夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第六十五節[悪と不良]

2022年10月27日 | ヘーゲル『哲学入門』

ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第六十五節[悪と不良]

§65

Die Gesinnung, Andern mit Wissen  und Willen  zu schaden, ist  böse. Die Gesinnung, welche sich Pflichten gegen Andere, auch gegen sich selbst zu verletzen erlaubt, aus Schwäche  gegen seine Neigung, ist  schlecht.

第六十五節[悪と不良]

知識 意志 とをもって他者を害するような心情は である。自分自身の性格の弱さから、他者への義務を、また自分自身に対する義務をもないがしろにすることを許すような心情は 不良 である。

Erläuterung.

説明

Dem Guten steht das Böse(※1), aber auch das Schlechte entgegen. Das Böse enthält, dass es mit Entschluss des Willens geschieht. Es hat also vor dem Schlechten das Formelle, eine Starke des Willens, die auch Bedingung des Guten ist, voraus.

善に悪は対立するが、しかし不良もまた、善に対立する。悪は意志の決意によって生じる。だから、悪は不良と比べて、形式を、同じく善の条件でもあるところの意志の強さを、前提とする。

Das Schlechte hingegen ist etwas Willenloses. Der Schlechte geht seiner Neigung nach und versäumt dadurch Pflichten. Dem Schlechten wäre es auch recht, wenn die Pflichten erfüllt wür­den, nur hat er den Willen nicht, seine Neigungen oder Ge­wohnheiten zu bemeistem.

それに対して、不良とは意志を欠くものである。不良は性向によるもので、かつ、そのために義務をないがしろにする。もし義務が果たされさえするなら、不良もまた正しいということになるだろうが、ただ、不良は自分の性向や習慣を克服する意志をもたないだけである。


※1
das Böse、Der Schlechte
は英訳では、それぞれ、Evil と Bad として訳している。

※2
善と悪は対立概念であるが、意志の強さは共通している。それに対して、不良(Der Schlechte)には、意志が欠けている。

第一課程、序の一 において「この教課の対象は人間の意志である」と述べているように、「意志」が主題であることは、ここでもはじめから一貫している。

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第六十四節[偽善について]

2022年10月24日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第六十四節[偽善について]

§64

Mit der Verleumdung, (※1)welche eine wirkliche Lüge ist, ist das üble Nachreden verwandt, die Erzählung von solchen Dingen, die der Ehre eines Dritten nachteilig und dem Erzählenden nicht an und für sich offenbar sind. Es pflegt in missbilligendem Eifer gegen unmoralische Handlungen zu geschehen, auch mit dem Zusatz, man könne die Erzählungen nicht für gewiss ver­sichern und wolle nichts gesagt haben.

第六十四節[偽善について]

第三者の名誉を傷つけるような、もともと話し手にとってすらはっきりしない物事について語ることは、タチの悪い中傷 にほかならず、それは本当に嘘をつく誣言と同じである。
こうした中傷は、不道徳な行為については決して容認できないという反感から起こりやすい。また、それに加えて、それははっきりと断言することはできないとか、それについてとやかく言いたくないといったことを人は言いがちである。

 Es ist aber in diesem Fall mit der Unredlichkeit  verbunden, die Erzählungen, die man nicht verbreiten zu wollen vorgibt, durch die Tat wirklich zu verbreiten; und in jenem mit der Heuchelei, moralisch sprechen zu wollen und wirklich böse zu handeln.

しかし、この場合においては、人は話を広めたくないようなふりをしながら、実際の行動においては広めているという不誠実さと結びついている。そして、そこには、道徳的に話そうとしてはいるが、実際には悪を行うという偽善 と関わりがある。

Erläuterung.

説明

Heuchelei besteht darin, dass die Menschen böse handeln, sich aber gegen Andere den Schein geben, eine gute Absicht zu haben, etwas Gutes haben tun zu wollen. Die äußerliche Handlung ist aber nicht von der inneren verschieden. (※2)Bei einer bösen Tat ist auch die Absicht wesentlich böse und nicht gut gewesen. Es kann dabei der Fall sein, dass der Mensch etwas Gutes oder wenigstens Erlaubtes hat erreichen wollen. Man kann aber dabei nicht das, was an und für sich böse ist, zum Mittel von etwas Gutem machen wollen. Der Zweck oder die Absicht heiligt nicht die Mittel.(※3)

偽善とは、他者に対しては、自分は善意をもっているとか、何か善いことを行おうとしてると見せかけながら人間が悪を行うということにある。だが、外に現れる行為は内心とは切りはなせない。悪行においては意図も本質的に悪であり、善ではありえない。たしかにそこには人間が何か善いことを、あるいは少なくとも何か他者に認められるようなことを成し遂げたかったという場合もありうる。しかし、人間はその際にも本来的に悪であるものを、何か善きものの手段とすることはできない。目的や意図は手段を神聖にはしない。

Das moralische Prinzip geht vornehmlich auf die Gesinnung oder auf die Absicht. Aber es ist eben so wesentlich, dass nicht nur die Absicht, sondern auch die Handlung gut ist. — Eben so muss sich der Mensch nicht überreden, dass er bei dem gemeinen Handeln des individuellen Lebens wichtige, vortreffliche Absichten habe. Wie nun der Mensch einerseits seinen eigenen Handlungen gern gute Ab­sichten unterlegt und seine an und für sich unwichtigen Hand­lungen durch Reflexionen groß zu machen sucht, so geschieht es umgekehrt gegen  Andere, dass er großen oder wenigstens guten Handlungen Anderer durch eine eigennützige Absicht etwas Böses beilegen will.

道徳的な原則はとくに心情や意図を問題にする。しかし、たんに意図だけではなく、むしろ行為もまた善であること が重要である。── それゆえまさに、人は個人的な生活におけるふつうの行為においても、重要で立派な意図をもっていたのになどと言い訳してはならない。なるほど人は一面において自身自身の行為については、それに善い意図があったことや、そして、もともと重要でもない自分の行為を振り返って、それを偉大なものに見せかけようとする。そうして、それとは反対に他者に対しては、その偉大な、または少なくとも善い行為については、そこに利己的な意図があるとか、何か悪意が秘められているといった、逆に貶めるようなことを言う。

 

※1
 die Verleumdung 
名詞: 中傷、 誹謗、悪口、 誣言、悪態

※2
Die äußerliche Handlung ist aber nicht von der inneren verschieden.
外に現れる行為は内心とは切りはなせない。
先の第六十三節において、意識が分裂することによって、心情と行為に不一致の生じることが明らかになった。そこからさらに、心情や内心に反する行為が意図的に行なわれるようになる。これが偽善であり偽悪である。

※3
Der Zweck oder die Absicht heiligt nicht die Mittel.
目的や意図は手段を神聖にはしない。
たとい人間の平等を実現して貧困を撲滅しようとしても、その手段としての暴力革命は正当化できない。
むしろ、行為もまた善であることが重要である。
心情と行為に不一致があるとしても、すべては行為によって、その結果によって判断される。

イエスは偽預言者を警戒して「その行為によって、 彼らを見分けよ」と弟子たちに言い、また「ブドウの木の良し悪しはその実によってわかる」と言った。
(マタイ書7:15〜16)

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第六十三節[語ることと真実]

2022年10月05日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第六十三節[語ることと真実]

§63

Es setzt ein besonderes Verhältnis voraus, um das Recht zu haben, Jemand die Wahrheit über sein Betragen zu sagen. Wenn man dies tut, ohne das Recht dazu haben, so ist man insofern unwahr, dass man ein Verhältnis zu dem Andern auf­stellt, welches nicht statt hat.

第六十三節[語ることと真実]

誰かが自分の行動について真実を話す権利をもつためには、特別な関係にあることが前提となる。もし人が、そうした権利もないのに、真実を話すとすれば、その限りにおいて、その人は正しくない。と言うのも、特殊な関係にもない他者に対して、その人は一つの関係を設けているからである。

Erläuterung.

説明

Eines Teils ist es das Erste, die Wahrheit zu sagen, insofern man weiß, dass es wahr ist. Es ist unedel, die Wahrheit nicht zu sagen, wenn es an seinem rechten Orte ist, sie zu sagen, weil man sich dadurch vor sich selbst und dem Andern erniedrigt.

一面においては、真実であることを人が知っているかぎりにおいては、その真実を話すということ は、まず第一に大切なことである。真実を語ることが正しいところで人が真実を語らないとすれば、それは高尚なことではない。というのも人はそのことによって自分自身と他者に対して自己を貶めることになるからである。

Man soll aber auch die Wahrheit nicht sagen, wenn man keinen Beruf dazu hat oder auch nicht einmal ein Recht. Wenn man die Wahrheit bloß sagt, um das Seinige getan zu haben, ohne weiteren Erfolg, so ist es wenigstens etwas lieber flüssiges, denn es ist nicht darum zu tun, dass ich die Sache gesagt habe, sondern dass sie zu Stande kommt. Das Re­den ist noch nicht die Tat oder Handlung, welche höher ist.

しかし、もし人が真実を語る義務もないところで、また、そうする権利をかって一度ももったこともないのであれば、人は真実を語る必要はない。もし人が自分の役割を果たすために、さらなる効用もないのに、ただ単に真実を語るとすれば、少なくともそれは 余計なこと であろう。
なぜなら、何か事柄について私が話したということは重要なことではなく、そうではなく、話したことのもたらす結果が重要だからである。話すことはまだなお行動でもなければ行為でもない。行動や行為は話すこと以上に高尚なことである。

— Die Wahrheit wird dann am rechten Ort  und zur rechten Zeit  gesagt, wenn sie dient, die Sache zu Stande zu bringen. Die Rede ist ein erstaunlich großes Mittel, aber es gehört großer Verstand(※1) dazu, dasselbe richtig zu gebrauchen.

何か事柄が実現するのに役立つように、真実は正しい場所 と正しい 時 に語られるべきである。語ることは驚くべき偉大な手段である。しかし、正しく語るには優れた知性を必要とする。

 

※1

話すこと、語ることは人間のみに与えられた驚くべく素晴らしい偉大な能力であり素質である。しかし、正しく語り、話すには優れた知性(großer Verstand)が必要である。
Verstand はここでは「知性」と訳したが、哲学においてはふつう「悟性」と訳される。
ヘーゲル哲学においては、この 「悟性 Verstand」 は 「理性 Vernunft」とならぶ根本的に重要な概念である。

Verstand は ふつうの日本語では「分かる」こと、英語では「understand」に相当するが、それは「理解する」とか「物分かり」とか言われるように、人間の分析能力と深くかかわっている。

人間の知覚によって「塩」は分析されて 、「辛く」もあり「白く」もあり「(その結晶は)立方形」でもあるものとして捉えられる。(「精神の現象学」)

これは「悟性 Verstand」の能力、つまり判断能力(Urteil)によるものであるが、ここにおいてはじめて「個別」から「普遍」が出てくる。

しかし、往々にして「悟性 Verstand」は、おのれが分断した一方のみをもって「真なるもの」と主張し、他方を否定する。「悟性 Verstand」はこうして、「抽象(普遍)の餌食」になる。たとえば、今は亡き憲法学者の奥平康弘氏などは「天皇制は民主主義とは両立しえない」などと主張して「皇室」を否定する。

いずれにせよ、カントに代表される「啓蒙哲学」が「悟性 Verstand」の意義を明らかにしたことをヘーゲルは高く評価する一方において、その限界をも指摘し、それを克服するものとして、「理性 Vernunft」の概念を明らかにする。
  
理性については、この『哲学入門』においては、第三課程、概念論、第三部「三、理性的思考」として説明されている。

 

※ご参考までに

ヘーゲル『哲学入門』序論についての説明 一[知覚について] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/9Y7uC8

ヘーゲル『哲学入門』序論 七[意志の抽象的自由] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/oCish9

3月11日(月)のTW:#悟性、#Sollen、#ゾレン - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/GlVxOO

Allgemeine Begriffe(普遍的概念)がもたらす恐ろしい不幸 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/laFMfT

「悟性的思考」と「理性的思考」2 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/K5RNfJ

11月23日(日)のTW:天皇を「自然人」としてしか見れない奥平康弘氏 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/5bQHV2

12月5日(金)のTW:「天皇制」の合理的な根拠?(2) - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/q7lq76

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第六十二節[意図と行為]

2022年10月03日 | ヘーゲル『哲学入門』

ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第六十二節[意図と行為]

§62

Zur Unwahrhaftigkeit gehört auch vorzüglich, wenn das, was man meint, eine gute Absicht oder Gesinnung sein soll, dage­gen, was man tut, etwas Böses ist. (Diese Ungleichheit zwi­schen der Gesinnung und dem, was die Handlung an sich ist, wäre wenigstens eine Ungeschicklichkeit, aber, insofern der Handelnde überhaupt Schuld hat, ist ein solcher, der Böses tut, dafür anzusehen, dass er es auch böse meint).※

第六十二節[意図と行為]

不誠実ということには、何よりもまず、人が善い意図や心情で なければならない と思っているのに、それとは反対に、何か悪いことをしでかしてしまうような場合もまた含まれる。
(この心情と行為そのものとの不一致はいずれにしても、拙劣なものの一つではあるだろう。しかし、いずれにせよ、行為者に過失があるかぎりは、かような悪行を為す者は、やはりそのために、悪いことを考えていたと見るしかない。)


人間は、そもそも内心や心情や意図ではなく、その行為によって、結果によって、その現実によって判断されるべきものである。行為や現実においてこそ、真意が現れる。

先の第六十一節においても述べられたように、人間の意識は分裂しているがゆえに、誠実であるかどうかは、言葉ではなく行為によって証明される。このことはとくにロシアのプーチン大統領や日本の岸田文雄首相などの政治家たちについて言えることである。



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