夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十六節[絶対的な精神について]

2023年01月31日 | ヘーゲル『哲学入門』

ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十六節[絶対的な精神について]

§76

Gott ist der absolute Geist(※1), d. h. er ist das reine Wesen(※2), das sich zum Gegenstande macht, aber darin nur sich selbst anschaut; oder in seinem Anderswerden schlechthin in sich selbst zurück­kehrt und sich selbst gleich ist.

第七十六節[絶対的な精神について]

神は絶対的な精神である。すなわち、神は純粋な存在である。純粋な存在とは自己を対象とするが、しかし、その中でただ自分自身を直観をするだけであり、あるいは、自身がもっぱら他のものへと変化する中で自分自身へと還り、かつ自分自身と等しくあるものである。

 

※1
der absolute Geist(絶対的な精神)は、先の第七十二節の、Dies absolute Wesen と同じ。第二教課の「精神現象論」の第四節においては、Das Subjekt ist der Geist.(主観は精神である)として説明されている。

※2
das reine Wesen
reine
「純粋な」というのは、神は自ら以外を含まない存在だからである。また神を精神(der absolute Geist)として捉えていること、この核心を精確に解明することは註解の目的の一つである。
Wesen (存在、本質)
第七十二節の註解※1参照。「時間を超越した本質的な存在」。少しこなれないかもしれないが「質在」という訳語を当ててもいいかもしれない。

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十五節[宗教の意義について]

2023年01月30日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十五節[宗教の意義について]

§75

Die Religion(※1) selbst besteht in der Beschäftigung des Gefühls und Gedankens mit dem absoluten Wesen und in der Vergegen­wärtigung seiner Vorstellung, womit die Selbstvergessenheit (※2) seiner Besonderheit in dieser Erhebung(※3) und das Handeln in die­sem Sinn(※4), in Rücksicht auf das absolute Wesen notwendig ver­bunden ist.

第七十五節[宗教の意義について]

宗教それ自体は、絶対的な存在の表象を視覚化することにおいて、絶対的な存在にかかわる感情と思想をとらえることであり、この克服において自らの特殊な自己を忘却し、かつ、この目的における行為は、絶対的な存在について省みることと必然的に結びついている。

 

 

(※1)
Die Religion
先の第七十四節においても述べたように、「哲学は概念的な認識であり、宗教は表象的な認識である」これはヘーゲルの一貫した宗教観である。

(※2)
 die Selbstvergessenheit
「自己忘却」とは何か。後の※3のdie  Erhebung によって、自己の個別性、特殊性を克服すること、この自己の忘却において、普遍へと、絶対者との合一の高みへと上ることである。

(※3)
 自己の個別性、特殊性を   Erhebung(克服、高揚、追求)することによって、特殊性から普遍性へと高揚すること、ここに有限から無限が出てくる。

(※4)
  das Handeln in die­sem Sinn
 「この目的をもった行為」は、絶対者の存在についての意識と不可分に結びついている。その意識なくしてそうした目的をもった行為、自己忘却は出てこない。

「宗教」についてのさらに具体的な詳細な認識は、もちろん彼の「宗教哲学」を見なければならない。

 

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十四節[理性と悟性]

2023年01月24日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十四節[理性と悟性]

§74

Dies Wissen(※1) muss sich näher bestimmen und nicht inneres Ge­fühl, Glauben an das unbestimmte Wesen überhaupt bleiben, (※2)sondern ein Erkennen desselben werden. Die Erkenntnis Gottes ist nicht über die Vernunft(※3), denn diese ist nur Widerschein Gottes und ist wesentlich das Wissen vom Absoluten, sondern jene Erkenntnis ist nur über den Verstand, das Wissen vom  Endlichen und Relativen.

第七十四節[理性と悟性]

この知はさらに詳しく自らを規定しなければならないし、そうして内的な感情や信仰などの不確かな本質一般のままに留まっていてはならず、むしろ、それらについての一つの認識に至らなければならない。神を認識することは理性を超えることではない。というのも、理性はただ神の反照に過ぎず、それは本質的には絶対者についての知にほかならないからである。ただ、その認識は悟性を、つまり有限なものや相対的なものについての知を超えるのみである。

 

※1
先の第七十二節、第七十三節を受けての「絶対的なものについての知」のこと。

※2
たしかに宗教もまた絶対的なものについての知ではあるが、この知は、きちんと規定もされずに、あいまいな本質のままに留まっていてはならず、一つの認識に至らなければならない。
「哲学は概念的な認識であり、宗教は表象的な認識である」といわれるが、ここに宗教から哲学へ移行する必然性がある。

※3
ヘーゲル哲学にとって重要な概念であるVernunft(理性)とVerstand(悟性)の根本的な差異が的確に説明されている。
Vernunft(理性)は神の反照(Widerschein Gottes)、絶対者についての知であり、Verstand(悟性)は有限のものや相対的なものについての知識である。

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十三節[感性と有限の克服]

2023年01月21日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十三節[感性と有限の克服]

§73

Die Erhebung über das Sinnliche und Endliche macht zwar negativ, (※1)von unserer Seite, die Vermittlung dieses Wissens aus,(※2) aber nur insofern, als von Sinnlichem und Endlichem zwar aus­gegangen, es aber zugleich verlassen und in seiner Nichtigkeit erkannt wird. Allein dies Wissen von dem Absoluten  ist selbst ein absolutes  und unmittelbares Wissen und kann nicht etwas Endliches zu seinem positiven Grunde haben oder durch etwas, das es nicht selbst ist, als einen Beweis vermittelt sein.

§73[感性と有限の克服]

感性的なものと有限的なものとを克服することは、たしかに、我々の側からすれば、これらの知識を介して否定的に説明することであるが、しかし、ただ、感覚的なものと有限的なものから出発するものである限りにおいて、しかし、同時に、それは打ち捨てられ、かつ価値のないものとして認識される。しかしながら、この絶対的なものについての知識は、それ自体が 絶対的で 、かつ直接的な知識であるし、また、それ自身が絶対的ではないところの何か有限的なものを、一つの証明されたものとして自らの積極的な根拠としてもつことはできないのである。

 

 

※1
negativ
「〜である」と肯定的に、積極的にではなく、「〜でない」と消極的に、否定的に説明すること。
有限な存在である我々からすれば、否定的な説明から出発せざるをえない。

(※さしあたっては、以上に理解し註解しましたが、「否定的に説明すること」を今ここで具体的事例をもって明確に示すことができません。理解がさらにより明確になれば、追って改稿していきます。)

※2
die Vermittlung dieses Wissens これらの知識を介して

「これらの知識」とは前七十二節に「Dies absolute Wesen ist gegenwärtig in unserem reinen Bewusstsein und offenbart sich uns darin.」とあるように、私たちの純粋意識のうちに存在し、そこに私たちに明らかにされている、これらの絶対的な本質、つまり神についての知のこと。

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十二節[信仰について]

2023年01月09日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十二節[信仰について]

§72

Dies absolute Wesen (※1)ist gegenwärtig in unserem reinen Bewusstsein (※2)und offenbart sich uns darin. Das Wissen von ihm ist, als durch es in uns vermittelt, für uns unmittelbar und kann insofern Glauben (※3)genannt werden.

第七十二節[信仰について]

この絶対的な本質は我々の純粋な意識の中に現われ、かつ、そこで我々に自らを明らかにする。絶対者についての知識は、純粋な意識によって我々に媒介されたものとして我々の中に直接にあり、その限りにおいてそれは 信仰 と呼ぶことができる。

 


※1
Dies absolute Wesen この絶体的な本質(存在)
とは宗教的な概念としてはキリスト教の「神」。

岩波文庫版の武市健人訳においては、「純粋意識の中で我々に啓示される。」と受動態に訳しているために、「(絶体的な本質、「神」が)自らを我々の純粋な意識の中に啓示する」という、絶体的な本質の主体性が十分に明らかにされていない。

Wesen 本質、存在。

ここでは「本質」と訳したが、「存在そのもの」の意味も共有している。日本語には的確な訳語がない。
存在と本質との関係については、「大論理学」の中の「本質」の項に、「存在の真理としての本質」、「本質とは過去の、しかし時間を超越した過去としての存在」として説明されている。

「an und für sich」をどう訳すべきか - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/tPnAPg

※2
in unserem reinen Bewusstsein 我々の純粋な意識の内に。
この「reinen」は「アプリオリ a priori 先天的」と同義で、「感覚器官や経験とはかかわらないもの」だから「純粋」である。カントの「純粋な理性 die reinen Vernunft 」を受け継いでいる。私たちの「意識そのもの」あるいは、「カテゴリーの場としての意識」

※3
簡潔だが、信仰の本質を的確に捉えている。

信仰と知 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/ULrTn3

 

 

 

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