国民とは誰のことか ――小沢一郎氏の民主主義
民主党や小沢一郎氏などがよく用いる言葉に「国民」という言葉がある。(もちろん、私もこの言葉を多用していますが。)実際においても、この「国民」という言葉は、現代の社会で最も多く使われる言葉の一つのように思われる。
先の二〇〇九年夏に行われた衆議院総選挙でも、民主党はマニフェストのなかで、「国民の生活が第一」であるといったスローガンを掲げて戦っているし、共産党の主張は昔から「国民が主人公」である。本当は「人民こそが主人公である」と言いたいのかもしれないが、国民新党などは党名そのものの中に、「国民」という言葉を使い、「国民のために働く」と言っている。
国民という言葉がこれほど多用されるようになったのも、太平洋戦争の敗戦後に制定された日本国憲法の前文などにおいて、「国民主権」の宣言されたことによるものにちがいない。明治憲法においては、井上毅の原案では「国民」となっていたが、伊藤博文によって「臣民」に代えられた。
しかし、そもそも「国民」とはいったい誰のことか。国民の定義はいったいどのようなものなのか。通常、普通に考えられている国民というのは、日本国民についていえば、日本国籍を有する人間の総体をいうのだろうと思う。さらにまた、たとえば小沢一郎氏などが「国民」という言葉で考えている中身は、具体的には、国民の人口の過半数のことであり、国民の多数者のことであろう。さらには選挙を通じて国民の過半数によって代表される、多数者の意思、いわゆる民意のことであると思われる。
とくに、本質的に権力者であろうとする小沢一郎氏などにとっては、この国民の意思とは、「民意」という自己の権力を確立するための手段であるところの「多数者の意思」に他ならない。
しかし、国民の意思といい、民意と言っても、それはちょうどルソー流の民主主義と同じく、理性や概念とはまったく無関係である。それは単に多数者に共通の、抽象的で悟性的な意思であるにすぎない。だから、フランス大革命の末期や共産党の文化大革命のように、ひとたび憎悪や嫉妬にからめとられると、多数者によるすさまじい暴虐として現象するのである。
それはまたかって共産主義国家や社会主義の歴史において、民主主義の多数者の意思として、政治的に経済的に破綻を招き寄せることになったものである。すでに過去の現実に見たとおりである。そして、鳩山民主党も同じように、この歴史の轍の跡を踏もうとしている。
このルソー流の抽象的な国家原理としての「国民の意思」は、もちろん、GHQの知識人たちの手を通して、現行日本国憲法に持ち込まれたものである。だからこそ、民主党や小沢一郎氏なども、このルソー流の「国民の多数の意思」をもって、いわゆる「民意」をもって国家の原理としようとする。しかし、この多数者の意思は、ただ多数であることを本質とするものであって、そもそも「法」とか「真理」とか「概念」とは無関係である。それゆえに彼らには、理性的な意思の現実としての国家というものに理解が及ばないのである。
その結果、多数を獲得して今やみずからを権力者と自覚するようになった小沢一郎氏は、国民多数の意思をもって、すなわち民意を自己が体しているという傲慢な思いこみの許に、なんらの畏れもおののきもなく、天皇陛下のご意志や国家や民族の理性的な伝統を踏みにじるのである。またそこから、法律違反の嫌疑に対する、検察の法に則った職務の忠実な執行も、小沢一郎氏にしてみれば、彼みずからの信じる民主主義への挑戦としか映らないのである。
民意という名の下に絶対的な意思を獲得したと盲信する小沢一郎氏は、ただひたすらに国会や選挙で多数を獲得することだけに狂奔して、そして、それが民意を体する民主主義を実行することだと悟性的に信じ込んでいる。それは多数に名を借りた「全体主義」であり、そこから小沢一郎氏に対して多くの人々から「独裁者の登場」とかいった批判も生まれてくる。
現実には彼の盲信する「民主主義」によって、かって歴史上に登場した多くの狂信的な革命家が実行したように、伝統や自然法といった現実の生ける理性をズタズタに切り裂いて殺してしまうことになりかねないのである。日本国民は、ただ多数であることをたのみとする小沢一郎氏などのルソー流の民主主義者を警戒する必要があるだろう。
参照
【正論】小沢氏の権力集中は独裁の序章 評論家・西尾幹二1.27
小沢一郎という私たちの問題(菱海孫)
ヘーゲル『法の哲学』§258