『夢の内容を語るデキウス』~Wikipedia https://cutt.ly/cUf7q2R
ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第三十七節 [衝動と満足の偶然性について]
§37
Diese Übereinstimmung (※1)ist als Vergnügen ein subjektives Gefühl und etwas Zufälliges das sich an diesen oder jenen Trieb und seinen Gegenstand knüpfen kann und worin ich mir nur als natürliches Wesen und nur als Einzelner Zweck bin.
第三十七節[衝動と満足の偶然性について]
この一致は、満足としては 主観的な 感情であり、偶然的なもの である。偶然的なものというのは、満足というものが、これやあれやの衝動などと関わり、そして、それら衝動の対象と関係しうるものであり、そして、そこでは私が私にとってはただ自然の存在としてのみ、そうしてただ 個別的な 目的としてのみ存在するものだからである。
Erläuterung.
説明
Das Vergnügen ist etwas Subjektives (※2)und bezieht sich bloß auf mich als einen besondern. Es ist nicht das Objektive. Allgemeine, Verständige daran.
Es ist deswegen kein Maßstab oder keine Regel, womit eine Sache beurteilt oder gerichtet wird. Wenn ich sage, dass es mir eben so gefällt oder mich auf mein Vergnügen berufe, so spreche ich nur aus, dass die Sache für mich so gilt und habe dadurch das verständige Verhältnis mit Andern aufgehoben.
満足は主観的なものであり、そして特殊なものとして単に私にのみ関係している。だからそれは客観的なもの、普遍的なもの、悟性的なものではない。それゆえに、それは物事を判断したり裁定する基準でもなければ規範にもならない。私にとってそれがまさしくぴったりのお気に入りであるとか、私は全く満ち足りているとかいうときには、そこではただその事柄が私にのみ妥当することを私は言っているのみであり、そのことによって、他者との了解しあえる関係を放棄してしまっているのである。
Es ist zufällig seinem Inhalt nach, weil es sich an diesen oder jenen Gegenstand knüpfen kann, und weil es nicht auf den Inhalt ankommt, so ist es etwas Formelles.(※3) Auch seinem äußerlichen Dasein nach ist das Vergnügen zufällig, die Umstände vorzufinden. Die Mittel, welche ich dazu brauche, sind etwas Äußerliches und hängen nicht von mir ab. Zweites muss das Dasein, was ich durch die Mittel zu Stande gebracht habe, insofern es mir Vergnügen machen soll, für mich werden, an mich kommen. Dies aber ist das Zufällige. Die Folgen dessen, was ich tue, kehren darum nicht an mich zurück. Ich habe den Genuss derselben nicht notwendiger Weise.
満足はその内容からいえば、偶然的なものである。というのも満足はこれやあれやの対象に自らを結びつけることができるし、そして内容には関わらないから、だからそれは形式的なものである。また、満足というものは外にあるそこの具体物についてみても、状況しだいで見つけられる偶然的なものである。(第一に)私が満足のために必要とする手段は外的なものであって、私に依存していない。第二に、私が手段を通して手に入れた状況にあるそこに在る物は、それが私に満足をあたえるという点では、私のためになされ、私のものとならなければならない。しかし、この満足は偶然である。私が行ったことの結果はだから、必ずしも私の許にもたらされない。私は必然的なやり方で満足を享受しているわけではない。
— Das Vergnügen entspringt also aus zweierlei Umständen: erstens aus einem Dasein, das man vorfinden muss, was ganz vom Glück abhängt; und zweitens aus einem solchen, das ich selbst hervorbringe. Dies Dasein hängt zwar, als Wirkung meiner Tat, von meinem Willen ab, aber nur die Handlung als solche gehört mir, hingegen der Erfolg muss nicht notwendig auf mich zurückkommen, folglich auch nicht der Genuss der Handlung. In einer solchen Handlung, wie die des Decius Mus für sein Vaterland, liegt, dass die Wirkung derselben nicht auf ihn als Genuss zurückkommen sollte. Es sind überhaupt nicht die Folgen zum Prinzip der Handlung zu machen. (※4)Die Folgen einer Handlung sind zufällig, weil sie ein äußerliches Dasein sind, das von andern Umständen abhängt oder aufgehoben werden kann.
したがって、満足は二つの異なる状況から生まれてくる。まず第一に、人はそこにある或る物から満足を見つけ出さなければならないが、それはまったく幸運に依存しているということ。第二に、そうした或る物から、私は満足を自分で生み出さなければならないということである。そこにあるこれらの物は、確かに、私の行動の結果として、私の意志に係わるものであるが、しかし、このような行為のみが私のものであるのに対して、その結果は必ずしも私のものとなるのでもない。したがってまた、行為の結果を必ずしも享受することにもならない。
デキウス・ムス のように彼が祖国のためになしたこうした行為の中には、行為の因果が果実として必ずしも享受されるものではないという一例がある。一般的には 結果を行動の原則 とするべきではない。行為の結果は偶然的である。というのも、行為の結果は外にそこに在る物であるが、それは他のあれこれの状況に依存しているものであり、無効にされうるからである。
※
プブリウス・デキウス・ムスPublius Decius Mus (紀元前340年、共和制ローマの執政官) - 市民のために借金の完済に取り組んだムスは、また自軍の勝利のために自らを生け贄に捧げた。古代ローマの伝説的英雄 ~Wikipedia
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Das Vergnügen ist ein Sekundäres, ein die Tat Begleitendes. Indem das Substantielle verwirklicht wird, so fügt sich das Vergnügen insofern hinzu, als man im Werke auch sein Subjektives(※5) erkennt. Wer dem Vergnügen nachgeht, sucht nur sich nach seiner Accidentalität. Wer mit großen Werken und Interessen beschäftigt ist, strebt nur die Sache an sich zur Wirklichkeit zu bringen. Er ist auf das Substantielle gerichtet, erinnert sich seiner darin nicht, vergibt sich in der Sache. Menschen von großen Interessen und Arbeiten pflegen vom Volke bedauert zu werden, dass sie wenig Vergnügen haben, d. h. dass sie nur in der Sache, nicht in ihrer Accidentalität leben.
満足は派生的なものであり、行動に付随するものである。実体的なものが実現されて、また人はその作品の中に自分の主観的なものを認めるときには、満足が得られるものである。満足を追い求める者は誰も、ただ偶然性を追い求めることになるだけである。偉大な作品や事業に携わる者は、それを実現させるために、ただその事柄にのみに自らを打ち込む。実体のあることに彼は集中し、そのことに自己を忘れてその事柄に身を委ねる。
偉大な功績と事業に身を捧げた人間は、それに対してわずかな満足しか得られなかったことで、すなわち、ただその事柄のうちにのみ生きてその偶然性のうちに生きなかったことで、民衆からは同情されることになる。
(※1)
前の第三十六節において
die Übereinstimmung des Äußern überhaupt mit seinen inneren Bestimmungen
外にあるもの一般と人間の内にある欲求との一致、このことによって満足、充足がもたらされる。欲望、欲求 とは「感じられた矛盾」である。
(※2)
Das Vergnügen ist etwas Subjektives
第一に、満足は何よりも主観的なものである。ある物事に満足や充足を見いだせるかどうかは、個人の主観しだいである。「蓼食う虫も好き好き」ともいう。そこには普遍的で客観的な基準というものがないから、したがって、この領域では、他者との議論は成り立たない。
(※3)
第二に、満足は偶然的なものである。満足の対象は、あれやこれや何にでも見出せるものだし、そこには必然性はない。また、満足の対象はまず私の外にあるものに見出さなければならないし、それは偶然に存在するものである。また、満足の対象を私自身が造り出しうるものとしても、そこに必ずしも満足を見出せるとはかぎらない。
(※4)
Es sind überhaupt nicht die Folgen zum Prinzip der Handlung zu machen.
「一般的には結果を行為の原則とすべきではない」
満足や充足は偶然的なものであり、物事はやってみなければわからない場合が多い。
だから、往々にして、出来ないからやめておこうとか、世間で人気が得られるからやってみよう、とか考えがちである。
(※5)
偉大な事業を成し遂げ、大きな功績をあげうるためには、自己を忘れて一事に打ち込まなければならない。しかし、そのことによって、社会や祖国から必ずしも感謝されて報われるとはかぎらない。