夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

五つのソラ

2019年11月11日 | 宗教・文化

五つのソラ

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五つのソラ英語:five solae、ラテン語:cinque solas[要出典])、プロテスタント宗教改革と改革神学者たちの神学を要約したラテン語の語句である。「ソラ」は「〜のみ」を意味する語である。

目次

聖書のみ

ソラ・スクリプトゥラ (Sola scriptura) は「聖書のみ」という意味である。ルターシュマルカルデン信条において「神のことばが、教会の教えと信仰告白を確立する。それは天使であっても覆すことができない」と主張した。ルターは、教皇教会会議も最終的な権威ではなく、教会におけるすべての権威の上に聖書の権威を置き、聖書の権威に服すべきであると主張したのである[1]。そして、カルヴァンはルター以上に強調した[2]。それに対して、カトリックでは聖書が神のことばであることを認めつつも、聖書が唯一の権威であることには同意しなかった。

信仰のみ

ソラ・フィデ (Sola fide)は「信仰のみ」という意味で、信仰義認とも呼ばれる[3]。ルターは九月訳聖書とも呼ばれる『ドイツ語新約聖書』の「ローマ人への手紙」3章28節の訳語に「のみ」を付け加え、「信仰のみによる」と訳した。これが、ルターの宗教改革の中心的教理である信仰義認のテーマになった。

恵みのみ

ソラ・グラティア (Sola gratia) は「恵みのみ」という意味である。「恵みのみ」の原則は、カトリック教会によって、激しく攻撃された。なぜなら、それは倫理を破壊して無秩序と混乱を生む考えであるという理由であった[4]

キリストのみ

ソルス・クリストゥス (Solus Christus) は「キリストのみ」という意味である。ルターは義認において、救いの確信は人の内側にあるのではなく、キリストのみにあると説いた[5]

神の栄光のみ

ソリ・デオ・グロリア (Soli Deo gloria) は「神の栄光のみ(神にのみ栄光を)」という意味である。

脚注

  1. ^ カール・ヴィスロフ著『ルターとカルヴァン』p.66
  2. ^ 『ルターとカルヴァン』p.160
  3. ^ 『ドイツ宗教改革史研究』p68
  4. ^ 『ルターとカルヴァン』p.166
  5. ^ 『ルターとカルヴァン』p.38

参考文献

 
 
 
※  出典(20180713)
五つのソラ - Wikipedia https://is.gd/3z9RI0
 
 
 
 
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涅槃

2014年06月24日 | 宗教・文化


涅槃 (ねはん、サンスクリット語: निर्वाण, Nirvāṇa; パーリ語: निब्बान, Nibbānaプラークリット: णिव्वाण,ṇivvāṇaタイ語: นิพพาน, Nípphaan)は、仏教の主要な概念の一つである。

 

 この語のほか、泥曰(ないわつ)、泥洹(ないおん)、涅槃那(ねはんな)などとも音写される。漢訳では、滅、滅度、寂滅、寂静、不生不滅などと訳 し た。また、サンスクリットでは「廻って」という意味の接頭辞 pari- を冠してパリニルヴァーナ(parinirvāṇa) 、更に「偉大な」という意味の mahā- を付してマハーパリニルヴァーナ(mahāparinirvāṇa)ともいわれるところから円寂、大円寂などと訳された。ただし、南伝のパーリ語教典を訳 した中村元は ダンマパダ、第十章、「暴力」、百三十四節の訳注において「安らぎ - Nibbāna(= Nirvāṇa 涅槃)声を荒らげないだけで、ニルヴァーナに達しえるのであるから、ここでいうニルヴァーナは後代の教義学者たちの言うようなうるさいものではなくて、心 の安らぎ、心の平和によって得られる楽しい境地というほどの意味であろう。」としている。

 概説

 涅槃は、「さとり」〔証、悟、覚〕と同じ意味であるとされる。しかし、ニルヴァーナの字義は「吹き消すこと」「吹き消した状態」であり、すなわち煩悩(ぼんのう)の火を吹き消した状態を指すのが本義である。その意味で、滅とか寂滅とか寂静と訳された。また、涅槃は如来そのものを指す。涅槃仏などはまさに、死を描写したものである。「人間の本能から起こる精神の迷いがなくなった状態」という意味で涅槃寂静といわれる。

 釈迦入滅(死去)してからは、涅槃の語にさまざまな意味づけがおこなわれた。

 

  1. 有余涅槃・無余涅槃とわけるもの
  2. 灰身滅智、身心都滅とするもの
  3. 善や浄の極致とするもの
  4. 苦がなくなった状態とするもの

 

などである。

涅槃を有余と無余との二種に区別する際の有余涅槃は、釈迦が三十五歳で成道して八十歳で入滅するまでの間の「さとり」の姿を言う。無余涅槃は八十歳で入滅した後の「さとり」の姿とみるのである。この場合の、「余」とは「身体」のこととみて、身体のある間の「さとり」、身体のなくなった「さとり」とわける。

有余涅槃・無余涅槃は、パーリ語の sa-upādisesa-nibbāna, anupādisesa-nibbāna で、このうち、「余」にあたるウパーディセーサ(upādisesa)は、「生命として燃えるべき薪」「存在としてよりかかるべきもの」を意味する。仏弟 子たちは有余無余を、釈迦の生涯の上に見た。釈迦の入滅こそ、輪廻転生の苦からの完全な解脱であると、仏弟子たちは見たのである。

このような「さとり」が灰身滅智、身心都滅である。灰身滅智(けしんめっち)とは、身は焼かれて灰となり、智の滅した状態をいう。身心都滅(し んしんとめつ)とは、肉体も精神も一切が無に帰したすがたをいう。このことから、これらは一種の虚無の状態であると考える事ができるため、初期の仏教が、 正統バラモンから他の新思想と共に虚無主義者(ナースティカ、nāstika)と呼ばれたのは、この辺りに原因が考えられる。

ナースティカとは呼ばれたが、釈迦が一切を無常無我であると説いたのは、単に現実を否定したのではなく、かえって現実の中に解決の道があることを自覚したからである。

この立場で、のちに無住処涅槃という。「さとり」の世界では、無明を滅して智慧を得て、あらゆる束縛を離れて完全な自在を得る。そこでは、涅槃を一定の世界として留まることなく、生死と言っても生や死にとらわれて喜んだり悲しんだりするのではなく、全てに思いのままに活動して衆生を仏道に導く。

このような涅槃は、単に煩悩の火が吹き消えたというような消極的な世界ではなく、煩悩が転化され、慈悲となって働く積極的な世界である。その転化の根本は智慧の完成である。ゆえに「さとり」が智慧なのである。

この点から菩提と涅槃を「二転依の妙果」という。涅槃は以上のように、煩悩が煩悩として働かなくなり、煩悩の障りが涅槃の境地に転じ、智慧の障害であったものが転じて慈悲として働く。それを菩提(ぼだい)という。

以上のように「さとり」は、涅槃の寂静と菩提の智慧の活動とを内容とする。そこで涅槃の徳を常楽我浄の四徳と説く。「さとり」は常住不変で、一切の苦を滅しているので楽、自在で拘束されないから我、煩悩がつきて汚れがないから浄といわれる。

 

※以上は Wikipedia【涅槃】の項からの転記。

http://goo.gl/MYNV

 

 

 

 

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12月26日(木) 事の本質を見誤るな

2013年12月27日 | 宗教・文化

 

政治外交問題とは無関係のはずなのに。国内外で煽り立てるから静かに参拝も出来なくなっている。 fb.me/29pmPpAuD


「キリスト教」も「靖国」も、信仰はもともと「不合理」なものです。不合理であるからこそ彼らは信じるのです。「不合理なるゆえにわれ信ず」テルトゥリアヌス。池田信夫氏の「哲学の貧困 」: 靖国参拝という非合理主義 p.tl/WpQ5


中 国共産党の支配下にある中国人は「宗教の自由」「言論の自由」を持たない。その中国共産党による安倍首相の「靖国参拝」批判は内政干渉であり、中国共産党 による日本国民に対する言論、思想統制の第一歩にほかならない。日本国民がまずなすべきは安倍晋三氏の宗教、信条の自由を擁護することだ。

1 件 リツイートされました

中国共産党やアメリカからの安倍首相の「靖国神社参拝」批判に便乗してではなく、いわゆる狂信的右翼や国家神道に対する池田信夫氏の「カルト」批判は、日本国内の民主主義の問題として別個に批判すればいい。 @ikedanob @kenichiromogi


 
※ 20131227追
 
安倍首相談話「恒久平和への誓い」(全文)

 安倍首相の靖国参拝に合わせて発表された談話「恒久平和への誓い」の全文は次の通り。

  本日、靖国神社に参拝し、国のために戦い、尊い命を犠牲にされた御英霊に対して、哀悼の誠を捧(ささ)げるとともに、尊崇の念を表し、御霊(みたま)安ら かなれとご冥福をお祈りしました。また、戦争で亡くなられ、靖国神社に合祀(ごうし)されない国内、及び諸外国の人々を慰霊する鎮霊社にも、参拝いたしま した。

 御英霊に対して手を合わせながら、現在、日本が平和であることのありがたさを噛(か)みしめました。

 今の日本の平和と繁栄は、今を生きる人だけで成り立っているわけではありません。愛する妻や子どもたちの幸せを祈り、育ててくれた父や母を思いながら、戦場に倒れたたくさんの方々。その尊い犠牲の上に、私たちの平和と繁栄があります。

 今日は、そのことに改めて思いを致し、心からの敬意と感謝の念を持って、参拝いたしました。

 日本は、二度と戦争を起こしてはならない。私は、過去への痛切な反省の上に立って、そう考えています。戦争犠牲者の方々の御霊を前に、今後とも不戦の誓いを堅持していく決意を、新たにしてまいりました。

 同時に、二度と戦争の惨禍に苦しむことが無い時代をつくらなければならない。アジアの友人、世界の友人と共に、世界全体の平和の実現を考える国でありたいと、誓ってまいりました。

 日本は、戦後68年間にわたり、自由で民主的な国をつくり、ひたすらに平和の道を邁進(まいしん)してきました。今後もこの姿勢を貫くことに一点の曇りもありません。世界の平和と安定、そして繁栄のために、国際協調の下、今後その責任を果たしてまいります。

 靖国神社への参拝については、残念ながら、政治問題、外交問題化している現実があります。

 靖国参拝については、戦犯を崇拝するものだと批判する人がいますが、私が安倍政権の発足した今日この日に参拝したのは、御英霊に、政権1年の歩みと、二度と再び戦争の惨禍に人々が苦しむことの無い時代を創るとの決意を、お伝えするためです。

 中国、韓国の人々の気持ちを傷つけるつもりは、全くありません。靖国神社に参拝した歴代の首相がそうであった様に、人格を尊重し、自由と民主主義を守り、中国、韓国に対して敬意を持って友好関係を築いていきたいと願っています。

 国民の皆さんの御理解を賜りますよう、お願い申し上げます。
 

(2013年12月26日14時47分  読売新聞)

 http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20131226-OYT1T00598.htm?from=popin
 
 
 
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今年もまたクリスマス

2009年12月25日 | 宗教・文化

 

今年もまたクリスマス 

今年は残念ながらクリスマス・イブの12月の24日にブログ記事を投稿できなかった。また、送るべき多くの人にクリスマスカードを送って、ご挨拶することもままならなかった。毎年、年を経るごとに、不義理、わがままの度が強まってゆくような気もする。

これまで2005年に記事の投稿をはじめてからも、クリスマスに投稿を欠かしたことはない。今年は余裕もないけれど、かろうじてクリスマスに間に合うように、やっつけ仕事のように記事をとにかく作成。最近は聖書の繙読さえもおろそかになっている。聖書詩篇の註解もほとんど中断したままになっている。主よ、許したまえ。

12月に入り、年末が近づくと、近年になって町中にイルミネーションの明かりが目立つようになった。夕暮れや夜間に、町中を歩いていたり、自転車で走っていると、とくに、最近では発光ダイオード(LED)の普及によるせいか、鮮明な色彩のクリスマスの飾り付けが至るところに見られる。

ひと昔は遊園地や教会やイベント会場などの場所に限られていたクリスマスツリーなどの明かりも、最近は普通の民家でも飾り付けられるようになってきた。それだけに、キリストのご降誕祭が日本国民においてもすでに完全な国民的な行事になったということなのかもしれない。

イエス・キリストの真実の誕生日はわかってはいない。だから、その日は永遠に隠されたママなのだろう。しかし、マリアを母として誕生日のあったことはまちがいのないことなのだから、象徴的な一日を選んで、そのご降誕を祝うのはかならずしも悪いことではない。ある宗派のように、お誕生日がわからないのだから、クリスマスを祝わないというまで「偏狭」でなくともよいと思う。主の苦難の十字架のその道行きに、三十数余歳の御生涯が象徴されているように、主イエス・キリストの短い一生は愛と犠牲そのものだった。その苦難と忍耐は、主のすべての弟子に受け継がれている。

今年になっては京都国立近代美術館において、12月27日までボルゲーゼ美術館展が開催されている。おそらく今度も鑑賞の機会も逃してしまうにちがいないが、この展覧会にはマドンナの肖像画で有名なラファエロの「一角獣を抱く貴婦人」も飾られているという。わが国にはすでに滝廉太郎のようなクリスチャン音楽家は生まれているが、画家についてはまだ知らない。しかし、いずれはこの非キリスト教国日本にも、ラファエロのようなクリスチャン画家も生まれてくるのかもしれない。

ブログ上の交流でも私の不精のゆえにさほど深まったとは言えないけれど、hishikaiさんやmatubaraさんやpfaelzerweinさんのブログには折りに触れて訪れている。とくに今年になっての菱海孫さんとのブログ上の交流は楽しかった。少なくとも氏のように思想的に哲学的に近い(私の独断と偏見か?)ブログ上の論者を発見できたことはうれしい。私もまた僭越にも、ブログでも少なくともなにがしかの思想なり哲学を主張している。今後も言論の立場から私なりに終生国家に貢献してゆきたいとは思っている。

21世紀に入って隣国中国の台頭に比べて、日本国の衰退の傾向は著しいが、やはりその根源は人材の枯渇にあるのだと思う。第二次世界大戦における大日本帝国の敗北とマッカーサーGHQの占領政策がボディブローのように効き始めているということか。しかし、ポーランド、ハンガリーなどに見るように、真実のキリスト教民族、キリスト教国家に亡国の運命はまだ聞いたことはない。

退廃した自民党に代わって政権交代を果した民主党の小沢一郎氏は、今、明仁天皇のご意思も左右する小沢新天皇として権力の絶頂を極めつつあるように思える。かって小沢一郎氏は、高野山で金剛峯寺の松長有慶会長と会談したときも記者団に対して、「キリスト教は排他的で独善的な宗教だ。キリスト教を背景とした欧米社会は行き詰まっている」とのたまうたそうだ。この一言に、小沢一郎氏の「思想と哲学と人物」の水準とその「罪と罰」が明らかになっている。

欧米社会と日本国のどちらが行き詰まっているか、私にはよくわからないけれども、選挙で多数を得るためならどんなことでも言うようなキリスト教嫌いの小沢一郎氏が、中国や韓国などにご拝謁と贔屓とを賜るために、くれぐれも国を売ることのないように願いたいものである。

バッハはその音楽創作でプロテスタント国家とキリスト教化に貢献した。今夜のクリスマスの楽曲としては、久しぶりにマタイ受難曲の片鱗でも聴いてお茶を濁すことにしよう。せっかくバッハ全集を所有しているのに、鑑賞と論評に能力の余裕のないのは残念なことではある。だけれどもそれも先の楽しみとして、またここでお得意の言い訳をする。

今年のクリスマスの宵をともに過ごすことの出来なかった人、友人たちに、お詫びを込めて、また、とにかく曲がりなりにも平安のうちにクリスマスの夜を迎えることのできたことに感謝を込めて、この拙記事でご挨拶を送ります。

皆さん、クリスマスおめでとう。


Contralto Eula Beal sings Bach's "Erbarme Dich"
http://www.youtube.com/watch?v=gIdNBgyC88o&feature=related 

 Contralto Eula Beal sings Bach's "Erbarme Dich"

 

 

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「よしわら」

2009年04月06日 | 宗教・文化

 

hisikaiさんは、ここしばらく「よしわら」と題して、日本の戦前の公娼制度の象徴としての「吉原」を取りあげられています。

これまでの論考でも明らかなように、いわゆる「戦後民主主義」については私は多くの点で低く見ているのに対して、戦前の「大日本帝国憲法」下の日本についてはかなり肯定的に評価してきました。そして、戦後教育の産物であるいわゆる「団塊の世代」やその後継世代については、民族がその形而上的な精神を喪失してしまっていることや、倫理的な意識の希薄さという点において、平安、鎌倉、室町、江戸時代などの過去の日本の封建時代の「品格」にすら及ばないのではないかと思っています。これは私がかならずしも「民主主義」を評価していないためかもしれません。

ただ、それでも私が戦後の日本を評価する点があるとすれば、太平洋戦争後には、この「吉原」に代表される公娼制度がなくなったことがあります。また、この制度の背景にあった貧困問題の根源である小作人制度が「農地改革」によって農村からなくなったことだと思います。

ただ残念なことは、日本の敗戦によってGHQの指導のもとでこれらの政治的な改革が実行されたことです。日本人は民族として公娼制度などの悪習を主体的に廃止する能力を持っていませんでした。そのために今日も風俗産業などにおける女性の人身売買などは根強く残っています。

あえて誤解を恐れずにいえば、「吉原」などの公娼制度を廃止するためなら、日本の敗戦と引き換えにしてもよかったくらいに思っています。それほど、私にとっては「よしわら」の公娼制度は憎むべき対象です。そして残念に思うのは、hishikaiさんの論考においては、この旧悪弊に満ちた「よしはら」を、文学的に歴史的に叙情的に懐古的に振り返られるだけで、この公娼制度の産物に対するhishikaiさんの憎悪がほとんど見られないのを私は悲しいと思います。

おそらくこうした風俗文化の問題の背景には、日本人の民族としての宗教の性格が深く関わっていると思います。日本の伝統宗教の中にはこれまでモーゼの宗教の影響の痕跡すら見られなかったこともあると思います。日本人がモーゼやイエスの宗教に改宗して文化や社会の質を変えるまでは、いずれにしても問題の根本的な解決を期待することはできないのではないかとも思います。

 

遊女の救い  Salvation Prostitute's

 

 

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hishikaiさんの記事に対するコメント――民族の独自性について―

2009年03月14日 | 宗教・文化


hishikaiさんの記事に対するコメント――民族の独自性について―



hishikaiさんの論考にコメントしようとしましたが、長くなってしまいましたので新たに投稿記事にしました。


菱海孫さんが次のように言われる時、たしかに文化の自立性と独立性について自意識とこだわりを持っている者には、他国、他民族の文化の摂取にはつねに葛藤が伴います。

>>

文化と云うものには否応もなく引かれた国境があり、それ自体は国境に区切られた一個の血の通った有機体であること、そういうことが常識である人々にとって、文化の輸入は常に苦しみを伴う。

>>
引用終わり

その点で私の論考にコメントを寄せていただいた「らくだ」氏などは、hishikaiさんが論考のなかで指摘されておられるように、文化の受容についても、幸福なことにそんな葛藤とは無縁の人であるようです。

自由の意識と民主主義の程度について、欧米人の尺度からすれば12歳のBOYにすぎない日本人にマッカーサーによって下賜されたこの現行「日本国憲法」を今なおありがたく押し頂いています。日本国憲法下で生きることについての文化的な違和感も民族的個性の変質についても、また下僕的な屈辱感なども問題意識としてもいささかも頭の片隅にすら掠ることがないようです。

歴史的に伝統的に日本人や朝鮮人は圧倒的な漢文化の影響の下にみずからの民族文化を形成せざるを得ませんでした。そのためにみずからの自尊心が、あえて自国文化における中国文化の影響を無視させたとも言えます。

日本文化や朝鮮文化の中に入り込んだ漢字をはじめとする中国文化、モンゴル民族や漢民族の影響の圧倒的な現実を直視することができないがゆえに無視しようとしたのだと思います。そして、そのような伝統的な文化的習性が太平洋戦争の敗戦によってマッカーサーに与えられた「日本国憲法」に対する国民的な受容にも現れていると思います。

しかし、結局においては、最良のもの最高のものを選択して自分のものとしようとすれば、その前に膝を屈して、狭量な個人的な誇りや民族的な自尊心を捨て去るしかないのです。涙をのんで、世界の歴史から、みずから最良、最高と信じるものを摂取してそれを消化して、個人や民族の血と肉に化してゆくしかないと思います。

とくにユーラシア大陸の辺境に位置する日本民族には、純然たるみずからのオリジナルな文化はほとんどなく、カタカナ、ひらがなに見るように、みずからの民族文化の独自性というものがすべて、異民族文化の受容と変容によって形成されたものであること、それを宿命として自覚し引き受けるしかないと思います。日本の民族文化のオリジナル、独自性というもがあるとすれば、この自覚のうえにはじめて生まれてくるものだと思います。

 

 

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「宗教」の善と悪、あるいは人類の「宗教」からの解放

2009年02月10日 | 宗教・文化

 

「宗教」の善と悪、あるいは人類の「宗教」からの解放

宗教ということばを使うと、普通は人は仏教や神道やキリスト教やイスラム教などの世界宗教などを思い浮かべるかもしれない。また、数百年、数千年単位の歴史や伝統をもった宗教、宗派としては、ユダヤ教、ヒンズー教、カトリック教会や臨済宗、日蓮宗や曹洞宗などが無数に存在するし、また、比較的に新興宗教としては生長の家とか創価学会とか、また社会的に問題を引き起こしたオーム真理教などの団体がある。とにかく有名無名を含めて宗教のカテゴリーに属する集団、思想、教条は数多い。また新興宗教に属する集団もいかがわしいものをふくめて無数に輩出している。

新興宗教
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E8%88%88%E5%AE%97%E6%95%99

現代国語例解辞典などは「宗教」について、「宗教とは、神や仏など、人間を超えた聖なるものの存在と意志を信じ、それによって人間生活の悩みを解決し、安心、幸福を得ようとする教え。」というように一応説明しているが、これは普通に流通している「宗教」ということばで懐く観念でありイメージであるといえる。

しかし、宗教をどのように定義するかにもよるけれども、宗教を仮に「個人の人生における究極的な価値と生活態度を規定する思想信条の体系である」とでも定義するなら、共産主義や無政府主義もまた無神論もまた一つの「宗教」と呼ぶことができるだろう。要するに宗教とは、人間の信奉する思想の価値体系として、「価値観に関わるもっとも中心的な思想信条というように広義に解するならば、少なくとも人間であるならば、それを自覚しているか否かは別として、「宗教」をもたない人間はいないと言うことができる。

また、世間では「宗教」と実際に名乗ることはなくとも、事実上「宗教」と同じ機能を果たしている事例は無数にあるのであって、この論考では、宗教ということばを、もっとも広義の意に解して、「宗教」の機能を事実上果たしているものも含めて、広義の意味で「宗教」という用語を使用したいと思う。誤解を恐れずに、無神論や共産主義、無政府主義なども事実上の「宗教」と見なして論考を進めてゆきたいと思う。

現在の北朝鮮などの国家では、その独裁的指導者である金正日などに対して明らかに個人崇拝が行われている。その個人に対する崇拝という点だけを見れば、新興宗教の指導者に対する崇拝も、阿弥陀仏や法華経などに対する崇拝と本質的に変わるものではない。

宗教が非常に頑固な固定観念にとらわれやすいものであることは、特定の宗教信者のもつ一般的な傾向として多くの人々が日常的に経験するところだろう。そして、往々にしてこの頑固な偏執的な固定観念は、狂信にまで人を駆り立てる「危険な」要素をもつ。このことも個人的な体験からも、日本においてもオーム真理教などが引き起こした社会的な事件を見ても、また世界各地で頻発している宗教紛争などの歴史的な体験からも指摘することもできるものである

アフガニスタンなどを最前線として戦われているいわゆる「テロリスト」たちの多くが「イスラム原理主義者」と呼ばれているように、その兵士たちは狂信的なイスラム教信者であるとされる。もちろん、自己の信奉する神のみを絶対として、他をすべて排斥する狂信的宗教家、狂信的信者は、たんにイスラム教のみならず(その宗教の本質からいってイスラム教にはその傾向が強いと言えるかもしれないが)どのような宗教、宗派にも存在するし、また、新興か伝統的な宗教かを問わず存在する。

自己の宗教以外のすべてを否定し拒絶する宗教信者を「過激派」と呼ぶなら、「過激派」は、その昔にユダヤでイエスを十字架に架けた律法学者たちから、女性信者の腹に爆弾を巻き付けさせる現代のイスラム教指導者、また日本のおいても他宗教や他宗派からの布施を一切拒否した日蓮宗の不受不施派など、古今東西にわたりその類例は無数に存在する。

また、思想がブルジョワ的だという理由で同じ民族の同胞でありながら大量に殺戮したカンボジアのポルポト元首相なども、彼は共産主義者であったが、その本質は、宗教的狂信者一般と何ら異なるものではない。「宗教は阿片である」と断じるマルクス主義信者が、宗教家以上に狂信的である場合も少なくない。

とは言え宗教的な狂信者がすべて害悪をもたらす存在であると断定するのも、それ自体偏見でありまた場合には、固定観念となって真実を見ていない場合も多い。強固な宗教的な信仰の持ち主であっても、インドのカルカッタで貧者の救済に生涯を捧げたマザー・テレサのように、人々から愛され評価された宗教信者も少なくない。昔から聖人とか聖者とか呼ばれた人たちは、多くの人々の救済や福祉に大きな働きをしてきたことも事実である。

そうした一面をもつ宗教が、時には狂信的になり戦争の原因になる。個人や人類の幸福を目的としたはずの宗教が主義思想が、その目的と手段を転倒させ、もっとも倒錯的な狂信になって、この上ない害悪をなす。この論理は何も宗教だけに留まらない。最近の歴史においても、人類の「解放」をめざしたはずの共産主義運動が、この上なき抑圧と不自由をもたらしたのは、私たちが北朝鮮や旧ソ連などの現代史にこの眼で見た歴史の事実である。

こうした事実を見るとき、先ず言えることは、宗教を名乗るか否か、無神論を標榜するか否かにかかわらず、すべての宗教、主義信条においても、「善」が「悪」に転化する可能性をもつという事実である。もちろん、その逆もあり得る。もっとも良いものは、もっとも悪いものである。もっとも純潔なものはもっとも腐りやすいものである。最善のものは最悪のものである。もっとも善きものであるはずのキリスト教といえども、それが最悪の宗教に転化する可能性もある。事実、ニーチェなどは最悪の腐敗に転化したキリスト教に対する批判なのだと思う。

ニーチェとキリスト教

そのもう一つの最悪の事例が、現在もなお戦われているイスラエル・パレスチナ間の宗教戦争である。それは人間が宗教のドグマと狂信の結果としてどれほど悲惨な事態に陥るかの事例である。まことに宗教における偏執ほどに度し難いものはない。イスラム教過激派やユダヤ教過激派信者たちを彼らの狂信から解放し、その偏執を解くのは切実なしかし困難な課題である。世界各地で発生しているヒンズー教と仏教、イスラム教、キリスト教などの諸宗教のあいだの紛争の原因となっている彼らを宗教的な偏執から解放することなくして、平和をもたらすことはむずかしい。


 

 

 

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雅歌第六章註解

2009年02月05日 | 宗教・文化

 

雅歌第六章註解

「雅歌」は詩でもあるので、人それぞれに自由に自身の器量に応じて味わえばよいと思い、註釈もよけいに思い書かなかった。とは言え私が現時点でこの詩をからどのように美と思想を得ているか記録しておくことも多少の意義もあるのではないかと思った。文章にすることによって後からそれを反省や検討の対象とすることもできる。

ちょうどパスカルが、宇宙の広大無辺な神秘の前に畏れおののきながら、自身をもっとも弱い一本の葦に喩えたように、有限な人間が世界のすべてを認識することを夢見ることの傲慢であると同じように、「雅歌」という風雪を経た古典的宗教的作品を前にしては、私の註解もおそらく「群盲象を撫でる」の類の一知半解にすぎない。

しかし、たとえそうであっても、私たちの真理観からいえば、真理は現象的認識の総和の中から明らかになってくる。その意味では拙なりとは言え、現代日本とは隔絶した時代、風土、宗教的伝統のなかに生まれたこの「雅歌」という詩についての一知半解の私の註解のようなものも、宗教詩などとはふだんは無縁の人には参考になるかもしれない。ただ、この身の程知らずの「雅歌」の註解が誤解の種を蒔くことにならないことを祈るばかり。

「雅歌」と言う作品自体が一つの比喩的な象徴的な意味をもっている。イエスが「喩えなしに何一つ語らなかった」(マタイ書13:34)と言われているように、聖書自体が一つの喩えで構成されている。秘密を知ることのできるものだけのために、雅歌も全体としては、男女の相聞歌、恋歌であるけれども、何よりもその愛が、神の愛の比喩として、象徴として歌われている。

それは神のイスラエル民族に対する愛であり、また人となったイエス・キリストの愛を象徴している。それはもっとも聖らかなる愛である。この雅歌のなかで、人の愛とは近くて遠い青年ソロモンの愛を一つの比喩として、たとえおぼろげではあっても、そこから私たちは神の愛がどのようなものかを類推的に知ることができる。

「愛」は聖書の核心的な主題であって、愛のゆえにイエスは無垢のご自身を贖罪の生けにえとして神に捧げ、神はその血のあがないによって人類の罪を許される。イエスを犠牲の羊としてこの世におくられたのも、それもまた父なる神の愛のゆえである。この「雅歌」は全八章と短編ながらその前表として、聖らかな高貴の愛を歌った貴重な恋愛詩である。

旧約の正典である雅歌の成立は、紀元前250年頃と推測され、一部にギリシャ的な美意識も見られる。新約聖書の時代に入って、パウロはこの本の主題をさらに発展させ、希望、信仰、愛の三つのキリスト教的な徳のなかで、もっとも大いなるものは愛であると言い、たとえ山を動かすほどの信仰があったとしてもそこに愛がなければ無に等しいとも言う。愛はそれほどの「最良の贈り物であり最高の道」とされている。(コリント前書第13章)

創世記では父アブラハムの息子イサクに対する愛が、またダビデに対するヨナタンの友愛、ダビデ王のバテシバに対する性愛など、聖書の中には多くの愛が語られている。新約聖書では、放蕩息子に対する父の愛をイエスが語ったことは良く知られている。この「雅歌」の中では、青年の娘に対する愛が歌われている。この青年はダビデの息子で「平和な」という意味の名をもったソロモンである。

青年と娘は愛し合っており、先の第五章で、王である青年ソロモンは花嫁になるべき娘のところに訪れるが、行き違いから娘は青年ソロモンを受け入れることができず、戸を開いて彼を迎え入れようとしたときにはすでに彼は立ち去った後だった。娘は急いで青年の後を追ってその姿を探したが見つからず、逆に街の夜警に見つけられて打たれ、着ていた衣さえ奪われてしまう。

ここには、神を見失い迷ったイスラエルがバビロンに征服され異国の地に連れ去られるという民族としての苦難の体験が比喩されている。

愛する人を見失った娘を勇気づけるように、女たちはいっしょに探そうと申し出るが、娘には青年がどこへ行ったのかわかっている。青年は自分の領地である百合の花咲く園で羊の群れの世話をしている。

羊の群れを飼う牧童は、中近東では人を養い導く神の存在の比喩で語られる場合が多い。この雅歌においても、牧童として現れる青年ソロモンの愛は、ユダヤやイスラエルに対する父なる神の愛を象徴している。ソロモンが神殿を築いたユダの国の都であるエルサレムやイスラエルの首都ティルザの麗しさが詩のなかで娘の美しさに喩えられているように、父なる神を懐くヘブライ民族がこの娘に象徴されている。

そして、ダビデやソロモンはキリストの前表とされるから、娘に対するソロモンの愛は、やがてキリストの愛を象徴するものとなる。もちろん、イエスの愛が十字架の苦難を耐え忍ぶほどに深いもので、私たちの想像を絶するものであって、もっとも高貴な青年ソロモンの娘に対する愛も人間的で、それは私たちにはより身近なものではあっても、イエスの生涯の愛の物語とは比べることの出来るものではない。

現代の日本からは大きく異なる中近東という時代や風土を背景にして生まれた雅歌という詩には、私たちには理解しにくい表現が多い。娘の美しさはさまざまに比喩的に表現されているけれども、なかなか想像しにくい。たとえば、娘の髪や歯を、遠くの丘を駆け下りる山羊の姿や白い毛を刈られて行列をつくって列んでいる雌羊にたとえられても、実際に見て経験することもないからなかなか想像しにくい。また娘の姿をイスラエルの都ティルザやユダヤの都エルサレムにたとえているが、とくに麗しい都を実際に見たことのない者にはこれもなかなか想像しにくいだろう。

第4節や第10節などに繰り返し表現されているが、娘の美しさを、新共同訳のように「旗を掲げた軍勢のように恐ろしい」というよりも、「都市や軍隊の掲げる旗や目印のように美しさが際だっている」ということだろうと思う。第12節は、「私の気づかぬうちに(青年の乗っている、民族の守護神の名をもった)戦車のうちに運ばれていた」とも解することができ、その象徴的な意味はよくわからない。第13節は新共同訳では、第7章に組み入れられているが、「マハナイム」が軍隊の「野営地」という普通名詞なのか、あるいはそれが土地の固有名詞になったものかもわからない。

 

 

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雅歌第六章

2009年01月31日 | 宗教・文化

 

神の呼びかけと忍耐にしめされた深い愛が歌われている。

雅歌第六章

女たちの合唱
1.
どこへ行ったのか、あなたの愛しい人は。
女のなかでだれよりも美しい娘よ。
どこへ去ったのか、あなたの愛しい人は。
わたしたちもいっしょに探そう。

娘の歌
2.
わたしの愛しい人は自分の園へ、
かぐわしい草の牧場へ降りて行きました。
羊の群を飼いに、園で百合の花を摘むために。

3.
わたしはわたしの愛しい人のもの、
わたしの愛しい人はわたしのもの、
百合の花咲く園で羊の群れの世話をしています。

青年の歌
4.
あなたは、ティルザの都のように美しく、
エルサレムのように麗しく、旗のようにわたしの胸をときめかせる。
わたしの恋しい人。

5.
あなたの眼でわたしを見つめないで。
わたしを戸惑わせるから。
あなたの髪はギレアデの丘を駆け下りる山羊の群のようにきらめく。

6.
あなたの歯は洗い場から追い立てられて駆け上がってくる雌羊のよう。
みんな双組にならんで失われたものはない。

7.
ベールに透かされたあなたの頬は、ザクロの実のよう。

8.
六十人のお妃と八十人の側女、乙女は数が知れぬほどいる。

9.
わたしの鳩は彼女ひとり。わたしには清らかな人。
その母のただ独りの娘。産みの親にはかけがえもない。
彼女を見る娘たちは幸せな人と言い、
お妃と側女たちも彼女をほめる。


女たちの合唱
10.
夜明けのように美しく見つめられ、
白い月の光のように清らかで、
太陽の輝きのように胸をときめかせる娘はだれ。

娘の歌
11.
流れの畔の花の実を見るために、
わたしはクルミの木の園に降りて行きました。
ブドウの蕾は開いたか、ザクロの花は咲いたか。

12.
そこで、わたしの気も付かぬうちに、
あの人はわたしの乳房を奪いました。
戦車でわたしを運び去るように。


13.
A 女たちの合唱

帰っておいで、帰っておいで、シュラムの娘。
帰っておいで、帰っておいで、あなた姿がよく見えるように。

B 娘の歌

マハナイムの踊りに人が見入るように、あなたたちはなぜシュラムの娘に見とれるの。

 

 

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ヨハネ書第一章第九節~第十四節註解

2009年01月08日 | 宗教・文化
 

ヨハネ書第一章第9節~第14節

9    まことの光があった。この光は世に現れて、すべての人を照らしだす。

10   彼は世にあった。世は彼によって造られたが、世は彼がわからなかった.

11   彼は自分のところに来たのに、民は彼を受け入れなかった。

12   しかし、彼を受け入れた者、彼の名によって信じた者に、彼は神の子となる力を与えた。

13   血によらず、肉の欲にもよらず、また人の欲にもよらず、その人々は神から生まれた。

14  そして、言は肉となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちは彼の栄 光を見た。父の独り子としての栄光は、恵みと真理に満ちていた。

ヨハネ書第一章第9節~第14節註解

ヨハネ書の第一章は旧約聖書の創世記冒頭を踏まえて書かれている。創世記では「はじめに神は天と地を造られた」とあるが、このヨハネ書では「はじめに言(ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった。言はこの世の存在する前からあり、言は神であり、言ははじめには神と共にあり、すべてのものが言(ロゴス)に由って神に造られた。被造物のなかで言によって造られなかったものは一つとしてなかった」といわれている。そして、「彼(言)の中に命があり、命は人間を照らす光である」(第4節)

ここに、「光」「言」「命」などの重要かつ根本的な概念が出てくる。ヨハネ書がほかの共観福音書と異なって、抽象的なギリシャ哲学の雰囲気を感じさせるのも、このような叙述の仕方にあるのだと思う。

この「言(ことば)」の原語「ho  logos」には定冠詞がついており、そこには論理、思想、理性、概念などの意味も含まれていると考えられる。それと同時にここでは、「言(ことば)」は「神」に等しいものに見なされている。そして、この「言(ho  logos)」の中に命があり、命は人間の光である。これがヨハネ書の世界観である。光も言も命もおなじ一つのものの属性である。(第4節)

そして、この光について証しをするためにヨハネが神より遣わされる。しかし、ヨハネは光そのものではないという。光に「真」と「偽り」があるのだろうか。ここで「まこと」というのは、本物と偽物において「本当の」というくらいの意味である。おなじ金色でも、本物の金とメッキの金のちがいのようなものだろうか。哲学的な用語でいえば、光の「概念」であり、光そのものである。(第8節)

ヨハネ福音書の記者は、ここで「まことの光」としてのイエス・キリストをすでに前提しており、彼がヨハネと比較されて述べられている。そして、この「まことの光」がこの「世」に来てすべての人を照らすと言う。照らすと言うことには、当然に闇の存在が前提されており、闇においては物事を識別できないということであり、光の存在によって、それに照らされて、わたしたちは物事の美醜や善悪などを明らかに認めることができるようになる。(第9節)

新共同訳の第10節では、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」と訳されているけれども、この個所には「言(ho  logos)」そのものではなく、代名詞の「彼=同一物(autos)」が使われている。だから、この世に来たのは、「言」であり「光」でありかつ「命」というものの全体をあわせもった「彼=イエス・キリスト」が、この世にすでに現れて来たことが示されている。

また、旧約聖書においては、全世界を創造したのは主なる神であるが、この新約のヨハネ書では、言が神と等しいものとされているから、この世もまた「言」によって造られたとも言う。だから彼(言)がこの世に現れ来るということは、ご自分のところに、自分のものであり自分の民のところに来ることになるが、彼のものである民は彼のことを認めようとはしなかった。「認めなかった」というのは、知らなかった、理解しなかったという意味もある。だから、受け入れることもできなかった。(第10節、第11節)

しかし、何人かは理解し受け入れ、その名を信じて、彼を手に入れた人もいた。その名というのは、命であり言であり、まことの光でもある方の名、すなわちイエスという名前である。彼(言)は、その人たちに神の子となる権利、資格をお与えになった。(第12節)

その人たちは、血筋に由ってではなく、身体の欲に由ってでもなく、人間の欲望に由ってもなく、つまり、わたしたちが結婚して子供をもうけるようなやり方ではない仕方で、神によって産み出される。だからその父は肉体の父ではなく、神が父ということである。言(ho  logos)を受け入れ、その名を信じることに由って、神を父として持つことになる。(第13節)

言(ho  logos)が人間の身体のかたちをとり、わたしたちの間にお住まいになった。その方の栄光を見た。彼(言が身体となってこの世に現れた方)は、愛と真理に充ち満ちた父のすなわち神の傍らにあって、その独り子として光輝いている姿をわたしたちは見た。光り輝く、栄光に満ちるというのは究極の価値を持つもの、崇拝の対象となる至高の存在についての比喩的な形容である。
(第14節)

 

 

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虚無と永遠

2008年12月21日 | 宗教・文化

 

ダイコンやニンジンの種を蒔いたのは、日記によれば九月十日前後のことだから、三ヶ月程度で収穫できるまでにすでに立派に生育していることになる。先々週ぐらいから大きくなったダイコンやニンジンを刈り取って、煮たりみそ汁に入れたりしている。柔らかくて美味しい。また、生姜も根を掘りだしてみると大きく生長していた。

ただ、最近はサルが出没して食い荒らし始めているようで、その対策として早めに収穫して、残りは地中に埋め、必要に応じて掘り出すことにした。ダイコンの葉などは始末に困るほどある。その一部を持ち帰って、生姜と一緒に刻んでそれにいりこを入れて炒めると、ご飯に美味しい惣菜になる。

そんな食事を採りながらも思うことは、いずれにしても私たち現代人は、米や魚、肉などの食料品や、また電気やガスなどの燃料、そのほか住宅や家具、それからこのインターネットに使うパソコンなども含めて、完全な自給自足によって生活を営むことはもはや出来ないということである。すでに分業と交換の貨幣経済の中に完全に組み込まれている。

そうした結果、実際に何らの生産的な労働に従事することがなくとも、石油やダイズ、トウモロコシなどの商品投機や株式投資などによって巨額の収益を上げることのできる経済構造になっている。今のところ問題になっている金融経済の危機的状況も元はといえば、アメリカで放任されたサブプライムローンに端を発している。ノーベル賞級の経済学者たちも参加して、その金融工学的な知識を活用しローンを証券化するなどして、投機家が利益の極大化をはかったものである。しかし、それも住宅価格が天井を打つことによって破綻する。

こうした顛末でわかることは、すでに社会主義経済でも明らかになったように、人間の理性もけっきょくはみずからの欲望さえも統制することができないということである。今回の経済恐慌も、宗教的にいえば、人間の腐敗と傲慢に対する神の裁きともいえる。人間的な知識は絶対的ではなく有限であるゆえに根本的に虚しい。

そうした知識の虚しさもさることながら、さらにその根本にあるのは、人間の存在自体の有限性ということである。その生涯の時間も七十年か八十年、どんなに長くとも百年を超えることはない。

それを明確に自覚し始めるのは、自我が意識として目覚める青年時代である。その頃に、みずからの人生の有限を自覚するようになるとともに、その意義や目的について問い始める。

その頃に私が惹かれて読みふけったのは聖書で、とくにその中でも「詩編」と「伝道の書」だった。それ以来私の思考の底流にその思想がいつもある。そして、人の死や時代の転変などの折に触れて表面に出てくる。

「伝道の書」のテーマは人間や世界の虚しさである。仏教の般若心経にも「色即是空、空即是色」と訳されているような虚無観にも通じるところがある。ただ「伝道の書」のそれが異なっている所は、そうした虚無感にあっても、なお「神を畏れ、その戒めを守れ」とその最終章に戒めているように、神の存在を否定するニヒリズムには立ってはいないことである。

聖書の中にも人間や世界のはかなさを語っている個所は少なくない。詩編第九十篇のモーゼの歌も、第九十二篇の安息日の歌にしてもそうである。しかし、そこには空無の虚しさとともに、それを乗り越える永遠の巖として存在する神に対する賛美が歌われている。

実際に人はこの世界の空無のなかで、かってアウグスチヌスが語ったように、「人は神を見出すまでは何ものによっても満たされることはない」だろう。聖書のなかにも「神を探し求めよ」と命じられている。そして「伝道の書」の中にも、最終章の第十二章に、「汝の若き日に造り主を記憶せよ。悪しき日の年老いて何の楽しみもないと言う前に」と青年に対して忠告している。

この個所は私も青年時代から何度も読んで知っている。ただ、青年の頃には、異性をはじめとして気を引き奪われる多くの事柄があって、人生の虚しさを痛切に自覚するということも、老年期ほどにはその機会は多くはない。

また、存在として有限であるものは単に人間のみに留まらない。私たちの生存の基盤である地球や太陽系そのものも永遠ではないことはわかっている。本来、永遠というものは、時間や空間などの次元とは異なったものである。そして、人間はこの永遠を見出すまでは心は精神は安らわないものである。だから私たちも、たとえこの世界と係わらざるをえないとしても、せいぜい百年足らずの間にしか係わることのできない、このはかない世事に埋没して、永遠のことを完全に忘却してしまわないことだと思う。私たちの生存の期間は一瞬で、私たちの死後の時間の方が永久だからである。

永遠とは 「その一点一画が無くなるより、天や地の消える方がやさしい」 といわれるモーゼの律法の存在であり(ルカ書16:17)、永遠の命とは「唯一の神を知ることと神に遣わされたイエス・キリストを知ること」(ヨハネ書17:3)にある。永遠とは、時間や空間にかかわることではない。

 

 

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永遠の今

2008年09月08日 | 宗教・文化

 

さきに福田首相が辞任を表明されたとき、ご自身のメルマガでの中で、「太陽と海と伊勢神宮」に触れ、「永遠の今」について語られようとした。魑魅魍魎の徘徊する政界の、虚妄と有限の地獄図に嫌気がさした福田氏の心のなかに、このとき潜んでいた菩提心がふと思わず顔を出したのかもしれない。

「太陽も海も伊勢神宮」も、もちろんすべて「真に永遠なるもの」ではない。それらも所詮はその影にすぎない。真に永遠なるものはただ神のみだからである。というよりも、私たちは真に永遠であるものを神と呼ぶのである。だから、真に永遠であるものが存在しなければ、神も存在しない。

政治という有限と虚妄の世界に疲れ果てた福田氏(「公共と家政」)が思わず口にされた「永遠の今」とは、無限が有限に自己を啓示する瞬間であり、有限が無限を垣間見る瞬間の事である。無限と有限とがきびすを接する瞬間が「永遠の今」である。このとき、人間は神を見、神はご自身を人間に啓示する。芸術も哲学も、この永遠なるもの、神を見ようとする人間の切ない憧れを示す試みである。

そして、この永遠なるものに、神にささえられたときにはじめて、「有限なる今」も政治もまた空しいものでなくなる。

福田氏が総理大臣の職を辞するに当たって、「政策を立案する際、この「永遠の今」を想うことがありました」と言うとき、思わずこの「想う」という言葉をつかったのも、決して偶然ではない。福田氏は政治という虚しくはかない今に耐えきれず、思わずそれを「永遠」という堅い杭につなぎ留めようとしたのである。たとえただ、それが「永遠なるもの」の影にすぎなかったとしても。

 

 

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イザヤ書第24章を読む

2008年04月09日 | 宗教・文化

聖書を読むことがあるとしても、そのときは日本語訳よりも英語訳などの外国語訳で読む場合が多い。今現在、聖書を読む場合に使っているのは、主として「和英対照聖書」である。その日本語訳は新共同訳であり、英語訳の方は GOOD  NEWS  BIBLE である。ネットで調べてみると,このテキストGood News Bible(Today's English Version)はRobert G. Bratcherという人の翻訳であるらしい。日本の共同訳のように多数の学者による共同訳ではないようである。
(Good News Bible 
http://www.bible-researcher.com/tev.html  )

日本語訳にせよ英語訳のいずれにせよ、もちろん不完全な訳で、それぞれの翻訳者たちの生きた時代と国民性によってそれぞれに解釈された聖書であるにはちがいない。

聖書やキリスト教については、私は次のような立場に立っている。テキストとしては、新旧約聖書については七十人訳旧約聖書(Septuagint)とコイネー新約聖書を最終的なテキストとして認めている。そして、神学としてのヘーゲル哲学。基本的にはこの立場に尽きているといえる。

ただ、もしブログ記事などで英語訳聖書を引用することがあるとすれば、1851年に英国でSeptuagint Bibleの英語訳の労をとられたSir Lancelot C. L. Brenton氏の翻訳を使いたいと思っている。日本とは異なって、欧米の聖書研究は今もなお盛んなようで、幸いにもSir Lancelot C. L. Brenton氏の翻訳は、ネットでも読める。
(Septuagint Bible Online
http://www.ecmarsh.com/lxx/index.htm )

ただ、残念なことに現在のところ私のコイネーギリシャ語の能力はきわめて不十分で、Septuagint Bibleも原典新約聖書も十分に読めない。コイネーギリシャ語の能力の向上は今後の課題であると思っている。学生時代に、もし教養科目としてギリシャ語があって、そこで基本的な学習をしておればヨカッタのにと、この年齢になって後悔している。もちろん、外国語の能力の不足は聖書やキリスト教の本質についての理解の障害になるものではないけれども。

Esaias  Chapter 24

24:
1 Behold, the Lord is about to lay waste the world, and will make it desolate, and will lay bare the surface of it, and scatter them that dwell therein.

 2 And the people shall be as the priest, and the servant as the lord, and the maid as the mistress; the buyer shall be as the seller, the lender as the borrower, and the debtor as his creditor.

3 The earth shall be completely laid waste, and the earth shall be utterly spoiled: for the mouth of the Lord has spoken these things.

4 The earth mourns, and the world is ruined, the lofty ones of the earth are mourning.

5 And she has sinned by reason of her inhabitants; because they have transgressed the law, and changed the ordinances, even the everlasting covenant.

 6 Therefore a curse shall consume the earth, because the inhabitants
thereof have sinned: therefore the dwellers in the earth shall be poor, and few men shall be left.

 7 The wine shall mourn, the vine shall mourn, all the merry-hearted shall sigh.

 8 The mirth of timbrels has ceased, the sound of the harp has ceased.

 9 They are ashamed, they have not drunk wine; strong drink has become bitter to them that drink it.

 10 All the city has become desolate: one shall shut his house so that none shall enter.

 11 There is a howling for the wine everywhere; all the mirth of the land has ceased, all the mirth of the land has departed.

 12 And cities shall be left desolate, and houses being left shall
  fall to ruin.

ここで描かれているのは、神の世界審判である。そして、この世界審判の理由は、住民たちの犯す罪のためであり、人々の律法に対する離反のためである。イザヤをはじめとする預言者たちのこの認識は一貫している。

私たちは、すでに第一次、第二次世界大戦を神の世界審判として経験している。次に世界審判があるとすれば、それは核による世界戦争として現象するのではないだろうか。その意味でもイスラエルをめぐる中東の情勢については注視される必要があるだろう。ユダヤ人とその周辺諸民族との紛争は、今に始まったことではなく、人類の歴史的な記憶以来の、5、6000年来の出来事である。

 

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小野小町4

2008年03月30日 | 宗教・文化

小野小町にまつわる伝説には二つの方向があると思う。一つには深草の少将の百夜通いの話と、老いて落魄し行き倒れる小町である。

小町のこの二つの女性像には理由がないわけではない。いずれも小町の残したわずかな歌の中にその根拠があるように思う。

深草の少将の百夜通いの言い伝えは、まことに美しく幻想的でさえある。小町に恋いこがれた深草の少将が、小町のもとに百度訪れるという誓願を立てて通ったが、最後の雪の日に思いを遂げることのできないまま亡くなったという。                                              
小町の心も知らないで足が疲れくたびれて歩けなくなるほど繁く小町のもとに通っていた男のいたことは、事実としても次の歌からもわかる。

623    みるめなきわが身をうらと知らねばや  かれなであまの足たゆくくる

おそらく深草の少将の話は、安部清行や文屋康秀たちに返したような男を袖にした和歌が小町にいくつかあることに由来するにちがいない。

しかし、小町が単なる色好みの女性であっただけとは思われない。言い寄る者たちの中に彼女が深く思いを寄せた男性のいたことは明らかだ。それは次の歌などからもわかる。ただ、その男性とはかならずしも自由に会うことはできなかったようで、そのために夢の中の出会いを当てにするようになったり、その出会いに他人の目をはばかったり、世間の非難を気にかけたりしている様子がうかがわれる。だから、小町にとって真剣な恋は秘めておかなければならなかったようにも見える。

552    思ひつゝぬればや人の見えつらむ     夢と知りせばさめざらましを

553    うたゝねに恋しき人を見てしより    ゆめてふ物はたのみそめてき

554    いとせめて恋しき時は   むばたまの夜の衣をかへしてぞきる

657    限りなき思ひのまゝによるもこむ   夢路をさへに人はとがめじ

1030    人にあはむつきのなきには    思ひおきて胸はしり火に心やけをり

ただ、小町がおいそれと心を許さなかった、この百夜通いの伝説の深草の少将が実際に誰であるのかはよくわからないらしい。百夜通いの伝説の根拠についてはすでに黒岩涙香が江戸時代の学者、本居内遠の研究を引用している。それによれば、同じ古今和歌集の中にある次の歌、

762    暁の鴫(しぎ)のはねがき百羽がき     君が来ぬ夜は我れぞ数かく
     

が、三文字読み替えられて、

あかつきの榻(しぢ)の端しかきもゝ夜がき     君が来ぬ夜はわれぞかずかく
     

となり、それが、深草の少将が小町のもとを訪れたときに、牛車の榻に刻んでその証拠にしたという話になったという。歌の内容と伝説との関係から見る限り、その蓋然性については納得できるところはかなりある。

そうして恋する女性のもとに通いつめながらも、その思いも遂げられずに雪の夜に亡くなった男に対する民衆の共感と同情が、やがて伝説として伝えられることになったにちがいない。

 

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主の祈り

2008年01月21日 | 宗教・文化


主の祈り

天におられる私たちの父よ、
御名の聖められますように。御国の来ますように。
御心の天におけるように地にも行われますように。
私たちに必要な糧を今日もお与えください。
私たちに咎ある人を私たちが赦すように、
私たちの罪を赦してください。
私たちを試みに遭わせず、悪よりお救いください。

まことに、御国と力強い御業と輝かしい栄光は、
永遠にあなたのものです。


マタイ書第六章第八節以下より

彼らのまねをしてはならない。あなたたちの父はあなたたちが求める前から、あなたたちの必要とするものをご存知だ。
だから、あなたたちはこのように祈りなさい。
「天におられる私たちの父よ、御名の聖められますように。御国の来ますように。御心の天におけるように地にも行われますように。私たちに必要な糧を今日もお与えください。
そして、私たちに咎ある人を私たちが赦すように、私たちの咎めを赦してください。さらに私たちを試みに遭わせず、悪よりお救いください。」


ルカ書第十一章第一節以下

その人はある所で祈っておられたが、その祈りが終わると、彼の弟子の一人が言った。「主よ、私たちにも祈ることを教えてください。ヨハネが彼の弟子たちに教えられたように。」そこで、その人は彼らに言われた。「あなたたちが祈るときにはこう言いなさい。天におられる私たちの父よ、御名の聖められますように。御国の来ますように。御心の天におけるように地にも行われますように。私たちの日々の糧を日ごとにお与えください。私たちに咎ある人を私たちが赦すように、私たちの罪を赦してください。そして、私たちを試みに遭わせず、さらに私たちを悪よりお救いください。」


福音書のこの二カ所の記述は内容は本質的にはおなじであるけれど、微妙な違いもある。

マタイ書の文脈では、イエスが丘に登られたときに、ともに附いてきた弟子たちに、イエスの教えにとって核心となる事柄を「丘の上の教訓」として教えられたが、この「主の祈り」はその際に教えられたものである。そしてイエスはさらに、隠れたところにおられる父なる神に祈る場所として、自分の部屋を勧められ、それも長々と言葉数を多くする異邦人のまねをしないようにさとされた後に、この祈りを一つの型として教えられたものである。

ルカ書の文脈では、ただ単純に、イエスがある場所で祈り終えられたときに、弟子の一人に請われて教えられたことになっている。

しかし、いずれも主が弟子たちに直接に教えられた祈りであることから、これらは「主の祈り」として、キリスト者の祈りの核となっている。

この小さな祈りの中には、キリスト教の核心的な概念が含まれている。哲学もまた、無限に深い興味をもって、それらの概念を研究の対象とするものである。哲学はこれらの宗教的な表象を概念的に把握することをめざしている。「御国」「御心」「御名」「罪」「咎」「悪」「誘惑(試み)」「赦し」「救い」が具体的にどのようなものであるか。「名は体を現す」とも言われるが、名(概念)の実体が問題である。

このきわめて短いこの祈りの文言に明らかなように、イエスは、「父なる神」が私たちの祈りの対象として活けるものであること、その「神」は「天」におられること、天においては神の「御心」が行われているが、この地上にも神の御心が行われて、「神の国」の到来するように祈ることを教える。

後半は私たち自身のための祈りであり、それは、飢えや身体のために日々の糧を求め、心の幸いのために悪や誘惑から救われ、また私たちの犯した罪や咎の赦しを願う祈りである。

しかし、それにしてもイエスはこのような「祈り」をどこから学んだか。それは言うまでもなくエリヤやイザヤの旧約聖書からであり、さらには詩篇そのものからである。詩篇第百四十五篇第十一節の賛美歌は、この「主の祈り」に付け加えられて、キリスト者の日常の祈りの言葉になっている。

詩篇第百四十五篇第十節以下

あなたに造られた全てが、主よ、あなたに感謝し、
あなたの愛に生きる人は皆、あなたを誉め讃える。
彼らは御国の輝かしい栄光を言い、
あなたの力強い御業を語る。
主の力強い御業と
御国の輝かしい栄光を人の子らに知らせるために。
あなたの御国は永遠の王国で、
あなたの支配は代々にわたる。

 



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