16:03 from web
α 欲望
§50
直接的な形態における自己意識は、個別者であり欲望である。客観的であろうとするところの自分の抽象性と、あるいは、外部の対象物がもつ形象であるところの直接性と、主観的であろうとすることとの矛盾である。・・・生命を持たないものは何らの衝動も持っていない。41
16:10 from web
自己意識は、直接的で外面的な客観は何らの真実な実在性をもたず、むしろ主観に対して虚無的なもの、単に外面的に独立のものであるが、実際は、それは独立的に存立する資格も能力ももたず、主観の実在的な威力によって没落しなければならようなものであることを知っているからである。 (S 40 )
16:37 from web
自我も国家もいずれも、独立した排他的な主体であるという点においては共通している。
16:52 from web
自己意識の概念は、自分が自分自身に対して関係するということの中に、“私は私である"ということ“私=私"ということに成り立っている。(S 40 )
17:56 from Janetter2
直接的な、したがって自然的で個別的な排他的な自己意識は、自分は自分であるという形態をもっている。(S 40 )
19:24 from Saezuri
客観に対する関係は主観にとっては必然的である。・・自己意識はこの矛盾を揚棄することができる。というのは、自己意識は単に存在するものではなくて、そうではなくて、絶対的な活動だからである。(S 41 )
20:55 from Saezuri
欲望――欲望の対象と欲望そのものがそうであるように、また、欲望の満足もまた、個別的な、移りゆく、新しく目覚めてくる欲望に席を譲るのであり、主観の普遍性といつも矛盾したままにあるものである。a
20:57 from Saezuri
そして、それにもかかわらず、直接的な主体の感じられた欠乏を通して、つねに繰り返し刺激される客体化である。この客体化は欲望の目的を決して実現することはなく、むしろ、ただ、終わりのない進行を引き起こすだけである。b (S 44)
ここでは欲望とは“感じられた矛盾”である。
21:32 from Saezuri
§429(§53)自分が欲望の満足の中にある自己感情は、内面から見れば、それ自体、抽象的な自覚的な存在の中に、あるいは、その個別性にあるのではなく、むしろ、直接性と個別性の否定として、その結果には普遍的な規定と自己意識のその対象との一致を含んでいる。a
22:04 from Saezuri
判断あるいはこの自意識の分離は、自由な客体についての自覚である。私はこの自由な客体の中に自己としての知をもっている。しかし、私はまだなお自己の外にある。b (S 44 )
22:09 from web
ここでヘーゲルは“自由な客体”として、“自由な”という形容詞を用いている。すなわち、自己意識が主観性と外的な客体の揚棄を通じて、私の直接性、欲望の立場を否定することによって得られるものが、自由の立場である。
23:34 from Saezuri
国会で仙谷元官房長官から左遷をほのめかされた古賀重明氏の登場番組を見る。日本社会の問題点をかなり的確についている。「ニュースの深層9/13(火)古賀茂明氏出演http://t.co/sfdL5QOj」<