夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

ニーチェとキリスト教

2005年11月01日 | 哲学一般
 

                   
ニーチェは激烈なキリスト教批判者として知られている。  私もそのように聞いている。しかし、ニーチェがどのようにキリスト教を批判しているのか、その実際は不勉強のためにほとんど知らない。私はニーチェを自分の先生に選んだわけでもなく、また、限られたわずかな人生の時間の中で、ニーチェの研究にまでは到底手は回らない。

日本では西尾幹二氏らがニーチェ研究家として知られているようである。結局、どのような思想や哲学に興味と関心を持つか、そこにはおのずと個人の根本的な個性の本能的な選択が働くようである。興味や関心が持てなければ縁がなかったのだとあきらめざるを得ない。今に至るまでニーチェのような思想家に本質的な関心と興味を持てなければ仕方がないと思っている。

ニーチェの思想はキリスト教との対決と批判から生まれたと言う。ニーチェは代々の牧師の家系に生を享けたと聞いているし、また、ドイツ人は紛れもなきキリスト教民族である。私のように多かれ少なかれ青少年期からキリスト教にあるいは聖書に事実として関心を持ってきた者には、ニーチェのような思想家は、余りにもキリスト教的な土壌からしか生まれなかったことだけは理解できるように思う。共産主義と同様に、ニーチェのような思想は日本などからは生まれるはずはないのだ。

もっとも良いものは、もっとも悪いものである。もっとも純潔なものはもっとも腐りやすいものである。最善のものは最悪のものである。もっとも美しいものはもっとも醜いものである。もっとも優しいものはもっとも冷酷なものである。多少なりとも弁証法を聞きかじっている私にとって、キリスト教もまた、余りにキリスト教的なドイツにおいて、このような弁証法的な運命を辿ったことは容易に推測がつく。だから、ニーチェがキリスト教を最悪の「価値」として攻撃したことは、およそのところ推測できると思っている。劇薬は慎重に扱われなければならないのである。キリスト教と言えども、それは、いつでも容易に最悪の迷信や狂信に転化しうる。イエスもそのことを予測してか、繰り返し、「私に躓かないものは幸いである」と警告している。キリスト教がわが日本においてもドイツと同じような運命を辿らないとは誰も言うことができない。

コメント (1)
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