レバノンからも砲撃「南北から挟み撃ち」 イスラエルに衝撃(産経新聞) - goo ニュース
イスラエルとパレスチナの罪――人類の原罪
戦争というものは、その当事者のどちらが悪いどちらが善人であるとかというような論争をしても、多くの場合不毛である。現実の世界史においては、敗者は悪人にされ、勝者が善人になる。このことは、日本の歴史でかって戦われた戦争であれ、人類の発生以来に世界中で戦われた戦争であれ、また先の太平洋戦争や現に行われているパレスチナとイスラエルの間の戦争でも本質的には同じである。
2008年末からのガザ地区への侵攻をイスラエルは、ハマスのロケット攻撃から身を守るための自衛のためであると言い、一方のハマスは、イスラエルの建国の結果として、自分たちが難民として悲惨な境遇に追いやられている被害者であると主張しイスラエルの存在自体を認めようとしていない。
民族や国家の間に起きる戦争は、また、たとえ同じ民族の間に生じた戦争であっても、それは正義や善悪を動機として行われるものではなく、利害をめぐって戦われるのが普通である。近代になればなるほど、戦争の道徳的な性格は高まってくるが、古代においては、その戦争の多くは文字通りのむき出しの略奪や支配など利益をめぐって行われたものである。いや、現代においてもなお、国家や民族のあいだに行われるほとんどの戦争というものは、利害対立をめぐって行われる。そこで掲げられる正義というものは互いの利害を隠すための標識にすぎない。世界史の舞台は今もなおライオンが子鹿に襲いかかるような、弱肉強食の世界である。
かって13世紀のユーラシア大陸において、モンゴル帝国のチンギス・ハーンが、東欧やロシア、中国、中東さらに日本にいたるまで、東西にわたって繰り広げた略奪と虐殺の侵略の歴史などはその最たるものといえる。
現在のパレスチナ・イスラエルのあいだの戦争も、3、4000年もの昔からその因縁を引きずっている。聖書の創世記の時代からすでにその起源はある。
聖書によれば現在のパレスチナの土地は神がアブラハムに約束された土地であり、アブラハムは父のテラといっしょにバビロニアのウルを出発して以来、この地ペリシテ人の国にようやくたどり着いて寄留し、やがてそこに定着したものである(創世記第二十章以下)。しかし、とうぜんそこに先住民がすでに住んでいたし、そこで命の綱である水の湧き出る井戸をめぐって争いも起きた。
やがてアブラハムの子孫はそのカナーン地方に定着したが、アブラハムの子孫であるヨセフは飢饉が起きたためにエジプトに逃れる。ヨセフの一族はそこで栄えるがエジプトのファラオの圧迫を受けて奴隷の境遇に置かれることになる。その同胞を解放したのがモーゼであり、彼はふたたび先祖であるアブラハムに約束された土地に彼らを連れて帰る。すでにその時にはカナン人が住んでいたが、それをモーゼの跡を引き継いだヨシュアは、先住民を追い払ってそこに住む。ダビデ、ソロモンの王の時代に民族としての全盛期を迎えるが、それもやがてバビロニアの王国に滅ぼされ、この民族は俘囚の身となって連れ去られる(エレミヤ書)。
歴史的にもヘブライ民族はディアスポーラとして全世界に離散してゆく運命にある。それがほぼ2000年にわたって続くが、20世紀のドイツで行われたヒトラーのホロコーストをきっかけに、ユダヤ人はシオニズム運動により1948年にパレスチナの地にユダヤ人の国家イスラエルを建国する。歴史の眼からすればそれもつい最近のことである。
ユダヤ人が全世界を流浪していた間にも、パレスチナの地では、彼らの子孫とともに多くのイスラム教徒やキリスト教徒たちが先住民として住んでいた。しかし、イスラエルの建国とともに、彼らの多くが難民としての境遇におちいることになる。歴史的に見れば、パレスチナ人もイスラエル人もいずれもが加害者であり被害者でもある。
今日の国家としてのイスラエルは、その本質はユダヤ教徒の国家である。この民族の数千年にわたる全世界の流浪によって、セム系民族としての血統的なアイデンティティはほぼ失われており、現在はただユダヤ教徒であることが唯一の「民族」のアイデンティティとなっている。その意味で国家としてのイスラエルの存在は聖書の神の実存についての歴史的な存在証明でもある。
また、この神は三位一体の神としてアメリカの建国を導いた神でもある。その意味で、キリスト者はアメリカもイスラエルもいずれについても、国家としての神の実存の証明として、その歴史的な存在の必然性を注視せざるをえないものである。
戦争が人間にとって悲惨な出来事であることは、今も昔も変わりはない。なくて良いものに戦争ほどのものはない。それにもかかわらず、人類の歴史と戦争の歴史は歩みをともにしている。イスラエル人もパレスチナ人もそれぞれの生存権を相互に認めない「過激派」が実権をにぎっているかぎり、血を血で洗う流血は避けられない。両者が民主主義の神を認め、互いの宗教の自由、信教の自由を認めあうときの来るまで、この地に紛争の止むときは来ないと思う。
しかし、人間はその原罪の本性を変えることができるか。できなければ、その帰結は、「悪しき霊」によって集められた王たちと指導者たちによって、メギドの丘に行われる終末の戦争を待つだけのことかもしれない(ヨハネ黙示録第十六章第十六節)。