligkeit)とは自らの意欲するものが絶対的に、必然的に成就されることであるから、神についてのみ語ることができる。
ここで道徳の限界を超えて宗教の領域に入る。
 
 
 
 
 
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