夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

「夕暮れのフクロウ」記事一覧20180530〜20180630

2018年06月30日 | Weblog

 
 
 
 
 
 
 
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§279j[意識と自由]

2018年06月29日 | 法の哲学


§279j[意識と自由]


- Hier liegt der Ursprung des Bedürfnisses, von Orakeln, dem Dämon (beim Sokrates), aus Eingeweiden der Tiere, dem Fressen und Fluge der Vögel usf. die letzteEntscheidung über die großen Angelegenheiten und für die wichtigen Momente des Staats zu holen - eine Entscheidung, welche die Menschen, noch nicht die Tiefe des Selbstbewußtseins erfassend und aus der Gediegenheit der substantiellen Einheit zu diesem Fürsichsein gekommen, noch nicht innerhalb des menschlichen Seins zu sehen die Stärke hatten. 

 ⎯⎯  国家の重大事や危機において、神託やデーモン(ソクラテスにおいて)から、また動物の内臓や、鳥の啄ばみや飛行などに、その最終的な決断を得ようと欲する起源がここにある。⎯⎯ 人間が自己意識の深みをいまだ把握しておらず、そしてその実体的な個体の堅固さから(自己意識が)自立した存在にまでに至っていないそのような決断は、人間の存在の内部においてその強さを見る力をいまだ持たないのである。


- Im Dämon des Sokrates (vgl. oben § 138) können wir den Anfang sehen, daß der sich vorher nur jenseits seiner selbst versetzende Wille sich in sich verlegte und sich innerhalb seiner erkannte - der Anfang der sichwissenden und damit wahrhaften Freiheit. Diese reelle Freiheit der Idee, da sie eben dies ist, jedem der Momente der Vernünftigkeit seine eigene, gegenwärtige, selbstbewußte Wirklichkeit zu geben, ist es, welche somit die letzte sich selbst bestimmende Gewißheit, die die Spitze im Begriffe des Willens ausmacht, der Funktion eines Bewußtseins zuteilt.

⎯⎯ ソクラテスのデーモンにおいては(上記138節参照)は、以前には自己自身を超えた向こう側にのみ据えられた意志が、自己を自身の中に移して、自己を自身の内部で認識すること、───自らを知ることのその始まりを、そしてそこで真実の自由の始まりを、私たちは見ることができる。理念のこの真実の自由は、それがまさにそうなのだが、理性の要素 Momente  のそれぞれに、それ固有の、現に存在する、自覚された現実を与えることであり、それをもって、意志の概念における頂点を構成する究極的な自己決定の確信を、自己意識の機能に割り当てるのである。

Diese letzte Selbstbestimmung kann aber nur insofern in die Sphäre der menschlichen Freiheit fallen, als sie die Stellung der fürsich  abgesonderten, über  alle  Besonderung  und  Bedingung erhabenen Spitze hat; denn nur so ist sie nach ihrem Begriffe wirklich.  

この究極の自己決定は、しかし、すべての特殊性と制限を超えて高められた頂点を、独立した別個の立場としてもつかぎりにおいてのみ、人間の自由の領域に入ることができる。なぜなら、そうであってのみ自己決定はその概念にしたがって現実的であるからである。
 
 
 
 
 ※
 意識の自己分裂をもたない動物や子供が(ある種の大人も)自由を持たない理由がここに明らかにされている。人間も歴史的な初期段階において、意識がいまだなお一個の実体的な個体の堅固さにとどまったままで、意識の分裂した自己認識の深みに達しない間は、自己意識の外部に、神託や太占(ふとまに)、亀卜などの占いに最終的な意志決定を委ねた。歴史的にはソクラテスの意識の中において、「汝自身を知れ」の標語とともにはじめて自己意識の内部において、究極的な自己決定の確信をもつにいたって自由が自覚されるようになる。ただしかし末節に説明されているように、個別性にまで至らず、特殊性の立場にとどまったままでは、真実に現実的な自由の領域に入ることができない。「アジア人は自由を知らない」とヘーゲルが言うのもそのためである。
 
 
 


 
 
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6月26日(火)のTW:#国民主権、#国家、#意志決定

2018年06月27日 | ツイッター






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§279i[国民主権について⎯ 国家の意思決定]

2018年06月26日 | 法の哲学

 

Immer muß zwar auch in jenen unausgebildeteren Gestaltungen des Staats eine individuelle Spitze entweder, wie in den dahin gehörenden Monarchien, für sich vorhanden sein oder, wie in den Aristokratien, vornehmlich aber in den Demokratien, sich in den Staatsmännern, Feldherren nach Zufälligkeit und dem besonderen Bedürfnis der Umstände erheben; denn alle Handlung und Wirklichkeit hat ihren Anfang und ihre Vollführung in der entschiedenen Einheit eines Anführers.

 

つねに、たしかにまた、先にのべたようなまだ十分に発展していない国家の形態にあっても、一個の個体的な頂点(トップ)というのは、(君主としてもともと)自立的に現存していて、それに付属している君主制においてであるか、あるいは貴族制においてであるか、しかし、とくに民主制においては偶然と時勢による特殊な要求にしたがって、政治家や将軍などとして現れざるをえない。なぜなら、すべての行動と現実は、一人の指導者という決意する一者の中にその始まりとその達成をもつからである。

 

 Aber eingeschlossen in die gediegen bleibende Vereinung der Gewalten muß solche Subjektivität des Entscheidens teils ihrem Entstehen und Hervortreten nach zufällig, teils überhaupt untergeordnet sein; nicht anderswo daher als jenseits solcher bedingten Spitzen konnte das unvermischte, reine Entscheiden, ein von außen her bestimmendes Fatum, liegen. Als Moment der Idee mußte es in die Existenz treten, aber außerhalb der menschlichen Freiheit und ihres Kreises, den der Staat befaßt, wurzelnd.



しかし、権力が未分化の一個の固まりの中に閉じ込められていては、意思決定のこのような主体性は、一方では、偶然にしたがって発生し現れてこざるをえないし、一方では一般的に従属的であらざるをえない。だから、こうした条件に制限された頂点(指導者トップ)の向こう側にあるものとして、他の場所において、混ざり物のない純粋な、外から決められた一つの運命として存在するしかなかったのである。理念の要素として、それ(決断の主体性)は現れざるをえない。しかし、それは国家の係わる人間の自由とその圏内の外に根拠をもつものとして現れざるをえない。

権力が未分化の古代の国家などにおいては、国家の意思決定もいまだ十分に人間の自由な意思決定のうちに捉えられていなかった。その結果として国家の重大事における意思決定も神託や占いなどに頼り、一個の宿命として受け入れることになった。

 
 
 
 
 
 
 
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§279h[君主と国家主権について]

2018年06月25日 | 法の哲学

§279h[君主と国家主権について]

- In einem Volke, das weder als ein patriarchalischer Stamm, noch in dem unentwickelten Zustande, in welchem die Formen der Demokratie oder Aristokratie möglich sind (s. Anm. ebend.), noch sonst in einem willkürlichen und unorganischen Zustande vorgestellt, sondern als eine in sich entwickelte, wahrhaft organische Totalität gedacht wird, ist die Souveränität als die Persönlichkeit des Ganzen und diese in der ihrem Begriffe gemäßen Realität, als die Person des Monarchen.

⎯⎯ ある国民が、家父長的な部族としてまだ未発達な段階にあるか、民主制あるいは貴族制かいずれかの形態が可能である段階にあるか(同節註解参照)、なおその他気まぐれで有機的に組織もされていない段階にあると考えられるのではなく、そうではなく、内的に発展した真に有機的な一つの総体として考えらる国民においては、主権は全体の人格性として存在し、そして、その概念に合致した現実においては、君主の人格として存在する。

 Auf der vorhin bemerkten Stufe, auf welcher die Einteilung der Verfassungen in Demokratie, Aristokratie und Monarchie gemacht worden ist, dem Standpunkte der noch in sich bleibenden substantiellen Einheit, die noch nicht zu ihrer unendlichen Unterscheidung und Vertiefung in sich gekommen ist, tritt das Moment der letzten  sich  selbst  bestimmenden  Willensentscheidung  nicht  als  immanentes organisches Moment des Staates für sich in eigentümliche  Wirklichkeit   heraus.
 
民主制、貴族制、そして君主制と国家体制(憲法)の分類がなされている先に述べた段階にあるような、自らのうちに留まったままいまだ実体的な一つの個体のうちにある立場にとって、そこではなお自らを無限に分化することも深化させることにも至っておらず、最終的に自己自身を規定する意思決定の要素 das Moment は、国家に内在的な有機的な要素として独自の現実性にまで自らを立ち現していない。
 
最終的な意思決定を行う国家の要素 das Momentt としての君主が、独自の現実性をもつに至るには、国家体制が無限に分化と深化を遂げて発展していなければならないということか。
 
 
 
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§279g[国民主権について]

2018年06月22日 | 法の哲学

 

§279g[国民主権について]

Das Volk, ohne seinen Monarchen und die eben damit notwendig und unmittelbar zusammenhängende Gliederung des Ganzen genommen, ist die formlose Masse, die kein Staat mehr ist und der keine der Bestimmungen, die nur in dem insichgeformten Ganzen vorhanden sind - Souveränität, Regierung, Gerichte, Obrigkeit, Stände und was es sei -, mehr zukommt.
Damit, daß solche auf eine Organisation, das Staatsleben, sich beziehende Momente in einem Volke hervortreten, hört es auf, dies unbestimmte Abstraktum zu sein, das in der bloß allgemeinen Vorstellung
Volk heißt.
- Wird unter der Volkssouveränität die Form der
Republik, und zwar bestimmter der Demokratie verstanden
(denn unter Republik begreift man sonstige mannigfache empirische Vermischungen, die in eine philosophische Betrachtung ohnehin nicht gehören), so ist teils oben (bei § 273 in der Anmerkung) das Nötige gesagt, teils kann gegen die entwickelte Idee nicht mehr von solcher Vorstellung die Rede sein.

自らの君主をもたず、そして、まさに君主と必然的かつ直接的に相互に関連する全体の組織をもたないような、そんな国民は、形をなさない群衆にすぎないのであって、もはや国家ではなく、自らのうちに形成された全体の中にのみ存在するいかなる規定(der Bestimmungen)  をも⎯⎯ それが主権や政府、裁判所、省庁、議会など何であれ⎯⎯もはや何一つ与えられないのである。

だから、一個の有機体のうえに、国家生活のうえに、自らに関係するこうした要素(Momente、政府、議会など)が、一個の国民のなかに現れてくるに伴って、単に一般的な考えのもとで「国民Volk」と称されるようなこうした曖昧な抽象体であることをやめる。

⎯⎯ 国民主権という語のもとには、共和国の形態が、より具体的には民主主義の形態が理解されている。(というのも共和国の語のもとで、人はとにかく哲学的な考察のうちにも入らない雑多で経験的なその他の混ぜ合わせ物を理解しているからである。)そうしてその一面については先に(§273註解のなかで)必要なことは述べておいたし、他面においては、展開された理念に対して、こうした考え(表象Vorstellung)については、もはやこれ以上語るにはおよばない。

「国民主権」と「共和国」に対する立憲君主国家論者ヘーゲルの辛辣な批判。我が国の「共和政国家論者」である、憲法学者の樋口陽一氏や故奥平康弘氏らには、ヘーゲル哲学を批判する能力はない。

 

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6月20日(水)のTW:§279f[国民主権について]

2018年06月21日 | ツイッター
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§279f[国民主権について]

2018年06月20日 | 法の哲学

§279f[国民主権について]

Volkssouveränität kann in dem Sinn gesagt werden, daß ein Volk überhaupt nach  außen ein Selbständiges sei und einen eigenen Staat ausmache wie das Volk von Großbritannien, aber das Volk von England oder Schottland, Irland, oder von Venedig, Genua, Ceylon usf. kein souveränes Volk mehr sei, seitdem sie aufgehört haben, eigene Fürsten oder oberste Regierungen für sich zu haben.

国民主権とは、大英帝国の国民のように、一般に外部に対して独立した存在であって、一つの固有の国家を構成する国民という意味において言われうるが、しかし、イングランドやスコットランド、アイルランド、あるいはヴェネツィア、ジェノバ、セイロンなどの民族は、彼らが自分たちの君公や最高政府を独立して持つことを廃してからは、もはや主権をもった民族ではないといえる。

- Man kann so auch von der Souveränität  nach  innen  sagen, daß sie im Volke residiere, wenn man nur überhaupt vom Ganzen spricht, ganz so wie vorhin (§ 277, 278) gezeigt ist, daß dem Staate Souveränität  zukomme. Aber Volkssouveränität, als im Gegensatze  gegen  die  im  Monarchen  existierende  Souveränität  genommen, ist der gewöhnliche Sinn, in welchem man in neueren Zeiten von Volkssouveränität zu sprechen angefangen hat, - in diesem Gegensatze gehört die Volkssouveränität zu den verworrenen Gedanken, denen die wüste Vorstellung des Volkes  zugrunde liegt.

⎯⎯  また対内主権についても、もしただ一般的にのみ全体について語るなら、主権が国家に帰することを、先述した中で(§277、278)示したのと全く同じように、国民のなかに主権が存するということができる。しかし、国民主権は、君主のうちに存在する主権に対立するものとして受け取られているのが、一般的な意味であり、近代において国民主権について語り始められたのはそうした意味においてである。⎯⎯(しかし) こうした(君主の主権と)対立したものという意味では、国民主権は、"国民"という漠然とした観念の根底に存在している混乱した思想に帰着してしまう。

 

ヘーゲルが原典でイタリックにして強調している用語については、いちいちイタリックにしたり「”   ”」で強調することはできません。

「国民主権」はいうまでもなく現行日本国憲法の原理の一つとされているけれど、ここでもヘーゲルが指摘しているように、君主の主権と対立したものという意味で用いられている「国民主権」というこの抽象的概念がもっている問題点については深く批判的に検証してゆく必要があると思います。

 

※ご参考までに

国民とは誰のことか

 

 

 
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6月18日(月)のつぶやき

2018年06月19日 | ツイッター
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§279e[神的な概念としての君主]

2018年06月18日 | 法の哲学

 

§279e[神的な概念としての君主]

 

- Der Begriff des Monarchen ist deswegen der schwerste Begriff für das Räsonnement, d. h. für die reflektierende Verstandesbetrachtung, weil es in den vereinzelten Bestimmungen stehenbleibt unddarum dann auch nur Gründe, endliche Gesichtspunkte und das Ableiten aus Gründen kennt. So stellt es dann die Würde des Monarchen als etwas nicht nur der Form, sondern ihrer Bestimmung nach Abgeleitetes dar; vielmehr ist sein Begriff, nicht ein Abgeleitetes, sondern das schlechthin aus sich Anfangende zu sein. Am nächsten trifft daher hiermit die Vorstellung zu, das Recht des Monarchen als auf göttliche Autorität gegründet zu betrachten, denn darin ist das Unbedingte desselben enthalten. Aber es ist bekannt, welche Mißverständnisse sich hieran geknüpft haben, und die Aufgabe der philosophischen Betrachtung ist, eben dies Göttliche zu begreifen.

― それゆえに、君主の概念は、推論(単なる理由づけdas Räsonnement) にとって、すなわち反省的な悟性的考察にとっては、もっともむずかしい概念である。なぜなら、推論は切り離された個々の規定のうちにのみ立ちどまり、そして、それゆえにその時もまた、ただの根拠のみを、限界のある観点と根拠からの導出のみを知るにすぎないからである。そうして推論は、君主の尊厳を、ただ形式のみではなく、そうではなく、その使命 ihrer Bestimmung においても派生したものから導き出されたあるものとして描き出す。(しかし)むしろ、君主の概念は、派生したようなものではなく、そうではなく、絶対的に自己から始まるものであらねばならない。したがって、ここでこれにもっとも近い考えとは、君主の法(権利)を神的な権威のうえに据えられたものとして考えることである。なぜなら、君主には絶対的に無条件なものそのものが含まれているからである。しかし、この考え自体がどれだけ誤解されてきたかは、よく知られていることである。そして、哲学的な考察の課題とするところは、まさに、この神的なものを理解することである。

ヘーゲル哲学が神学でもあることはよく知られている。君主は派生したもの、手段などではなく、それ自体を目的とする無条件の存在であるということ。したがって、ヘーゲル哲学のみがもっともよく君主の概念を理解しうるという自負か。
 
 
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§279d[国家の人格性の現実としての君主]

2018年06月15日 | 法の哲学

§279d[国家の人格性の現実としての君主]

- Eine sogenannte moralische Person, Gesellschaft, Gemeinde, Familie, so konkret sie in sich ist, hat die Persönlichkeit nur als Moment, abstrakt in ihr; sie ist darin nicht zur Wahrheit ihrer Existenz gekommen; der Staat aber ist eben diese Totalität, in welcher die Momente des Begriffs zur Wirklichkeit nach ihrer eigentümlichen Wahrheit gelangen.

⎯ 一個のいわゆる法的な人格、会社、公共団体、家族など、それらはそれ自体においてどんなに具体的であっても、人格性をその中に抽象的に、ただ要素Momentとしてのみもっているにすぎない。それら(人格性)はそこでは、その存在の真理には至ってはいない。国家は、しかし、その内において概念の諸要素が、それらに固有の真理にしたがって現実性に達したところの、まさにこうした総体性である。

- Alle diese Bestimmungen sind schon für sich und in ihren Gestaltungen im ganzen Verlauf dieser Abhandlung erörtert, aber hier darum wiederholt worden, weil man sie zwar in ihren besonderen Gestaltungen leicht zugibt, aber da sie gerade nicht wieder erkennt und auffaßt, wo sie in ihrer wahrhaften Stellung, nicht vereinzelt, sondern nach ihrer Wahrheit, als Momente der Idee vorkommen.

⎯ これらの諸規定のすべては、それ自体(概念規定)についても、そしてその(具体的な)形態においても、この論考の全過程において、すでに論じられている。しかし、ここで再び繰り返す理由は、人は確かにそれらの特殊な形態においては(これらの諸規定のすべてを)容易に認めるのに、しかし、それらが真の位置におかれてバラバラにされずに、そうではなくて、その真理にしたがって理念の要素として立ち現れてくるところでは、そこでは直ちにふたたび認識も理解もしないからである。


国家の要素die Momenteとして、司法や行政、立法などの機関については容易に人は理解するのに、君主(元首)についてはその意義についてはなかなか認識も理解もされない、ということだろうか。

 
 
 

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§279c[国家の人格性の現実としての君主]

2018年06月12日 | 法の哲学

 

 §279c[国家の人格性の現実としての君主]

- Die Persönlichkeit und die Subjektivität überhaupt hat aber ferner, als unendliches sich auf sich Beziehendes, schlechthin nur Wahrheit, und zwar seine nächste unmittelbare Wahrheit als Person, für sich seiendes Subjekt, und das für sich Seiende ist ebenso schlechthin Eines.
Die Persönlichkeit des Staates ist nur als eine Person, der Monarch, wirklich. - Persönlichkeit drückt den Begriff als solchen aus, die Person enthält zugleich die Wirklichkeit desselben, und der Begriff ist nur mit dieser Bestimmung Idee, Wahrheit.


⎯ 人格性と主体性とは、しかし一般的にそれ以上に、自己を自己に無限に関係させるものとして、絶対的にただ真理のみをもっている。そして、同時に人格としてはさらにより直接的な真理であり、自立的に存在する主体であり、そして、その自立的に存在するものは、また絶対的に一者である。
国家の人格性はただ一人の人格としてのみ、君主(元首)としてのみ現実的である。
⎯ 人格性は、そのようなものとしての概念を表現する。人格は同時に現実性そのものを含んでいる。そして、概念はただこの規定(現実性)をともなってのみ理念であり、真理である。

 

 

 
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§279b[国家の個体性としての君主]

2018年06月11日 | 法の哲学

 

 

§279b[国家の個体性としての君主]


Die immanente Entwicklung einer Wissenschaft, die Ableitung ihres ganzen Inhalts aus dem einfachen Begriffe (sonst verdient eine Wissenschaft wenigstens nicht den Namen einer philosophischen Wissenschaft) zeigt das Eigentümliche, daß der eine und derselbe Begriff, hier der Wille, der anfangs, weil es der Anfang ist, abstrakt ist, sich erhält, aber seine Bestimmungen, und zwar ebenso nur durch sich selbst, verdichtet und auf diese Weise einen konkreten Inhalt gewinnt.

科学の内在的な展開とは、単純な概念から、その全体の内容を導出することである(でなければ、その科学は少なくとも哲学的な科学の名前に値するものではない)が、それはつぎのような独自性を示すことである。すなわち、一個の同じ概念が、ここでは意志であるが、はじめは抽象的であり、というのも、それは始元であるからだが、自らを保ちつつ、しかし、その規定を、それも確かに同じく自己自身を通してのみ圧縮して、そしてこの仕方で具体的な内容を手に入れるのである。

  - dieses Letzte, was alle Besonderheiten in dem einfachen Selbst aufhebt, das Abwägen der Gründe und Gegengründe, zwischen denen sich immer herüber und hinüber schwanken läßt, abbricht und sie durch das "Ich will" beschließt und alle Handlung und Wirklichkeit anfängt.

この最後のものは、すべての特殊性を単純な自己のうちに揚棄して、理由とその反論を思料してそれらの間をあちらこちらへとつねに動揺させるものを断ち切り、そして、「我れ決す」ということを通して決断し、そこですべての行為と現実化がはじまる。

 

ここにも、ヘーゲルの科学観が述べられている。科学(die  Wissenschaft= die philosophischen Wissenschaft)の内在的な展開とは、単純な概念そのものから始まって、その全体の内容を導出、演繹してゆくことである。

 

 

 

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6月8日(金)のTW:§ 279[国家の個体性としての君主]

2018年06月09日 | ツイッター
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§ 279a[国家の個体性としての君主]

2018年06月08日 | 法の哲学

 

 

§ 279[国家の個体性としての君主]

2. Die Souveränität, zunächst nur der allgemeine Gedanke dieser Idealität, existiert nur als die ihrer selbst gewisse Subjektivität und als die abstrakte, insofern grundlose Selbstbestimmung des Willens, in welcher das Letzte der Entscheidung liegt.
Es ist dies das Individuelle des Staats als solches, der selbst nur darin einer ist. Die Subjektivität aber ist in ihrer Wahrheit nur als Subjekt, die Persönlichkeit nur als Person, und in der zur reellen Vernünftigkeit gediehenen Verfassung hat jedes der drei Momente des Begriffes seine für sich wirkliche ausgesonderte Gestaltung. Dies absolut entscheidende Moment des Ganzen ist daher nicht die Individualität überhaupt, sondern ein Individuum, der Monarch.

2.さしあたっては、ただ、この観念性の一般的な思想に過ぎない主権 Die Subjektivität は、ただ単に自分自身を確信する主体性として、そして抽象的な、その限り根拠もない意志の自己規定として存在するのだが、そこに決断する最終権者が存在する。

それが、そのなかに自己一者のみが存在するという、国家の個体性というものである。主体性は、しかし、主体としてのみ、人格性は人格としてのみ真理のうちにある。真実に理性的なものへと発展した国家体制(憲法)においては、それぞれ概念の三つの要素der drei Momenteは、それぞれみずからを実現した別々の形態を持っている。したがって、この絶対的な決定をなす全体の要素は、個別性一般ではなく、そうではなく、一個の個人であり、君主である。

 

個別性が個別性一般のままであっては、いまだ真理ではない。個別性は個体にまで具体化してゆく。国家の個体性は具体的な君主において実現される。

 
 
 

 

 
 
 

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