インターネットのブログやサイトの記事や論文を読んでいて、最近とくに感じること考えることは、「悟性的思考」と「理性的思考」の相違ということだろうか。もっとも、それらがどう違うのか、また、そもそも悟性的な思考と理性的な思考とはどのようなものなのか、といった問題意識をもつ人自体が、ほとんどいないのが現状だと思うけれども、いずれにしても、思考の本質におけるこの両者の違いが、決定的に重要だ、ということを感じるようになった。
とくに、高名な学者、ジャーナリストや大学教授などにおいても、私の立場からすれば、その論考において「悟性的な思考」しか出来ていないな、という感想を持つ場合が少なくない。そして最近になって、とくに、そこでいわゆる「悟性的な思考」の破壊的な、否定的な働き、その現実的な作用を自覚するにつけて、ますます、この「悟性的な思考」の限界を、否定的な作用を人々に知らしめる必要を痛感するようになっている。また、ヘーゲルが自身の生涯を「悟性に対する理性の戦い」と表現せざるを得なかったことも、およそのところを推測できるようになったと思う。
もちろん、私自身も今のところ、悟性と理性の違いについて、明確に定式化できているわけではないし、また、「悟性的思考と理性的思考の相違」については、哲学上の根本テーマだと考えていても、まだ、この問題を完全に解決しているのでも自覚しているわけでもない。
ただ、およその輪郭だけここで述べれば、「悟性は分析し、理性は綜合する」ということだろうか。もう少しわかりやすくたとえて言えば、磁石を例にとって考えるならば、磁石には陽極(+)と陰極(-)がある。また、人間や動物などの生命体には生と死がある。しかし、現実においては、陽極(+)と陰極(-)との間、生と死の間には明確な境界はない。ところが、一方では私たちの認識においては、確かに生と死、+と-の差異は歴然としている。
そこで悟性的な思考は、矛盾し両立しないものとしてそれらの二者を分断――これは判断することでもあるけれども――することによって「生ける現実を殺してしまい、破壊してしまう」のである。いわゆる自称「革命家」や狂信的宗教信者の多くは、なぜ、彼らがそうした思想や認識を持つに至るのか、ということを問題として考えるようになって、おそらく、――まだ、はっきりと論証できているわけではないが――今では、彼らが「悟性的な思考」しかできないからではないか、という推理をするようになっている。
いわゆる革命と保守の立場の違いといったことも、おそらくこうした問題との関連などでさらに深化させて論じる必要があると思うが、哲学者ヘーゲルなども、彼の生きた時代に経験したフランス革命末期のロベスピエールたちが辿った政治的な顛末などを目撃して、そうした破滅的な事態を招いたことに、啓蒙哲学の特質である「悟性的な思考」の論理的な帰結を認めたのではないだろうか。
大阪市長に当選した橋下徹市長やそのブレインでもあるらしい大前研一氏らの思考にも「悟性的な思考」の片鱗と特徴がさまざまに見られるように思う。もちろん、橋下 徹氏や大前研一氏らの思想や政治的な活動を高く評価はしているのだけれども、どうしてもその反面において彼らの「悟性的な思考」の限界も「感じている」のが現状だ、というべきだろうか。いずれにしても歴史や「概念としての大衆」は、理性的に事柄の必然性にしたがって動いてゆくのだろうけれども。大げさかもしれないが、こうしたテーマについて、さらなる「国民的な自覚と議論」を期待したい。
悟性的思考と理性的思考(1)
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