夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

「夕暮れのフクロウ」記事一覧(2024.04.11〜2024.10.28)

2024年10月31日 | Weblog

 

「夕暮れのフクロウ」記事一覧(2024.04.11〜2024.10.28)

 

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藤田伊織氏、コメントお知らせへの御礼の返事

2020年09月12日 | Weblog
 


藤田伊織 様、コメントへのお知らせ、ありがとうございました。以前にもコメントいただいていたようですが、

ヘーゲル『哲学入門』第一章 法 第十六節[契約の履行] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/lHCXp6

気づくのに遅れ、また雑用などで御礼の遅れましたことお許しください。コメント欄にお礼とお返事を申しあげようと思ったのですが、それも冗長なものとなってしまい、あらためて記事として投稿させていただきました。

引用
>> <<

『法の究極に在るもの』のウェブページ公開 ( [藤田伊織](http://wisteriafield.jp/law-ultimate/index.html) )
2020-09-03 13:45:56

尾高晴雄の『法の究極に在るもの』を読んで、著作権が切れていることを知って、電子データのテキストを作ってウェブ公開しました。
これは、高橋和巳の「悲の器」の英訳公開を進めていて、同小説の主人公が失脚後「法の究極」について書こうと、いってたので、調べたとこと、『法の究極に在るもの』に出会った次第です。小説では、文学部の哲学科の教授が死亡した話が出て来ますが、尾高先生とは、状況は一致しません。複数の学者の状況を重ね合わせているようです。
尾高先生はヘーゲルやフィヒテのことを厳しく批判していますが、そこが面白いところです。

『法の究極に在るもの』のリンク ( [藤田伊織](http://wisteriafield.jp/law-ultimate/index.html) )
2020-09-03 13:48:13
です。
それから、高橋和巳の「悲の器」はここです。
[http://wisteriafield.jp/vesselofsorrow/vosindex.html](http://wisteriafield.jp/vesselofsorrow/vosindex.html)

>> <<

藤田様のお仕事によって、尾高朝雄の労作『法の窮極に在るもの』がデジタル化され、WEBページに公開されるというまことに貴重な貢献をなされていることを知りました。尾高の著書『法の窮極に在るもの』も、残念ながら最近ではほとんど読まれる機会も失われつつあるのではないかと思います。その著作のなかに小さな誤解などが見当たるとしても、全体としては名著といえると思います。藤田様のお仕事により、より多くの人に読まれる機会の増えることは喜ばしいことです。

最近では法曹界でも「立憲主義」などが流行のようですが、しかし近年の法学者、憲法学者たちはヘーゲル哲学やいわゆるドイツ観念論哲学の素養とは全く無縁のところで「憲法学」に従事されておられるようです。この点がヘーゲル哲学やドイツ観念論哲学の研鑽の上に築かれた尾高朝雄らの法学と現代日本の三文的法学者、憲法学者たちとの違いかなと考えたりします。戦前教育を受けた尾高朝雄などとは異なって、今日の日本のアカデミズムの世界では、ヘーゲル「法の哲学」批判を試みたことがなくとも、法哲学者、憲法学者として通用するようですから。もちろん、これは浅学かつ知見の狭い私の個人的な意見に過ぎません。

私もまた、この尾高の『法の窮極に在るもの』によって、ヘーゲルの「概念」観がアリストテレスの「形相」(eidos)に見事に一致していることに気づかされました。ただ、アリストテレスの「形相」(eidos)を、ヘーゲルが自身の「概念観」として、自覚的に受け継いだものかどうかは、私の浅学ゆえに今のところ確認はできておりません。

私もまたアリストテレスさえろくに知らずして「哲学研究者」を自称しながら過ごしてきましたから、決して偉そうなことは言えません。「哲学研究入門者」とでも自称するのが正確なところかもしれません。

ただ、いずれにしても尾高朝雄のこの本については、私のツイートでも批判しておきましたが、たとえばヘーゲルの「現実」概念に対する尾高の批判が的外れなものであるように、残念ながら今も昔も大学教授たちのこうした不十分な理解によるヘーゲル批判、あるいは曲解が、このことはヘーゲルの「弟子」であることを自称した共産主義者マルクスなどについても言えると思いますが、ヘーゲル哲学に対する一般人の誤解や偏見を生むことになるのだと思います。

ただ、この尾高の作品『法の窮極に在るもの』についても、この著作の意義と限界、もしくはその錯誤を的確に指摘し批判するには、尾高朝雄以上の能力、素養がその批判者に要求されることからも分かるように、誰にでもできることではないとは思います。

いずれにしましても、藤田様のお仕事によって、尾高朝雄の『法の窮極に在るもの』がさらに広く多くの方々によって読まれることになるのは、日本の法哲学や学術一般の水準の向上に大きく貢献することになるのではないかと思います。

絶版になったり、またその価値も広く知られずして図書館の片隅に埋もれてしまっているような「名著」を、これからも藤田様のような篤志家によってデジタル化、電子書籍化されるなどしてWEB上でも広く日本国民に知られ、また読まれるようになれば、今日その使命を真に十分に果たせないでいる劣化した日本の大学、大学院の無能力を少しでも補ってゆく上で、その意義は決して小さくはないと思います。

この尾高朝雄の『法の窮極に在るもの』についての本格的な書評は私もまだ未だ実行し得ておりませんが、さしあたっての批判は私のブログやツイッターでは以下のような論考でおこなっています。

尾高のヘーゲル批判への評注 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/4yIpi9

[夕暮れのフクロウ:Review(尾高)]

取り急ぎ、私のブログへのコメント、お知らせへのお礼まで。


 
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「夕暮れのフクロウ」記事一覧(20190423〜20190627)

2019年06月30日 | Weblog

 

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「夕暮れのフクロウ」記事一覧(201900324〜20190531)

2019年05月31日 | Weblog

 

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ヘーゲル「立憲君主制について」(「夕暮れのフクロウ」記事一覧20180808〜20181026)

2018年10月31日 | Weblog

 

ヘーゲル「立憲君主制について」

 「夕暮れのフクロウ」記事一覧20180808〜20181026
 
 
 日本国の「国家理念」の定式化とその意義について - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/LitYZk
 
 
 
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「夕暮れのフクロウ」記事一覧20180530〜20180630

2018年06月30日 | Weblog

 
 
 
 
 
 
 
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8月22日(金)のTW:すべての問題の根源は戦争に負けたこと

2014年08月23日 | Weblog

 

 
 

フィギュアスケートの高橋大輔選手はモテルから。橋本聖子議員も元スケート選手だったし。高橋選手が好きだったんだ。大騒ぎスルほどのことではないと思うけれど。橋本聖子議員は独身なのかしら。【高橋キス騒動を陳謝「はしゃぎすぎた」】online daily.co.jp/general/2014/0…


20xx年6月1日に結婚する予定です。 Wir werden am 1. Juni 20xx heiraten.

shuzo atiさんがリツイート | RT

核 戦争によって荒廃した国を手に入れるよりも、物資が十分供給されている国に手をつけるほうが賢明ではないだろうか。そこで戦争は心理戦の形をとるようにな り、誘惑から脅迫に至るあらゆる種類の圧力を並べ立てて、最終的に国民の抵抗意志を崩してしまおうとする。(スイス政府『民間防衛』)

shuzo atiさんがリツイート | RT

中 国人民に行っている中国共産党の反日教育はきわめて深刻だから、中国民衆の日本国民に対する憎悪は「核戦争によって荒廃した国を手に入れるよりも、物資が 十分供給されている国に手をつけるほうが賢明ではないだろうか。」ぐらいの理性の枠に収まりきれるか。チベットの二の舞にならないために。


橋 本聖子氏。1998年、元ラグビー選手で島村宜伸農林水産大臣のSPも務めた警視庁警備部警護課所属の巡査部長の石崎勝彦と結婚。参議院議員としては初の 出産。国会議員の産休が制度化する。橋本は直前まで議員活動をし、入院後2時間で初の出産。現在、三男三女あり(実子3人)。とのこと。


敗戦国の惨めさ、哀れさはこれほどのものか。来年は戦後70年。大日本帝国が戦争に負けてさえいなければ、慰安婦問題も、朝日新聞問題も無かっただろう。国内外から貶めつづけられる日本国と国民【慰安婦で新談話を・朝日に制裁必要…自民政調 :】 yomiuri.co.jp/politics/20140…


自民党の会合で「虚偽を垂れ流した朝日新聞には制裁が必要だ」という意見が出たという。制裁で朝日新聞が改心するのならやってみるがいい。「マルクス主義問題」の解決なくして「朝日新聞問題」の解決もない。【 慰安婦で新談話を・朝日に制裁必要…】 yomiuri.co.jp/politics/20140…


国連人種差別撤廃委員会は不公平ではないか。「対日審査」の前に「対韓審査」「対中審査」を先立って行うべきだろう。少なくとも日本は中国韓国の「反日」のように国家レベルで差別教育は行ってはいない。【国連人種差別撤廃委員会による対日審査 】asahi.com/articles/ASG8P…


ヘ イトスピーチ「禁止法が必要」と国連委、日本に勧告案。「反日」の朝日新聞は嬉々として国連による日本国民に対する言論弾圧を報道する。隣国の大統領が先 頭に立って扇動する「反日」に、日本国内の「ウヨ」単細胞ウマシカたち(彼らも反日だ)がヘイトスピーチで反応したものだ。背景を説明せよ。


国連やアメリカを利用して国内左翼と中国共産党や韓国はディスカウント・ジャパン運動。それに何の為すすべもなく指をくわえて見ているだけの外務省。高給を取っている ならそれに見合うだけの仕事をしろと言いたいが、外務官僚自身がすでに国内「反日教育」で脳内が犯されているために反論できない。哀れ敗戦国。


考 えることは最も困難な仕事だ、だからほとんどの人はやろうとしないのだ。(ヘンリー=フォード) Weil Denken die schwerste Arbeit ist, die es gibt, beschäftigen sich auch nur wenige damit.

shuzo atiさんがリツイート | RT

ヘ イトスピーチの法規制は、左翼リベラル政治家の有田芳生氏が中心となって推進して来たものです。なぜ保守を名乗る政党が保守派庶民を苦しめ、左翼リベラル や外国人を利することをするのでしょうか。左翼リベラルに媚びるような政策に反対します。左翼に媚びるとろくなことがありません。

shuzo atiさんがリツイート | RT

財布のひもを握る者が権力を握っている。(ビスマルク) Wer den Daumen auf dem Beutel hat, hat die Macht.

shuzo atiさんがリツイート | RT

私 にとって後白河院が帝に比べなんとなく疎遠な存在であったのは、この意味から言っても当然であった。朝廷人たちの典雅な挙措に較べただけでも、背の高い、 ゴツゴツした身体つきの後白河院は、異様な感じを私たちに与えたのだ。だいいち声が大きくところ構わず大声で笑った。廊下を歩くとき、


そ のどしどしという足音は遠くからも聞こえた。それを耳にした人は、間に合うことなら、院の前から逃げ出したいと思ったのだ。院の心に毒があったわけではな いが、その傍若無人ぶりは、院庁の人間でも持て余し気味であった。院は遊楽も好きで、鳥羽離宮に人々を集めて花に月に宴を催すのが


つ ねであったが、そんな折、院が京の巷を鳳輦で行く折々に眼をつけた女房や白拍子たちが、殿上人に混じって今様をうたい舞を舞った。後白河院は女たちに囲ま れ、ひどく酩酊の様子に見えたが、それが本当に酩酊したのか、ただそう振る舞っているのか、人々には測りかねた。というのは泥酔してもう


ほ とんど崩れ落ちるばかりに見えた院が、不意に立ち上がり、何かを思い出したように、三条殿に戻っていくというなことが何回もあったからである。それがどん な用事であったのか、気に入らぬことがあって用事にかこつけて鳥羽離宮から出ていたのか、そのあたりのことは誰にも分からなかったが、


人々がその度に驚かされたのは、直前の泥酔ぶりと、直後の平然とした様子とが、あまりにも劃然と分かれていて、果たしてどちらが本当の姿か誰にも決めかねたからであった。(西行花伝15頁)


私 が一度藤原惟方殿の居間で書類の整理をしていると、たまたま藤原俊憲殿が立ち寄り、それとなく後白河院の噂をしていたが、それは中納言藤原信頼殿が院の寵 愛を一身に受けていることに対する憎々しげな嫉妬であり、あからさまな侮蔑であった。俊憲殿は「蟇でも後白河院にはまさる」と


声 をひそめて言い、それから惟方殿と声を合わせて笑われた。それにまた「あれほど無能な二枚舌の男を側近に召してご満悦の体たらくでは晋の恵帝も身体を二つ に折って笑い転げることだろうな」と言った。私は次の控えの間にいたから二人の姿を見たわけではないが、 二人が何を目論んでいたかは


ほ ぼ察することができた。ただそれを直ちに平治の騒乱と結びつけることは私にはできなかった。平治の騒乱は別当藤原惟方殿を長門国に配流させたり、信頼殿を 斬首させたり、義朝殿を惨殺させたりする結果を招いたが、それは、何か事をしようとした人に付き纏うあの青ざめた血まみれの首と同じで、


どうすることもできないものであった。私はこの争乱の折りも、海亀のように首をすくみ、何も見ず、何もしない人のふりをしていた。それ以外には、不吉な血まみれの運命から免れる道はないように思えたからだ。それならなぜ私は藤原忠重に呼び出されたとき、心をときめかして


白 河に出かけたのか。やはり私は有力な後ろ盾が欲しかったのだ。忠重は私にとって親しい関係ではなかったが、縁者には違いなかった。向こうもそれを重く見て くれて私を呼んだのであり、こちらもそれゆえに屋敷へ出向いたのである。今だが、私が恐れた何か事を成すということは、


実は、こうした些細な結びつきから始まるのではないか。(西行花伝一五頁)


 
 
 
 
 
 
 
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8月16日(土)のTW:朝日新聞「従軍慰安婦」誤報問題の本質など

2014年08月17日 | Weblog

お 盆も過ぎて、土曜日。雨の降りしきるなか部屋の中でゆっくり時間を過ごしている。かなり前に手に入れたタブレットを使って 、ツイート入力の練習をしてゆくことにする。今まではほとんどパソコン入力だったけれども、AIPadやスマホからも気軽に入力出来るようにしてゆきた い。最近のニュースで、朝日新聞の


い わゆる「従軍慰安婦」問題の誤報事件で、朝日新聞の思想的な体質なり偏向が批判される場合が多い。連日様々な方面から朝日新聞を論難する記事の報道されな い日がないくらいである。朝日新聞がみずからそうした事態を招いたのだから、朝日新聞も謙虚に反省して謝罪なり休刊なりして心からの反省を


国 民に対して示せばいいのに、相変わらず言い逃れやはぐらかしに終始しているように思われる。朝日新聞を支持して来たいわゆる文化人や、朝日と同じ報道を繰 り返して来た新聞社は、ほかに毎日や北海道、東京新聞など少なくはないし、彼ら知識人や政治家、大学教授や新聞社は、朝日と


同じように、問題の焦点ぼかしで逃げ切ろうとしている。

いずれにしても、これらの問題の根源が理解され解決されないことには、朝日もその他大勢も根本からその姿勢を改めることはないだろう。相変わらず、朝鮮や中共と一緒になって、大日本帝国政府やその軍隊を責め続け批判しつづけるだろう。


こ の問題の根本にあるものは、彼らの「人権意識」ではなくて、「反日」である。この「反日思想」のさらに根本にあるものは、マルクス主義であり、唯物史観で あり、「階級闘争史観」である。だから、朝日新聞の「従軍慰安婦」問題の本質は、日本共産党の大日本帝国政府批判と同じであり、朝日新聞の


論 調は、朝日新聞の記者たちの多くが共産党の思想的なシンパであることを実証しているにすぎない。それゆえ彼らは共産主義の労働者国際主義にしたがって、ま た、その階級闘争思想にしたがって、明治帝国憲法政府とそれに代表される伝統的日本に対する批判の旗を下ろすことはない。彼らの本当の狙いは、


「従 軍慰安婦」の人権擁護にあるのではなくて、「ブルジョア政府」「資本主義政府」批判にある。そして、この朝日新聞に代表される反日思想は、朝鮮や中共の国 益と完全に一致し、その結果、本来祖国である伝統的日本の国益に反して、 朝鮮中国と共同戦線を張ることになる。これが朝日新聞や戦後民主


主 義者たちのいわゆる「従軍慰安婦」問題の本質であり「反日思想」の根源的な理由である。したがって、思想問題として「階級闘争史観」が彼らにおいて解決さ れない限り、朝日新聞問題も日本共産党問題も本質的には同じであり、根本からは解決されず、保守のいわゆる彼らの「反日」はなくならない。


朝日新聞さん、焦点をずらして逃げるべきではないと思います。「慰安婦問題の本質は普遍的な人権の問題」などではなく旧日本軍を悪者にしたくて「強制連行」を取り上げたのが問題の本質ではないのですか?【日本と韓国―国交半世紀に向かって:朝日新聞】asahi.com/articles/ASG8H…

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8月15日(金)のTW:日本を革命したGHQの戦勝記念日

2014年08月15日 | Weblog

 

いつも思うのだけれど、国の戦争のために命を捧げられた兵士への慰霊のための参拝を、なぜ集団で行うのだろう。心の問題だろう。団体行事じゃあるまいし。餓鬼たれ国会議員ども。RT @47news:高市氏ら超党派で靖国集団参拝約80人終戦記念日 bit.ly/1BisMyq


今日は終戦記念日、この間から時間に余裕があれば、奥平康弘氏の『「萬世一系」の研究』を読み進めている。この本は、終戦記念日の今日のような、日本の歴史 に大きな変革をもたらした歴史的記念日にこそ読まれるのがふさわしいと思った。というのも、この本のテーマは『「萬世一系」の研究』だけれども


六〇頁ほど読み進んで感じたのは、本書が同時に、敗戦直後の日本において、GHQや当時の日本国の政治的指導者たちが、どのような過程を経て大日本帝国憲法 から日本国憲法へと憲法の変更を行ったのか、すぐれた歴史的な研究にもなっているからである。それをツィッターでメモを取り感想を


つぶやきながら読んでいる。ここまで読んで感じたことの一つは、やはりというべきか、GHQが戦後の「日本の国家体制の変更」に意外に深く関わっているんだ な、ということだった。国際法規については無知なのでよく分からないけれども、戦勝国は敗戦国に対して、ここまで「国家体制の変革」に干渉でき


るものだろうかとも思った。それと、当時に憲法改正に当たって日本政府と交渉の窓口を担った民政局の若い将校ケーディスたちの「信仰」ともいえるような強い 「国民主権」「主権在民」への拘りだった。もちろん当時の赤い学者、官僚たちが暗黙裏にそれを支持し、その実現のために働いたらしいことも


よく分かる。この著書の筆者である奥平康弘氏も、この立場から「萬世一系」の研究を進めているらしい。ただ疑問に思ったのは、アメリカ人の典型的な「進歩的 知識人」で、当時の重要な社会的思潮でもあった共産主義の影響も強く受けているらしい、ケーディス大佐たちの「国民主権」「主権在民」思想の


国家観をストレートに受け入れ、それに何の懐疑の念を示すことのない著者自身の「国家観」である。著者自身のその国家観の意義や必然性の論証が今のところほ とんど見られない。これでは、『「萬世一系」の研究』も単なる著者自身の「信仰表明」に終わってしまって、哲学的な学術論文たり得ないのではないか。


まだ本も読み始めたばかりのなので明確な結論はもちろんまだ出せない。いずれにしても憲法問題を論じる上で、あらためて哲学の問題が決定的に重要であるような気がした。どのような国家観、歴史観を持ち得ているか、それが憲法における価値判断に決定的に影響する。


やはり女性を国家のトップに据えれば国を誤り傾けることになる。韓国民は後悔するときが来る。男女それぞれ天性の資質を考えるべき。「男女共同参画」で安部首相も女性を人工的に管理職に据える?【朴大統領、「慰安婦問題解決すれば関係は発展」】 :yomiuri.co.jp/world/20140815…


 
 
 
 
 
 
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8月7日(木)のTW:奥平康弘『「萬世一系」の研究』、筆者の問題意識メモなど

2014年08月08日 | Weblog

 

真理、真実に謙虚でない国民、民族、国家の行く末、その末路は皆同じ。「真理に対する謙虚さ」これが国民の自己教育の第一歩。日本国民は朝鮮を他山の石とすべき。 【杉浦正章◎韓国紙の偏向報道は「誤報の連座」を危惧:永田町幹竹割り】:
thenagatachou.blog.so-net.ne.jp/2014-08-07


少 し時間に余裕が──それでも時間貧乏であるのも相変わらずでもあるけれども──できはじめたので、奥平康弘氏の著書『「萬世一系」の研究──「皇室典範的 なるもの」への視座』をまた読み始めた。本格的な書評は後にして(それを書く能力が私にあるかどうかもとにかく)、読書の感想のようなものを


記 録代わりにツイートして行こうと思う。移り気で能力もない私のことなので、どこまで続くかどうかもわからないけれども、とにかく読んで感じた限りの思い付 きでも書き留めておくことにします。場合によれば非公開のツイートにするかもしれません。まず、「序章  本書の意図と構成」から。


「一 系の天子」※筆者奥平康弘氏の問題意識。「憲法研究者としての私(奥平氏)が本書で意図するところのものは、もっともっと限定的ではるかに小さい。「萬世 一系の天皇」という観念体系を振りかざして、明治国家以降の社会支配層が──法制官僚たちを通じて──天皇制という制度をどんなふうに構築a


あ るいは再編したかを、考究してみようというのである。天皇制ということを一言で言ってのけたが、私が照射しようと試みるのは、憲法および皇室関係法によっ て形成されている制度のうちで、天皇の地位の受け継ぎ(皇位の継承)に関わる部分である。それも皇位継承の体系を究めるといった課題を b


担 うつもりはない。皇位継承(「世継ぎ」)のありようを、それも「“女帝”の可能性」、「“庶出の天皇”の認否」および「天皇の退位」という三つの要素に特 化して考察してみようというのである。(本書S10)【“万邦無比”の「萬世一系」論】「神勅の名宛人として、これを発した神々にずっと a


つながっているという神話的な構成なしには、「萬世一系の天皇」は自らを正統化することも正当化することもできないのである。」(ibid s 5)
「ひたすら「萬世一系」を喚起し、もっぱらそこから出発して天皇制護持をはかろうとした事実があるからなのである。ある意味で「敗戦後」においてb


てこそ高い頻度で、「萬世一系」は語られた、と言いたくもあるのである。」(ibid s 6) ・・・「要するに「萬世一系」は天皇制生き残りのための方便として、使えるだけ使われて、いまや政治思想史博物館に収められているだけのことだ、と言うのである。よろしい。c


残すときは歴史(本書でなんども指摘するごと明治の天皇制形成期には、「古代ノ恒

典」などというフレイズがあたかもトランプ=切り札のように用いられた)や伝統文化が大動員されたが、一旦残すことに成功したのちは、天皇制の政治理論・哲学論議はどうでもいいことなのだろうか。d


これは、尊皇主義者だけではなくてごく一般的な天皇制支持者の面々にも課せられている挙証責任に属する問題のように、私には思える。」(ibid s 6)


 
 
 
 
 
 
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8月1日(金)のTW:国家哲学の基礎としてのヘーゲル哲学

2014年08月02日 | Weblog

中川八洋氏の論文の研究について:中川八洋氏の著作についてはよく知りませんが、幸いにも中川八洋氏の論文の掲載されているサイトも出来ているようです。【中川八洋掲示板】nakagawayatsuhiro.hatenablog.com

おかげで、そこで中川氏の論文の概略についても知りうるようになりました。


私もかなり前から中川氏には関心があって書評なども書こうとしたこともありますが、私の能力の無さもあって、いっこうにその研究は進んでもいません。それは とにかく、いずれにしても中川八洋氏の論文は私にとってもこれからも大きな課題になると思っています。また出来る限り多くの人にも


中 川八洋氏の思想に関心をもってもらいたいとも思っています。その理由の一つは、中川八洋氏の思想的、哲学的立場が現在の私にはもっとも近いと思われるから です。もちろん中川氏はヘーゲル哲学に学んでいませんから、氏の思想哲学が悟性的なレベルを超えられることはないだろうとは思います。


さ しあたって現在の私の思想的な哲学的な使命の一つとして、我が国にヘーゲル哲学を完全に移植させ土着させて、その上に我が国独自の哲学の大輪を咲かせるこ とにあるとすれば、もちろん、この立場も言うまでもなく一つの政治的な立場ではあります。言うまでもなく、ヘーゲル主義は立憲君主制を


主 張していますし、したがってこの立場は必然的に共産主義や共和制論者の立場とは相容れないものです。また、自由や民主主義についても、戦後民主主義のいわ ゆる左巻き連中の左翼のようにそれらを狂信することなく、それらの思想の意義も限界もきちんと把握した上で、肯定していると思います。


要 するに、現代においてもなおヘーゲル哲学の意義はきわめて大きいと思います。この哲学は今もなお日本国においても国家哲学の基礎となるべきものです。現在 の日本のアカデミズムはヘーゲル哲学に極めて無自覚だと思います。日本の学術水準が哀れで貧弱であるその根本的な理由もここにあると思います。


かっ て我が国で明治時代に大日本帝国憲法を制定するときにも、当時の政治指導者である伊藤博文や井上毅たちは、当時のプロイセンの法学者であったルドルフ・ フォン・グナイストや、ローレンツ・フォン・シュタインなどの学者たちに憲法の本質を学んで、大日本帝国憲法の制定に役立てました。


し かしこれらのプロイセンの二流の法学者に学ぶのではなく、むしろ彼らの師であるヘーゲルなどの一流の哲学者に(彼はすでに亡くなっていましたけれども)学 んで、大日本帝国憲法を制定すべきだったと思います。現在もいくつかの新聞社や政党などから、現行日本国憲法の改正案が提案されていますが、


ざっ と見ただけでも、極めてお粗末で欠陥の多い憲法草案ばかりだと思います。比較的にましな小堀桂一郎氏などの学者に指摘させれば、いくらでもその欠陥は指摘 されると思います。今の日本人には少なくとも井上毅クラスのまともな憲法草案を構想できる法学者がいないのが根本的な理由だと思います。


憲法学者も現存するそのほとんどは凡俗の三文学者ではないかと思われます。下手に憲法改正をしない方がいいと思うのもそのためです。GHQの三流の進歩的知識人に よって作られた日本国憲法は話にもなりませんが、だからといって、まともな憲法一つ「作る」ことが出来ないのも今の日本の現状だと思います。


793/西行法師/朽ちもせぬその名ばかりをとどめ置きて枯野の薄形見にぞ見る #tanka #waka

shuzo atiさんがリツイート | RT

昔、左遷され陸奥守として東北多賀城に赴任してきた藤中将実方は、罰当たりにも道祖神の前を下馬もせず通り過ぎ、そのため落馬して死んでしまった。後の世になって西行が彼の地を訪れた折り、歌人としての藤原実方を追憶しその無情の死と無常を悲しんで歌を詠んだ。


「朽ち果てることもない歌人としての名声をこの世に留めて、 あなたはお亡くなりになりましたが、今となってはもう、枯れ野に靡く薄ばかりが、 あなたの残された形見のように見えます。」


 
 
 
 

 

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1月1日(水)のTW: 「誰かこの日本語をクリアーに・・・」

2014年01月02日 | Weblog

「 概念、存在、真理」

 

新しい写真をFacebookに投稿しました fb.me/6svXfQPZJ


現前するもの=概念、現前することとしての有る=存在、真であること=概念と存在の一致、これで判りますか?@Sukuitohananika


「真」=概念(潜在態)、「真であること」=真理(顕在態)、概念が実現されて存在するようになったものが理念=真理です。@Sukuitohananika


 
 
上記のツィートの記録だけでは何のことかよくわからないと思いますので追記しておきます。

http://goo.gl/gStnWJ
 
生 命学者として知られている森岡正博氏が、ハイデッガーの『杣径』の日本語訳を読んでおられるとき、その解読に格闘して「いらいら(^ ^)(^ ^)」して呟いておられるのを、たまたま眼にしたので、ユーモリスト森岡氏にツィートで返信したものです。今の所は私はハイデッガーはまったく知りません が、森岡氏が

>><<

誰かこの日本語をクリアーに解読してくれんかね→「現前するものの現前することとしての有ることとは、それ自身においてすでに真であることであるということである。」(ハイデガー『杣径』390) イライライライラ・・・・
 
>><<

と ツィートされておられるのを読んで(^-^)、すぐにハイデッガーが何を言わんとしているのかはわかりました。ここでハイデッガーはおそらく、ヘーゲル哲 学を踏まえて書いていると思います。ただハイデッガーはその詩的表現によっていたずらにヘーゲルを難解にしているだけだと思いました。森岡氏もヘーゲルに 通じていれば、解読にきっとイラつくこともなかっただろうなと思いました。
 
 
※20140102追記
 
 
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「公共」と「家政」

2008年09月04日 | Weblog

 

例によって、エキサイトのブログのコメントでは「内容が多すぎますので、695文字以上減らした後、もう一度行ってください。」という表示が出てしまいました。そのために、まとめて投稿するために、新しい記事にしました。

hishikaiさんの「福田康夫氏」論をあなたのブログで読ませていただきました。ギリシャの都市国家に二つの空間を見られているのは面白い視点だと思いました。近現代においてはさしずめ「国家・市民社会・家族(個人)」すなわち、「普遍・特殊・個別」の三つの空間を見るのでしょう。

確かに、福田氏には、国家体制や外交・防衛などの理念に関する問題、普遍的な問題について語る問題意識も能力もなかったのだろうと思います。それは福田氏が前総理の安倍晋三氏と同じように、氏の政治家になった本当の動機が、「たまたま政治家の二世に生まれたこと」にあったからではないでしょうか。(二世議員がこれほど支配的な立法府というのは、その国家がまさしく、いまだ封建的な後進国家であることの証明でしかないのですが、日本国民はこの事実をまだ自覚していません。病膏肓に入るですw。いぇ私は自分の国のことは客観的に見ることができるんです。あなたとは違うんです)

福田康夫氏はあなたのおっしゃるように、「女房」たちの「家政」に関わる、せいぜい「市民社会」の問題しか本質的に語ることができなかったようです。そして、それは単に福田康夫氏だけの問題ではなくて、多くの日本の「政治屋」の問題でもあるのだろうと思います。

実際にも衆議院に巣喰う400余名の「選良」の多くは、道路の利権や農業の助成金そして、中小企業の政策金融などの問題には極めて鼻が利きます。もちろん、それらが重要な問題ではないというのではありませんが、誤解を恐れずに言えば場合によればそれは「税金泥棒」という意味も持ちます。しかし、そうした分野がもともと得意な人たちには「地方政治」の「家政」に従事してもらい、国家の中枢である衆議院では、せいぜい現行の定数の半数以下の200人程度の、本当に「普遍的な」「公共」の問題を論じる意思と能力を持った国民の「選良」たちによって運営してもらえばよいのではないでしょうか。(参議院と衆議院の二院制やその定数問題も真剣に議論する段階に来ていると思います。)

国家の中枢であるべき衆議院の政治的能力の低下の、その原因をさらに突き詰めてゆけば、それは日本の文化の問題や、大学、大学院での政治や憲法教育の問題にまで行き着くと思います。このような「政治屋」しか日本の大学では生み育てられないのが現状です。以前にもあなたの「福田康夫氏」論のように、福田氏について論じたことがあります。日本の政治や政治家の現状を見る一つの視点としていただけるのではないでしょうか。

福田康夫氏は、辞任表明後は、「公共の世界」の問題を超えて、永遠の問題、形而上の問題を語って、政治家ならぬ「宗教家」、「哲学者」として退任されようとしておられるようです。

福田首相:メルマガ最終号は抽象的に「太陽と海と伊勢神宮」
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20080904mog00m010001000c.html

福田康夫氏の総裁選不出馬──日本政治の体質

福田内閣メールマガジン(第46号 2008/09/04)

  ②20080908

 

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hishikaiさんの「都下闃寂火の消えたるが如し」評

2008年07月21日 | Weblog

 

hishikaiさんの記事にコメントしようとしたところ、「内容が多すぎますので208文字以上を減らした後、もう一度行ってください。」という「コメント」がまたまた出てしまいました。
「エキサイトブログ」の社長さん、雄猫と雌猫の愛のエールならとにかく、こんなことでは、まともなコメントも出来ないのではありませんか。

以下コメント
「明治天皇がご病気になられたときに、民衆がとった態度についてhishikaiさんの認識と漱石の認識には食い違いあるようです。果たしてどちらの判断が正しいのでしょうか。

確かに、国民大衆は「官命」に忠実であり、それをhishikaiさんは皇室に対する「民衆の素朴な信仰」心の現れと見られておられるようです。hishikaiさんのその判断も決して間違いであるとはいえないと思います。

しかし、漱石がそのときに「川開きの催し差留られたり。天子いまだ崩ぜず。川開きを禁ずるの必要なし。」と感じた事実も重く見るべきであると思います。
国民大衆の皇室に対する「素朴な信仰」は漱石も認めていただろうと思います。その一方で漱石は当時の「専制的」な「公権力」に問題を感じたのではないでしょうか。明治天皇崩御と同じ年に石川啄木も亡くなり、その前年には大逆事件に関係したとして幸徳秋水ら24名に死刑判決が下されています。

英国の立憲君主制を現地で肌身に実体験していた漱石にとっては、「当局による民業干渉と翻訳することで自らに納得させようとした」のではなく、強すぎる「当局」の公権力行使に対する批判、あるいは、「国会開設や租税問題」で自分たちの意思を十分に実現できないでいる弱すぎる国民の「民権」に対する批判の表明だったのだと思います。
この弱すぎる「民権」が、やがて日米開戦へ、さらに「戦後民主主義」に連なっているのだろうと思います。」

 

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トラックバックありがとう

2008年01月06日 | Weblog

toxandriaさん、トラックバックありがとうございました。
明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしく。
あなたのブログへも折りに触れ訪問させてもらっています。

昨年はドイツ旅行の記念写真も楽しませていただきました。とくにハイデルベルグの写真は、なまじっかにヘーゲルなどをかじっている関係で、ハイデルベルグ大学の教授に就任してからヘーゲルはどのあたりを散策していたのだろうかとよけいな空想が働いたりしました。(日本の都市の品格がヨーロッパに追い付き追い抜く日が来るのだろうかと思うとため息が出ます。)

また、晩秋の京都を訪れた写真もあって、近くに暮らしている私などよりももっと京都の秋をご存じかも知れないと思ったりしました。

toxandriaさんのブログ記事ももちろん読ませていただいていますが、今ひとつあなたの思想の核心をつかみ切れていないようです。あなたの博識についてゆけない面もあるのでしょうが、本質をつかむには、もう少し時間的にも「あなたの現象」を体験する必要がありそうです。論評はそれからにさせてもらいたいと思っています。

ただ正月2日の記事で「権力の可視化」をテーマとされているようですが、政治権力の構造をもふくめて、真実の明るみに出るのはよいことだと思います。可能な限り、政治家や「官僚」たちが秘匿している情報や真実も公開されてゆくことが望ましいと思います。その意味でも、インターネットの普及は「権力の可視化」にも少なからず貢献するのではないでしょうか。悪は闇を好み、公正は光を愛するということでしょう。多くの正確な情報によって、私たちの認識できる現象が全面的になるだけ、より的確に本質が客観的に明らかになりますから。

先のブログでも少し触れましたが、小沢一郎氏の「国連信仰」は、民主党が弱小政党の間はさほど問題ではありませんでしたが、昨年の参議院選挙のように多数を占めると、国家の主権を危うくしかねません。できればこの問題についても論評したいと思っているのですが。小沢民主党の「テロ対特措法」などへの対応についての見解なども、toxandriaさんをはじめ、ブログ上に記事を掲載されておられる方がいらっしゃれば、トラックバックなどで教えていただけるとありがたいです。

コメントとして書かせてもらおうと思いましたが、あえて記事にしました。本年もまたtoxandriaさんのご活躍を期待します。

 

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