夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

人間の欲望と二律背反

2011年04月15日 | 哲学一般

写真出典

360@旅行ナビ
http://www.360navi.com/blogn/index.php?e=520

人間の欲望と二律背反

今年も春が巡り来る。しかし、せっかくに巡り来た春を、もちろんに、心の底から賛美できないのは、この春先に東北地方に、地震、津波と、それに追い打ちをかけるようにして襲った、福島第一原子力発電所の破壊と放射能汚染事故があったからだ。

上野公園や造幣局などの花見にも例年のような浮ついた気分は見られず、日本国民の誰もが多かれ少なかれ、心の底のどこかに不安と哀しみの気持ちを宿している。

国家や企業が、この不幸な事故を、再び安全で強力な組織体制に生まれ変わらせる契機にして行くことができるかどうか、災い転じて福となすことができるかどうか。私たちの国家や企業の組織体制、人間観、さらにはその根底にある思想や哲学にどのような欠陥があって生じた事故なのか、その完全なる自覚と改革なくして真の復活はあり得ない。さもなければ、この世には何も新しいものはない。昔の過ちが繰り返されるばかりだ。

かって自然農法家の福岡正信氏は、人為は自然に必ず劣るという世界観を持っていた。そこにあるのは分別知にもとづく、現代科学のもたらす矛盾である。福岡正信氏の自然農法にふれて、以前に次のように書いたことがある。「自然は完全であり、したがって一切無用である。有限の存在である人間の見て行う世界は、完全なものを分解し分析した部分でしかないものであり、必ず不完全なものである。そこで、氏はすべての人為を捨て、完全な自然に同化して、自然に生かされる生き方の道を歩むことになる。」

昔お上の不興を買って「塩竃を見て参れ」と左遷されたお公家さんがいた。古来、東北、松島は、歌枕になるくらい美しかった。今回の地震と津波とによって、岡倉天心ゆかりの六角堂などもその風光とともに流されてしまった。あらためて自然や神の絶対的な威力を前に人間の有限さ空しさ儚さを思い知ることになる。神の眼からは、原発事故などは、トルに足らない些事に過ぎない。

しかしとはいえ、哲学的な問題としても、日本国を主権国家として、中国やアメリカ、ロシアからどうして独立させて行くか、国民の自由と主体性をどうして回復して行くか、といった課題の方がより深刻で切実である。

山の畑に訪れた今年の春(20110413) 

                      

                       

                            

 

まだ青いトマト

http://blog.goo.ne.jp/askys/d/20090726

福岡正信氏の自然農法

http://anowl.exblog.jp/8481994

山の恵み

http://anowl.exblog.jp10566374/  

 

 

 

 

 

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