ミネルバのフクロウ再論
以前に「ミネルバのフクロウ」と題して、哲学の意義について論じたことがある。そこで「ミネルバのフクロウ」に象徴される哲学というものは、「(歴史的な)現実が成熟した後に、その現実の中にひそむ実体を、知の王国として、観念の形態で、認識するに過ぎないということを言おうとしているのである。」と述べた。だから、そもそも哲学というのは「安っぽい理想論」を語ることでもなければ、思いつきの空想を述べることでもない。
とはいえ、それだけで哲学の特質を言い尽くしているかというと、もちろんそうではない。ヘーゲル哲学以降の近代哲学についてはとくにそのことが言える。なぜなら、ヘーゲル哲学のもう一つの特質として「必然性の徹底した追求」ということが挙げられるからである。
そして、ヘーゲルが自らの哲学のなかで、この論理必然性を追及してゆくことによって、従来のように単なる「愛智」(フィロソフィー)という立場に哲学がとどまるのではなく、「科学としての哲学」の立場を確立することになったのである。もちろん、ヘーゲル哲学の遺産を受け継がない、多くの自称哲学が、いまだ単なる「愛智」の域にとどまっているとしても。
ミネルバのフクロウに譬喩される哲学は、だから「新しい知恵の到来を告げ」るようなものではないにしても、その必然性の追求と認識によって未来の洞察への道を開くことになる。カントが自らの哲学によって、自由を歴史の目的として認識することによって、その普遍的な法則性を論証することによって、圧政や抑圧の崩壊の必然性を洞察したようにである。かくして歴史を科学的に探求する道も開いたのである。
カントとその弟子ヘーゲルの哲学に共通する特質は何よりも、必然性の追求という「哲学的科学」あるいは「科学的な哲学」としての性格である。それは必然的にさらに、もっとも抽象的にして普遍的な法則性としての「弁証法の論理」の解明に向かうことになる。
現実を科学的に研究するというのは、事物に内在する普遍性・特殊性・個別性を認識することでもある。哲学は、また哲学的な歴史学も、その必然性の洞察によって、もちろん「新しい知恵の到来を告げ」るようなものではないにしても、将来における未見の事実を予測しうる道を開いたと言える。
たとえば、現在の中華人民共和国政府と日本政府の両者の間に存在する尖閣諸島における領土問題の取り扱いの如何によっては、将来のいずれかの時において両国間における戦争に発展する可能性を、相当の確率で予測しているようにである。