戦後の欺瞞と日本国の独立の回復
日本国の長い歴史のなかで、日本国がその独立を失った期間はきわめて短く例外的である。四方を海に囲まれるという地理上の位置が幸いにして、独立を失って他民族の支配をうけるという経験はこれまでの歴史上ただ一度あっただけである。しかし、残念なことには、その日本のたった一度の従属国家、被支配国家の経験が、私の生存中の出来事だった。
あまり誰も言う者がいないので、再度言っておこうと思う。戦後六十余年、経済的にはGDPで世界第二位を占めるまでに至っているけれども、国内に外国駐留軍の存在を放置したままであるということである。自国の安全と独立を他国に、それも太平洋戦争の敵であったアメリカ軍に依存したままであること、ここに戦後日本の欺瞞性の根幹がある。
日本が軍事的にも独立を回復することなくして、国家の概念は実現せず、日本国と日本国民の欺瞞性、虚偽性、偽善的性格も解消しない。そこから文化的な退廃、国民の植民地的性格も生じる。この状況も、人間の年齢でいえば還暦を迎えて、本卦還り(ほんけがえり)を迎える歳月を経過してもなお続いている。
世界史の現時点においては、軍事力なくしては国家の独立を確保することができない。したがって、もし日本国が憲法前文の理想にいう「人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚し、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」自国の軍事力を保持しないとするならば、その理想を選択する結果として、現実においては日米安保条約によって、同じく自由と民主主義を奉じるアメリカ軍の駐留による軍事力によって、日本国の安全と平和を確保せざるをえない。しかしその結果として、自国の独立の防衛を他国に依存するという最大の退廃が生じる。そして、このことが太平洋戦争後の日本国と日本国民の虚偽、欺瞞性の根幹をなしている。この国家の独立という根幹における虚偽を放置したままにして、どのような国民教育も文化も経済的な発展も政治も真実なものではありえない。
憲法第九条擁護の原理主義者たちは、現在の世界史における国家相互間の独立と平和が軍備なくしては保証されないという現実を見ようとせず、自分たちの身勝手な「理想」に陶酔したいがために、その結果として自国の独立と安全の保証を彼らの多くが毛嫌いをするアメリカに依存せざるを得なくなっている。
労働組合の多くは米国原子力航空母艦ジョージ・ワシントンやロナルドレーガンの日本への寄港に反対しているが、これらのアメリカの航空母艦が日本に寄港し、また沖縄や座間、三沢などに米軍基地が存在するのは、軍隊の保持を禁じた憲法第九条の存在のために、日本が独立して自国の防衛を果たすことができないためである。この現実を彼らは見ようとしない。
日本国独自の軍事力で自由と民主主義の体制を守ることができるのなら、日本国内にアメリカ軍基地を認める必要もなく、アメリカ海軍航空母艦の日本寄港に反対する必要もない。
だからといって憲法九条擁護論者や労働組合が自力国防を主張するかというとそうでもない。彼らは憲法の第九条の擁護を狂信的に主張し、自衛のための軍事力を保持することすらひたすら反対しながら、アメリカ軍の駐留や空母の寄港にも反対する。もっとも、彼らの本音は日本国が北朝鮮や中国のような国家になることだから、日本国の独立などどうでもよいのである。
しかし、もし日本国と日本国民が本当の品格を取り戻そうとするなら、大日本帝国憲法下の時代の日本がそうであったように、自国の独立の保証を自国の軍備に求めざるえない。この国家の独立に対する国民の義務の根幹を放置したままでは、どのような経済発展も、政治も、文化も、教育も、その国民の欺瞞性を覆い隠すことはできない。