夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

小野小町4

2008年03月30日 | 宗教・文化

小野小町にまつわる伝説には二つの方向があると思う。一つには深草の少将の百夜通いの話と、老いて落魄し行き倒れる小町である。

小町のこの二つの女性像には理由がないわけではない。いずれも小町の残したわずかな歌の中にその根拠があるように思う。

深草の少将の百夜通いの言い伝えは、まことに美しく幻想的でさえある。小町に恋いこがれた深草の少将が、小町のもとに百度訪れるという誓願を立てて通ったが、最後の雪の日に思いを遂げることのできないまま亡くなったという。                                              
小町の心も知らないで足が疲れくたびれて歩けなくなるほど繁く小町のもとに通っていた男のいたことは、事実としても次の歌からもわかる。

623    みるめなきわが身をうらと知らねばや  かれなであまの足たゆくくる

おそらく深草の少将の話は、安部清行や文屋康秀たちに返したような男を袖にした和歌が小町にいくつかあることに由来するにちがいない。

しかし、小町が単なる色好みの女性であっただけとは思われない。言い寄る者たちの中に彼女が深く思いを寄せた男性のいたことは明らかだ。それは次の歌などからもわかる。ただ、その男性とはかならずしも自由に会うことはできなかったようで、そのために夢の中の出会いを当てにするようになったり、その出会いに他人の目をはばかったり、世間の非難を気にかけたりしている様子がうかがわれる。だから、小町にとって真剣な恋は秘めておかなければならなかったようにも見える。

552    思ひつゝぬればや人の見えつらむ     夢と知りせばさめざらましを

553    うたゝねに恋しき人を見てしより    ゆめてふ物はたのみそめてき

554    いとせめて恋しき時は   むばたまの夜の衣をかへしてぞきる

657    限りなき思ひのまゝによるもこむ   夢路をさへに人はとがめじ

1030    人にあはむつきのなきには    思ひおきて胸はしり火に心やけをり

ただ、小町がおいそれと心を許さなかった、この百夜通いの伝説の深草の少将が実際に誰であるのかはよくわからないらしい。百夜通いの伝説の根拠についてはすでに黒岩涙香が江戸時代の学者、本居内遠の研究を引用している。それによれば、同じ古今和歌集の中にある次の歌、

762    暁の鴫(しぎ)のはねがき百羽がき     君が来ぬ夜は我れぞ数かく
     

が、三文字読み替えられて、

あかつきの榻(しぢ)の端しかきもゝ夜がき     君が来ぬ夜はわれぞかずかく
     

となり、それが、深草の少将が小町のもとを訪れたときに、牛車の榻に刻んでその証拠にしたという話になったという。歌の内容と伝説との関係から見る限り、その蓋然性については納得できるところはかなりある。

そうして恋する女性のもとに通いつめながらも、その思いも遂げられずに雪の夜に亡くなった男に対する民衆の共感と同情が、やがて伝説として伝えられることになったにちがいない。

 

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小野小町3

2008年03月29日 | 芸術・文化

古今和歌集の中でも実際にその贈答歌の中で、互いの名前が記録されて、小野小町との人間関係が成立していると考えられる可能性の高いのは、巻第十二恋歌二で(556に対する557)小町の返歌のある安部清行、また巻十八雑歌下(938)に小町の返歌がある文屋康秀、それに後撰集の中に歌を贈ったことが記されている僧正遍昭の三人である。

実名の記録されているこれらの人はおそらく小町と何らかの関係もあったのだろうけれど、業平についてはわからない。古今集巻第十三の恋歌三(622、623)にも在原業平の歌に次いで小町の歌が並べられてはいるが、紀貫之が意図的に編集したかも知れず、いずれも歌の上手な美男と美女として高名であったところから、並べて取り沙汰したということも考えられる。互いの贈答歌であるかどうかについての詞書きもなく、それぞれの歌の内容から言っても疑わしい。

しかし、実際二人の間に何らかの直接的な人間関係のあった可能性が決してないわけではない。むしろその可能性は大きい。業平の恋人だった二条の后(藤原高子)に文屋康秀が仕えていたことは、巻第一春歌上8からも明らかであるし、その文屋康秀自身が三河の国に下級官吏として赴任するときに、小町を誘っているから相当に親しい関係にあったことは推測される。

業平も、仁明天皇(在位833年~855年)、文徳天皇、清和天皇に蔵人として仕えたし、僧正遍昭については、そもそも仁明天皇に仕えていた良岑宗貞がその崩御に殉じて出家して僧正遍昭になったものである。

また文屋康秀も下級官吏として仁明天皇やそれに続いて文徳、清和天皇に仕えた。一方の小町も女官として同じ仁明天皇に仕えていたから、在原業平とも交際の機会のあったとことは十分に考えられる。

これら業平や小町ら六歌仙の世代はいずれも紀貫之よりは一世代か二世代上で、たとえば平成昭和の人間が大正明治の人間を回顧するようなもので、その人間像の記憶もまだ生々しいものだったと思われる。紀貫之も土佐から京へ帰還する途上の桂川で、惟喬親王や業平を追憶している。

時代は平安遷都から日も浅く、いまだ権力も固まらず、薬子の乱や承和の変、応門の変などの騒乱が続いた。そうした歴史的な事件の詳細な実証的な検証は歴史家に任せるとして、ふたたび小町の残したわずかな和歌と人々が彼女に託した伝説から、人間の内面の問題により入り込んでゆきたい。

古今集巻一春歌上8

二条の后の東宮の御息所ときこえける時、正月三日おまへにめして、仰せごとあるあひだに、日はてりながら雪のかしらに降りかゝりけるをよませ給ひける
                                      文屋 康秀

8   春の日の光にあたる我なれど  かしらの雪となるぞわびしき

後撰集1196

石上といふ寺にまうでて、日の暮れにければ、夜明けてまかり帰らむとて、とどまりて、「この寺に遍昭あり」と人の告げ侍りければ、物言ひ心見むとて、言ひ侍りける 
                                      小野小町

岩のうへに旅寝をすればいとさむし苔の衣を我にかさなむ

返し
                                         僧正遍昭

世をそむく苔の衣はただ一重かさねばうとしいざふたり寝む

 

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小野小町2

2008年03月28日 | 芸術・文化

しかし、古今和歌集に収められてある小町の和歌を詠む限り、紀淑望の「艶にして気力なし。病める婦の花粉を着けたるがごとし」というのは少し言い過ぎのような気がする。やはり、紀貫之ぐらいの評価が妥当であると思う。そこにみられるのは、和歌の創作よりも、恋愛そのものに関心を示している女性らしいふつうの女性像である。小町の歌からは女性としてとくに特異なところはみられないと思う。ただ和歌からもわかるように、彼女自身も自分の美貌を自覚していたようで、そのことから多くの男性との交渉もあったのかも知れない。しかし、恋愛においてはむしろ受け身で控えめな女性ではなかっただろうか、彼女の歌からはそんな印象を受ける。

和歌については、小町の語彙は必ずしも豊かではなく、後の紫式部や西行の和歌にみられるような、哲学的ともいいうるほどの思想的な情感や、しみじみと自然に感応した描写や詠唱があるわけではない。恋愛感情を叙してはいても深みがあるとは思わない。おそらく当時は仏教思想などもまだ民衆にはそれほど深いレベルで浸透していなかったことも読みとれる。また紫式部のような教養豊かな環境には育たなかったせいもあると思われる。

小町の歌を詠んでいて、あらためて気づいたのは、古今和歌集に

623   みるめなきわが身をうらと知らねばや     かれなであまの                                  足たゆくくる

という歌の前に、

                             なりひらの朝臣

622   秋の野に笹わけし朝の袖よりも  あはでこし夜ぞひちまさりける

と在原業平の和歌が並べておかれていたことだ。そして、この二つの歌が、伊勢物語の第二十五段において、恋愛する二人の男女の贈答歌として取り入れられている。この段では女性は単に「色好みなる女」といわれているだけで、小野小町という女性の名はここでは明らかにされてはいない。

しかし、古今和歌集の読者にしてみれば、歌の贈り主が在原業平であり、返歌の作者が小野小町であることは分かり切ったことであったから、伊勢物語の読者は当然に二人が恋愛関係にあるとみるだろう。ここから、後世の古今和歌集の注釈家たちも小町と業平が恋愛関係にあったと言うようになったらしい。

ただ、古今和歌集を少し読んでみてわかったことは、後代の藤原定家の小倉百人一首と同じように、あるいはそれ以上に、この古今和歌集おいても、個々の和歌の美しさ以上に、それぞれの和歌の配列の妙に紀貫之の絢爛たる美意識が編纂されているらしいことだ。その秘密を読み解く古今和歌集の注解釈がそのために特定の家系の秘伝のような趣をもたらすことになったのではないだろうか。

紀貫之が、小野小町の歌と業平の歌をあたかも贈答歌のように隣あわせに配列にすることによって、単独の和歌では醸し出せない交響曲のような躍動する美しさを生みだすことになった。そこから、逆に小町と業平との間に恋愛関係か推測されるようになり、また、それが伊勢物語にも組み入れられることになって、小町と業平の伝説になったと。この事実はすでに広く周知のことであるに違いないが、私には新しい知識であったので、これまで頭の中にバラバラに存在していた二人がはじめて結びついて、推理小説を読んだときのようなおもしろさを感じる。

たしかに、小町と業平は同時代人であったから、実際に恋愛関係にあり、それがそのまま、古今和歌集に取り入れられたと考える方が、より興味を駆り立てられるには違いないけれども、もしそうであるなら、伊勢物語の第五十段に登場する「うらむる人」も小野小町であって、業平と二人は「あだくらべ」(浮気くらべ)をしていたことにもなる。女の返した歌も小野小町が詠んだ歌ということになる。

しかし、二人の関係について歴史的な実証はむずかしいのではないだろうか。古今和歌集の成立は913年(延喜十三年)、伊勢物語は880年頃に原型ができ、集大成されたのは946年頃であるとされるから、紀貫之らが、業平と小町の二人に歌の世界で架空の恋愛を仕組んだとも考えられるし、それとも遷都してまだ間もない新しい町並みの京の都のどこかで、実際に二人は顔を合わせていたか。

 

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小野小町

2008年03月27日 | 芸術・文化

小野の随心院で、小野小町ゆかりの「はねず踊り」の催しがあるそうで、一度訪ねてみようと思い、その際、小野小町などについてもう少し詳しく知ってから行けば興味も増すのではないかと少し調べてみた。

これまで、小野小町について知っていることと言えば、せいぜい百人一首に収められている「花の色は移りにけりな  いたづらにわが身世にふる   ながめせしまに」という歌を歌った、美人薄命の運命を嘆いた歌の作者であることくらいだった。小町がどんな女性であったのか、いくつまで生きたのか、ほとんど興味も関心もなかったし、ただ意識の片隅に、おとぎ話か伝説の住人として存在していたにすぎなかった。だから、この女性の百人一首の歌が、紀貫之の編纂になる「古今集」の巻第二春歌下にもともと収まられてある歌であるということすらも知らなかったし、どのような時代に生きた女性であるのかさえ知らなかった。少し調べて見て小町が在原業平と同時代に生きた女性であることを知って驚いたくらいである。それくらいの知識しかない。

小町という名前は今では美人の代名詞のように使われている。しかし、小町という名前そのものは、本名ではない。女性の場合は忘れられている場合が多い。源氏物語の「桐坪の更衣」のように、彼女の住まわっていた場所と身分の呼び名が、彼女自身を示す呼び名となったものである。

もともと小町の「町」とは、宮中で女官たちが住んでいた一角が局町と呼ばれていたことから来るらしい。内裏の北東にもかって采女町があった。その町がそれぞれの出身にしたがって呼ばれていたらしい。采女とは、群司や諸氏の娘たちの中から容姿端麗な女子が選ばれて、天皇の身近にあって食事などのお世話をした女性を言う。小野小町も采女であったらしいから、そう呼ばれるようになったのかも知れない。小町には同じ采女の姉がいたことは確からしく、姉の方は小野町と呼ばれ、古今集にも、小町の姉の歌が記録されている。伊勢物語に登場する惟喬親王の母、紀静子なども三条町と呼ばれていた。この姉の小野町に対して、妹の方が小町と呼ばれたらしい。「小」にはかわいいと言う意味もある。

『古今和歌集目録』に「出羽国郡司女。或云、母衣通姫云々。号比右姫云々」とあることから、奥州秋田の出身であるとされ、『小野氏系図』には小野篁の孫で、出羽郡司良真の娘とあるそうだ。しかし、諸説ありその信憑性は定かではない。ただ、その出自はとにかく、実在していたのはたしかなようで、古今集の仮名序の中で、撰者の紀貫之は六人の歌人(六歌仙)を取り上げ、在原業平の名前とともに、小野小町の名を挙げて、彼女の歌ぶりについて次のように解説している。

「いにしへの衣通姫の流なり。あはれなるやうにて、強からず。言はば、よき女の悩めるところあるに似たり。強からぬは、女の歌なればなるべし。」

古今集に採録されている小町の歌は、次の全十八首。これらの歌の中には、恋しき人との出会いを夢に願うとか、容貌の衰えを嘆くとか、男の誘いになびくそぶりなどの歌の多いことから、紀貫之らは、「強からぬは、女の歌なればなるべし。」と評したのかも知れない。真名序では紀淑望は「艶にして気力なし。病める婦の花粉を着けたるがごとし」と評している。後の世の源氏物語に出てくる桐壺の更衣のような女性をイメージしていたのかも知れない。しかし、百歳近く生きて、むしろ奔放で弱々しくなかったと言う人もいるようだ。


               題しらず

113   花の色はうつりにけりな   いたづらに我が身世にふるながめせしまに

              題しらず

552    思ひつゝぬればや人の見えつらむ     夢と知りせばさめざらましを

553    うたゝねに恋しき人を見てしより    ゆめてふ物はたのみそめてき

554    いとせめて恋しき時は   むばたまの夜の衣をかへしてぞきる

               返し

557    おろかなる涙ぞ袖に玉はなす  我はせきあへず   たぎつ瀬なれば

              題しらず

623    みるめなきわが身をうらと知らねばや  かれなであまの足たゆくくる

              題しらず

635    秋の夜も名のみなりけり  あふといへば事ぞともなく明けぬるものを

              題しらず                                    こまち

656    うつゝにはさもこそあらめ    夢にさへ人めをもると見るがわびしさ

657    限りなき思ひのまゝによるもこむ   夢路をさへに人はとがめじ

658    夢路には足もやすめず通ヘども   うつゝに一目見しごとはあらず

               題しらず

727    あまのすむ里のしるべにあらなくに うらみんとのみ   人のいふらむ

             題しらず                    をののこまち

782    今はとて  わが身時雨にふりぬれば    言の葉さへに移ろひにけり

                                           (返歌あり)

             題しらず                         こまち

797     色みえでうつろふものは    世の中の人の心の花にぞありける

             題しらず                                小町

822    秋風にあふたのみこそかなしけれ    わが身空しくなりぬと思へば

     文屋のやすひでが三河の掾(ぞう)になりて、            

    「あがたみにはえいでたゝじや」と、いひやれりける返り事によめる

                                           小野小町

938  わびぬれば   身をうき草の根を絶えて   誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ

              題しらず

939     あはれてふ言こそ   うたて    世の中を思ひ離れぬほだしなりけれ


              題しらず

1030    人にあはむつきのなきには    思ひおきて胸はしり火に心やけをり

古今墨滅歌1104    おきのゐ、みやこじま        をののこまち

       おきのゐて身を焼くよりもかなしきは   宮こ島べの別れなりけり


小町の姉の歌                                  こまちがあね

              あひ知れりける人のやうやくかれがたになりけるあひだに、
              焼けたる茅の葉に文をさしてつかはせりける

790    時すぎて    かれ行く小野の浅茅には    今は思ひぞたえずもえける

                                                              (歌番号は「国歌大観」による)

 

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概念論としての桐壺の更衣考

2008年03月11日 | 概念論

これまでの従来の概念観によれば、概念とは、個別具体的な事物についての経験から、その共通点を帰納して作られた単なる「観念」としてとらえられてきた。そうした「概念観」の欠陥は、ふつうの単なる帰納法科学にすぎない生物学や人類学のレベルならとにかく、それを超えた自己運動する生命などを科学の対象にできないことである。

概念とはそのようなものではなく、たとえば光源氏の母、桐壺の更衣の胎内に観念的に宿り、自己内矛盾によって一つの種のように豊かに展開し成長する物語の生命としての存在が「概念」である。この事物に内在する矛盾を認識し、その自己運動を必然性として認識しようとすること、それが事物を概念的に把握するということにほかならない。こうした概念観が重要であるのは、本来の科学とは事物の内在的な運動の必然性を認識し、それを論証することだからである。だから、この科学は、弁証法科学もしくは演繹法科学とも呼びうるが、この概念のもっとも普遍的な運動法則を展開したものがヘーゲルの論理学である。科学としてこの論理学の意義と重要性もここにある。

源氏物語も、橡川一朗氏の提唱するような民主主義の教科書としてではなく、概念論の検証として、弁証法の検証として読むことはできないだろうか。

源氏物語は光源氏の母、桐壺の更衣の描写から始まる。
古典の中の古典『源氏物語』の主人公、光源氏の母である桐壺の更衣は、ただ源氏物語の冒頭の巻『桐壺』に登場するだけである。この冒頭の巻の中に、流星のように現われては果敢なく消えて行く。

多くの女御や更衣たちが帝に仕える中で、その美貌のゆえに帝の寵愛をうけた桐壺の更衣は、帝の寵愛がかえって不幸の種になって短い薄幸の生涯を終える。この桐壺の更衣は、主人公光源氏の母であるから、当然に源氏物語そのものの母でもある。全五十四帖の物語はすべて、この美しい悲劇の女性、桐壺の更衣の胎内に含まれている。

帝に愛されたこと、そして、すべての悲劇の種は桐壺の更衣が必ずしも高貴な身分ではなかったことにある。そのために、桐壺の更衣は帝の正妻である弘徴殿の女御や同僚や下臈の更衣たちの羨望と嫉妬を一身に集めることになる。

芸術家は批評しない。ただ、淡々として事実を芸術的な表象として描写し読者の直観にさらして行くだけである。作者紫式部もこの更衣の悲劇を事実として叙述するだけである。しかし、読者はこの悲劇の原因を目撃している。

傾城の美女の逸話がつとに人々にあまねく知られていたことは、作中に楊貴妃の例が冒頭に挙げられていることによっても分かる。実際に作中に楊貴妃の例を取り上げることによって、帝を取り巻く公卿たちに、帝の桐壺の更衣に対する寵愛振りに眉を顰めさせる。

紫式部は長恨歌をこの源氏物語の構想の下にはっきりと意識していた。そして、彼女は長恨歌と同じモチーフを、彼女の生きた平安期の貴族社会を舞台にして、彼女がその生涯の内に出会い心をときめかした事柄を、源氏物語という大作の中に封じ込めて行く。源氏物語の中には、平安の貴族社会に生きた人々の思考と感情が、紫式部という類まれな女性の意識という鏡の中に見事に映し出されている。

紫式部は道長の娘、彰子に仕えた。源氏物語が紫式部のように宮廷生活に精通した、教養豊かな女性によってしか書かれるはずのなかったことも明かである。私たちは何よりも源氏物語を読むことによって、紫式部の広大な内面世界を垣間見ることになる。

この帝と桐壺の更衣との間に皇子が生まれる。
このような子供の生まれることは、当時の人々にとっては、前世の浅からぬ因縁のゆえである。また一方で、桐壺の更衣との間に生まれた皇子が、正妻の弘徽殿の女御の第一皇子よりも比較にならないほど可愛く美しかったことがますます正妻の嫉妬と猜疑をあおることになる。これが桐壺の更衣に与えられた宿命である。

桐壺の局に住まっていた更衣のもとに頻繁に通われる帝に対して、更衣への人々の羨望も嫉妬も止む得ないものとして、作者も女御や同僚たちの恨みにも同情を寄せてもいる。そして、帝の更衣に対する寵愛が深まれば深まるほど、人々の更衣に対する羨望や嫉妬が深まるという不幸な構図が浮き彫りにされるなかで、これといった、有力な後見人を持たずに宮仕えをせざるを得なかった桐壺の更衣は、ただただ帝の庇護だけを頼りにして、不安で孤独な宮中生活を過ごさざるを得ない。

桐壺の更衣が同僚たちからどのような取り扱いを受けたか、その様子などは実際の宮中生活の体験なくしては描写できなかったように思われる。読者はこの美しい気の毒な更衣の幸せ薄い運命に同情せざるを得ない。

幼き源氏がようやく三歳になって御袴着を終えたばかりの夏には、女御や同僚の更衣たちの嫉妬やいじめが募った心労から病が篤くなり、実家に退出しようとするが、更衣を手許から離したくなかった帝は容易に許そうとはしない。とても可愛らしかった更衣ももうこのときにはすっかり面痩せて、だるげで、意識もあるかなきかの様子である。さすがに帝も拒みがたく、仕方なく退出を許されるが、加持祈祷の他にこれといった治療法もないなかで、その功もなく、更衣は里で果敢なく身罷ってしまう。

桐壺の更衣はもっとも美しい日本的な女性として、中国の傾城の美女、楊貴妃と対比するように描かれている。更衣の容貌は「いとにほいやかに、うつくしげなる人」とわずか二つの形容動詞で描写されているに過ぎないが、「唐めいた粧はうるはしうこそありけめ」と対比的に描写することによって更衣の和風の美人像が描かれる。中国の圧倒的な文化的な影響を脱して、平安期の時代としての、日本的な美意識の成熟がある。唐風の影響も残してはいるが、宮廷生活や気象天候の描写を通じて日本独自のいわゆる国風文化の美意識が作者紫式部によって明確に自覚されていることが見て取れる。

この「桐壺」の舞台は、今もなお存在する清涼殿である。紫式部は現実に存在する宮廷を物語の舞台として設定することによって、その物語の実在感を確かなものにしている。清涼殿の建築構造の正確な描写や御袴着などの宮中儀式の的確な描写を通じて、この物語のリアリズムが揺るぎなきものになっている。物語という言わば「影の国」が、単なる現実よりも現実的でありうるという優れた芸術作品の例がここにある。桐壺の更衣はこの清涼殿のなかで、桐壺の局で帝の寵愛に生き、また、女御や同僚たちのために悩み、苦しんだ。

人間関係における嫉妬、羨望、猜疑や、病気、死などの人間的な真実が、宮中生活の細部に至るまでの克明な描写と、野分や月光や八重葎の生える荒れた庭先などの自然描写を通じて、娘を失って闇に暮れ惑う北の方の心情が描き出される。
そして、このような宮中のさまざまの人間群像の実際の姿を描くことによって、源氏物語もその他の多くの古典作品と同様に人間の普遍的な真実を明らかにしてゆく。

台風一過の後の肌寒さがいっそう募る夕暮れ時の、帝よりの使者、靫負の命婦と更衣の母北の方との二人の婦人の会話、そして、彼女らの会話のなかで命婦の言葉の端々に描写される、最愛の女性を失った帝の失意と落胆の様子、また、若宮の参内の催促に対する北の方の不安と戸惑いなどに、時代を超えた人間の真実が物語として、読者の眼前に展開されて行く。その叙述にはいささかの弛みもなく古典名作の誉れにふさわしい。

ここに登場するのは、平安貴族の、しかも当時の国政の中心をなす帝とその周辺の人々の生活であるが、皇位継承に絡む確執なども唐や高麗などの異国との交流をも織り交ぜながら、藤壺とこの物語の主人公である光る君との関係を機軸とする物語の展開を暗示して桐壺の巻は閉じられる。

桐壺の更衣の死を中心に展開するこの巻の物語はたしかに悲劇とも言い得るけれども、もちろんここには神の意志や裁きといった観念はなく、帝と更衣の出会いと、その皇子光源氏の誕生も、前世の因縁の深かりしゆえと、仏教的な世界観でそれも暗示的に説明されるに過ぎない。

特に帝の性格や行動は、きわめて女性的で、帝を一個の男性として独立的に造形することに紫式部が成功しているとは言いがたい。また当時の一夫多妻制や婚姻制度ももちろん批判的な観点などはなく、貴族や女性たちの性行動も極めておおらかであり、自由で奔放ですらある。
桐壺の更衣の死の後、さらに幾月かが経過して、若宮が六歳になったときに、娘の跡を追うようにして北の方も亡くなる。孤独に取り残された光君は、父桐壺帝をのみ頼りに宮中に移り住む。高麗人の人相見を鴻臚館に招き若宮の顔相を占わせることによって、若宮の姿が描き出される。そして源氏が幼くしてすでにただならぬ存在であることが明らかにされる。そして、この高麗人の人相見から、光る君と呼ばれる若宮の容貌も母と同じく、「にほいやかでうつくし」と描写されるに過ぎない。

七歳になった若宮は学問も音楽などの技芸も上達著しく、それゆえにいっそう、第一皇子の母、弘徽殿の女御や祖父の大臣の疑いを招くことになる。高麗の人相見から若宮の不吉な未来を予言された父帝は、光君の地位を確かなものとするために、源氏姓を賜って臣下に組み入れになる。

やがて十二歳になった若宮は元服され、長い年月の経過も、慰めにはならず、帝は、内侍の勧めに従って、なき更衣の面影を持った藤壺を召し出すが、もちろん桐壺には代わるうるものではないが、それでも自然の人情として藤壺に心が移ろって行くのも感慨深いと紫式部は言う。

幼くして母を失い、その面影さえ記憶にとどめない若宮が、人々から、今はなき母更衣に似た面影を持つと噂される藤壺に心引かれ、また帝も藤壺に若宮を可愛がるようにという。若宮は左の大臣の娘、葵の上を正室に迎えてはいるが、若宮の心は藤壺の姿をたぐいなきものに思い、内裏住まいをのみ好ましく思って、葵の上の許には絶え絶えにしか参上しようとしない。このとき、若宮は元服を終えたばかりの十二歳、藤壺は十六歳。若宮は一途に藤壺に傾斜して行く。
帝の行為が、静かな湖面に投げ入れられた小石のように、無限の波紋を生んで行くなかで、光源氏の運命の歯車が回り始める。

 

「桐壺の巻」の構図
登場人物
帝、桐壺の更衣、母北の方、弘徽殿の女御、光る源氏、靫負の命婦、その他の更衣、女房、乳母、藤壺、葵の上、左の大臣

2005年10月12日

 

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書評『近代思想と源氏物語 』橡川一朗

2008年03月06日 | 書評


書評『近代思想と源氏物語 ―――大いなる否定』橡川一朗
1990年4月15日  花伝社


一昔前に手に入れはしたけれど、とくに気を入れて読みもしなかった本を取り出してもう一度読んだ。あまり生産的な仕事であるとも思えないが、 それでも一応は読んでしまったので、 とりあえず書評というか感想文は書いておこうと思った。

日本の学校では、とくに大学においてさえ、 書評を書いて研究するということなどほとんど教えられていないようなので、ごらんのように「書評」とも言えない単なる感想文のようなものでも、みなさんが「書評」を書く際に反面教師としてでも少しは参考になるかとも思い、恥を省みず投稿しました。

Ⅰ・本書の構成

目次から見ると、本書の構成は次のようになっている。

第一部  西洋の二大思想
  序章  西洋の社会と経済の歴史
第一章  キリスト教と罪の意識
第二章   近代文学における罪の意識と体制批判
第三章  認識論から民主主義へ
 
第二部  日本文化史上の二大思想

序章    日本の社会と経済の歴史

第一章  東洋の認識論
第二章  日本における罪の意識

第三部  源氏物語の思想

第一章  源氏物語の作者の横顔
第二章 源氏物語の思想
第三章 両哲理と批判精神

Ⅱ・内容の吟味

だいたい、本書の構成としては以上のようになっている。私たちが一冊の本を読む場合、まず、著者が 「その本を書いた動機なり目的は何か」を確認する。それと同時に、私が「本書を手にした動機は何か、その目的は何か」ということも確認をしておく。

筆者の本書執筆動機はおよそ次のようなものであると思われる。
まず、時代背景としては、第二次世界大戦における同じ敗戦国である旧西ドイツにおける政策転換の現実がある。

その西ドイツにおけるその政策転換の根拠について筆者は次のように言う。
「ドイツの宗教改革者ルターや哲学者カントの思想が、ドイツで復活しつつあるからではないか、と想像される」。そして、さらに「なぜならばルターの宗教思想の核心は「罪の意識」という徹底した自己否定であり、カントの哲学は、デカルトと同じく、一切を否定する厳しい懐疑から出発している。つまり、ルターもカントも、それぞれ「大いなる否定」を原点とし、したがって発想の転換による民族再生の道を教えることにもなる。」(はしがきp10)

このように書いているように、筆者の言う「大いなる否定」とは――これは本書の副題にもなっているが、――つまるところ、宗教的には「罪の意識」であり、哲学的、認識論的には「懐疑論」のことであった。そして、この両者が民主主義と結びついており、我が国が民主主義国家に転生するためにも、筆者は、この「大いなる否定」が必要であり、それを我が国において学び取ることができるのは他ならぬ『源氏物語』であるというのである。それによって、日本人の民主主義が借り物ではなくなるという。そのためにも著者は日本国民に『源氏物語』の読書を勧める。

だから、西ドイツにおける民主主義の転換を見て、日本もそれに追随すべきであるという問題意識が筆者にあったことは言うまでもない。この本が書かれた1990年の時代的な背景には、まず東西冷戦の終結があった。そして1920年に生まれた著者は、文字通り戦後日本の社会的な変革を体験してきたはずである。そして、何よりも著者の奉職した都立大学はもともと、マルクス主義の影響を色濃く受けた大学であった。本書の論考において著者のよって立つ視点には、このマルクス主義の影響が色濃く見て取れる。

筆者の本書執筆のこの動機については、おなじはしがきの中にさらに次のようにもまとめられている。

「西ドイツの政策転換は、大革命以来の民主的伝統を誇るフランスとの、和解を目的とした以上、当然、民主国家への転生の誓いを含んでいた。わが日本が諸外国から信頼されるためにも、民主主義尊重の確証が必要である。西洋では、罪の意識も認識論哲学も、ともに大いなる否定(^-^)に発して、万人の幸福を願う民主主義の論理を、はらんでいる。日本の両哲理も、その点で同じはずであるが、それを証明しているのは、ほかならぬ源氏物語である。そして、源氏物語から民主主義を学び取ることは、われわれの日本人の民主主義が借り物ではなくなる保障である。しかも、その保障を文学鑑賞を楽しみながら身につけられるのは、幸運と言うほかあるまい。」(p12)

以上に、筆者の本書執筆の動機はつきていると思う。それを確認したうえで、本書の内容の批判にはいる。

筆者の本書におけるキイワードは、先にも述べたように「罪の意識」と「徹底した懐疑」であり、この二つが、本書の副題となっている「大いなる否定」の具体的な中身である。

そして、筆者は「罪の意識」の事例として、古今東西の宗教家や文学者の例を取り上げる。それは、西洋にあっては、ルターであったり、カルヴァンであったり、ルソーであったり、トルストイであったり、シェークスピアであったりする。わが国ではそれは、釈迦の仏教であり、親鸞や法然であり、源氏物語の紫式部の中にそれを見いだそうとする。

そしてそうした、いわば形而上の問題に加えて、筆者の専門でもあるらしい「社会経済史」の論考が、本書の展開の中で第一部にも第二部においても序章として語られている。第一部の「西洋の二大思想」には序章としては、「西洋の社会と経済の歴史」が、第二部の序章では「日本の社会と経済の歴史」について概略的に語られている。先にも述べたように著者の依拠する思想体系としてはマルクス主義が推測されるが、しかし、ただ筆者はその思想体系の明確な信奉者ではなかったようである。筆者は歴史を専攻するものであって、特定の思想を体系的に自覚した思想家ではなかった。

筆者の意識に存在していて、しかも必ずしも明確には自覚はされてはいない価値観や思考方法に影響を及ぼしているは言うまでもなくマルクス主義である。その思想傾向から言えば、「宗教的な罪の意識」や「厳しい懐疑論」がイデオロギーの一種として、一つの観念形態であると見なされるとすれば、それの物質的な根拠、経済的な背景について序章で論じようとしたものだろうが、その連関についての考察は十分ではない。マルクス主義の用語で言えば、下部構造についての分析に当たる。唯物史観の弱点は、「存在が意識を決定する」という命題が、意志の自由を本質とする人間の場合には、「意識が存在を決定する」といもう一つの観念論が見落とされがちなことである。

著者の専攻は「歴史学」であるらしい(p32)が、著者にとっては、むしろこの下部構造についての実証的な歴史学の研究に従事した方がよかったのではないかと思われる。たしかに、仏教の認識論やロックやデカルトの認識論について、一部に優れた論考は見られはするものの、哲学者として、あるいは哲学史家として立場を確立するまでには到ってはいない。哲学研究としても不十分だからである。哲学論文としても、唯物史観にもとづく社会経済史研究としても、いずれも中途半端で不十分なままに終わっている。この書のほかに著者にとって主著といえるものがあるのかどうか、今のところわからない。

それはとにかく、本書においても、やはり、哲学における素養のない歴史学者の限界がよく示されていると思う。その一つとして、たとえば筆者のキイワードでもある「大いなる否定」がそうである。いったいこの「否定」とはどういうことなのか、さらに問うてみたい。また、哲学的な意義の「否定」であれば「大いなる」もなにもないだろうと思うし、哲学的な「否定」に文学的な表現である「大いなる」という形容詞を付する点などにも、哲学によって思考や論理の厳密な展開をトレーニングしてこなかった凡俗教授の限界が出ている。そこに見られるのは、論考に用いる概念の規定の曖昧さであり、また、概念、判断、推理などの展開の論理的な厳密さ、正確さに欠ける点である。それは本書の論理的な構成についても言えることで、それは直ちに思想の浅薄さに直結する。

筆者のこの著書における立場は、「マルクス主義」の影響を無自覚に受けた、マルクスの用語で言えば、「プチブル教授」の作品というべきであろうか。(もちろん、ここで使用する意味での「プチブル」というのは、経済学的な用語であって、決して道徳的な批判的スローガン用語ではない。)

そのように判断する根拠は、たとえば、イエスの処刑についても、著者の立場からは、「キリストに対する嫌疑の内容としては、奴隷制批判のほかには考えられない」(p37)と言ってることなどにある。著者の個々の記述の詳細についてこれ以上の疑問をいちいち指摘しても仕方がないが、ただ、たとえば第一部の2で、パウロのキリスト観を述べたところで、彼は言う。「革命家キリストが対決したのも人間の「罪」、つまり奴隷制という、社会制度上の罪悪だった」が、その社会的な罪をパウロが「内面的な罪」へ転換した」と。

このような記述に著者の立場と観点が尽きていると言える。ここではキリストが著者によって「革命家」に仕立て上げられている。(p41)誤解を避けるために言っておけば、イエスに対するそのような見方が間違いであるというのではない。それも一つの見方ではあるとしても、20世紀のマルクス主義者の立場からの見方であるという限界を自覚した上でのイエス像であることが自覚されていないことが問題なのである。だから、著者はそれ以上に深刻で普遍的な人間観にまで高まることができない。

Ⅲ・形式の吟味

本書における著者の執筆動機を以上のように確認できたとして、しかし、問題は著者のそうした目的が、本書において果たして効率的に必然的な論証として主張し得ているのかどうかが次の問題である。

まず、本書構成全体が科学的な学術論文として必要な論理構成をもたないことは先に述べた。科学的な学術論文として必要な論証性についても十分に自覚的ではない。その検討に値する作品ではない。そうした点においてこの作品を高く評価することはできない。

第一部で著者は、「西洋の二大思想」として、「罪の意識」と「懐疑論」を挙げているが、その選択も恣意的であるし、そもそも「罪の意識」と「懐疑論」は、一つの概念でしかなく、それをもって概念や判断、推理の集積であるべき思想と呼ぶことはできない。それらは思想を構成すべき、一個の概念か、少なくとも観念にすぎない。この二つの観念が、著者の意識にとっては主要な概念もしくは観念であることは認めるとしても、それが客観的にも西洋思想史において主要な「思想」と呼ぶことはできない。

ちなみに「思想」とは何か。その定義を手近な辞書に見ても次のようなものである。(現代国語例解辞典、林巨樹)「1.哲学で、思考作用の結果生じた意識内容。また、統一された判断体系。2.社会、人生などに対する一定の見解。」と記述され、その用例として、「危険な思想」、「思想の弾圧」「思想家」などが挙げられている。

だから、この用例にしたがえば、少なくとも「思想」と呼ぶためには、「キリスト教思想」とか「民主主義思想」とか「共産主義思想」とか国家主義とか全体主義といった、ある程度の「統一的な判断体系」が必要であって、「罪の意識」や「懐疑論」という観念だけでは、とうてい「思想」と呼ぶことはできない。

ただ、こうした観念は、西洋の思想に普遍的に内在しているから、もし表題をつけるとすれば、「西洋思想における二大要素」ぐらいになるのではないだろうか。このあたりにも、用語や概念の規定に無自覚な「歴史家」の「思想家」としての弱点が出ている。

本書のそうした欠陥を踏まえた上で、さらに論考を続けたい。この著書の観点として「罪の意識」を設定しているのだけれども、ここで問われなければならないのは、どのような根拠から著者はこの「罪の意識」と「懐疑論」を「大いなる否定」として、著者の視点として設定したのかという問題である。

それを考えられるのは、筆者の生きた時代的な背景と職業的な背景である。それには詳しくは立ち入る気も分析する気もないが、そこには戦後の日本の社会的、経済的な背景がある。ソ連とアメリカが東西両陣営に分かれてにらみ合うという戦後の国際体制の中で、我が国内においても、保守と革新との対立を構成した、いわゆる「階級対立」がこの筆者の意識とその著作の背景にあるということである。その社会的、時代的な背景を抜きにして、著者のこの二つの視点は考えられない。そうした時代背景にある「社会的な思潮」の影響が本書には色濃く投影されている。

ただ、だからといって著者は何も階級闘争を主張しているのでもなければ、支配階級の打倒を呼びかけているのでもない。ただ、「罪の意識」から「認識論としての懐疑論」へ、そして、さらにいくぶん控えめに「民主主義」が主張されているにすぎない。そして、それを総合的に学べるものとして、その手段として『源氏物語』の文学鑑賞を提唱するだけである。

ただしかし、問題はこの著者の彼自身に、この「罪の意識」「懐疑論」という視点をなぜ持つに至ったのかという反省がないか、少なくともそれが弱いために、そこで展開される論考も現実への切り込みの浅いものになっている。その結果として、筆者自身はこの「罪の意識」も「懐疑論」も克服(アウフヘーベン)できず、より高い真理の立場、大人の立場に立つことができないまま終わってしまっている。

とにかく、著者はそうした観点から、第一章で「キリスト教と罪の意識」として、キリスト教に「罪の意識」の発生母胎を求めている。たしかに、キリスト教はそれを自覚にもたらせたことは間違ってはいないと思う。しかし、罪の意識は仏教、イスラム教など多くの宗教に共通する観念であって、何もキリスト教独自のものではない。それは人間の本質から必然的に、論理的に生じるものである。キリスト教や仏教における「罪の意識」は、その特殊的な形態にすぎない。

ただ、「罪の意識」の根源に社会制度を、古代ギリシャにおける奴隷制度の存在や、インド仏教の背景として、カースト制度を、また、トルストイの諸作品の社会的背景として、当時のロシアの農奴制度や貴族制度などが認められるのは言うまでもない。文学や宗教もその生活基盤の上に、その経済的な基盤のうえに成立するものだからである。これを明確に指摘したのはマルクスの唯物史観である。もちろん、その意義は認めなければならないが、ただ、この史観の不十分な点は、彼の唯物論と同じく、観念と物質を悟性的に切り離して、その相互転化性を認めなかった点にある。いずれにせよ、そうした点において、文学上に現れた「罪の意識」や「懐疑論」などの「大いなる否定」という観念の社会経済的な基盤との必然的な関連を著者がもっと深く具体的に追求していれば、もっと内容豊かな作品になっていたのではないだろうか。

Ⅳ・本書の社会的、歴史的意義について

本書の論理的な展開やその論証についてはきわめて不十分であり、したがって、科学的な学術論文としては評価はできない。だから、実際に日本人が『源氏物語』を文学鑑賞したとしても、本居宣長流の「もののあはれ」を追認するのみで、果たして「罪の意識」と「懐疑論」を深めることを通じて民主主義の意識の形成に果たしてどれだけ役立つことになるのか疑問である。

たしかに、源氏物語にも、また仏教思想にも、あるいは儒教にすら「民主主義」的な要素は探しだそうとすればあるだろう。しかし、そこから直ちに、民主主義をこれらの宗教や思想から帰結させようとするには無理があるように、源氏物語に「罪の意識」と「懐疑論」を見出して、そこに民主主義の素養を培うべきだという筆者の問題提起には無理があるのではないだろうか。

本書はこのように多くの欠点をもつけれども、示唆される点も少なくはなかった。従来から西洋哲学の方面に偏りがちだった私の意識を東洋哲学へ引きつけことになった。とくに仏教の認識論により深い興味と関心をもつようになったことである。また、「源氏物語」の評価についても、伝統的な一つの権威として、国学者である本居宣長の「ものの哀れ」観の束縛から解放されて、あらためて仏教思想の観点から、今一度この文学作品の価値を検討してみたいという興味を駆り立てられた点などがある。

また、本書において著者自身にもまだ十分に展開することのできていない、ルターやカルヴァン、ルソーやロックといった民主主義思想の教祖たちの思想を、さらに源泉にまで逆上って、その時代と思潮との葛藤を探求してきたいという関心を引き起こされたことである。

ロックやカントやデカルトの認識論についても同じである。そうした方面の探求は、現代の日本における民主主義思想のさらなる充実につながるし、また、歴史的にも巨大な意義をもったドイツ・ヨーロッパにおける観念論哲学の伝統を、わが国に移植し受容し継承してゆく上でも、いささかでも寄与することになると思う。

※もし万一、当該書に興味や関心をお持ちになられたお方がおられれば、図書館ででも本書を探し出して、この「書評」を批判してみてください。

 



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