夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

この一年を振り返る

2008年12月31日 | 日記・紀行

 

今年も今日で終わりです。この一年を振り返ってみても、残念ながら決して大きな進歩があったとも言えません。それは個人的にも社会的にもそうでした。

それでも小さな成果があったと言えば、今年になってニンジン、ダイコン、生姜、タマネギなどの野菜を、はじめて自家製で食卓に上らせることができたことでしょうか。農作業にかかわり始めてまだわずか一年の初心者ですが、果樹も本当に最初の一歩で、イチジク、モモ、柿などを植えました。もちろん果実を収穫できるようになるのは、もっと先のことで、それも柿の根づけすら第一年目のハナから失敗しました。

本当はもっと若い時から、自分のめざすべき道を進みたかったのですが、しかし、後悔先に立たずですから愚痴を言っても仕方がありません。生活のスタイルを新しく作って行くしかないようです。

この秋に始まった金融恐慌の嵐は、今も吹き荒れています。トヨタやホンダなどの自動車会社は、好況時には兆単位の収益を上げておきながら、いったん不況になると、真っ先に人員解雇を行っています。

こんなことでは、どんなに魅力的な自動車をこれらの会社が生産していようが、社会的にはまったく「つまらない会社」と言うしかないでしょう。人々の労働力を活用し利用して儲けていながら、不況時には冷たく従業員の生活手段を奪うことに何らのためらいもないようですから。現在の株式会社が雇用よりも利益を優先する社会的組織であることがこうしたことからも明らかです。これらの会社の株主たちも、また、いわゆる「正社員」たちも、配当や利ざやや自分たちの給料が肝心で、臨時社員の生活などどうでも良いのでしょうか。

これもやはり日本にはまだ本当の宗教が支配的な社会にはなっていないからです。政府は言うまでもなく、国家にも国民の間にもまだその精神が十分に浸透していません。それを実現するのもまだはるか遠い先のことかも知れません。しかし、いずれにせよ、願うことはこの日本国が世界に先駆けて、失業や貧困の不自由から解放された国家になることです。

来年は個人的にはさらに農的生活の方面をさらに充実させていきたいと思っています。できれば、生活の場もさらに農村地域に移せれば良いのですが。昨今の中国製の食品の安全性や畜産飼料の価格の高騰などによって、私たちの生活の根本である食料に問題のあることもわかっています。日本の食糧自給率なども話題になりました。それらは国民のすべてが食料生産に携わるようにすれば解決することだと思いますが、それにしても現在のあまりにもずさんで有害無益の農業政策を転換してゆくことでしょう。もはや現在のように、無能な政治家や官僚たちに任せていればいいという段階ではないようにも思います。自分たちでみずから行動してゆくことでしょう。

この国を少しでも良い国にして行くために、農業の現状など、さらに理論研究を深めてゆく必要もあります。また、たんに理論のみならずNPOなどで志を同じくする人々といっしょにその可能性を追求してゆくべきかもしれません。来年は少しでも夢が深められ、一歩でも前に進むことができますように。

袖触れ合うも他生の縁とも言います。この一年、つたなき当ブログを訪れてくださったみなさん、来年も良いお年でありますよう。

 

 

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柿の木

2008年12月28日 | 日記・紀行

 

いよいよ年の瀬も迫り来る。せっかく柿の苗木を用意してもらっていたのに、なかなか植えきれないでいたのを、今日になってようやく植え終えた。昨年に柿と桃とイチジクの木を山の畑に植えたが、イチジクと柿をそれぞれ途中で植え代えたのが良くなかったのか、それも、ちょうど霜柱の立つような時期も悪かったのか、とうとう柿の木だけが根付くことがなかった。

それで、今年ももう一度植え直した。何とか根付いてくれるように。必要以上に大きな穴を掘ったりしたので少し時間がかかる。今度は萱を刈って風よけをしてやる。今年もさまざまな出来事のあったことを思い出しながら、スコップを振るう。

この秋に、アメリカの証券会社リーマン・ブラザーズの破綻をきっかけに、かねてから懸念されていたアメリカの住宅バブル経済があっけなくはじけることになった。バブル経済の高騰期に、投機家筋が原油の値上がりに便乗して利益の拡大をはかった。おそらくその金あまりには、日銀の超低金利政策も絡んでいるだろう。それが穀物の価格にも波及し、とくにトウモロコシやダイズなどの家畜の飼料が高騰して、畜産農家も大きな打撃を受けることになる。そして、それまでも何ら危機意識もなくのんきに構えていた日本の食糧自給率の低さも大きな話題になった。

そうしたなかで、もともと自民党で選挙対策の顔として選出された麻生太郎氏が、選挙対策のために行った世論調査で出た自民党の支持率の低落に、これでは選挙に勝てないと恐れをなして、金融危機を口実に総選挙を先延ばしにする。自分のご都合で選挙を延期するなど、政治を私物化しているのだ。

雇用の危機は待ったなしなのに、麻生太郎無能力内閣は言うまでもないが、政治が政局がらみになって、与党も野党も官僚も何ら効果的な対策を打てないでいる。この危機的な状況で、救済の手をさしのべるべき肝心の政治が、無能な政治家たちのために麻痺状態に陥っている。

これでは、昭和初期の恐慌の再現になる。ドイツでは失業した労働者たちの支持を集めてナチス・ドイツがあっという間に政治の中枢に進出して、アウトバーンの建設や自動車、軍需産業で雇用を確保したのである。歴史は繰り返すと言うけれども、昭和の2・16事件や5・15事件は、こうした背景に起きたのだろうな、と歴史の中に生きていることをあらためて感じる。いずれ、アメリカも中国といっしょになって日本をもっと冷たく突き放すだろう。太平洋戦争前の国際関係に近くなってくる。

わが国でも、現在の無能な政治家たちが、このまま手をこまねいて労働者の失業による飢餓と貧困を本当に救うことができないのなら、自衛隊によるクーデタも場合によればやむをえないだろうなと思う。その際にいっそ憲法を強権的に改正して、国防軍に作りかえて、この日本国の背骨をただすのも悪くはないのではないかと思ったりする。

しかし、最近の自衛隊は防衛学校でも、東郷平八郎元帥などの偉大な軍人の肖像画さえ掲げさせないらしい。そんなアメリカナイズされた自衛隊では、かっての大日本帝国軍人たちのように、国民のためにクーデタすら起こせないだろうなとも思う。

そんなことを妄想したりしながら、よく晴れた空の下で柿の木の苗床を揃えていた。
昨年の今頃は私が作業をしていると、小鳥が好奇心をもって近くを飛び回ったりしていた。今年は遠くに鳴き声が聞こえるばかり。そのきれいな姿を近くに見せてもくれない。

 

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第二の敗戦―――戦後60年、強姦被害者の心の敗北

2008年12月27日 | 教育・文化

 

昨夜の夕食後、たまたまテレビを付けると、東京の市街地が空襲を受けている場面が出ていた。ほかにとくに見たい番組もなかったので、そのままチャンネルも変えずにそのままつけていた。

とくに気も入れずに見ていたが、先の太平洋戦争の末期頃の東京大空襲が描かれているようだった。その場面では東京の市民がアメリカのB29から焼夷弾を投下され、市街地も人命もすべてを焼き尽くされるような攻撃を受けて、人々の逃げまどう光景がくりかえし描かれていた。それは「東京大空襲スペシャルエディション 」とかいう番組で、この春に放映になったものの再放送らしい。

そして、最後の近くの場面で、堀北真希さんの演じる女の主人公が、アメリカ空軍機からの機銃掃射を受けて殺されるのであるが、その時に彼女がその敵機に向かって何か叫んでいた。その時のせりふに、ただ私は何となく違和感を覚えた。彼女がその時にどのようなせりふを叫んでいたのか、くわしい記憶がなかったので、今一度ネットでこの番組についての情報を調べながらこの記事を書いている。

要するに、この女性主人公がラスト場面の近くで、空から機銃掃射で彼女を殺しに来る敵機に向かって懇願する様子が、ちょうど私にはそれが、完膚無きまでに痛めつけられ脅しつけられている「か弱き女性」が、彼女を殴りつけている強姦野郎に泣いて許しを請うている哀れで気の毒な姿のように見えたことだった。

それほど、当時の東京市民や広島市民など普通の日本国民にとっては、先の太平洋戦争は腰の抜けるほどの体験で、徹底的にやられたと言うことだろう。先の戦争での大空襲や原子爆弾の投下によって、普通の一般国民にまで戦争の「恐ろしさ」を思い知らされたということになるのかもしれない。

そして、60余年後の今なお日本国民は、その結果、すでに敵と戦う以前に精神的に完全に崩壊させられていることがこのドラマを見てもわかる。それほど、この戦争によってこうむった日本国民の精神的なトラウマが深刻だったということだろう。そこから日本人が回復できるのかどうか、それはわからない。いずれにせよ、哀れな日本人はこの不幸な歴史的体験を今なお引きずって生きているのだ。

 

 

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クリスマスおめでとう

2008年12月24日 | 日記・紀行

 

Bach - BWV 147 - 1 - Herz und Mund und Tat und Leben

クリスマスおめでとう。


今年もさまざまな出来事があった。このブログでもさまざまに記録したけれども、今宵のひとときはすべて忘れて。
さて、今年もまたクリスマスがめぐり来る。2008年ももう終わり。
食卓のケーキとローソクだけではなく、パンとぶどう酒と祈りで、人それぞれのささやかなクリスマスを祝うことにしよう。十年ほど前の美しかったクリスマスの宵を今年は思い出しながら。
みなさん、さまざまな境遇におられるすべての方それぞれに慰めのありますように。どうか今年も良いクリスマスを!

詩篇第百二十一篇

1   都もうでの歌
    私は山々にむかって目をあげる。私の助けは、どこから来る。
2   私の助けは、天と地を造られた主から来る。
3   主よ、どうか私の足をよろめかせることなく、
    私を見守る者がまどろむことのないように。
4   見よ、イスラエルを守る者は、まどろむこともなく、眠ることもない。
5   主はあなたを守る者、主はあなたを庇う蔭、あなたの右にあって支える手。
6   昼は太陽があなたを撃つことなく、夜も月があなたを撃つことはない。
7   主はすべての災からあなたを守り、あなたの命を守られる。
8   いずこに行くも帰るも、主はあなたを守られんことを。
    今もとこしえに至るまで。

主の祈り

天におられる私たちの父よ、
御名の聖められますように。御国の来ますように。
御心の天におけるように地にも行われますように。
私たちに必要な糧を今日もお与えください。
私たちに咎ある人を私たちが赦すように、
私たちの罪を赦してください。
私たちを試みに遭わせず、悪よりお救いください。

まことに、御国と力強い御業と輝かしい栄光は、
永遠にあなたのものです。

使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちからよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり、かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまわん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン。


心とことばと行いと生活によって
Herz und Mund und Tat und Leben


Wohl mir, dass ich Jesum habe,
O wie feste halt ich ihn,
Dass er mir mein Herze labe,
Wenn ich krank und traurig bin.
Jesum hab ich, der mich liebet
Und sich mir zu eigen gibet;
Ach drum lass ich Jesum nicht,
Wenn mir gleich mein Herze bricht.

私にとって幸せなことは、私にはイエス様があること。
おお、どんなに堅く私は彼を抱きしめていることか。
主は私の心を慰め勇気づける。
私が病み、悲しんでいる時も。
私はイエス様のもの。彼は私を愛され、
そして、御身を私のために捧げられた。
ああ、だから私はイエス様を離さない。
どんなに私の心が張り裂けようと。


Jesus bleibet meine Freude,
Meines Herzens Trost und Saft,
Jesus wehret allem Leide,
Er ist meines Lebens Kraft,
Meiner Augen Lust und Sonne,
Meiner Seele Schatz und Wonne;
Darum lass ich Jesum nicht
Aus dem Herzen und Gesicht.

イエス様はいつまでも私の歓び、
私の心の慰めであり命の水、
イエス様はすべての災いを防がれる。
主は私の生きる力、
私の眼には快い日の光、
私の心には幸せな宝もの、
だから、私はイエス様を離さない、
私の心と眼から。

Dinu Lipatti plays J.S. Bach - Cantata BWV 147

テキスト

 


 

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虚無と永遠

2008年12月21日 | 宗教・文化

 

ダイコンやニンジンの種を蒔いたのは、日記によれば九月十日前後のことだから、三ヶ月程度で収穫できるまでにすでに立派に生育していることになる。先々週ぐらいから大きくなったダイコンやニンジンを刈り取って、煮たりみそ汁に入れたりしている。柔らかくて美味しい。また、生姜も根を掘りだしてみると大きく生長していた。

ただ、最近はサルが出没して食い荒らし始めているようで、その対策として早めに収穫して、残りは地中に埋め、必要に応じて掘り出すことにした。ダイコンの葉などは始末に困るほどある。その一部を持ち帰って、生姜と一緒に刻んでそれにいりこを入れて炒めると、ご飯に美味しい惣菜になる。

そんな食事を採りながらも思うことは、いずれにしても私たち現代人は、米や魚、肉などの食料品や、また電気やガスなどの燃料、そのほか住宅や家具、それからこのインターネットに使うパソコンなども含めて、完全な自給自足によって生活を営むことはもはや出来ないということである。すでに分業と交換の貨幣経済の中に完全に組み込まれている。

そうした結果、実際に何らの生産的な労働に従事することがなくとも、石油やダイズ、トウモロコシなどの商品投機や株式投資などによって巨額の収益を上げることのできる経済構造になっている。今のところ問題になっている金融経済の危機的状況も元はといえば、アメリカで放任されたサブプライムローンに端を発している。ノーベル賞級の経済学者たちも参加して、その金融工学的な知識を活用しローンを証券化するなどして、投機家が利益の極大化をはかったものである。しかし、それも住宅価格が天井を打つことによって破綻する。

こうした顛末でわかることは、すでに社会主義経済でも明らかになったように、人間の理性もけっきょくはみずからの欲望さえも統制することができないということである。今回の経済恐慌も、宗教的にいえば、人間の腐敗と傲慢に対する神の裁きともいえる。人間的な知識は絶対的ではなく有限であるゆえに根本的に虚しい。

そうした知識の虚しさもさることながら、さらにその根本にあるのは、人間の存在自体の有限性ということである。その生涯の時間も七十年か八十年、どんなに長くとも百年を超えることはない。

それを明確に自覚し始めるのは、自我が意識として目覚める青年時代である。その頃に、みずからの人生の有限を自覚するようになるとともに、その意義や目的について問い始める。

その頃に私が惹かれて読みふけったのは聖書で、とくにその中でも「詩編」と「伝道の書」だった。それ以来私の思考の底流にその思想がいつもある。そして、人の死や時代の転変などの折に触れて表面に出てくる。

「伝道の書」のテーマは人間や世界の虚しさである。仏教の般若心経にも「色即是空、空即是色」と訳されているような虚無観にも通じるところがある。ただ「伝道の書」のそれが異なっている所は、そうした虚無感にあっても、なお「神を畏れ、その戒めを守れ」とその最終章に戒めているように、神の存在を否定するニヒリズムには立ってはいないことである。

聖書の中にも人間や世界のはかなさを語っている個所は少なくない。詩編第九十篇のモーゼの歌も、第九十二篇の安息日の歌にしてもそうである。しかし、そこには空無の虚しさとともに、それを乗り越える永遠の巖として存在する神に対する賛美が歌われている。

実際に人はこの世界の空無のなかで、かってアウグスチヌスが語ったように、「人は神を見出すまでは何ものによっても満たされることはない」だろう。聖書のなかにも「神を探し求めよ」と命じられている。そして「伝道の書」の中にも、最終章の第十二章に、「汝の若き日に造り主を記憶せよ。悪しき日の年老いて何の楽しみもないと言う前に」と青年に対して忠告している。

この個所は私も青年時代から何度も読んで知っている。ただ、青年の頃には、異性をはじめとして気を引き奪われる多くの事柄があって、人生の虚しさを痛切に自覚するということも、老年期ほどにはその機会は多くはない。

また、存在として有限であるものは単に人間のみに留まらない。私たちの生存の基盤である地球や太陽系そのものも永遠ではないことはわかっている。本来、永遠というものは、時間や空間などの次元とは異なったものである。そして、人間はこの永遠を見出すまでは心は精神は安らわないものである。だから私たちも、たとえこの世界と係わらざるをえないとしても、せいぜい百年足らずの間にしか係わることのできない、このはかない世事に埋没して、永遠のことを完全に忘却してしまわないことだと思う。私たちの生存の期間は一瞬で、私たちの死後の時間の方が永久だからである。

永遠とは 「その一点一画が無くなるより、天や地の消える方がやさしい」 といわれるモーゼの律法の存在であり(ルカ書16:17)、永遠の命とは「唯一の神を知ることと神に遣わされたイエス・キリストを知ること」(ヨハネ書17:3)にある。永遠とは、時間や空間にかかわることではない。

 

 

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国家による失業、貧困からの解放②

2008年12月19日 | 国家論

 

人類を失業や貧困から解放することは歴史的な課題であるといえる。失業や貧困に苦しめられているかぎり、人間の尊厳も何もないからである。先の論考でも触れたように、二十世紀の共産主義運動などは、貧困、経済格差、戦争などから人類を解放する試みであったといえるが、歴史的に見ても失敗に終わった。それは生産手段の社会的な所有と私有財産の廃止という社会主義経済、国家による計画統制経済という手段によって、失業や貧困、経済的な不平等などの問題の解決をめざしたものである。労働者階級の歴史的な使命もそこにあるともいわれた。

しかし、歴史的な事実として社会主義的な経済は自由主義市場経済、いわゆる資本主義の経済的な効率性において太刀打ちできないことがわかった。その反面において景気の循環を十分に統制することができず、今に見るような高度化した金融資本主義の恐慌を招き、その結果過剰な労働力が大量の失業者として労働市場にはき出されることになる。それは、みずからの労働でみずからの生計を立てるという人間らしい尊厳を人間から奪い、それが貧困となって他者に寄生して生きる「賤民」を生むにいたる。

歴史的にもかってヒトラーが率いたナチスドイツなどは、国家社会主義労働者党がその正式な呼称であったように、労働者、農民の失業問題の解決を重要な課題としていた。そして、実際にもアウトバーンの建設や、自動車産業、軍需産業などによって完全雇用を実現したのである。

もちろん、私たちはヒトラーのような全体主義の立場に立つことはできないけれども、たとえ自由民主主義国家としてであれ、失業問題の解決が国家の最優先課題であることは言うまでもない。

ここでは失業問題の解決のために詳細な青写真を描くことはできないが、今日の政府は基本的には次のような二つの事業を国家政策の課題とすべきだと思う。二兆円の定額給付金はあまりにも能がなさすぎる。


失業者、生活困窮者一人あたりに月額7万円程度を住宅と食料の最低限の生活保護資金として支給する。また、これを年金最低補償額とすることによって、一時的な失業、傷病、離婚、倒産、老齢などによる生活の危機への対応が保証されることになる。それによって日本国憲法の規定にもある国民に対する最低限の文化的な生活の保証が単なるプログラム規定でなくなる。また、これがセーフティ-ネットとして機能することによって、国民の将来の生活に対する不安を解消することによって、貯蓄にまわって消費に向かわずに冷え込んでしまった国内の需要を、喚起するのに貢献するはずである。


二十万人の国防予備軍を創設して、18歳代から40歳代までの青年男女の志望者、また、壮年の一時的な失業者などを採用して、軍隊教育と職業訓練をかねた生活訓練の場を三年間提供する。それによって経済恐慌時などの青壮年者の失業者の吸収に活用する。また、そこでの、教育訓練を職業的な能力や国家意識の育成を含めた最良の社会的な教育の場にしてゆくことである。また、地震や台風、戦争時の避難所などの避難保護施設の建設や整備に従事する。そのほかに、ハイテク産業技術の訓練や現在の自衛隊基地の開発や整備に従事したり、あるいは災害支援活動、電気ガス水道などのライフラインの地中埋め込み工事など社会資本充実に役立てることもできる。政府、指導者たちの智恵の働かせ方次第であると思う。(現在の無能な国会議員、官僚の定数を半減し、国家の経費の無駄も削減してゆく必要があるのは言うまでもない。)

いずれにしてもおそらく、人類が革命などによって一挙に失業や貧困の不自由から解放されることはないだろう。引き続きこれからも、自由と民主主義を理念としてより深く追求しながら、失業対策、軍隊などの雇用環境などを整備し、国家や地域社会の共同体としての性格を深め強めながら、失業、貧困などの業病から人類を解放して行くしかないようだ。その前提となる日本経済の生産能力も十分に高まってきているのではないか。その実現を妨げているのは、人倫的意識と必要な社会機構についての合理的な知識が日本人に欠けているためである。

 

 

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国家による失業、貧困からの解放①

2008年12月15日 | 国家論

 

この秋の9月15日、アメリカの証券会社リーマンブラザースの破産に端を発した金融危機は、その後いっそう深刻化し、単に英米経済圏のみならず世界中の実体経済に深刻な影響を及ぼしつつある。

金融恐慌や経済不況の実体は過剰生産恐慌によるものである。それは社会的な生産活動と私有財産制との矛盾によって生じ、社会的な生産活動によって可能になった大量生産が、その供給に見合った需要を見いだせないためである。生産における剰余価値の搾取によって、需要を支える購買者の賃金総額がその供給量を消費しきれない。

このような状況は市民社会の形成以来から存在し、フランス革命や共産主義革命などによって、その解決をめざして歴史的にもすでにさまざまな試みが行われてきた。共産主義運動は、生産手段の社会的な所有によって、この問題の解決に取り組もうとした。マルクスなどはブルジョア国家性悪説にたち、プロレタリア独裁国家によって人類から貧困と失業の問題の解決をめざしたが失敗した。

共産主義運動は、それが資本主義の矛盾に対する反対勢力として活動している間は一定の意義を持った。しかし、みずからいったん権力を獲得すると、解放のための権力が、市民社会の自由を抑圧する権力に転化し腐敗した。それは共産主義運動の官僚テクノラートと一般大衆とのあいだに、資本主義以上の深刻な矛盾を引き起こすことになった。市民社会の生産力を解放することにも失敗して貧困の一般化を招き、二〇世紀末には歴史の舞台から退場することになる。

それ以来今日まで、社会的な生産活動と私有財産制と競争原理にもとづく市民社会の自由な生産活動によって引き起こされる過剰生産恐慌の矛盾を解消する理論も実践も生まれていない。今日に至るまで、市民社会の貧困、失業の問題は、恐慌として深刻な循環を繰り返しながら人類を業病のように悩ませている。

こうした景気局面においては、国家による貧困と失業の救済と調整とが必要十分に機能しなければならない。しかし、それを十分に実現しえている国家は未だ世界のどこにもない。階級矛盾の解決は、プロレタリア独裁国家によってではなく、プロテスタント国家、プロテスタント政府の手によって実行されなければならない。ただ今のところその可能性をもっとも近く秘めているのは、残念ながら日本ではなく、やはり北欧諸国やアメリカであるようだ。オバマ政権と麻生政権は、それぞれの国家の本質を見極める上でそのよい比較になる。

 

 

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