夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

トランプ氏、テロリストに撃たれる

2024年07月15日 | 国家論

 

トランプ氏、テロリストに撃たれる

 

今日のいつ頃だったか、ネットを見ていて、アメリカの元大統領で、この秋に再び現職のバイデン大統領を相手に再選を目指して選挙キャンペーンを行なっていたトランプ氏が、テロリストに銃撃されたというニュースが目に入った。

気になって検索してみると、耳から顔にかけて血を流しながら、シークレットサービスに取り巻かれているトランプ氏の写真が、誰かのツイッター(X)の中に上げられていた。さらに調べてみるとすぐに、同じ場面の映像のある動画で、トランプ氏が拳を上げながら、シークレットサービスに覆い隠されるように囲まれながら、そのままSUV車に押し込まれるように画面から見えなくなった。

この動画を見た限りでは、トランプ氏の命に別状はなさそうだった。先週にはテロリストに暗殺された我が国の安倍晋三元首相の三回忌が営まれたばかりだった。今は亡き安倍晋三氏もトランプ氏も、多くの敵対者を抱えていたことは知っていた。安倍晋三氏については、個人的にはどちらかと言えば「消極的な支持」という立場だったが、安倍晋三氏は「愛国者」であるとは思っていた。

この度危うく頭蓋を撃ち抜かれそうになったところを奇跡的に助かった元大統領のトランプ氏も、アメリカファーストと愛国者(パトリオットpatriot)を唱え、赤い帽子をかぶって、この日も「Make America Great Again」を唱えていたはずである。

トランプ氏の思想信条を知るには、氏が現職の大統領である時に国連で演説した時のスピーチがもっとも適当であるとかねて思っていた。ここで久しぶりにトランプ氏の政治的な信条を再確認するためにも、YOUTUBE に残っていた動画をこのブログにも記録して、できれば日本国民の一人でも多くの人に知ってほしいと思った。

トランプ氏はアメリカの次期大統領候補として有力であり、秋のアメリカ大統領選挙にもしトランプ氏が選出されれば、氏の外交方針は国際情勢に大きな変化をもたらし、我が国にも、もちろん改めてその適切な対応が求められるはずだからである。トランプ氏は「アメリカ第一主義アメリカファースト」を唱え、これまでもその同盟国に対しても自力防衛のための軍事費の負担増を求めてきた。

トランプ氏の国連演説の内容については、動画の字幕同時翻訳か文字起こし機能を使えば、そのおおよそのところは把握できると思う。

President Trump addresses U.N. General Assembly - FULL SPEECH (C-SPAN)

 

トランプ氏の政治思想の核心は、「国民国家の尊重」もしくは、その擁護にある。この政治的な立場は、反国家主義の立場にある人々からは、反感を買う。とくに社会主義、共産主義は「労働者は祖国をもたない」と主張する国際主義でもあるから、そうした政治的な信条をもつ人々からは憎しみを買う場合が多いようである。射殺されたテロリスト犯も、おそらく、そうした政治的な信条をもってトランプ氏を憎んだのだろう。

また、その一方で、GAFAと称される、Google社 やApple社、Microsoft、Facebookを運営するMeta社など、巨大な国際的な大企業は、その企業運営はグローバリズムとして、また社会主義や共産主義とは異なった立場から、国民国家の立場とは矛盾する場合が多い。

要は、「国民国家」を支持するのか、その伝統、文化、民族的な生活様式などを大切に保守していこうとするのか、それとも、反国家の国際主義か、グローバリズムの立場に立つのか、それによってそれぞれの政治的な立場は異なってくる。しかし、いずれの政治的、思想的な立場に立つにせよ、トランプ氏の暗殺を狙ったこの二〇歳の青年のように、暴力をもって異なる政治的思想的信条をもつ者の口を封じようとするのは、自由と民主主義に反する。

我が国においては、戦前から今日にたるまで、学界、大学アカデミズム、マスメディアは、とくにマルクス主義の、すなわち共産主義の影響を深刻に受けており、そうした環境で教育を受けた若者、青年たちは、国家主義者らに対してはいうまでもなく、たんなる「国民国家」への愛国者に対しても、嫌悪や憎悪といった感情、偏見をもつ場合が多いようだ。二年前に安倍晋三元首相を暗殺したテロリスト青年も、おそらくそうした一人だったのだろう。

 

 

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保守自由党と民主国民党による日本政治

2024年02月05日 | 国家論

 

保守自由党と民主国民党による日本政治


きのうの私のブログを見ると、このブログを立ち上げてまだまもない二〇〇五年の九月ごろに書いた『自由と民主政治の概念』という論考が「このブログの人気記事?」の筆頭に上がっていました。 ── その記事を書いてから早いもので、すでに二〇年近くも経過していることになります。

 ──その当時から現在の日本の政党政治の現実を見ても、現況はさらに悪化しており、その停滞と混沌ぶりは目に余るものとなっています。年明けてまもなく、清和政策研究会(旧安倍派)や二階派、さらに現在の岸田首相の総裁派閥である岸田派などの自民党のパーティー券収入にかかわる政治資金規正法違反があり、旧安倍派などにあっては、西村氏や 世耕氏などの幹部クラスが検察の槍玉に挙げられて政治生命すら失いつつあるような状況にあります。

その一方、日本を取り巻く今の国際環境は、ロシアのウクライナ侵略やイスラエル・ハマス戦争、さらに軍事的に脅威を増しつつある台湾有事の懸念など、日本のおかれた国際的な環境は、軍事的にも片時も揺るがせにできない緊迫した中にあります。また、日本の国内状況を見ても、令和六年の正月すぐに能登地方を襲った大地震など、その支援体制と復興に一刻を争う中で、緊急を要する国内行政でも効率的で迅速的な有効な諸政策が講じられていません。国内政治も外交も混迷を深めるばかりに見えます。これでは国民に安定した福祉と幸福な日常生活は望むべくもありません。現在の日本の政党政治の改革をなんとしてでもやり遂げて行かなければなりません。

 20年ほど前に書いた「自由と民主政治の概念」という私の論考においては、日本の政党政治が、基本的には自由党と民主党の二大政党によって担われていくことを主張したものですが、それは二〇年近くも経過した今もなお実現されていないのは、我が国の現在の政党政治の現実に見る通りです。この堕落した無能力の政党政治を改革しなければ、国民の生活もさらに劣化していくばかりで、また軍事国防においても外国からの侵略から国家主権と国民生活を守り切ることさえもできないと思われます。

まず、根本的に重要なことは、政治家たちも国民一人ひとりも、日本国の国家理念を、「自由にして民主的な独立した立憲君主国家、日本」を国家理念として、国家目的として自覚して、必要とあればそれに命をかけても追求していくことだろうと思います。

この国家理念の追求は具体的には、自由の実現は「保守自由党」の手で、また、民主的な国家社会の形成は「民主国民党」にそれぞれ中心的に担わせ、この国家目的を、この二つの国民政党によって追求し実現していくのが理想的です。その一方で、日本国民の一人ひとりが、我が国の政党政治の中から「全体主義的な政党」や「カルト政党」といった性格をもつ政党を排除していくこと、そうした見識をもって行動していくことです。そうして国民の一人ひとりの生活の安定と幸福に直結する日本の政党政治の改革につなげて行くことです。

 

自由と民主政治の概念 - 作雨作晴 https://tinyurl.com/28435ams

日本国の「国家理念」の定式化とその意義について - 夕暮れのフクロウ https://tinyurl.com/25bdu6pm

民主主義の概念(2)  兵役の義務 - 夕暮れのフクロウ https://tinyurl.com/29bmuz5h

§280 Zusatz.[君主と完成された国家組織体] - 夕暮れのフクロウ https://tinyurl.com/22qjuqx9

 

 

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牧野英一 著『最後の一人の生存権』

2023年07月19日 | 国家論

 

下記の文章は、テロに倒れた故安倍晋三首相の一周忌の翌日に、私の日記用のブログに記事として投稿したものですが、この哲学研究のためのブログにも、転記しておくべきとも思いました。というのも、表題こそ「牧野英一 著『最後の一人の生存権』」というものになってしまいましたが、そこで問題にしていることは、現実的な「国家論」であり、「憲法論」であるからです。とりわけ「国家の概念」を問題にしているからです。

これまでにも、GHQの占領期に制定された「現行日本国憲法」が歪んだ国家概念にもとづいたものであることは繰り返し主張してきましたし、むしろ「大日本帝国憲法」の方がはるかに正しい国家概念に上に制定された憲法だからです。

肝心なことは「正しい国家概念」を明らかにすることであり、国家概念の真理の上に憲法が制定され、その上に国家は構築されるべきものです。

故安倍晋三元首相などが主張していた、自民党の憲法草案などによっては、現行日本国憲法の不完全な国家概念も根本的に是正も改善もされずに、むしろ現在の国家のあり方の歪みが未来においてさらに固定され延長されてしまいます。

 

>>  <<  引用

 

牧野英一 著『最後の一人の生存権』 - 作雨作晴 https://is.gd/tJySg7

 

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/8c/3b81d3ed51a3b7601f9b2ea4983a025f.jpg

牧野英一 著『最後の一人の生存権』 https://dl.ndl.go.jp/pid/926353/1/2

 

文献のデジタル化も最近では進んできて、明治や大正期の優れた学術書も、PDF などの文書の形式で、パソコンやタブレットで読めるようになっているようです。上記に挙げた、牧野英一 著『最後の一人の生存権』( https://dl.ndl.go.jp/pid/959929/1/35 )なども、ダウンロードしてタブレットやパソコンなどでも読めるようになっています。

ただ悲しいかな、読みたい本や読むべき本は無数にあるのに、そのための時間がほとんどないのが現状です。表題の本も半分ほどは読み進めましたが、時間の関係で途中で中断せざるを得ませんでした。しかし、いつかまたタブレットで再読できるように、Kindle やアップルの BOOK にダウンロードしておきました。

もし、こうした書物に興味や関心をもたれる方がおられるならば、ぜひ読んでいただきたいと思います。

そして、戦前の我が国の学術や文化を一律に否定、破棄するのではなく、学び継承すべきものは学び継承していきたいと思います。そうして国民の総力をあげて現在の我が国の学術文化の水準もさらに比類なきまでに高め、それが実現した暁には、戦後GHQの占領下に半ば強制的に作られた「現行日本国憲法」を廃棄し、忘れ去られた「大日本帝国憲法」を改めて見なおし検証して、私たち国民の主体性をもって、日本国民による日本国民のための「新日本(帝)国憲法」を制定していきたいものです。いまだ見果てぬ夢ですか。

今は亡き東大名誉教授の奥平康弘氏は「「天皇制」は民主主義と両立しない」と主張されていましたし、今なお憲法学の権威とされる樋口陽一氏は「天皇ロボット論」を唱えておられます。私などの立場からすれば、自著の憲法学術書をたとい背丈ほどに積み重ねられようと、こうした言説を主張される限り「樋口陽一憲法学」はそれ一発でアウト、と断ぜざるを得ません。ただ誤解のないよう言っておきますが、どのような言説、理論を主張されようが、それは彼らの「学問の自由」ではあります。

憲法の改正については、今の日本の憲法学会、「法科系アカデミズム」にはほとんど期待できないと思います。今日の学術会議、大学などの現状は見る通りです。また今日の教育では、憲法改正(悪)を唱えた故安倍晋三元首相に対しても、若者たちにテロ行為に走らせることができても、止めることはできませんでした。

なお、現在さまざまな政党や新聞社、学者たちなどから提案されているような憲法草案を見る限りは、改正というより改悪になりかねず、「下手に憲法改正しない方がいい」というのが私の今の立場です。

選挙の応援演説中にテロに倒れた安倍晋三元首相、一周忌の翌日に。

 

 

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Watch: Highlights of King Charles's and Queen Camilla's coronation

2023年05月06日 | 国家論

Watch: Highlights of King Charles's and Queen Camilla's coronation

 

 

英国の立憲君主国家体制は、日本のこれからの憲法改正の上での貴重な研究対象になると思います。

ヘーゲル「立憲君主制について」(「夕暮れのフクロウ」記事一覧20180808〜20181026) - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/jrMhon

§280 Zusatz.[君主と完成された国家組織体] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/doHABd

 

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「自衛隊」という名の「軍隊」

2022年02月15日 | 国家論


「自衛隊」という名の「軍隊」

 

旧日本国軍の総括 - 作雨作晴 https://is.gd/d1UrqO

沖縄問題と新日本国軍 - 作雨作晴 https://is.gd/qmD8p9

という二つの記事が、今日の「このブログの人気記事」の項目の中に、一番目と三番目に挙げられていたので、久しぶりに再読した。時間の経過も早いもので、前者は2007年10月09日に、後者は2007年10月15日に書いたものである。すでにそれから15年の歳月が過ぎている。

この「旧日本国軍の総括」という小論を取り上げたのも、沖縄県で10万人を集めて?「旧日本軍の強制による集団自決についての教科書の記述変更に反対する集会」があったそうで、多数の大衆動員による政治的圧力で「歴史の真実」を決定するかのような沖縄県の現状を見て、「旧日本軍の強制による集団自決」の強制の「真実」がどのようなものであったのか、は純然たる歴史的、客観的事実の問題として「真実は多数決では決まらない」ことを主張しようとしたものである。

また同時に、そこに沖縄県民に代表される「戦後民主主義の軍隊観」に問題を感じたので、それに対して批判的に考察したものである。

現代国家においては、軍事組織は必然的であって、世界に軍事力を保持しない諸国家はない。しかし、唯一の例外は現行日本国憲法を看板にする日本であって、  そこには

第二章 戦争の放棄

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動
たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、
永久にこれを放棄する。
2前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦
権は、これを認めない。

と規定されている。したがって、我が国においては、憲法上は「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」ことになっている。

この第二章の規定は明らかに、日本の大東亜戦争の「敗戦」の結果としてのGHQの占領統治という歴史的な背景の上に制定されたものであり、歴史的にも国際政治的にも非現実的な規定であることは論を俟たない。

この第二章の規定によってもたらさる矛盾の結果として、我が国では「陸海空軍」ではなく、警察組織の延長のようなヌエのような軍隊もどきの「自衛隊」という組織しか持ち得ないことになっている。しかもなおそれを保持したまま一世紀を迎えようとしている。

「自衛隊」は、憲法上も保持することのできない「陸海空軍」ではないはずであるから、日本橋でも銀座の大通りでも二重橋でも国民を前に堂々の分列行進すらできない。このような憲法下では、日本国は到底まともな「国家」であることができない。

だから国軍の名称についても、相変わらず「自衛隊」などという哀れな恥しらずの名称に留まっているし、その自衛隊の階級称についても「一等陸佐、二等陸佐、二等海尉、三等海尉」などという笑えるような呼称のままになっている。

 

 

 

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日本国の「国家理念」の定式化とその意義について

2019年04月23日 | 国家論
 
 
日本国の「国家理念」の定式化とその意義について
 
 
日本国の国家理念、⎯⎯「自由にして民主的な独立した立憲君主国家」

現代日本の政治家の資質の劣化については、多くの国民にも気づかれ始めているのではないだろうか。右派に人気のある、ある作家の言によれば、現在の日本の政治家の八割方が「屑」の政治家なのだそうである。

しかし、現在の日本の政治家たちに、「野党の政治家たちは全部屑だ」などと愚痴ったところで、もちろん日本国民はいささかも幸福にもならず、日本政治の堕落と腐敗の事態がいささかでも改善するものではない。

考えなければならないのは、なぜ現在の日本の政治家たちの多くが国民多数の目には「屑」に映るのか、また、どうすれば国民の負託と需要に十二分に応えるこのとのできる資質と能力を持った政治家たちを得ることができるのか、ということだろう。

日本の政治家たちが「屑」に映るというのは、彼らが国民の貴重な税金を費消していながら、日本国民の多数の負託に十分に応えきるだけの資質と能力を欠いているためである。それは、最近の政党支持率を見ても明らかである。



【図解・政治】政党支持率の推移:時事ドットコム https://is.gd/VefYyA
 
 
支持する特定の政党のない国民の割合は、実に、六割にも達する。もし彼ら政治家たちが、民間の営利企業の経営者であるならば、これほど国民の需要に応えきれない企業として、もうとっくの昔に倒産していることだろう。

彼ら政治家たちもまた親方日の丸で、彼らの職業活動である「政治」によって国民の需要に応えることがなくとも、政党交付金など税金で養われているために失業もしないから、堕落しきっているのである。
 
上記の政党支持率の推移の表を見てもわかるように、政党は一強多弱の状態にある。第一に、弱小野党が七党もあるというのは、いかにもこれらの諸政党が雑魚野党であることを示しており、これでは国民のための強力で効率的な政治は実行できない。

どうして、現在の日本政治がこんな雑魚野党の集合体になってしまったのだろうか。おそらくそれは、現代の日本の政治家たちの国家哲学や国家の理念についての認識がとりわけ貧困であること、それに起因する資質や能力の劣化に原因があると思われる。
 
イギリスの政治思想家スマイルズによれば、「国民は自らの民度にふさわしい政治しかもてない」ということらしい。このことが真理であるならば、やはり自らの民度を自己批判して何とか向上させてゆくしか手はないのかもしれない。(政治のありようは、その国民の鏡

日本国の国家理念については、以前に「自由にして民主的な独立した立憲君主国家」として定式化したことがある。これは、日本の国家としての理念であるとともに、日本国のもっとも普遍的な概念でもある。

それは国家の概念としては絶対的なものであり、日本国としての理念はそれ以外にはあり得ないものである。政党政治として、いやしくも日本国の政党である限り、与党も野党もこの国家理念を政治理念とすべきであり、すべての政治家は、この政治理念の実現を目指して政治に従事すべきものである。

もし、この政治理念に異を唱える政治家、政党が存在するならば、この政治理念に対する批判を明らかにして、自らの政治理念の優越とその正当性の根拠を論証すべきだろう。

「自由にして民主的な独立した立憲君主国家」というこの普遍的な理念を日本国において具体的に現実的なものとしてゆくのは政治家の使命である。さらに、この国家の理念からいえば、日本国に存在すべき政党は、論理的には、自由を実現する「自由党」と民主的な国家社会の形成を目的とする「民主党」以外ではあり得ない。

この二つの政党によって日本国の政治が担われるべきものであり、かつ、それで必要にして十分である。そして「自由党」も「民主党」もいずれも、さらに根本的により完成された「独立した立憲君主国家」の実現を使命とする。日本国の政党と政治家は、この国家の理念を立法において、司法や行政、また軍事国防などの組織において、さらに具体的に現実的なものとしてゆかなければならない。
 
イギリスであれアメリカであれ、多少なりとも「まともな国家」であるならば、「自由党」と「民主党」に相当する現実的な国民政党が、それぞれ交代して国家の政権を担っている。たとえば、イギリスにおいては保守党と労働党が、アメリカにおいては共和党と民主党がそれに相当する。

しかし、とくに我が国には、イギリスにおける保守党、アメリカにおける共和党に相当するような、自由と伝統を堅持する、いわゆる「保守政党」が存在しない。これは日本の宿痾といえるほどの政治の貧困であり悲劇である。日本の政治家たちの資質能力の劣悪さはここにまで至っている。とくに野党の現状はひどすぎる。

日本の政治家たちの国家理念についての認識がもし明確なものであるならば、日本の政界も「立憲民主党」「小沢自由党」「希望の党」「国民民主党」などといった上記の表に見るようなわけもわからぬ雑魚政党の、烏合の寄り合いに成り果てることもなかっただろう。
 
 
 
 
 
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元号と政治家

2019年04月03日 | 国家論
 
 
元号と政治家

政治家たちは皇室に関連することについて、あまり口を挟まないほうがいい。皇室にかかわる問題、事柄は、いわゆる識者、学者、文化人といわれる人たちに任せておけばいい。与党であれ野党であれ、政治家がしゃしゃり出て、皇室について余計な口を挟むべきではない。

とはいえ「天皇ロボット」論などを唱えておられる憲法学の泰斗である樋口陽一氏などは、今回の政治家、安倍晋三首相の元号の制定の過程における政治利用に反対できないはずだ。なぜなら、樋口陽一氏にとっては、恐れ多くも天皇陛下は、国民主権のもと選挙で選ばれた政治家、内閣総理大臣、安倍晋三氏のロボットと等しき存在でなければならないそうだから。憲法学の大先生、樋口陽一氏には立憲君主国家の意義が理解できない。

新しい元号の解釈などは、学者先生たちに、歴史家、文学者、古典研究者たちに任せておけばいいことであって、何も素人の政治家である内閣総理大臣の安倍晋三氏が、出しゃばって新元号の講釈などを垂れなくてもいい。

いうまでもなく、元号は皇室のものであり、国民主権の「国民」といった正体の定かでもない、またその実体もよくわからない雲をつかむような得体も知れない存在が決めるものでもない。

元号をお決めになるのは、あくまでも天皇陛下であって、内閣総理大臣の安倍晋三氏でもなければ、ましてや官房長官の菅義偉氏でもない。もし現行の日本国憲法が、日本の古来からの確立した慣習法から逸脱しているのなら、改正されなければならない。

内閣総理大臣はただその職責において「有識者」を組織して、元号について候補となる諸案を研究させる。その過程の中から内閣は閣議などを経て、いくつかの諸案を絞り込んでゆき、それらを新しき天皇陛下に奏上して、その諸案の中から最終的にご決定いただくべきものである。

たとい内閣総理大臣であっても、政治家である安倍晋三氏やまして官房長官である菅義偉氏などには「元号」についての最終決定権はない。このたびの「平成」後の新しい元号の制定過程を見ていて、あたかも現在の政権与党を担っている自民党政府の内閣に元号制定権があるかのように振舞っていた。

安倍晋三氏などは、あたかも自分が音頭をとって新元号を制定したかのように、高潮した浮かれた趣で、新元号である「令和」の意義の講釈を行なっているように見えた。そこには、元号はあくまでも皇室のものであって、内閣などの政治家たちによって政治的に決められるものではないという、元号制定についての政治家としての自己相対化の自覚と謙虚さがないように思えた。皇室のものである元号を取り扱っているという畏れや謙遜も見えなかったように思う。(思い違いなら幸いである)

立憲君主国家についての深い哲学的な洞察もない、国家社会主義の系譜を引く、「保守」を自称する政治家としての安倍晋三氏の振る舞いだけがそこに見られた。
 
(※20190403追記)
 

「天皇ロボット論」者である憲法学者、樋口陽一氏らには、なぜ内閣総理大臣である安倍晋三氏の「元号の政治利用」について批判する資格がないのか、上記での論考だけでは分かりにくいかもしれません。下記の論考なども参考に。

『天皇機関説』と『象徴天皇ロボット論』https://is.gd/54Lvs0
 
(追記201904010)
 
 
 
 
 
 
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今日は天皇誕生日

2018年12月23日 | 国家論

 

今日は天皇陛下のお誕生日。天長節ともいう。平成時代も今年が最後ということもあって、NHKでも「天皇 運命の物語」と題して4回にわたって平成天皇の軌跡をドキュメンタリーとして放映するらしい。NHKのニュースセブンが終わると、続いて十九時半から第一話として「敗戦国の皇太子」が放送されていたので見た。

昭和8年にお生まれの今上天皇陛下は、大東亜戦争という激動の時代を生きられた昭和天皇の後を継がれて、戦後GHQ憲法下という歴史的にも稀有な時代において皇室を生きられた。このドキュメンタリーを見て印象に残ったのは、立太子礼を終えられたばかりの19歳の時に英国のエリザベス女王の戴冠式に昭和天皇のご名代として英国を訪問された時のことである。

戦争の傷跡もまだ生々しい時にあって、元捕虜の英国兵たちから皇太子の訪英に反対運動が広がり始めた。その時に未だ政治家として現役にあったチャーチルが皇太子を招いて晩餐会を開いた。そして、そこへ野党労働党党首など皇太子の訪英に反対する者たちも招いて彼らの気持ちを和らげたのである。敵国の皇太子に対するチャーチルの心遣いを見て、あらためてこの政治家の器量の大きさを感じた。

老練な政治家として英国の立憲君主国家体制を深く理解していたチャーチルは、同じ立憲君主国家としての日本の若き皇太子を、戦争の恩讐を超えて暖く遇したのである。

この秋にたまたま、私はヘーゲルの「法の哲学」、第三部 倫理、第三章 国家の§275から§286までa 君主権の個所を訳して註釈とともにブログに公開したことがある。「夕暮れのフクロウ」記事一覧20180808〜20181026

私がヘーゲルの「君主論」について拙訳ながら訳出しようと思ったのは、今は亡き奥平康弘氏という憲法学者が東大名誉教授という公職にありながら、「「天皇制」と民主主義は両立しない」と自らの著書で主張されているのをたまたま知ったことがきっかけだった。

国家体制について自由に選択しうるものかどうかも問題であるけれども、それはとにかく、もともと伝統的な立憲君主国家体制を支持し、またヘーゲルの「法の哲学」の立場に共感するものとして、奥平康弘氏の著書「「万世一系」の研究」の結論は納得できないものだった。ヘーゲルの「君主論」の一部でも身の程知らずにも訳そうと思ったのもそのためである。

英国はエリザベス女王という国家君主を戴いている。それにも関わらず紛れもなく英国は世界からも歴然たる民主国家として認められている。しかし、宮澤俊義氏や樋口陽一氏などの東京大学の法学部教授たちは、彼らの「天皇ロボット論」などに見られるように、東大派憲法学は昔から「民主主義と天皇制は両立しない」という立場にあるらしい。ということは要するに、彼らは憲法学者の立場として「立憲君主国家」の意義を理解していないということである。

また、東大法学部で樋口陽一氏や奥平康弘氏らの憲法学の訓導を受けた戦後民主主義の世代の若者たちは、そのまま彼らの憲法観を受け継いで大学教授や官僚になったり、あるいは朝日新聞やNHK などのマスコミなどの幹部に上りつめた記者やディレクターたちも少なくないはずである。彼らはその結果として、その反皇室の国家観の立場で、記者活動や映像活動を行なっている。

したがって平成天皇の来年のご譲位の報道についても、「皇室典範」の規定に従った正しい法令用語である「譲位」を意図的に避けて、「生前退位」とか「退位」とか「即位」とか不完全な用語を使い、また「皇太弟」という伝統的な用語を避けて、「皇嗣殿下」といった珍奇な用語で国民を意図的に誤導することになっている。

不謹慎ながら現在の皇室にもし「悲劇的」な一面があるとすれば、皇室の藩屏としての皇族の層があまりにも薄く、また、内閣にも宮内庁にも、戦後まもなくにはまだ多く存在していた、安岡正篤や小泉信三などの日本の伝統についても造詣の深い国家哲学を有した人間が現在の皇室の身近な周辺に一人もいないらしいことである。

井上毅については言うまでもがな、安倍晋三や菅義偉たちや現在の宮内庁長官たちの人物のレベルでは「立憲君主国家」における「皇室」の存在の意義についての哲学的な洞察は無理である。

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
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2018年、平成30年の春

2018年04月04日 | 国家論

 

今年の春は、花の季節に晴天が続いたために、花見時に雨に降られた昨年とは異なって存分に花を楽しむことができました。人間世界とは異なって、自然界は法則通りに、汚れなき美しさを今年も見せてくれます。しかしここに写真に記録した花の姿もやはり現実の面影には及びません。

日本の「生命の樹」である桜が見事に開花してその壮観さを見せてくれている間にも、我が国の政局は「森友・加計騒動」で明け暮れて内向きになってしまって、さらに深刻な北朝鮮をめぐる国際情勢の新たな展開などにも的確に対応してゆく余裕すらなく、置いてけぼりを食っています。

野党の体たらくは、与党に輪をかけてひどいと思います。批判は易しく創造は難しい。現在のだらしのない安倍自民党政権にすら、その経済政策、外交の力量において乗り越えることのできない現在の野党の無能力ではどうしようもない。これでは国民は安心して野党に政権を任せることはできません。民主党政権の三年間の日本の深刻な低迷が、国民の間にひどいトラウマとして残っています。かってあれほど定評の高かった日本の官僚たちの資質と能力も地に落ちているようです。

私のブログの論考なども少しは参考になると思うのに。「自由にして民主的な独立した立憲君主国家」としての日本国の理念、イデーに国民が命を捧げ戯れるならば、今年の春の桜のように日本国の壮観は永遠です。まず神の国を求めよ。そうすれば必要なものはこれに加えて与えられると言います。私にとっても、もうこれ以上の理念(イデア)はないと思います。しかし、このイデーを見失って日本国民は、いま惨めにも腐敗と堕落のうちにさすらっています。

 日頃行き来する通い慣れた道すがら、岩倉川沿いから高野川の川端通へと抜け、さらに賀茂川の荒神橋近くまで、冬枯れた木立の頃から赤く芽吹いた蕾へと、さらに一気に満開を迎えた桜並木が延々と続きます。行き来の途中に撮りためた写真でスライド動画を作ってみました。もう少し慣れればうまく編集もできるのでしょうが。音楽の著作権の関係から無断使用のクレームがあればこの動画も見れなくなるかもしれません。使わせていただいた曲は森山良子さんの「ガラス色の午後」です。

2018年、平成30年春

 

斎王桜  

 

 

 

 

 

 
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『天皇機関説』と『象徴天皇ロボット論』

2016年11月09日 | 国家論

 

『天皇機関説』と『象徴天皇ロボット論』

先日ネットを見ていて、たまたま行き当たったブログの中に「『天皇機関説』と『象徴天皇ロボット論』」と題して次のような論考が掲載されていました。弁護士の澤藤統一郎さんという方のブログの中の文章でした。(「澤藤統一郎の憲法日記」https://goo.gl/IpKRyi)
この論考を読んで、幾つかの関心と疑問をもったので、とりあえず感じたこと考えたことを忘備録メモ程度に記録しておこうとしたものです。
そこで引用されていたのは朝日新聞の記事になった『加藤周一記念講演会』で講演された樋口陽一・東京大学名誉教授のコメントでした。その際に司会者から天皇の「退位問題」へのコメントを求められた樋口陽一氏は、戦前から戦後にかけて活躍した憲法学者・宮澤俊義(故人)の憲法解釈を紹介して、次のように述べられたらしいです。

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「天皇には政治的権能がなく、その行為には内閣の助言と承認を必要とするとした新憲法のもとで、天皇は『ロボット』的な存在なのだと宮澤は説明していた。宮澤があえてその言葉を使った背景には戦後の象徴天皇制に関する『健康な構図』のイメージがあった、と樋口さんは語った。国民主権のもと、国民が選挙を通じ、政治家を介する形で、正しくロボットに入力していくという構図だ。」 

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私自身は樋口氏のこの講演を直接に聞いたわけではないですから、朝日新聞の記事が樋口陽一氏の発言を正しく伝えているものとしてですが、そこでまず疑問に思ったのは、次のようなことでした。

まず、樋口陽一氏は、この構図(憲法の規定)について「『健康な構図』のイメージ」と評価されておられるようですが、少し楽天的に過ぎるのではないかと思いました。

樋口氏は「民主主義(国民主権)」をあまりにも楽天的に捉え、「民主主義(国民主権)」に何らの疑問も、その否定的な側面についての深刻な問題意識もないように感じたことです。

少し極端な例かもしれませんが、ヒトラー政権もまたワイマールの民主的な憲法から登場したものです。恐れ多いことですが「天皇がヒトラーのロボット」になるかもしれないことに樋口陽一氏は想像力が及ばないのでしょうか。

また、このブログの筆者である弁護士の澤藤統一郎氏自身は、憲法学者、樋口陽一氏のコメントを引用しながら、ご自身の考えをさらに次のように述べられています。

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「帰するところは、象徴天皇とは何かという問題である。象徴とは、何の権能も持たない存在。存在はするが、厳格に自らの意思をもって機能してはならないとされる公務員の職種。これを宮沢は、『ロボット』と称した。そのことを紹介した樋口には、いま国民にそのことの再認識が必要との思いがあるのだろう。」

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澤藤統一郎氏はここで確かに、象徴天皇について「存在はするが、厳格に自らの意思をもって機能してはならないとされる公務員の職種。」と述べられておられる。

しかし、これは歴史や国家の本質についての洞察を欠いたあまりにも浅薄な認識だと言うしかないでしょう。たとえば、哲学者ヘーゲルなどは「国家」については――その見解に同意されるかどうかはとにかく――おおよそ次のような認識をもっていたようです。


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「一般的にいえば、国家という社会は、本質的には個人によって成り立つ社会というよりは、むしろ、それ自身として統一した、個性的な民族精神と見られるものである。(哲学概論 第三課程§194)」
「国家とは、精神がみずからを現実の形にした、そして、みずからを世界の有機的組織へと展開した、現実に存在する精神としての神の意思である。」(法哲学§270)
(参照 ヘーゲルの国家観① など  https://goo.gl/2Z1tMO)

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もちろん、ヘーゲルの国家観に必ずしも同意しなければならないというものでもありませんが、少なくとも、ヘーゲルのような国家観を持つ者の立場からすれば、国家の元首とでも言うべき国家を象徴する「人格」であられる天皇について、「公務員」とか「ロボット」とか「機関」などと称するのは、一個の有機的な生命体とでも言うべき国家そのものでもある天皇の「人格」について不謹慎にすぎるという誹りも免れないのではないでしょうか。

生きた具体的な「人格」について、それも国家元首の「人格」を単なる機能的存在としてのみ規定して終るというのは「人格否定」でしかないでしょう。人格を目的としてではなく手段としてしか見ていないからです。

たとえ「言論の自由」や「学問の自由」という点から、そうした発言も「自由」であるとされ、また今日においては暴力的にその発言が封じられるということはないにしてもです。

だから、戦前に美濃部達吉博士がみずからの「天皇機関説」によって、一部の「国体主義者」たちから批判を受けることになったことにもやむを得ない点もあったと思います。ただ「国体主義者」たちの犯した最大の過ちは、美濃部の「天皇機関説」を学問的な批判によってではなく、国家権力を利用して「発禁処分」にして学問と言論の自由を奪い、また一部の者をして暴力的なテロ行為に走らせて美濃部の言論を封じようとしたことにあると思います。

いずれにしても、「天皇機関説」を唱えた美濃部達吉や、宮澤俊義の「象徴天皇ロボット論」に自説を代弁させる樋口陽一氏やこのブログの弁護士、澤藤統一郎氏らの「天皇」についての低い理解は、結局のところは彼らの「国家観」や「立憲主義」についての認識の低劣さに根本的な原因があります。「理性国家」を理解できない「悟性国家論者」たちの哲学の低さに根本原因があります。

 

 ※ご参考までにここに引用した弁護士、澤藤統一郎氏の論考を紹介しておきます。

『天皇機関説』と『象徴天皇ロボット論』  澤藤統一郎

朝日が、「天皇の『お言葉』、憲法学者ら考察」として、「著名な憲法学者らが、先人の憲法解釈を引きながら天皇の『お言葉』問題を論じている。」と紹介している。

「憲法学界の重鎮の樋口陽一・東京大学名誉教授が、『加藤周一記念講演会』に講師として登場。司会者から天皇の退位問題へのコメントを求められ、戦前から戦後にかけて活躍した憲法学者・宮澤俊義(故人)の憲法解釈を紹介した。」

その内容が以下のとおりである。
「天皇には政治的権能がなく、その行為には内閣の助言と承認を必要とするとした新憲法のもとで、天皇は『ロボット』的な存在なのだと宮澤 は説明していた。宮澤があえてその言葉を使った背景には戦後の象徴天皇制に関する『健康な構図』のイメージがあった、と樋口さんは語った。国民主権のも と、国民が選挙を通じ、政治家を介する形で、正しくロボットに入力していくという構図だ。
『しかし実際はどうか』と樋口さんは、2013年に政府(安倍政権)が開催した『主権回復の日』式典に言及。『国論が分裂する中、沖縄県知事があえて欠席 するような集会に天皇・皇后両陛下を引き出して、最後には(天皇陛下)万歳三唱を唱和した』と批判し、『いまだに日本国民は、宮澤先生の言った正しい意味 での『ロボットへの入力』をすることができないでいる』と述べた。」
「今回(の天皇の生前退位希望発言)も、本来なら『国民が選挙を通して内閣の長に表現させるべきこと』だったとして、国民の責任に注意を促した。」
という。

帰するところは、象徴天皇とは何かという問題である。象徴とは、何の権能も持たない存在。存在はするが、厳格に自らの意思をもって機能してはならな いとされる公務員の職種。これを宮沢は、『ロボット』と称した。そのことを紹介した樋口には、いま国民にそのことの再認識が必要との思いがあるのだろう。

このことに関連して、天皇機関説論争が想い起こされる。
昭和初期、軍部の台頭と共に國體明徴運動が起こり、思想・学問の自由は圧迫されていった。その象徴的事件として、美濃部達吉を直接の攻撃対象とする天皇機関説事件が起こった。

美濃部の天皇機関説は、国家を法人とし、天皇もその法人の機関であるというに過ぎない。これが当時における通説となっていた。しかし、軍部や右翼 が、突然にこの学説を國體に反するとして、熾烈に攻撃しはじめた。舛添都知事に対する突然のバッシングを彷彿とさせる。既に満州事変が始まっていたころ、 これから本格的な日中戦争と太平洋戦争に向かおうという時代。1935(昭和10)年のことである。

貴族院議員であった美濃部が、貴族院において、公然と「天皇機関説は國體に背く学説である」と論難され、「緩慢なる謀叛であり、明らかなる叛逆」、 「学匪」「謀叛人」と面罵された。これに対する美濃部の「一身上の弁明」は院内では功を奏したやに見えたが、議会の外の憤激が収まらなかった。

天皇を『機関』と呼ぶこと自体が、少なからぬ人々に強烈な拒否反応を引き起したとされる。「天皇機関説問題の相当部分は、学説としての内容やその当否とは関わりなく、用語に対する拒否反応の問題である」と指摘されている。

以下、宮沢の「天皇機関説事件」は次のような「拒否反応発言」例を掲載している。(長尾龍一の引用からの孫引き)
「第一天皇機関などと云う、其の言葉さえも、記者[私]は之を口にすることを、日本臣民として謹慎すべきものと信じている」(徳富蘇峰)
「斯の如き用語を用いることすらが、我々の信念の上から心持好く感じないのであります」(林銑十郎陸軍大臣)
「此言葉は・・・御上に対し奉り最大の不敬語であります」(井上清純貴族院議員)
「この天皇機関説という言葉そのものが、私共日本国民の情緒の上に、非常に空寒い感じを与えるところの、あり得べからざる言葉であります」(中谷武世)
「天皇機関説のごときは・・・之を口にするだに恐懼に堪えざるところである」(大角岑生海軍大臣)
「唯機関の文字適当ならず」(真崎甚三郎陸軍教育総監)

右翼のなかには、「畏れ多くも天皇陛下を機関車・機関銃に喩えるとは何事か」との発言もあったという。

結局は、美濃部の主著「憲法撮要」「逐条憲法精義」「日本国憲法ノ基本主義」は発禁処分となり、政府は2度にわたって「國體明徴に関する政府声明」(國體明徴声明)を出して統治権の主体が天皇に存することを明示するとともに、天皇機関説の教授を禁じた。

美濃部は貴族院議員を辞職し、翌1936年、右翼暴漢に銃撃されて重傷を負うに至る。

戦前の天皇も、憲法には縛られていた。天皇やその政府の専横には立憲主義の歯止めが設けられていたはず。しかし、天皇の神聖性を侵害することは許さ れなかった。国民の憤激というチャンネルを介して、統治権の総覧者としての天皇(旧憲法1条)ではなく、神聖にして侵すべからずとされる神権天皇(同3 条)こそが、実は機能する天皇であったのではないか。

象徴天皇も事情はよく似ている。法的な権限も権能も必要なく、その存在が神聖で国民の支持を受けているというだけで、危険に機能する虞をもってい る。だから、「象徴としての天皇の行為は認めない」、あるいは、「これを極小化すべし」というのが戦後憲法学界の通説だったはず。

いわば、「ロボットに徹せよ」ということが、憲法が天皇に課している憲法擁護遵守義務の内容なのだ。しかし、問題は、憲法論よりは民衆の意識だ。次のように80年前の愚論が繰り返されてはならない。

「天皇をロボットなどという、其の言葉さえも、これを口にすることを、日本国民として謹慎すべきものと信じている」
「かくの如き用語を用いることすらが、我々の信念の上から心持好く感じないのであります」
「この言葉は・・・御上に対し奉り最大の不敬語であります」
「この天皇ロボット説という言葉そのものが、私ども日本国民の情緒の上に、非常に空寒い感じを与えるところの、あり得べからざる言葉であります」
「天皇ロボット説のごときは・・・これを口にするだに恐懼に堪えざるところである」
「ただロボットの文字適当ならず」
「おそれ多くも天皇陛下をロボットに喩えるとは何事か」

絶無とは考えられないので、敢えて言う。今、「宮沢・象徴天皇ロボット論」の紹介がけっして右翼からの攻撃対象とされてはならない。

(2016年11月5日)

 (「澤藤統一郎の憲法日記」https://goo.gl/IpKRyi)

 

 

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10月10日(月)のTW:〔契約国家説批判〕

2016年10月11日 | 国家論

※ 追記20161012

ここに取り上げた契約国家観は言うまでもなく社会契約論で主張されたルソ―ならびに啓蒙思想家たちの国家観である。

近現代において、この国家観と並んで大きな影響力を持ったのがマルクスの階級国家説である。国家は無産階級に対して有産階級を護る組織であり、文明の基礎は一階級による他階級の搾取であるとする国家観である。このマルクスのように国家は階級に従属するものと見るか、それともヘーゲルの理性国家のように、国家は階級から独立したものと見るか国家の本質についての議論は分かれる。

ただ、プロレタリア階級の独裁の必然性とその意義を主張したマルクスの思想は、やはり啓蒙思想の特質である「悟性的思考」の限界を示している。労働者階級は資本家階級の存在なくしてはありえず、そのまた逆もそうである。マルクスはこの両者を両立しないものとして、労働者階級によって資本家階級の消滅を図ろうとして国家そのものを殺してしまう。

そうではなく、問題の真の解決は、本質的に階級から独立した国家によって、矛盾敵対するこの両階級をより高い段階に理性的にアウフヘーベンしてゆくことである。それによって生命としての国家は活力を保つことができる。

 

 

 

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10月9日(日)のTW:契約国家説批判2

2016年10月10日 | 国家論
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中川八洋氏の西尾幹二氏に対する批判についての感想

2015年06月11日 | 国家論

 

もともと「国家の概念」、もしくは「国家の真理」について関心を持っている関係から、数多いる現代日本の思想家、論客のなかでも、さしあたって興味の持ちうる対象としては、西尾幹二氏と中川八洋氏の二人がいる。いずれも「保守派」の論客とされる学者たちである。

私自身はヘーゲルの「法の哲学」の立場を真理と認め、それを支持している関係から、国家形態としては「立憲君主国家体制」を至高の国家形態と確信している。したがって、いわゆる「共産主義」や「共和主義」の国家体制については、そもそも基本的に私の視野に入らないということもある。

それにしても私は一介のディレッタントでしかないので、西尾幹二氏や中川八洋氏らの政治思想について専門的に批評する能力はない。中川氏や西尾氏の著作を全部買い込んで、論評する余裕など私にはないし、せいぜいインターネット上で公開されている論考によって西尾幹二氏や中川八洋氏の政治思想の概略を掴むぐらいである。そこで最近になって中川八洋氏が、西尾幹二氏の最近の評論活動に対して、とくに西尾氏の一連の『GHQ焚書図書開封』シリーズに対して「激越」といってもいいくらいの批判を展開されていることは、いわゆる「保守派」の論調に興味と関心を持っておられる方々はすでに承知されていると思う。

とくに中川氏のその批判の核心は、西尾氏が戦前の日本の国体主義者たちを擁護することによって、現在のアメリカに対する敵対関係、敵対意識を増長し、むしろその方向に日本国民を扇動しようとさえしているという中川八洋氏の基本認識が、――危機意識と言ってもいいかもしれないが、あるからだと思われる。というのも、中川八洋氏はイギリスの立憲君主制を擁護するバーク主義者で、中川氏の思想的系譜から言えば、戦前の日本の国体主義者は「亜流共産主義者」に他ならず、「自由」と「法の支配」を国是とする国家アメリカ合衆国に戦争を挑んだ全体主義者としての戦前の国体主義者への西尾氏の擁護と弁解には我慢ができなかったのかもしれない。

私も戦前の日本の国体主義者が共産主義者の亜流であり、全体主義者たちであったという彼らの本質についての中川氏の認識にはほぼ同意できるものである。しかしそれでも、中川氏に全面的に同意できないのは、中川八洋氏がアメリカをあまりにも理想化しすぎているように思うことである。

国民の自由を抑圧した日本の国体主義者が償い切れない害悪をもたらしたのが問題なら、資本主義の本場アメリカの資本家連中の貪欲と獰猛についても批判的であってしかるべきだと思う。その点ではアメリカの資本家を代弁したルーズベルトなどの政治家たちの強欲に対して、日本の国体主義者たちが反感を示したのにも三分の理はあったと言うべきだろう。一方の西尾氏には国体主義者に対する批判的な観点がなく、中川氏はアメリカを褒めすぎだ。

大東亜戦争をはじめとして、国家間の戦争はそもそも国益の追求を巡って行われるもので、善悪で両者を裁こうとするのは、悟性的な認識の特徴で、物事を一面からしか見ないで判断しようとするものである。

西尾幹二のインターネット日録

中川八洋掲示板

 

 

 

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マルクス「ヘーゲル法哲学批判序説」ノート(1)

2015年04月06日 | 国家論


Karl Marx

Zur Kritik der Hegelschen Rechtsphilosophie. Einleitung

Die Kritik der deutschen Staats- und Rechtsphilosophie, welche durch Hegel ihre konsequenteste, reichste, letzte Fassung erhalten hat, ist beides, sowohl die kritische Analyse des modernen Staats und der mit ihm zusammenhängenden Wirklichkeit als auch die entschiedene Verneinung der ganzen bisherigen Weise des deutschen politischen und rechtlichen Bewußtseins, dessen vornehmster, universellster, zur Wissenschaft erhobener Ausdruck eben die spekulative Rechtsphilosophie selbst ist. War nur in Deutschland die spekulative Rechtsphilosophie möglich, dies abstrakte überschwengliche Denken des modernen Staats, dessen Wirklichkeit ein Jenseits bleibt, mag dieses Jenseits auch nur jenseits des Rheins liegen: so war ebensosehr umgekehrt das deutsche, vom wirklichen Menschen abstrahierte Gedankenbild des modernen|385|*Staats nur möglich, weil und insofern der moderne Staat selbst vom wirklichen Menschen abstrahiert oder den ganzen Menschen auf eine nur imaginäre Weise befriedigt. Die Deutschen haben in der Politik gedacht, was die anderen Völker getan haben. Deutschland war ihr theoretisches Gewissen. Die Abstraktion und Überhebung seines Denkens hielt immer gleichen Schritt mit der Einseitigkeit und Untersetztheit ihrer Wirklichkeit. Wenn also der status quo des deutschen Staatswesens die Vollendung des ancien régime ausdrückt, die Vollendung des Pfahls im Fleische des modernen Staats, so drückt der status quo des deutschen Staatswissens die Unvollendung des modernen Staats aus, die Schadhaftigkeit seines Fleisches selbst.

Schon als entschiedner Widerpart der bisherigen Weise des deutschen politischen Bewußtseins verläuft sich die Kritik der spekulativen Rechtsphilosophie nicht in sich selbst, sondern in Aufgaben, für deren Lösung es nur ein Mittel gibt: die Praxis.

Es fragt sich: Kann Deutschland zu einer Praxis à la hauteur des principes |die sich auf die Höhe der Prinzipien erhebt| gelangen, d.h. zu einer Revolution, die es nicht nur auf das offizielle Niveau der modernen Völker erhebt, sondern auf die menschliche Höhe, welche die nähere Zukunft dieser Völker sein wird?

Die Waffe der Kritik kann allerdings die Kritik der Waffen nicht ersetzen, die materielle Gewalt muß gestürzt werden durch materielle Gewalt, allein auch die Theorie wird zur materiellen Gewalt, sobald sie die Massen ergreift. Die Theorie ist fähig, die Massen zu ergreifen, sobald sie ad hominem |am Menschen| demonstriert, und sie demonstriert ad hominem, sobald sie radikal wird. Radikal sein ist die Sache an der Wurzel fassen. Die Wurzel für den Menschen ist aber der Mensch selbst. Der evidente Beweis für den Radikalismus der deutschen Theorie, also für ihre praktische Energie, ist ihr Ausgang von der entschiedenen positiven Aufhebung der Religion. Die Kritik der Religion endet mit der Lehre, daß der Mensch das höchste Wesen für den Menschen sei, also mit dem kategorischen Imperativ, alle Verhältnisse umzuwerfen, in denen der Mensch ein erniedrigtes, ein geknechtetes, ein verlassenes, ein verächtliches Wesen ist. Verhältnisse, die man nicht besser schildern kann als durch den Ausruf eines Franzosen bei einer projektierten Hundesteuer: Arme Hunde! Man will euch wie Menschen behandeln!

Selbst historisch hat die theoretische Emanzipation eine spezifisch praktische Bedeutung für Deutschland. Deutschlands revolutionäre Vergangenheit ist nämlich theoretisch, es ist die Reformation. Wie damals der Mönch, so ist es jetzt der Philosoph, in dessen Hirn die Revolution beginnt.

 カール・マルクス

ヘーゲル『法哲学』批判序説

ドイツの国家哲学と法哲学は、ヘーゲルによってもっとも首尾一貫し、もっとも豊かに、もっとも徹底した形で示されたが、これに対する批判は二つの側面を持っている。

それは近代国家とそれに関連する現実を批判的に分析するものである一面とともに、また、ドイツの政治的および法的な意識の従来のあり方全体に対する決定的な否定という一面である。

そしてこのドイツの政治的および法的意識のもっとも優れた、もっとも普遍的な、科学にまで高められた表現形式こそ弁証法的法哲学そのものにほかならない。この弁証法的法哲学は、近代国家についての一般的な深遠な思考であり、近代国家の現実はたといライン川の彼岸にあるとしても、やはりどこまでも彼岸のものとしてのみある。

このような弁証法的法哲学がただドイツにおいてだけに可能であったとすれば、逆にまた現実的人間を捨象するドイツ的な近代国家の思想像が可能であったのも、ただひとえに近代国家そのものが現実的人間を切り捨てているからであり、またその限りにおいてのみである。

ドイツ人は他の諸国民が実行したことを、政治の上で思考したのである。ドイツは他の諸国民の理論的な良心であった。ドイツの思想の抽象化と高踏性はいつも彼女の現実の一面性と後進性とに歩調を合わせていた。

ドイツの国家制度の現状が、旧体制の完成を、近代国家の肉体おける棘の完成を実現しているとすれば、ドイツの国家認識の現状は、その肉体そのものの欠陥を、近代国家の未完成を表現している。

弁証法的な法哲学に対する批判は、すでに、これまでのドイツの政治的意識の様式に対する決定的な敵対者としてだけにとどまらず、むしろその解決が唯一の仕事である、実践へと自らを進めてゆく。

そこで問題になることは、ドイツが、原則の高さ(à la hauteur des principes)にまで向上した実践へと自らを高めることができるのかということ、すなわち、革命へと、たんに現代的な諸民族の公式の水準に達するのみではなく、これらの諸民族が近い未来にあるような、人間的な高みにまで、到達することができるのか?ということである。

批判の武器はもちろん武器の批判に取って換えることはできない。物理的な暴力は物理的な暴力によって倒されなければならないが、しかしまた、理論も、それが大衆を捉えるやいなや物理的な暴力になる。理論は、感情に訴えて人身攻撃で証明すれば、それはすぐに過激になる。

過激であることは、事柄を根本から掴むことである。人間にとって根本であるとは人間自身であることである。過激主義としてのドイツの理論の明白な証拠は、実践的なエネルギーとしての証明とおなじく、宗教の断固たる積極的な廃止によって明確になる。 

宗教に対する批判は、「人間が人間にとって最高の存在である」という教えに尽きる。それは同じく、人間がこの上なく卑しめられ、この上なく奴隷化され、打ち棄てられ、侮蔑された存在である全ての諸関係を、転覆せよという定言命法をもって終わる。その諸関係というのは、「哀れな犬!人間はおまえたちを人間並みに扱おうとしているのだ。」と、その計画された飼い犬税に対してフランス人が叫んだほどには、誰もうまく表現できないような関係である。

歴史そのものにおいても、理論的な解放はドイツにとって特別に実践的な意義を持っている。ドイツの革命的な過去も、つまるところ理論的であって、それが宗教改革である。当時においては僧侶の、そして今は哲学者の、それらの頭脳の中で革命が始まる。

※追記20150407

「ヘーゲル法哲学批判序説」のごく一部を訳してみても、マルクスがヘーゲル法哲学の根本的な過激な批判家として登場しているのは明らかだ。彼が良くも悪くもフランス革命直系の革命家であることが分かる。彼の「人間主義」がすれっからしのならず者に成り終わるだろうことも予測できる。 

 

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3月1日(日)のTW:歴史認識問題の淵源

2015年03月02日 | 国家論

 

08:わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり(喜撰法師)

shuzo atiさんがリツイート | 1 RT

有 事に備えて、少なくとも家族1人につき米2キロ、麺類2キロ、砂糖2キロ、食用脂肪1キロ、食用油1リットル、ほかにスープ、ミルク、果物、肉、魚などの 缶詰、石鹸や洗剤、冬の燃料などを前もって備蓄しておく必要がある。政治情勢が悪くなってからでは遅すぎる。(スイス政府『民間防衛』)

shuzo atiさんがリツイート | 7 RT

とがめることは有効であるが、励ましはさらに有効である。(ゲーテ) Lehre tut viel, aber Aufmunterung tut alles.

shuzo atiさんがリツイート | 1 RT

朝日新聞にとって必要なのは「歴史から目をそむけまい」ではなく「事実から目をそむけまい」という姿勢。左翼思想の跳梁、戦前期軍国主義からの反動、戦争への贖罪意識といった情念の混淆【正論】歴史認識問題の淵源と朝日新聞 拓殖大学総長・渡辺利夫sankei.com/column/news/15…


 
 
※追記20150303
上のツィッターで引用した渡辺利夫氏の論考を一応下に記録しておきます。
 

【正論】歴史認識問題の淵源と朝日新聞 拓殖大学総長・渡辺利夫

 2015.2.27 05:03

中 韓と日本の間では、歴史認識問題が戦後70年たってもなお解決されない課題として残っていると人はよくいう。誤解である。歴史問題をもって中韓 が日本に鋭く迫るようになったのは1980年代に入ってからのことである。1980年といえば戦後はもう30年以上も経過していた時期である。その間、歴 史問題は存在しておらず、もとより外交問題ではまったくなかった。

 ≪中韓に介入根拠を与えた日本≫

 今日、歴史認識問題 と いわれる慰安婦、首相の靖国参拝、歴史教科書などはすべて80年代に入ってから提起されたものである。しかも、これらを「問題」として提起したのは、中国 でも韓国でもない。日本である。問題の提起者は、GHQ(連合国軍総司令部)の初期占領政策を増幅継承した日本の左翼リベラリスト集団であった。慰安婦問 題を捏造(ねつぞう)して韓国の対日外交を硬化させ、米国のクオリティーペーパーに「歴史修正主義」日本のイメージを植えつけた報道の発信者が朝日新聞で あったことは、今日もはや公然である。

 日本が蒔(ま)いてくれたタネである。中韓の愛国的指導者にとってこんなありがたいタネはない。 歴 史認識という道義性を含ませた問題の提起を当の日本がやってくれたのである。この問題で日本を攻めれば外交的優位のみならず道義的優位をも掌中にできる。 国益を明らかに毀損(きそん)するこのような問題提起をなぜ日本のジャーナリズムがこういう形でやってしまったのだろうか。

 戦後日本の 社 会思潮の在処(ありか)を探る際の重要なポイントがここにあると私は考えるのだが、そのことを述べる紙幅が今はない。左翼思想の跳梁(ちょうりょう)、戦 前期軍国主義からの反動、戦争への贖罪(しょくざい)意識、そういった情念の混淆(こんこう)であろうと一言を添えるにとどめる。

 事実 の みを述べれば、82年6月、旧文部省の教科書検定で「侵略」が「進出」に書き換えさせられたという日本の時のジャーナリズムの誤報に端を発し、その報道に 中韓が猛烈に反発したことが出発であった。中韓の反発を受け、近現代史の記述において近隣アジア諸国への配慮を求める「近隣諸国条項」といわれる新検定基 準が同年8月に内閣官房長官・宮沢喜一氏の談話として出され、日本の歴史教科書に対する中韓の介入に有力な根拠を与えてしまった。

 ≪激しさ増したプロパガンダ≫

  つづいて起こったのが靖国参拝問題である。85年8月の中曽根康弘首相の参拝にいたるまで首相の靖国参拝は恒常的であったが、外国からの反発はなかった。 A級戦犯合祀(ごうし)問題はどうか。合祀の事実が79年4月19日付の朝日新聞によって内外に知られるようになって以降も、中曽根参拝まで20回を超え る首相参拝がなされたが、中韓の非難はなかった。非難が集中的に開始されたのは、それ以降のことであった。

 現下の焦点は、慰安婦問題に 関 する朝日新聞の昨年8月5日、6日付の一連の検証報道である。ここでは、吉田清治証言には信憑(しんぴょう)性がなくこれに関する同紙記事を取り消すこ と、女子挺身(ていしん)隊と慰安婦との混同についての検証が不十分であったことを認めた。朝日新聞の慰安婦問題報道はすでに82年から始まっていたが、 これがプロパガンダの様相を呈したのは、特に91年に始まり翌年に激しさを増した一連の報道であった。

 その後、秦郁彦氏をはじめとする 専 門家の精力的な検証により同紙記事が捏造を含む根拠不明なものであることが明らかになった。にもかかわらず、朝日新聞は記事取り消しや訂正は一切せず、逆 に慰安婦問題の本質は広義の強制性、女性の人権問題にあるといった主張に転じ、何と問題のこの「すりかえ」は昨年8月の検証報道でも継承されている。

 朝日新聞の最大の問題は、根拠に乏しい報道によって日本の名誉、威信、総じて国益がいかに貶(おとし)められたかにある。問題検証のために第三者委員会が設置されたが、この点に関する記述は不鮮明であった。

 ≪「事実から目をそむけまい」≫

  中西輝政氏を委員長とし、西岡力氏らの専門家を糾合した「独立検証委員会」の報告書がこの2月19日に公表された。本報告書は朝日新聞の慰安婦報道の原型 が完成したのが92年1月12日付の社説「歴史から目をそむけまい」であるとし、前後する報道を「92年1月強制連行プロパガンダ」と名づけた。

  注目すべきは、荒木信子氏が韓国の主要7紙、島田洋一氏が米国の主要3紙の徹底的な資料解析を通じて、韓国と米国のジャーナリズムが慰安婦問題を言い募る ようになったのは「92年1月強制連行プロパガンダ」以降に集中しているという事実を、ほとんど反駁(はんばく)できない完璧さで論証したことにある。日 本の国益の毀損をどう償うのか、重大な責任を朝日新聞は背負ってしまった。

 朝日新聞にとって必要なのは、「歴史から目をそむけまい」ではなく「事実から目をそむけまい」という姿勢に他ならない。(わたなべ としお)

©2015 The Sankei Shimbun & SANKEI DIGITAL All rights reserved.

http://goo.gl/Sw1LiG

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※20150303追記

上記の「歴史認識問題の淵源と朝日新聞」と題する論考のなかで、渡辺利夫氏は、朝日新聞に代表される戦後日本の社会思潮の特質として、①左翼思想の跳梁、②戦前期軍国主義からの反動、③戦争への贖罪意識、などを取り上げられておられます。的確な指摘だと思う。

ただ、朝日新聞に代表される戦後日本の社会思潮がなぜこれほどまでに国益を毀損するほど自虐的なものとなったのか。渡辺氏は「そのことを述べる紙幅が今はない」と述べておられるように、その根拠、論理はこの論考では十分に明らかにされてはいません。

渡辺利夫氏がそれで具体的にどのような内容を考えておられるのかわかりませんが、「戦前期軍国主義からの反動」と「戦争への贖罪意識」はわかりやすい。

二・二六事件などのクーデターを引き起こした陸軍の若手将校たちにつながる戦前戦中の国家主義者たちの独善的で狂信的な国体論があります。彼らによる言論弾圧が、多くの国民に不快と嫌悪感、国体論への忌避感情のトラウマを残したことは想像できます。

ま た、敗戦直後に日本を占領統治したGHQは、戦争の罪悪感を一方的に日本人の心に植えつけるために、WGIPとしてよく知られている戦争犯罪洗脳計画を強 力に実行したこともあります。いわゆる進歩的文化人といわれる人たちもそれに同調し協力しました。それが戦後の日本国民に贖罪意識を植え付けることに大き な作用を及ぼしたことも疑いないと思います。

そして、渡辺利夫氏の指摘に見るように、今なお朝日新聞の記者たちや政治家、多くの大学教授たちが、日本の国益に反する言動を国民の先頭に立って広めていることについて、さまざまの指摘があります。

「左 翼思想の跳梁」がなぜ国益を明らかに毀損することになるのか。この点については渡辺氏がどのような理由を考えておられるのかこの論考だけではよく分かりま せん。しかしいずれにせよ、その根源的理由がマルクスの共産主義にあることは間違いないと思います。その点で日本共産党も朝日新聞などのいわゆる進歩的で 「クオリティ・ペーパー」とも称される新聞社も問題を本質的に共有します。

マルクスの共産主義はその階級闘争史観で知られています。この思想の信奉者にとって「ブルジョア階級国家」は憎悪と打倒の対象です。また彼らの「プロレタリア国際主義」は「祖国」をもたないことでも知られています。

抽象的な概念としての「階級闘争史観」を、この歴史観の信奉者たちはそれを社会的進歩の原動力として善意に信じています。それゆえにカルト宗教の狂信的な信条と同じくいっそう救いようがないのかもしれません。彼らは国家一般を悪として抽象的に断罪します。

し かし、実際に「プロレタリア国際主義」で成立したはずの共産主義国家も決してナショナリズムや民族主義から自由であるわけではありません。スターリンや毛 沢東によって指導されたソ連邦や中華人民共和国などの歴史的な事例に見ても明らかです。むしろ独裁国家は必然的に最悪の民族主義に転化するものです。

かっ て国際共産主義運動に献身したはずの尾崎秀実たちのスパイ活動も、ソビエト連邦の対日政策に影響を与えて日本の国益を大きく阻害しました。尾崎はその罪責 を問われて国防保安法違反、軍機保護法違反などで処刑されます。共産主義への奉仕は必然的に彼の祖国日本への反逆行為に与することになりました。一国内の 共産主義者たちの反国家闘争が他国の民族主義に奉仕することになる論理はこのようなものです。

尾崎秀実自身も朝日新聞記者でした。現在の 朝日新聞やNHKなどのマスメディアに尾崎のような共産主義のシンパは少なくないと思います。そうした現状であるかぎり、彼らの思想信条にもとづく言動が彼 らの祖国日本の国益を損なって、一方で民族主義に化した支那や北朝鮮などの他国の国益に奉仕することになります。「左翼思想の跳梁」が国益を毀損すること になる論理はおよそこうしたものであると思います。科学主義を標榜はしているけれどもカルト宗教の信仰にも等しい「階級闘争史観」の論理的な帰結を見抜か なければなりません。

※ご参考までに

2月18日(水)のTW:民族と国家

12月10日(水)のTW:日本共産党の「天皇制」

12月4日(木)のTW:「天皇制」の合理的な根拠?

11月23日(日)のTW:天皇を「自然人」としてしか見れない奥平康弘氏

10月21日(火)のTW:階級と国家

朝日新聞「従軍慰安婦」誤報問題の本質など2

 鳩山元首相と民主党の「世界市民主義」

 

 

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