夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第三十七節 [衝動と満足の偶然性について]

2021年12月30日 | ヘーゲル『哲学入門』

         『夢の内容を語るデキウス』~Wikipedia  https://cutt.ly/cUf7q2R


ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第三十七節 [衝動と満足の偶然性について]

 

§37

Diese Übereinstimmung (※1)ist als Vergnügen ein subjektives Ge­fühl und etwas Zufälliges das sich an diesen oder jenen Trieb und seinen Gegenstand knüpfen kann und worin ich mir nur als natürliches Wesen und nur als Einzelner Zweck bin. 

第三十七節[衝動と満足の偶然性について]

この一致は、満足としては 主観的な 感情であり、偶然的なもの である。偶然的なものというのは、満足というものが、これやあれやの衝動などと関わり、そして、それら衝動の対象と関係しうるものであり、そして、そこでは私が私にとってはただ自然の存在としてのみ、そうしてただ 個別的な 目的としてのみ存在するものだからである。

Erläuterung.

説明

Das Vergnügen ist etwas Subjektives (※2)und bezieht sich bloß auf mich als einen besondern. Es ist nicht das Objektive. Allgemeine, Verständige daran. 
Es ist deswegen kein Maßstab oder keine Regel, womit eine Sache beurteilt oder gerichtet wird. Wenn ich sage, dass es mir eben so gefällt oder mich auf mein Vergnügen berufe, so spreche ich nur aus, dass die Sache für mich so gilt und habe dadurch das verständige Verhältnis mit Andern aufgehoben. 

満足は主観的なものであり、そして特殊なものとして単に私にのみ関係している。だからそれは客観的なもの、普遍的なもの、悟性的なものではない。それゆえに、それは物事を判断したり裁定する基準でもなければ規範にもならない。私にとってそれがまさしくぴったりのお気に入りであるとか、私は全く満ち足りているとかいうときには、そこではただその事柄が私にのみ妥当することを私は言っているのみであり、そのことによって、他者との了解しあえる関係を放棄してしまっているのである。

Es ist zufällig seinem In­halt nach, weil es sich an diesen oder jenen Gegenstand knüpfen kann, und weil es nicht auf den Inhalt ankommt, so ist es etwas Formelles.(※3) Auch seinem äußerlichen Dasein nach ist das Ver­gnügen zufällig, die Umstände vorzufinden. Die Mittel, welche ich dazu brauche, sind etwas Äußerliches und hängen nicht von mir ab. Zweites muss das Dasein, was ich durch die Mittel zu Stande gebracht habe, insofern es mir Vergnügen machen soll, für mich werden, an mich kommen. Dies aber ist das Zufällige. Die Folgen dessen, was ich tue, kehren darum nicht an mich zurück. Ich habe den Genuss derselben nicht notwendiger Weise. 

満足はその内容からいえば、偶然的なものである。というのも満足はこれやあれやの対象に自らを結びつけることができるし、そして内容には関わらないから、だからそれは形式的なものである。また、満足というものは外にあるそこの具体物についてみても、状況しだいで見つけられる偶然的なものである。(第一に)私が満足のために必要とする手段は外的なものであって、私に依存していない。第二に、私が手段を通して手に入れた状況にあるそこに在る物は、それが私に満足をあたえるという点では、私のためになされ、私のものとならなければならない。しかし、この満足は偶然である。私が行ったことの結果はだから、必ずしも私の許にもたらされない。私は必然的なやり方で満足を享受しているわけではない。

— Das Vergnügen entspringt also aus zweierlei Umstän­den: erstens aus einem Dasein, das man vorfinden muss, was ganz vom Glück abhängt; und zweitens aus einem solchen, das ich selbst hervorbringe. Dies Dasein hängt zwar, als Wirkung meiner Tat, von meinem Willen ab, aber nur die Handlung als solche gehört mir, hingegen der Erfolg muss nicht notwendig auf mich zurückkommen, folglich auch nicht der Genuss der Handlung. In einer solchen Handlung, wie die des Decius Mus  für sein Vaterland, liegt, dass die Wirkung derselben nicht auf ihn als Genuss zurückkommen sollte. Es sind überhaupt nicht die Folgen zum Prinzip der Handlung zu machen. (※4)Die Folgen einer Handlung sind zufällig, weil sie ein äußerliches Dasein sind, das von andern Umständen abhängt oder aufgehoben werden kann.

したがって、満足は二つの異なる状況から生まれてくる。まず第一に、人はそこにある或る物から満足を見つけ出さなければならないが、それはまったく幸運に依存しているということ。第二に、そうした或る物から、私は満足を自分で生み出さなければならないということである。そこにあるこれらの物は、確かに、私の行動の結果として、私の意志に係わるものであるが、しかし、このような行為のみが私のものであるのに対して、その結果は必ずしも私のものとなるのでもない。したがってまた、行為の結果を必ずしも享受することにもならない。
デキウス・ムス のように彼が祖国のためになしたこうした行為の中には、行為の因果が果実として必ずしも享受されるものではないという一例がある。一般的には 結果を行動の原則 とするべきではない。行為の結果は偶然的である。というのも、行為の結果は外にそこに在る物であるが、それは他のあれこれの状況に依存しているものであり、無効にされうるからである。


プブリウス・デキウス・ムスPublius Decius Mus (紀元前340年、共和制ローマの執政官) - 市民のために借金の完済に取り組んだムスは、また自軍の勝利のために自らを生け贄に捧げた。古代ローマの伝説的英雄 ~Wikipedia 
https://cutt.ly/cUf7q2R


Das Vergnügen ist ein Sekundäres, ein die Tat Begleitendes. Indem das Substantielle verwirklicht wird, so fügt sich das Vergnügen insofern hinzu, als man im Werke auch sein Subjektives(※5) erkennt. Wer dem Vergnügen nachgeht, sucht nur sich nach seiner Accidentalität. Wer mit großen Werken und Interessen beschäftigt ist, strebt nur die Sache an sich zur Wirklichkeit zu bringen. Er ist auf das Substantielle gerichtet, erinnert sich sei­ner darin nicht, vergibt sich in der Sache. Menschen von großen Interessen und Arbeiten pflegen vom Volke bedauert zu wer­den, dass sie wenig Vergnügen haben, d. h. dass sie nur in der Sache, nicht in ihrer Accidentalität leben.

満足は派生的なものであり、行動に付随するものである。実体的なものが実現されて、また人はその作品の中に自分の主観的なものを認めるときには、満足が得られるものである。満足を追い求める者は誰も、ただ偶然性を追い求めることになるだけである。偉大な作品や事業に携わる者は、それを実現させるために、ただその事柄にのみに自らを打ち込む。実体のあることに彼は集中し、そのことに自己を忘れてその事柄に身を委ねる。
偉大な功績と事業に身を捧げた人間は、それに対してわずかな満足しか得られなかったことで、すなわち、ただその事柄のうちにのみ生きてその偶然性のうちに生きなかったことで、民衆からは同情されることになる。


(※1)
前の第三十六節において
die Übereinstimmung des Äußern überhaupt mit seinen inneren Bestimmungen
外にあるもの一般と人間の内にある欲求との一致、このことによって満足、充足がもたらされる。欲望、欲求 とは「感じられた矛盾」である。

(※2)
Das Vergnügen ist etwas Subjektives 
第一に、満足は何よりも主観的なものである。ある物事に満足や充足を見いだせるかどうかは、個人の主観しだいである。「蓼食う虫も好き好き」ともいう。そこには普遍的で客観的な基準というものがないから、したがって、この領域では、他者との議論は成り立たない。

(※3)
第二に、満足は偶然的なものである。満足の対象は、あれやこれや何にでも見出せるものだし、そこには必然性はない。また、満足の対象はまず私の外にあるものに見出さなければならないし、それは偶然に存在するものである。また、満足の対象を私自身が造り出しうるものとしても、そこに必ずしも満足を見出せるとはかぎらない。

(※4)
Es sind überhaupt nicht die Folgen zum Prinzip der Handlung zu machen. 
「一般的には結果を行為の原則とすべきではない」
満足や充足は偶然的なものであり、物事はやってみなければわからない場合が多い。
だから、往々にして、出来ないからやめておこうとか、世間で人気が得られるからやってみよう、とか考えがちである。

(※5)
偉大な事業を成し遂げ、大きな功績をあげうるためには、自己を忘れて一事に打ち込まなければならない。しかし、そのことによって、社会や祖国から必ずしも感謝されて報われるとはかぎらない。

 

 

 

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2021年クリスマス・イブ

2021年12月24日 | ヘーゲル『哲学入門』
 
2021(令和3)年12月24日(土)晴.
 
クリスマス・イブの土曜日の今日、ゲーテ『親和力』第三章を読む。
 

第三章

大尉がエドアルト、シャルロッテ夫妻の屋敷に来る。到着前に大尉からの手紙を読んで、シャルロッテは大尉の人柄に安心感をもっている。久しぶりの再会でエドアルトと大尉は活発に語り合う。夕方になってシャルロッテは大尉に新しい庭の散歩を勧める。丹精を込めたシャルロッテの庭を大尉は大いに気に入る。東家 ⎯ それは苔葺の小家だったが、シャルロッテは二人のために飾っていた。男たちの会話の中から、大尉とエドアルトがいずれもそのファーストネームがオットーであることがわかる。屋敷の方角から猟笛の音が聞こえてきたとき、三人はお互いのつながりに深く幸福を感じる。

エドアルトは東家からさらに見晴らしのいい丘の頂上へと大尉を案内する。頂上へと通じる段々や坂道はシャルロッテが手入れをしたものである。その山峡の中を渓流が池にそそいでいた。池の傍らには居心地のいい休憩所のように水車小屋が立っている。そこから見渡せる見事な眺望を前にエドアルトは友人に子供の頃の思い出を語る。

やがて三人は満ち足りた思いで屋敷へと戻ると、大尉にはその右翼の広い一部屋があてがわれた。大尉はその部屋に書類や書物などを整えて仕事ができるようにした。エドアルトは初めの数日間は大尉を連れて馬や徒歩で所有地の一帯を案内して回る。エドアルトは所有地を有利に使うために測量術に長けた大尉に計測の計画を打ち明ける。エドアルトはそこで大尉から妻シャルロッテの庭園づくりの素人ぶりを指摘されるが、大尉はシャルロッテの自信を傷つけてはいけないと口止めする。しかし初めの間こそ口には出さなかったが、エドアルトはとうとう堪えきれずに男たちの庭園の構想を話してしまう。シャルロッテはそのことで動揺し、それまでの庭づくりの楽しみを失ってしまう。

一方で男たちは貴族的な暮らしぶりに耽ったので、シャルロッテは日増しに心さびしくなりゆき、それを紛らわすかのように、姪のくらす寄宿学校との手紙のやりとりを交わす。

寄宿学校から届いた女校長と助教師の手紙によって、姪のオッティーリエの寄宿学校での生活の様子が伝えられる。オッティーリエが食事を十分にとらないこと、偏頭痛もちであることなどが明らかにされる。

女校長の手紙に添えられた助教師からは、オッティーリエがフランス語の授業に抜きん出ていること、将来教師をめざしていることなど、しかし、シャルロッテは助教師がオッティーリエについて、まだ若く固い将来を秘めた果実にたとえて書いて寄越したことに、教え子に対する好意以上のものを感じて微笑まずにはいられない。

 

J.S.バッハ: クリスマス・オラトリオ 第10曲 BWV 248:シンフォニア(第2部)[ナクソス・クラシック・キュレーション #特別編:クリスマス]

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第三十六節 [衝動と道徳]

2021年12月13日 | ヘーゲル『哲学入門』

§36

Der Trieb des Menschen nach seinem besondern Dasein, wie die Moral es betrachtet, geht auf die Übereinstimmung des Äußern überhaupt mit seinen inneren Bestimmungen(※1), auf  Vergnü­gen  und Glückseligkeit.

第三十六節[衝動と道徳]

人間の特殊な定在におけるその衝動を、道徳の面から見るならば、外的なもの一般と人間の内的な欲求との一致に関わり、満足幸福 に関係する。

Erläuterung.

説明

Der Mensch hat Triebe d. h. er hat innerliche Be­stimmungen in seiner Natur oder nach derjenigen Seite, nach welcher er ein Wirkliches überhaupt (※2)ist. Diese Bestimmungen sind also ein Mangelhaftes, insofern sie nur ein Innerliches sind.

人間は衝動をもつ。すなわち、人間はその生まれつきにおいて、あるいは人間が一般的に生身の存在であるという面において、人間は内的な欲求をもつ。これらの欲求は、したがって、それらが単に内的なものである限りにおいては、欠陥のあるものである。

Sie sind Triebe, insofern sie darauf ausgehen, diesen Man­gel aufzuheben d. h. sie fordern ihre Realisierung, die Übereinstimmung des Äußerlichen mit dem Innerlichen.Diese Übereinstimmung ist das Vergnügen. Ihm geht daher eine Reflexion als Vergleichung zwischen dem Innerlichen und Äußerlichen voraus, mag dies von mir oder dem Glücke herrühren.

欲求がこの欠陥を補うことをを目指している限りにおいては、それは衝動である。すなわち、衝動は、外的なものと内的なものとを一致させるようその実現を要求する。これらの一致が満足である。だから、自力によるものか、幸運によるものかにかかわらず、その満足には内的なものと外的なものとを比較する反省が先行する。

Das Ver­gnügen kann nun aus den mannigfaltigsten Quellen entsprin­gen. Es hängt nicht vom Inhalt ab, sondern betrifft nur die Form, oder es ist das Gefühl eines nur Formellen, nämlich der angegebenen Übereinstimmung. Die Lehre, welche das Vergnügen oder vielmehr die Glückseligkeit zum Zwecke hat, ist  Eudämonismus  genannt worden.

ところで、その満足はさまざまな源泉から生じうる。それは内容にかかわらず、ただ形式にのみ関係する。あるいは、その満足はただ形だけの感情、すなわち(内的なものと外的なものについて)得られた一致についての感情に関係している。満足あるいはさらに幸福を目的とする教えは「幸福説」とも呼ばれる。

Es ist aber darin unbestimmt, worin man das Vergnügen oder die Glückseligkeit zu suchen habe. Es kann also einen ganz rohen, groben Eudämonismus geben, aber eben so gut einen besseren; nämlich die guten wie die bösen Handlungen können sich auf dies Prinzip gründen.(※3)

しかし、幸福説では、満足や幸福を人間はどこに探求すべきかということについてははっきりしていない。したがって、まったく洗練されない粗雑な幸福説がありうるが、しかし同時にまた、非常に優れた幸福説もありうる。すなわち悪しき行動と同じく善き行動も、幸福説のこれらの原則に基づくことができる。


※1
die Übereinstimmung des Äußern überhaupt mit seinen inneren Bestimmungen
外にあるもの一般と人間の内にある規定との合致。
inneren Bestimmungen は「内的な欲求」と訳した。
人間の内なる欲望は外にあるものによって充足される。

※2
ein Wirkliches überhaupt
現実的なもの一般。要するに生きて活動するもの。

※3
前節において、道徳的行為は、抽象的なものではなくて個々の現実に関わる具体的な行為であることが明らかにされたが、そこにある具体的な生身の人間としては、生まれつき何らかの衝動をもつ。
衝動とは、人間の内的な欲求を外にあるもので充足させようとすることである。衝動の充足は、満足と幸福にかかわる。



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ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第三十五節 [道徳と個人]

2021年12月06日 | ヘーゲル『哲学入門』

善きサマリア人のたとえ - Wikipedia https://go.ly/buMSC

§35

Die moralische Handlungsweise bezieht sich auf den Menschen nicht als abstrakte Person, sondern auf ihn nach den allgemei­nen und notwendigen Bestimmungen seines besondern Da­seins. (※1)

第三十五節 [道徳と個人]

道徳的な行為規範は抽象的な人格としての人間に関わるのではなく、人間の 特殊なその存在 の普遍的にして必然的な使命を通して人間に関わる。

Sie ist daher nicht bloß verbietend, wie eigentlich das Rechtsgebot, welches nur gebietet, die Freiheit des Andern un­angetastet zu lassen, sondern gebietet, dem Andern auch Posi­tives (※2) zu erweisen. Die Vorschriften der Moral gehen auf die einzelne Wirklichkeit.

だから、道徳的な行為規範は、法的な命令が本来的に他者の自由を侵害しないことを命じるように、ただ単に禁じるのみではなくて、むしろ、他者にまた肯定的なもの を与えることを命じる。道徳の規則は個々の現実にかかわる。

 

※1
die besondern Da­sein. 特殊な定在、特殊なそこにある存在。
ここでは「人間の特殊なあり方」のこと。より具体的には
「医師」とか「法律家」とか「教師」など、各個人がかかわる職業の形態のことを考えてみればいい。
個人は自身の従事する職業における道徳的な義務を果たすことを通して、普遍的な事業に、国家生活にかかわってゆく。
道徳的な行為規範は、人間のこうした特殊なそれぞれの職業がもつところの普遍的かつ必然的な使命に関わるものである。

※2
Posi­tives 肯定的なもの、積極的なもの
「己の欲する所を人に施せ」

※3
道徳的行為は、抽象的なものではなくて個々の現実に関わる具体的なものである。

新約聖書ルカ伝

<10:33>
ところが、この人のそばを通りかかった、一人の旅をするサマリヤ人が彼を見て気の毒に思い、
<10:34>
近寄って、その傷にオリーブ油とぶどう酒とを注いでほうたいを巻き、自分のロバに乗せて宿屋に連れて行って介抱した。

 

※4
いわゆる実存主義の立場からヘーゲル哲学に投げかけられる批判に、ヘーゲル哲学には「個人がない」というものがある。自身の具体的な生き方や決断を蔑ろにして、体系的思考に終始している、というのである。

また、もう一つの立場、マルクス主義の立場からのヘーゲル哲学批判もある。これはヘーゲル哲学が「「観想」に終始して、実践を欠いている」というものである。

これらは、いずれもヘーゲル哲学の「非実践的性格」に対する批判であると思われるけれども、これらの批判は確かに「ヘーゲルオタク哲学」に対しては妥当するかもしれないが、少なくともヘーゲル哲学自体に対しては成立しない。

「精神現象学」の序文でもヘーゲルは次のように書いている。「むろん個人は自身がなりうるものと成り、また自身にできることをなさなければならない」と。

現象学の中においても論証しているように、青年時代から老成していた彼の哲学は終始「ロマンティカー」に対しては批判的であった。キルケゴールをはじめ実存主義者たちの主張する個人(=個別)などは、普遍や特殊から切り離された悟性的な個人であって、そうした個人の「実存」や「実践」は客観性と必然性を欠いた低いものである。彼らの「実存」や「実践」は要するに「若造」のものでしかない。

ヘーゲル哲学それ自体に対するこうした多くの批判は的外れなものである。実存主義やマルクス主義などから行われるヘーゲル哲学批判についての反論はすでに幾つか書いているが、それらの問題については、いずれさらにまた詳しく考察する機会もあると思う。

 

 

 

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