夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

9月25日(火)のつぶやき

2018年09月26日 | ツイッター
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§281 補註〔国家体制における君主と支配者〕

2018年09月25日 | 法の哲学

 

§281  Zusatz.〔der Monarch  und   der  Herr  in der Verfassung

Wenn man die Idee des Monarchen erfassen will, so kann man sich nicht damit begnügen, zu sagen, daß Gott die Könige eingesetzt habe, denn Gott hat alles, auch das Schlechteste gemacht. Auch vom Gesichtspunkt des Nutzens aus kommt man nicht weit, und es lassen sich immer wieder Nachteile aufweisen. Ebensowenig hilft es, wenn man den Monarchen als positives Recht betrachtet.

§281 補註〔国家体制における君主と支配者〕

人が君主という概念を理解しようとするとき、神が国王を任命したのだということでは自分自身を納得させることはできない。というのは神は全てのものを、最悪のものすらもまた造ったからである。また効用の観点からいってもさらに納得しうるものではない。そしてその裏にはいつも再び欠陥を見せつける。もし人が君主について肯定的な正義(法)として取り扱ったとしても少しも役に立たない。

Daß ich Eigentum habe, ist notwendig, aber dieser besondere Besitz ist zufällig, und so erscheint auch das Recht, daß einer an der Spitze stehen muß, wenn man es als abstrakt und positiv betrachtet. Aber dieses Recht ist als gefühltes Bedürfnis und als Bedürfnis der Sache an und für sich vorhanden. Die Monarchen zeichnen sich nicht gerade durch körperliche Kräfte oder durch Geist aus, und doch lassen sich Millionen von ihnen beherrschen.

私が財産を持つことは必然的であるが、しかし、この特殊な占有は偶然的である。そして、同じように、(君主が)一者として(国家の)頂点に立たなければならないという正当性も、人がもしそれ(一者)を抽象的かつ肯定的に見なしても、また同じように偶然のように見える。しかし、この正当性は感じられた欲求として、そして本来的に(必然的に)事柄そのものの欲求として存在している。君主は肉体的な力や精神的な力において必ずしも際立っているものではないが、それでもなお幾百万の人々をして彼に服せしめている。


Wenn man nun sagt, die Menschen ließen sich wider ihre Interessen, Zwecke, Absichten regieren, so ist dies ungereimt, denn so dumm sind die Menschen nicht: es ist ihr Bedürfnis, es ist die innere Macht der Idee, die sie selbst gegen ihr anscheinendes Bewußtsein dazu nötigt und in diesem Verhältnis erhält. Wenn so der Monarch als Spitze und Teil der Verfassung auftritt, so muß man sagen, daß ein erobertes Volk nicht in der Verfassung identisch mit dem Fürsten ist.


いまもし人々が彼らの利益や目的、意向に反して自らを支配せしめている、と言うなら、これは条理に反している。なぜなら人々はそれほどまで愚かではないからだ。彼らの表向きの意識に反して彼ら自身を君主に服するように強制し、そして、この関係の中に彼ら自身を引き留めるのは、それは彼らの要求であり、理念の内的な力である。そこでは君主は国家体制の頂点として一部として現れるけれども、征服された民族の場合は、国家体制の中で君主と支配者は一致しない、と言わねばならない。


Wenn in einer im Kriege eroberten Provinz ein Aufstand geschieht, so ist dies etwas anderes als eine Empörung in einem wohlorganisierten Staat. Die Eroberten sind nicht im Aufstande gegen ihren Fürsten, sie begehen kein Staatsverbrechen, denn sie sind mit dem Herrn nicht im Zusammenhang der Idee, nicht in der inneren Notwendigkeit der Verfassung, - es ist nur ein Kontrakt, kein Staatsverband vorhanden. "Je ne suis pas votre prince, je suis votre maître", erwiderte Napoleon den Erfurter Abgeordneten.

戦争によって征服された地方で暴動が起きたとしても、それはよく組織化された国家における反乱とは異なる別のものである。征服された者たちは彼らの君主に対して反乱を起こしてはおらず、彼らは国家反逆罪に何ら関与しているわけではない。なぜなら、彼らは支配者と理念上の関係にあるわけではなく、支配者と国家体制の内的な必然性の関わりの中にもないからである。
そこにはただ一つの契約があるのみで、国家的な結合は何ら存在しない。
「私はお前たちの君主ではない。私はお前たちの支配者(主人)である。"Je ne suis pas votre prince, je suis votre maître"」ナポレオンはこのようにエルフルトの議員たちに答えたのである。

 

一つの国家体制(憲法)において、君主と支配者は必ずしも一致しない。このことはヘーゲルの時代にナポレオンがドイツとの戦争に勝利してテューリンゲン州の州都エアフルト(Erfurt)を支配した時のように、日本においても先の第二次世界大戦での敗北の結果、GHQのマッカーサーが天皇の上に立って主人として日本国民を支配した。

この時の日本国民とマッカーサーとの関係は、もちろん日本国民と天皇との関係とはまったく異なるものである。国家体制や憲法との関係において、天皇と日本国民は理念上の、国家的な結合関係にあるけれども、戦争に敗北した被征服民族としての日本国民と勝利者としてのマッカーサーとの関係はたんに支配と隷属の関係でしかない。しかし君主と国民との関係は、支配と隷属の関係ではない。

 

 

 

 
 
 
 
 
 
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9月16日(日)のTW:#最悪の制度としての君主選挙制

2018年09月17日 | ツイッター
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§281c〔 最悪の制度としての君主選挙制〕

2018年09月15日 | 法の哲学

 

§281c〔 最悪の制度としての君主選挙制〕

⎯   Deswegen  darf  auch nur  die Philosophie diese Majestät denkend betrachten, denn jede andere Weise der Untersuchung als die spekulative (※1) der unendlichen, in sich selbst begründeten Idee hebt an und für sich die Natur der Majestät auf. 


⎯ したがって、哲学のみにこの君主の尊厳を思考として考察することが許される。というのも、透視的な(※1)無限の自己創造的な理念(の概念的な把握)以外の他のどのような研究の方法も本来的に(必然的に)、(君主の)尊厳の本性を廃棄してしまうからである。


⎯ Das Wahlreich scheint (※2)leicht die natürlichste Vorstellung zu sein, d. h. sie liegt der Seichtigkeit des Gedankens am nächsten; weil es die Angelegenheit und das Interesse des Volkes sei, das der Monarch zu besorgen habe, so müsse es auch der Wahl des Volkes überlassen bleiben, wen es mit der Besorgung seines Wohls beauftragen wolle, und nur aus dieser Beauftragung entstehe das Recht zur Regierung.

⎯  選挙君主制(選挙公国)がもっとも自然な考えであるようにみえる(※2)。言い換えれば、それが思想の浅薄さに最も近いところにあるということである。君主の配慮すべきことは、国民の関心事と利益であり、そうして、また国民の福祉の世話を誰に委ねたいかは国民の選択に委ねなければならないし、そして、この委託のみから統治の正当性が生まれるのだからと。

Diese Ansicht, wie die Vorstellungen vom Monarchen als oberstem Staatsbeamten, von einem Vertragsverhältnisse zwischen demselben und dem Volke usf., geht von dem Willen als Belieben, Meinung und Willkür derVielen aus - einer Bestimmung, die, wie längst betrachtet worden, in der bürgerlichen Gesellschaft als erste gilt oder vielmehr sich nur geltend machen will, aber weder das Prinzip der Familie, noch weniger des Staats ist, überhaupt der Idee der Sittlichkeit entgegensteht.


こうした見方は、君主についてそれを最高の公務員とみなす考え方や、君主と国民との間の関係を契約とみなす考え方などと同じように、多数者の利便、思い込み、恣意としての意志から出てくるものであり、⎯ このような考えは、ずっと前に考察されたように、市民社会において第一のものとして認められ、あるいはもっとさらには市民社会においてのみ通用するような考え方であるが、しかしそれは家族の原理でもなければ、まして国家の原理でもなくて、むしろ概して倫理の理念に背くものである。

⎯  Daß das Wahlreich vielmehr die schlechteste der Institutionen ist, ergibt sich schon für das Räsonnement aus den Folgen, die für dasselbe übrigens nur als etwas Mögliches und Wahrscheinliches erscheinen, in der Tat aber wesentlich in dieser Institution liegen. Die Verfassung wird nämlich in einem Wahlreich durch die Natur des Verhältnisses, daß in ihm der partikulare Wille zum letzten Entscheidenden gemacht ist, zu einer Wahlkapitulation, d. h. zu einer Ergebung der Staatsgewalt auf die Diskretion des partikularen Willens, woraus die Verwandlung der besonderen Staatsgewalten in Privateigentum, die Schwächung und der Verlust der Souveränität des Staats und damit seine innere Auflösung und äußere Zertrümmerung hervorgeht.


選挙君主制が諸制度の中で最悪のものであるということは、すでに、もろもろの経験からも悟性推理にとっても明らかになっている。ところで、その事実はただ偶然的なものか、見かけだけ本当らしいものに見えるけれども、実際にはしかし、この選挙君主制という制度そのものに本質的に存在しているものである。

選挙君主制においては、すなわち国家体制(憲法)は、特定の意志が究極の決定要因になるというその関係の本性からいって、一つの選挙協定によって、すなわち、特殊な意志の方向性に国家権力が支配されることになる。そこから、特殊な国家権力が私有財産へと転じ、国家の主権の弱体化と喪失、そして、その結果として国家の内部からの解体と、外からの破壊がもたらされることになる。


アメリカやロシアなどの大統領制をとる共和国は、君主を選挙で選出するという意味で、ここでヘーゲルのいう「das Wahlreich 」(選挙君主制・選挙公国)にほかならない。ロシアのプーチン大統領やアメリカのトランプ大統領の例に見るように、
悟性推理にすら、事実に強制されて大統領制(君主選挙制)が劣悪なものであることを理解している。

また「学者」でありながら、そうした観点からしか君主制を理解できず、日本の皇室を批判して止むことのない日本の多くの憲法学者たち、また彼らによって権威とされている憲法学者の樋口陽一氏などにとっては、君主としての天皇についても「最高の国家公務員」とか「国民のロボット」といった見方しかできない。


 (※1)die spekulative

ここでは「透視的な」と訳したけれども、多くの翻訳では「思弁的な」と訳して済まされている。しかし、それでは単に語句をドイツ語から日本語に置き換えただけで、その実質的な理解は得られないと思う。

die  Weise der Untersuchung  als  die spekulative  der unendlichen, in sich selbst begründeten Idee」「透視的で無限な自己自身に根拠をもつ理念としての研究の方法」とはヘーゲル哲学の体系そのもののことにほかならない。そこに明らかにされているヘーゲルの論理学のように、絶対的に必然的な弁証法的な展開についての洞察、透視なくしては、君主の尊厳の価値も理解し得ないのだ、というのだろう。

※2)sheinen  〜にみえる

ヘーゲルにおいては、sheinen はあまりいい意味には使われない。「外見上はそう見えるが、実際は〜〜である」としてヘーゲルらしく現象と本質との関係において事柄が見られている。



 
 
 
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9月8日(土)のTW:§281b〔君主の世襲制の根拠〕

2018年09月09日 | ツイッター
 
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§281b〔君主の世襲制の根拠〕

2018年09月08日 | 法の哲学

 

§281b〔君主の世襲制の根拠〕

Geburts- und Erbrecht machen den Grund der Legitimität als Grund nicht eines bloß positiven Rechts, sondern zugleich in der Idee aus. - Daß durch die festbestimmte Thronfolge, d. i. die natürliche Sukzession, bei der Erledigung des Throns den Faktionen vorgebeugt ist, ist eine Seite, die mit Recht für die Erblichkeit desselben längst geltend gemacht worden ist.

出生と相続は、単なる実定法の根拠としてのみではなく、同時に理念のうちにある根拠として(世襲の)正当性を構成する。
⎯  確定した王位継承を、すなわち自然な継承を通して、王座の就任をめぐる派閥の抗争は予防されるということは、それはずいぶん前から世襲そのものに対して正当に主張されていた一面である。

Diese Seite ist jedoch nur Folge, und zum Grunde gemacht zieht sie die Majestät in die Sphäre des Räsonnements herunter und gibt ihr, deren Charakter diese grundlose Unmittelbarkeit und dies letzte Insichsein ist, nicht die ihr immanente Idee des Staates, sondern etwas außer ihr, einen von ihr verschiedenen Gedanken, etwa das Wohl des Staates oder Volkes zu ihrer Begründung.

この一面はしかしながらただ帰結に過ぎない。それが根拠としてうけとられると君主の尊厳を(小理屈の)推論の領域に引き摺り下ろしてしまうことになる。この前提のない直接性と、そして究極の内在性という(君主の尊厳の)性格が、国家の内在的な理念ではなくて、尊厳の外にある何かに、尊厳とは異なった思想の一つに、国家もしくは国民の福祉とかいったものに、君主の尊厳の根拠が与えられることになる。

 Aus solcher Bestimmung kann wohl die Erblichkeit durch medios  terminos  gefolgert werden; sie läßt aber auch andere medios terminos und damit andere Konsequenzen zu, - und es ist nur zu bekannt, welche Konsequenzen aus diesem Wohl des Volkes (salut du peuple) gezogen worden sind.
 
確かにこのような判定から、媒辞を通して(理由づけられて)、世襲が導き出されるかもしれない。;しかし、それはまた、他の媒辞をも、そして、そのために別の結果をも許すことになる。 - そして、民衆のこの福祉 (salut du peuple) という理由づけから、どんな結果がもたらされたかはあまりにもよく知られている。
 
 
 
 
ここでヘーゲルは、君主の世襲制の根拠は何か?君主の地位が世襲される理由は何なのか、を問題にしている。多くの場合、君主の地位の世襲が、君主の地位の交替に際しての、君主の地位をめぐる党派間や派閥間の抗争をめぐる混乱や軋轢の生まれるのを予防することができるといったことを理由とするものである。たしかに、君主の地位を巡って権力闘争に火がつけられて、その結果として悲惨な現実がもたらされたことは、我が国の壬申の乱にその例をみるように歴史的にも明らかである。
 
しかし、そのような有限な理由づけは、君主の地位の尊厳の根拠を、他にも、たとえば「国民の福祉」のためといったことに理由を求めることを許すことになる。それは世襲される君主の地位の尊厳の根拠の一面に過ぎないし、そうした有限な根拠は、君主の世襲についての正当な根拠にはならないという。実際にも、たとえば「民衆の福祉」 (salut du peuple)という大義をもって行われたフランス革命が、その結末に血を血で洗う権力抗争をもたらした歴史的な現実をヘーゲルは目撃している。

 
 
 
 
 
 
 
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