思考には何事かを証明する力があると言うのなら、そして論理学は証明するべきであると要求するのであれば、そして論理学が証明の仕方を教えると主張するのであれば、論理学は何よりもまず、もっとも独自の自己自身の内容を証明して、その必然性を洞察する力がなければならない。§42
§31
心、世界、神の表象は、さしあたって思考のために、しっかりとした足場を提供しているように見える。しかしながら、それらの表象には特殊な主観性の性格が入り混じっている。そして、そのことによって、それらは非常に異なった意味を持ちうる。
いずれにしても、表象はまず思考を通じて確固たる規定を得ることを必要としている、ということである。
このことは全ての命題が言い現している。述語を通じてはじめて(つまり、哲学において思考規定を通して)主語が何であるか、すなわち初めの表象が何であるか、が示されるということである。
§48
第二の対象(§35参照)の無制約者(絶対者)を、世界を認識しようとする理性の試みに際して、理性はアンチノミーに陥る。
アンチノミーとは同じ対象についての二つの対立する命題の主張であり、しかも、その両者が等しく必然性を持って主張されなければならないことになる。
ここから、このような矛盾に陥る様々な規定を持った世界の内容というものは、それそのもの自体としてあるのではなくて(nicht an sich)、むしろ、単なる仮象(nur Erscheinung)にすぎないということになる。 b
その(カントの矛盾の)解消(の仕方)は、矛盾が生じるのは対象そのものから本来的に(an und für sich)くるものではなくて、むしろ認識する理性そのものから生じる、とすることによってである。c
矛盾の原因となるものが内容自身であること、すなわち自覚された(für sich)カテゴリーである、ということがここでは言われている。悟性的な規定(カテゴリー)を通じて理性的なものに作り出される矛盾が、本質的であり必然的なものであ るというこの思想は、近代哲学のもっとも重要で深い進歩の一つである。