夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第四十一節[自己に対する義務]

2022年01月31日 | ヘーゲル『哲学入門』
I. Pflichten gegen sich
 I.自己に対する義務
 
§41
 
Der Mensch als Individuum(※1) verhält sich zu sich selbst. Er hat die gedoppelte Seite seiner Einzelheit und seines allgemeinen Wesens(※2). Seine Pflicht gegen sich ist insofern teils seine phy­sische Erhaltung; teils, sein Einzelwesen zu seiner allgemeinen Natur zu erheben, sich zu bilden.(※3)
 
第四十一節[自己に対する義務]
 
人間は個人として自己を自己自身にかからわせる(自己を意識する)。人間は 個別的な 存在 という面と 普遍的な 存在 という二重の側面をもっている。その限りにおいて人間の自己に対する義務とは、一面においては自身の身体を保全することであり、他面においては、自分自身を教育して自己を個別存在から普遍的な性格へと高めることである。
 
Erläuterung.
説明
 
Der Mensch ist einerseits ein natürliches Wesen. Als solches verhält er sich nach Willkür und Zufall, als ein unstätes, subjektives Wesen. Er unterscheidet das Wesentliche nicht vom Unwesentlichen. — Zweitens ist er ein geistiges, ver­nünftiges Wesen. Nach dieser Seite ist er nicht von Natur, was er sein soll. Das Tier bedarf keiner Bildung, denn es ist von Natur, was es sein soll. Es ist nur ein natürliches Wesen.
 
人間は一面においては自然的な存在である。そうしたものとして、人間は不安定で主観的な存在として、恣意と偶然から行動する。(自然的な存在としての)人間は本質的なものを非本質的なものから区別しない。⎯⎯⎯ 第二に、人間は精神的な、理性的な存在である。この側面から見れば、生まれつきから人間はあるべき姿にはない。(それに対し)動物は生まれつきからすでにあるべき姿にあるから、なんら教養を必要としない。動物はただに一個の自然的な存在にすぎない。
 
Der Mensch aber muss seine gedoppelte Seite (※4)in Übereinstimmung bringen, seine Einzelheit seiner vernünftigen Seite gemäß zu machen oder die letztere zur herrschenden zu machen. Es ist z. B. ungebildet, wenn der Mensch sich seinem Zorne überlässt und blind nach diesem Affekt handelt, weil er darin eine Beleidi­gung oder Verletzung für eine unendliche Verletzung ansieht und sie durch eine Verletzung des Beleidigers oder anderer Ge­genstände ohne Maß und Ziel auszugleichen sucht.
 
しかし、人間はその二重の側面を一致させるようにしなければならず、人間の個別性を理性的な側面に合致させるようにするか、あるいは、後者(理性的な側面)を優越させなければならない。たとえば、人間が怒りに 身を任せて、そのために盲目的に行動するようなら、それは教養がないということである。というのも、彼はそこで受けた侮辱や傷害を一つの無限の損傷のように見なし、そして、犯罪者を傷つけることで、あるいは際限や目的もなく他の対象物によって償わせようとするからである。
 
— Es ist ungebildet, wenn einer ein Interesse  behauptet, das ihn nichts angeht oder wo er durch seine Tätigkeit nichts bewirken kann; weil man verständigerweise nur das zu seinem Interesse machen kann, wo man durch seine Tätigkeit etwas zu Stande bringt. — Ferner wenn der Mensch bei Begegnissen des Schicksals unge­duldig wird, so macht er sein besonderes Interesse zu einer höchst wichtigen Angelegenheit, als etwas, wonach sich die Menschen und die Umstände hätten richten sollen.(※5)
 
⎯⎯⎯ 或る者が自分とは何の関わりもないことに、あるいは自分の行動によって実現したのでもないようなことに利害 を主張したりするとすれば、それは無教養である。というのも、人はただ自分の行動によって実現した場合にのみ、合理的な仕方で自分の利害を主張することができるだけだからである。⎯⎯⎯ さらに、人は運命の遭遇に耐えられなくなった 場合には、人々や周辺こそが自分に従うべきものであるかのように考え、自分の特殊な利害をさも重要な案件であるかのように主張する。
 

※1
Individuum 個人、周知のように原意は「分割できないもの」 
ヘーゲルの人間観の歴史的な意義は「意識の自己内分裂」を定式化し、その意義を自身の哲学で論証したことである。
人間は個人として自己を自己に関係させる存在である。そうして人間は自己を意識し、自我をもつことになる。
 
※2
Wesen 本質、存在

※3
人間は肉体と精神からなる。したがって、人間の自己に対する義務とは、自己の身体に対する義務と精神に対する義務である。
「精神」については、のちに第二課程において「精神の現象と意識の学」として論じられる。
 
※4
gedoppelte Seite 二重の側面
(第三十九節の註解※2  の「Doppelwesen. 二重の存在(本質)」の説明を参照)
 
※5
人間は教育を受けて教養を積んでこそあるべき姿になる。生まれついての自然のままでは、恣意と偶然にしたがって行動して理性的な行為ができない。ルソーの「自然人」の虚構とは異なってヘーゲルの人間観は性悪説の立場に立つ。
 
 
 
 
 
 
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ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第四十節[人間の義務について]

2022年01月28日 | ヘーゲル『哲学入門』

§40

Der Mensch hat: 1) die wesentliche Bestimmung,(※1) ein Einzelner zu sein; 2) gehört er einem natürlichen Ganzen, der Familie, an; 3) ist er Glied(※2) des Staates; 4) steht er in Verhältnis zu anderen Menschen überhaupt. — Die Pflichten teilen sich daher in vier Gattungen: 1) in Pflichten gegen sich; 2) gegen die Familie; (※3)3) gegen den Staat und 4) gegen andere Menschen überhaupt.(※4)

第四十節[人間の義務について]

人間は、1)個人であることが存在としての宿命である。2)人間は一つの自然な総体に、つまり家族に属している。3)人間は国家の成員である。4)人間はあまねく他の人間との関係に立つ。 ⎯⎯⎯ したがって、義務は四つの種類に分かれる。1) 自己に対する義務。2)家族に対する義務。 3) 国家に対する義務、そして、 4) 他の人間一般に対する義務。


※1
die wesentliche Bestimmung,「存在としての宿命」と訳した。ふつう「本質的な規定」とも訳される。

※2
Glied 手足、肢体。 国家を有機体として捉えるとき、人間(個人)は国家の肢体である。

※3
「個人 → 家族 → 市民社会 → 国家」 と展開されるヘーゲルの『法の哲学』の構成から言えば、ここに市民社会における義務が来るはずであるが、ヘーゲルは項目を立てていない。しかし、実質的には職業における義務として第四十四節以下に論じている。

※4
自己に対する義務から始めているところがヘーゲルらしい。




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ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第三十九節 [道徳と職業(特殊性)]

2022年01月24日 | ヘーゲル『哲学入門』

§39

Die Triebe und Neigungen sind: 1) an sich betrachtet, weder gut noch böse, d. h. der Mensch hat sie unmittelbar als Natur­wesen. 2) Gut und böse sind moralische Bestimmungen und kommen dem Willen zu. Das Gute ist das der Vernunft Ent­sprechende. 3) Triebe und Neigungen können aber nicht ohne Beziehung auf den Willen betrachtet werden. Diese Beziehung ist nicht zufällig und der Mensch kein gleichgültiges Doppelwesen.

第三十九節[道徳と職業(特殊性)]

衝動と性癖は、1)それ自体としてみれば、善でも悪でもない。すなわち、人間は衝動と性癖を直接に生まれつきの自然本性としてもっている。2)善と悪は道徳的な規定であり意志に帰する。善は理性にかなったものである。3)しかし、衝動と性癖は意志との関係なくしては考えられない。この関係は偶然ではなく、人間は決して(意志と衝動や性癖とが)切り離された二重の存在ではない。

Erläuterung.

説明

Die Moralität hat den Menschen in seiner Beson­derheit zum Gegenstande. Diese scheint zunächst nur eine Menge von Mannigfaltigkeiten zu enthalten, das Ungleiche, was die Menschen von einander unterscheidet. Wodurch aber die Menschen von einander unterschieden sind, ist das Zufälli­ge, von der Natur und äußeren Umständen Abhängige. Im Be­sondern ist aber zugleich etwas Allgemeines enthalten. Die Be­sonderheit des Menschen besteht im Verhältnis zu andern. In diesem Verhältnis sind nun auch wesentliche und notwendige Bestimmungen. Diese machen den Inhalt der Pflicht aus.

道徳性は人間をその特殊性において対象とする。
このことは、さしあたっては、多様性の集合体のようにも見える。その中には人間を互に区別する不平等を含みもっている。しかし、人間を互いに区別するのは偶然性によってであり、その偶然は生まれつきと外部の環境に依存している。しかし、特殊性の中には同時に普遍的なものが含まれている。人間の特殊性は他者との関係の中にあるのであって、この関係の中にこそ、なおまた本質的にしてかつ必然的なさまざまな使命があり、これらが義務の内容を成している。

 

(※1)
Neigungen  性癖 と訳した。偏向、性向、傾向、気質などと訳される。「無くて七癖」

(※2)
kein gleichgültiges Doppelwesen.
gleichgültiges  切り離された
Doppelwesen.  二重の存在(本質)

この個所を岩波文庫版の訳者である武市健人氏は「人間は二つを無関係にもつ両棲存在ではないのである」と訳している。
しかし、「Doppelwesen. 二重の存在(本質)」を「両棲存在」と訳しても、その意義は十分に明らかにならないのではないか。

「Doppelwesen. 二重の存在(本質)」とは、人間の意識の自己内分裂とその結果として必然的に生じる意識の二重化(自意識)のことである。そのために、人間は生まれつきの衝動や性癖についても自らの意志と関係させ意識化するのである。

この訳文から見ても武市健人氏には、ヘーゲル哲学の根本的な功績である「意識の自己内分裂」についての核心的な認識を十分に確立し得ていなかったことがわかる。

(※3)
Bestimmungen.
ここでは義務の内容を構成するところの「Bestimmungen」だから、「使命」と訳した。Bestimmungen. については、これまでもさまざまに考察している。

ヘーゲル『哲学入門』序論 四[意志と行為] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/CJm6Ff  など。

(※4)
この節では「人間の特殊性 Die Be­sonderheit」が主題になっているが、具体的には「職業」のことを考えればいいと思う。
職業は多様であり、そこにはさまざまな区別と不平等がある。職業は生まれつきや外部の環境によって決定される偶然的なものであるが、職業の特殊性には普遍的なものが含まれてある。

 


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ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第三十八節 [理性と衝動について]

2022年01月17日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

§38

Die Vernunft  hebt die Unbestimmtheit auf, welche das ange­nehme Gefühl in Ansehung der Gegenstände hat, reinigt den Inhalt der Triebe von dem Subjektiven und Zufälligen und lehrt in Rücksicht auf den Inhalt das Allgemeine und Wesentliche des Begehrenswerten kennen, in Rücksicht auf die Form oder Gesinnung aber das Objektive oder das Handeln um der Sache selbst willen.

第三十八節[理性と衝動について]

理性 は(衝動が)対象について感じる快感の不確実性を取り去り、衝動の内容から主観的で偶発的なものを取り除く。そして、その内容については、普遍的なもの、および 欲望に値するだけの本質的なもの について認識することを教える。そして、形式もしくは心情をためには、しかし、客観的なもの、あるいは事柄それ自体のために行為することを教える。

Erläuterung.

説明

Zunächst geht der Verstand oder die Reflexion über das unmittelbare Vergnügen hinaus, verändert aber den Zweck oder das Prinzip nicht. Sie geht insofern nur über das einzelne Vergnügen hinaus, vergleicht die Triebe mit einander und kann also den einen dem andern vorziehen. — Indem sie nicht auf das Vergnügen als Einzelnes, sondern auf das im Ganzen geht, beabsichtigt sie Glückseligkeit. Diese Reflexion bleibt noch innerhalb des subjektiven Principes stehen und hat das Vergnügen noch zum Zwecke, aber nur das größere, viel­fachere.

さしあたって、悟性もしくは反省は、直接的な満足については克服してゆくけれども、しかし、目的や原則については変えることはない。それらはただ、個人的な 満足を克服する限りにおいては衝動を互いに比較し、だから一方を他方よりも好むこともできる。--悟性や反省は、個人としての満足ではなく全体の 満足をめざすかぎりにおいては、幸福を目的としている。この反省はいまだ主観的な原則のうちに立ちとどまっており、なお満足を目的としているが、しかしただそれは、より大きな、多面的な満足を目的としているにすぎない。

Indem sie Unterschiede im Vergnügen macht und über­haupt an allen verschiedenen Seiten das Angenehme sucht, ver­feinert sie das Rohe, Wilde und bloß Tierische des Vergnügens und mildert die Sitten und Gesinnungen überhaupt. Insofern also der Verstand sich mit den Mitteln, Bedürfnisse überhaupt zu befriedigen, beschäftigt, erleichtert er dadurch diese Befriedi­gung und erhält dadurch die Möglichkeit, sich höheren Zwecken zu widmen.

悟性と反省とは、満足のうちにさまざまな区別をつけ、そして一般的に、すべての区別された側面の上に好ましいものを求めることによって、反省は、洗練されない野生的なもの、そして単に動物的な満足にすぎないものを 純化し、そうして倫理や心情一般を和らげる。

— Auf der anderen Seite macht diese Verfeinerung der Vergnügungen den Menschen weichlicher indem er seine Kräfte auf so vielerlei Gegenstände verwendet, und sich so man­nigfaltige Zwecke macht, welche durch das Unterscheiden ihrer verschiedenen Seiten immer kleiner werden, so wird seine Kraft überhaupt geschwächt, sich auf das Wesentliche mit seinem ganzen Geist zu richten. Wenn der Mensch das Vergnügen zum Zweck macht, so hebt er durch diese Reflexion den Trieb auf, darüber hinauszugehen und etwas Höheres zu tun. Das Vergnügen ist unbestimmt in Ansehung des Inhalts, weil es bei allen Gegenständen statt finden kann. Es kann bei ihm also insofern kein objektiver Unterschied, nur ein quantitativer gemacht werden. Der Verstand, die Folgen berechnend, zieht das größere dem kleineren vor.

他の側面において、この満足の洗練は人間をより柔弱にする。というのも人間は彼の力を多くの異なった対象に用いることによって、そして非常に多様な目的を作るから、彼らの力を様々な側面に区別することになり、その結果、彼の全精神をもって本質的なものに振り向けるはずの彼の力は一般的に弱められる。もし人間が満足を目的とする場合には、この反省によって衝動を捨て去り、それを乗り越えてさらに向こうへ進もうとし、そしてより高い何かを成し遂げようとする。(しかし)満足は全ての対象物に見出せるものであるから、満足の内容という点に関しては確定していない。だから満足においては何ら客観的な区別がなく、ただ一つの量的な 区別がなされるのみである。結果を打算に入れる悟性は、少ない満足よりも多い満足をより好む。

Die Vernunft hingegen macht einen qualitativen Unterschied, d. h. einen Unterschied in Ansehung des Inhalts.(※1) Sie zieht den würdigen Gegenstand des Vergnügens dem nichtswürdigen vor. Sie lässt sich also auf eine Vergleichung der Natur der Gegen­stände ein. Insofern betrachtet sie nicht mehr das Subjektive als solches, nämlich das angenehme Gefühl, sondern das Objektive. Sie lehrt also, was für Gegenstände der Mensch um ihrer selbst willen zu begehren hat. Bei dem Menschen, dem seiner allge­meinen Natur halber so unendlich mannigfaltige Quellen des Vergnügens offen stehen, ist überhaupt die Richtung auf das Angenehme täuschend und er lässt sich durch diese Mannigfal­tigkeit leicht zerstreuen, d. h. von einem Zweck abbringen, den er zu seiner Bestimmung machen sollte.

それに対して理性は 質的な 区別を行う。すなわち、その内容に関して区別をつける。
理性は満足についても価値のないものよりも価値のある満足の対象の方を優先する。だから理性は対象の本性をそれぞれ比較することについて 自らこだわる。この点で、理性はもはや主観的なもの、つまり快適な感覚(満足)ではなくて、客観的なものについて考える。理性はだから人間の(満足の)対象として何を自分自身のために欲求すべきかを教える。人間の一般的な本性として満足の源泉が無限に多様に開かれてある人間の場合には、一般的に快楽への志向は気まぐれであり、人間はこの多様性によって容易に気を散らされる。 言い換えれば、人間が自らの使命を果たさなければならない一つの目的から外らせてしまう。

Der Trieb des Angenehmen kann mit der Vernunft übereinstim­men, d. h. dass beide den nämlichen Inhalt haben, dass die Ver­nunft den Inhalt legitimiert. — In Ansehung der Form handelt der Trieb um des subjektiven Gefühls willen oder hat das An­genehme des Subjekts zum Zweck. Bei der Handlung um eines allgemeinen Gegenstandes willen ist das Objekt selbst der Zweck. Hingegen der Trieb des Angenehmen ist immer eigen­süchtig.(※2)

快楽への衝動が理性と一致することはありうる。すなわち、快楽と理性の両方が同じ内容をもっていること、理性がその内容を正当化していることで、一致することはありうる。⎯⎯⎯⎯ 形式の観点からすれば、衝動は主観的な感情のために、あるいは主観的な快楽を目的としてふるまう。
普遍的な対象のために行為する場合においては、客観それ自体が目的である。それに対して、快楽への衝動はつねに利己的である。

 

※1

第三十六節以下の「衝動」や「満足」の概念が演繹されるところから、ヘーゲルはVernunft 理性と  Verstand 悟性 の違いを明確に打ち出してくる。

ヘーゲルが自身の生涯を「悟性に対する理性の戦い」と称したように、ルソーやカントに代表される啓蒙哲学の特質である「悟性的思考」のもたらすその悲惨な現実、その論理的な帰結に対してヘーゲルは「理性的思考」をもって戦おうとした。

 ※2

いずれにしても、「理性 Vernunft」はヘーゲル哲学における根本概念である。したがってヘーゲル哲学の意義と限界についても、この「ヘーゲル理性」批判をめぐって行われることになるはずである。

 

ヘーゲル『哲学入門』第一章 法 第六節 [法における強制と自由] - 夕暮れのフクロウ https://cutt.ly/IIW0LZG

ヘーゲル『哲学入門』第一章 法 第五節 [法における理性] - 夕暮れのフクロウ https://cutt.ly/zIW0VAZ

 

 

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