フィヒテの主観的観念論
しかし、カントもフィヒテも、我々にないものは我々に何のかかわりもないということによって、いずれも主観的観念論にとどまった。(岩波全集哲学史下三(p134))
カントは認識を樹立し、フィヒテはカントの認識によって知を樹立する。意識の本性は知にあり、哲学の目的はこの知についての知を得ることである。意識とは活動する自我でもあり、だから哲学は意識についての意識でもあった。しかし、この自我がもろもろの対象や利害と係わりながら生み出すさまざまの規定とその必然性は、彼らにあっては意識の彼方にあるものである。ibid(p135)
カントの認識にしたがって知を樹立したフィヒテによると、学とは知の内容と形式を表現する最高の原則に基づく認識の体系であるとされる。こうしてフィヒテ哲学はカントを乗り越えて、ヘーゲル哲学の準備となった。
だが、この体系の端緒は何か。それは絶対的に根本的な最初のものであるから、証明もされなければ規定もされるものでもない。それは、近代哲学の祖、デカルトの出発点、「我思う。ゆえに我あり」である。しかし、カントと同様にフィヒテにおいても、この自我は主観的なものにとどまった。
フィヒテもまた、我は我なり、というこの第一の原則の同一律から出発する。そして、第二の原則として、自我に非我を対置しはするが、フィヒテにあってはこの非我は、自我すなわち絶対的な自意識とは別のものされている。そのことによって、第二の原則はフィヒテにあっては第一の同一律から演繹されないという誤りを犯すことになる。
フィヒテは自我に対して、非我を自我とは別個のものとして対置する。だからフィヒテの自我は、内在的に進展することによって非我を総合するという第三の立場へとは進まず、自我と非我とは悪無限的に対立し、真の無限に達しない。それに対し、ヘーゲルにあってはこの非我は、対象一般であって自我から独立してはいるが、自我に属してもいる。この非我は自我を否定し制限するものであると同時に、自我もまた、非我を規定し制限する。このようにして、ヘーゲルもまた、自我の自己内分裂という特質を捉えるが、この非我を自我に内在的なものとして捉えることによって、総合する立場に進む。このようなものとして、自我そのものを無限とする。ここにフィヒテ哲学との違いがある。
この自我の内部で、自我と非我との関係が進展してゆく。まず第一の進展は理論的な進展である。ある物の実在は非我として、自我のなかに規定される。一方、自我は、対象のすべての表象の観念的な根拠であり、この対象を規定するのは自我である。さらに、自我そのものが、自己を自我意識を分析する能力をもっている。Ibid(p145)
しかし、フィヒテの自我は、客観を非我を自らの表象として捉えるから、カントの物自体のように、空虚な抽象が自我の外部に取り残されて、主観的な観念論にとどまる。このようにヘーゲルはフィヒテの理論における立場を批判する。ibid(p148)