夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

涅槃

2014年06月24日 | 宗教・文化


涅槃 (ねはん、サンスクリット語: निर्वाण, Nirvāṇa; パーリ語: निब्बान, Nibbānaプラークリット: णिव्वाण,ṇivvāṇaタイ語: นิพพาน, Nípphaan)は、仏教の主要な概念の一つである。

 

 この語のほか、泥曰(ないわつ)、泥洹(ないおん)、涅槃那(ねはんな)などとも音写される。漢訳では、滅、滅度、寂滅、寂静、不生不滅などと訳 し た。また、サンスクリットでは「廻って」という意味の接頭辞 pari- を冠してパリニルヴァーナ(parinirvāṇa) 、更に「偉大な」という意味の mahā- を付してマハーパリニルヴァーナ(mahāparinirvāṇa)ともいわれるところから円寂、大円寂などと訳された。ただし、南伝のパーリ語教典を訳 した中村元は ダンマパダ、第十章、「暴力」、百三十四節の訳注において「安らぎ - Nibbāna(= Nirvāṇa 涅槃)声を荒らげないだけで、ニルヴァーナに達しえるのであるから、ここでいうニルヴァーナは後代の教義学者たちの言うようなうるさいものではなくて、心 の安らぎ、心の平和によって得られる楽しい境地というほどの意味であろう。」としている。

 概説

 涅槃は、「さとり」〔証、悟、覚〕と同じ意味であるとされる。しかし、ニルヴァーナの字義は「吹き消すこと」「吹き消した状態」であり、すなわち煩悩(ぼんのう)の火を吹き消した状態を指すのが本義である。その意味で、滅とか寂滅とか寂静と訳された。また、涅槃は如来そのものを指す。涅槃仏などはまさに、死を描写したものである。「人間の本能から起こる精神の迷いがなくなった状態」という意味で涅槃寂静といわれる。

 釈迦入滅(死去)してからは、涅槃の語にさまざまな意味づけがおこなわれた。

 

  1. 有余涅槃・無余涅槃とわけるもの
  2. 灰身滅智、身心都滅とするもの
  3. 善や浄の極致とするもの
  4. 苦がなくなった状態とするもの

 

などである。

涅槃を有余と無余との二種に区別する際の有余涅槃は、釈迦が三十五歳で成道して八十歳で入滅するまでの間の「さとり」の姿を言う。無余涅槃は八十歳で入滅した後の「さとり」の姿とみるのである。この場合の、「余」とは「身体」のこととみて、身体のある間の「さとり」、身体のなくなった「さとり」とわける。

有余涅槃・無余涅槃は、パーリ語の sa-upādisesa-nibbāna, anupādisesa-nibbāna で、このうち、「余」にあたるウパーディセーサ(upādisesa)は、「生命として燃えるべき薪」「存在としてよりかかるべきもの」を意味する。仏弟 子たちは有余無余を、釈迦の生涯の上に見た。釈迦の入滅こそ、輪廻転生の苦からの完全な解脱であると、仏弟子たちは見たのである。

このような「さとり」が灰身滅智、身心都滅である。灰身滅智(けしんめっち)とは、身は焼かれて灰となり、智の滅した状態をいう。身心都滅(し んしんとめつ)とは、肉体も精神も一切が無に帰したすがたをいう。このことから、これらは一種の虚無の状態であると考える事ができるため、初期の仏教が、 正統バラモンから他の新思想と共に虚無主義者(ナースティカ、nāstika)と呼ばれたのは、この辺りに原因が考えられる。

ナースティカとは呼ばれたが、釈迦が一切を無常無我であると説いたのは、単に現実を否定したのではなく、かえって現実の中に解決の道があることを自覚したからである。

この立場で、のちに無住処涅槃という。「さとり」の世界では、無明を滅して智慧を得て、あらゆる束縛を離れて完全な自在を得る。そこでは、涅槃を一定の世界として留まることなく、生死と言っても生や死にとらわれて喜んだり悲しんだりするのではなく、全てに思いのままに活動して衆生を仏道に導く。

このような涅槃は、単に煩悩の火が吹き消えたというような消極的な世界ではなく、煩悩が転化され、慈悲となって働く積極的な世界である。その転化の根本は智慧の完成である。ゆえに「さとり」が智慧なのである。

この点から菩提と涅槃を「二転依の妙果」という。涅槃は以上のように、煩悩が煩悩として働かなくなり、煩悩の障りが涅槃の境地に転じ、智慧の障害であったものが転じて慈悲として働く。それを菩提(ぼだい)という。

以上のように「さとり」は、涅槃の寂静と菩提の智慧の活動とを内容とする。そこで涅槃の徳を常楽我浄の四徳と説く。「さとり」は常住不変で、一切の苦を滅しているので楽、自在で拘束されないから我、煩悩がつきて汚れがないから浄といわれる。

 

※以上は Wikipedia【涅槃】の項からの転記。

http://goo.gl/MYNV

 

 

 

 

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Allgemeine Begriffe(普遍的概念)がもたらす恐ろしい不幸

2014年06月18日 | 哲学一般

 

 Allgemeine Begriffe(普遍的概念)がもたらす恐ろしい不幸

 

2014年06月18日 | ツイツター

【中川八洋掲示板 】尖閣(魚釣島)に標柱すら建立しない“鵺”安倍晋三──空母も建造しない、危険で有害な“口先だけの中共批判” - fb.me/6xDDBUAjI

 
 

村山富市さん、河野洋平さん、朝日新聞記者さんなども耳を傾けて聞いたら?後世の日本人のために。中共と朝鮮の属国になったときの日本人の運命は。【イザヤ・ベンダサン/世間知らずで無神経な「進歩的文化人」の一言が招き寄せる迫害 - goo.gl/tf9PXM

 
 

一般的な概念と大きなうぬぼれは、いつも恐ろしい不幸をひき起こす。(ゲーテ) Allgemeine Begriffe und großer Dünkel sind immer auf dem Wege, entsetzliches Unheil anzurichten.

shuzo atiさんがリツイート | RT
 
 

この場合の 「Allgemeine Begriffe」は「抽象的思考」と訳した方が良いと思います。抽象的思考とは悟性的思考のことで、「平等」「人権」 「平和」「民主主義」「博愛」「自由」などの抽象的な概念を、時場所をわきまえず、狂信的に振り回すことによってもたらされる害悪のことです。ポルポトの例などが あります。 RT @dt_reibunshu: 一般的な概念と大きなうぬぼれは、いつも恐ろしい不幸をひき起こす。(ゲーテ) Allgemeine Begriffe und großer Dünkel sind immer auf dem Wege, entsetzliches Unheil anzurichten. tl.gd/ndio4e

 
 

Allgemeine Begriffe und großer Dünkel sind immer auf dem Wege, entsetzliches Unheil anzurichten.悟性的思考とひどい自惚れは、いつも見ていられない混乱を引き起す。鳩山由紀夫さんへ。ゲーテ

 
 

Allgemeine Begriffe und großer Dünkel sind immer auf dem Wege, entsetzliches Unheil anzurichten. 悟性的思考とひどい傲慢は、いつも恐ろしい災厄をもたらす。橋下徹さんへ。ゲーテ。

 

 

 

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事実報道と価値報道

2014年06月11日 | 教育・文化

 

事実報道と価値報道

 

 
昨日ネットでいくつかのブログ記事を読んでいるとき、たまたま門田隆将というドキュメント作家らしい方の記事に行き当たった。そこで『お粗末な朝日新聞「吉田調書」のキャンペーン記事  2014.05.31』という論考が掲載されていたので読んだ。

 

門田隆将オフィシャルサイト | kadotaryusho.com http://www.kadotaryusho.com/blog/2014/05/post_758.html

 

「お粗末な朝日新聞「吉田調書」のキャンペーン記事」2014.05.31
http://www.kadotaryusho.com/blog/2014/05/post_758.html

 

 「朝日新聞の「抗議」を受けて」2014.06.10                              http://www.kadotaryusho.com/blog/2014/06/post_759.html

 


福島第一原発(1F)の事故で陣頭指揮を執って亡くなられた吉田昌郎所長が、生前に政府事故調査委員会の聴取に応じて作成された調書、いわ ゆる『吉田調書』が、吉田所長自身の上申によって「公表」はされないことになったこと、またそれに関連して、その時の福島第一原発の危機に際して「七〇〇 名の所員たちの九割が吉田所長の命令に違反して、現場から福島第二(2F)に逃げた」こと、それらが何かスクープのようにテレビで報道されていたのを聞い て知っていたからである。

私は朝日新聞を購読していないので、実際に朝日新聞がどのような記事を書いていたのか確かめていない。しかし、テレビを主な情報源として(NHKだったのか他の民放局だったのか記憶にない)それらのニュースに接したとき、

か ねて情報は原則として公開されるべきだと私は考えていたので、「どうしてなのかな、政府が意図的に隠蔽しようとしているのかもしれない。しかし政府をそこ まで勘ぐっても仕方がないし、亡くなった吉田昌郎所長自身が上申されているのであれば、そこに何らかの事情が、プライバシーの問題などがあったのかも しれない」ぐらいに思って済ませていた。

マスコミなどはこのいわゆる「吉田調書」の非公開を批判していたが、しかし、聴取に応じた吉田所長自身が本当に非公開を希望していたのであれば、吉田氏の意向も尊重されるべきであることは言うまでもない。

このいわゆる「吉田調書」非公開の報道と並行して、福島第一原発の危機に際して「東電七〇〇名の所員たちの九割が吉田所長の命令に違反して、現場から福島第二(2F)に逃げた」ことも何かスクープのように報道されていた。

だからそれを聞いたとき「東電の職員は無責任だな、誰でも自分の命が惜しくなれば逃げ出すのかな。それにしても日本人の職業倫理も地に堕ちたものだな」ぐらいに思っていた。

し かし、たまたまネットで門田隆将というドキュメンタリー作家らしい人のブログを読んでいて、福島第一原発の危機に際してとった東電の職員たちの行動が、必 ずしもテレビなどで報道された通りでもないらしいことがわかった。九割の東電職員らが福島第二原発へと避難した折りのくわしい実情が少しわかった気がした。そう いう事情があったのかもしれないと。

 


この門田隆将というドキュメンタリー作家は実際に故吉田昌郎所長などに長時間インタヴューしたらしいから、それなりに事情に通じていると思 われる。さらに門田氏のブログ記事を読んでみると「「所長命令に違反」して九割の人間が「撤退した」というのは正しくない、「それは誤報であり、すなわち 故吉田所長の部下たちを貶める内容の記事となるのである。」と門田氏は述べられていた。

たしかに、朝日新聞の報道のように、もし「吉田昌郎所長の命令に反して東電職員の人たちが、福島第二原発に避難した」とするのであれば、このニュースを聞いたときに感じる印象は、東電職員の方々に対する不信感や怪訝として刻まれるのは避けられないと思う。

し かし、もし吉田所長の本心が所員たちの避難をその時にすでに想定していたのであれば、東電職員が福島第二原発(2F)に移動したことは、決して「所長命令 に違反して」ということにはならない。もしそれが真実なら以前の報道を受けて生まれた、避難した東電職員たちに対する不信感なども訂正しなければならない と思った。

要するに、福島第一原発の事故に際して取られた故吉田昌郎所長や東電職員の対応において、「所長命令に違反」して九割の人間が「撤退した」という報道が、果たして事実を正確に伝達しているかどうかということである。

既に吉田昌郎所長は亡くなられているし、ご本人に確認しようもない。吉田昌郎所長が調書の公表に危惧していたのも、ご自身の発言がそうした文脈を離れて一部だけが切り取られたり、曲解されたりすることを恐れてのことだったのかもしれない。

調 書における故吉田昌郎所長自身の発言についても、上申書のなかに「自分の記憶に基づいて率直に事実関係を申し上げましたが、時間の経過に伴う記憶の薄れ、 様々な事象に立て続けに対処せざるを得なかったことによる記憶の混同等によって、事実を誤認してお話している部分もあるのではないかと思います」と謙虚に 述べている。

たしかに人間は主観的にしかものを見れないし、それにもかかわらず、人間の自我は往々にして、自己を絶対化し、自己の「思いこみ」や考えに固執する。そして、それを他者にも伝達する。

今回の報道に限らず、原子力発電の再稼働や「秘密保護法」そして今、論争になっている「集団的自衛権」の問題に関する記事や報道においても同様のことが言えると思う。

だ から、私たちが生活上ニュースや報道を受取らなければならないとしても、それは新聞記者やマスコミ人、様々な学者、専門家たちのそれぞれの立場から発せら れる発言であり認識であるに過ぎないこと、そのことをよく自覚しておくことだと思う。そのことを改めて考えさせられる報道だった。

もし朝日新聞の報道のように「吉田昌郎所長の命令に反して東電職員の人たちが、福島第二原発に避難したのであれば、」このニュースを聞いたときに感じたように、東電職員の方々に対する不信感や怪訝が生まれるのは避けられないと思う。

以 前にもツイッターで呟いたこともあるけれど、新聞記者が記事を書くとき、そこに主観的な価値判断や先入見のイデオロギー(価値報道)を持ち込むことなく、 「事実」の客観的報道(事実報道)に徹することを記者たちに求めることの難しさを改めて感じた。もちろんその背景にマスコミ人各人の資質や彼等の受けた教育、国民文化、記者としての職業訓練の質といった問題もあるのだけれども。事実認識とそれに対する価値判断との関係をどう捉えるか、という問題にもつながる。

やはり私たちに出来ることは、新聞やテレビから報道を受取ると き、その報道を「一応の仮定の事実」として「信じつつ疑う」、あるいは「疑いつつ信じる」という態度で接することだと思う。そうして誤解や偏見から生まれ る余計な軋轢から少しでも身を守ってゆく以外にこれといった特効薬もないのかもしれない。

ある事柄に関する真実というものは、その事柄に関してあらゆる角度から全面的に客観的に、多くの知識や情報が提供されることによって明らかになってくる。そしてそれを前提として、その際に真実を洞察する最良の武器は論理的に推理する能力である。

現象についての情報や知識が多面的に客観的に知らされてゆくことの中から、そしてそこに論理必然性を追求することのなかから、真実や真理が浮かび上がってくる。この弁証法の認識論を確認すると共に、改めて情報公開の決定的な重要性をまた確認することになった。

 

 

 

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