§56
Bloß nach der rechtlichen Seite betrachtet, insofern der Staat die Privatrechte der Einzelnen schützt, und der Einzelne zunächst lauf das Seine sieht, ist gegen den Staat wohl eine Aufopferung eines Teils des Eigentums möglich, um das Übrige zu erhalten. Der Patriotismus aber gründet sich nicht auf diese Berechnung, sondern auf das Bewusstsein der Absolutheit des Staats. (※1)
第五十六節[愛国心について]
たんに法的な側面のみからみれば、国家が個人の私権を保護するものであり、また、個人が第一に自己の権利を追い求めるものであるかぎり、確かに個人は残りの財産を確保するために、自分の財産の一部を国家のために犠牲にすることもできる。しかし、愛国心 はこうした打算にではなく、国家の絶対性 についての自覚に基づいている。
Diese Gesinnung, Eigentum und Leben für das Ganze aufzuopfern, ist um so größer in einem Volke, je mehr die Einzelnen für das Ganze mit eigenem Willen und Selbsttätigkeit handeln können und je größeres Zutrauen sie zu demselben haben. (Schöner Patriotismus der Griechen.) (Unterschied von Bürger als Bourgeois und Citoyen.).(※2)
財産と生命を全体のために犠牲にするこの心情が、民族のうちに大きければ大きいだけ、よりいっそう個人 は自己の意志と 独立心とをもって全体のために行為することができ、各個人はさらに大きな信頼を全体に対してもつ。(ギリシャ人の美しい愛国心。)(ブルジョワとしての市民(私人)と公民との区別。)
※1
das Bewusstsein der Absolutheit des Staats.
「国家の絶対性についての自覚」が、
Diese Gesinnung, Eigentum und Leben für das Ganze
「財産と生命を全体のために犠牲にするこの心情」の根拠である。
つまり「愛国心」は「国家の絶対性の意識」から生じる。
「Gesinnung」心情、志操、心的態度、心根、精神。
※2
ここにまた「若き日本人特攻隊兵士の美しい愛国心」も追記されるべきかもしれない。
Unterschied von Bürger als Bourgeois und Citoyen.(ブルジョワとしての市民(私人)と公民との区別)については、このヘーゲルの問題意識を受けてマルクスは次のように説明している。
「いわゆる人権、つまり公民の権利から区別された人間(ブルジョワとしての市民(私人))の権利は市民社会の成員の権利、つまり利己的人間の権利、人間および共同体から切り離された人間の権利にほかならないということである。」
(マルクス『ユダヤ人問題によせて』城塚登訳、岩波文庫版41頁)
ただ、ここで指摘しておくべきは、市民社会においては、利己的人間も、他者の欲求を充足させることなくしてはその利己主義をも満たし得ないこと、をマルクスは見落としていることである。
いずれにしても、ヘーゲルの国家論の詳細については『法の哲学』§257以下を見なければならず、その過程で改めて、マルクスの「ブルジョワとしての市民(私人)と公民との相違」についての見解も批判的に検証することになるはずである。