夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

ヘーゲル『哲学入門』 中級  第三段  理性  第四十二節 [理性の確信]

2024年06月14日 | ヘーゲル『哲学入門』

ヘーゲル『哲学入門』 中級  第三段  理性  第四十二節 [理性の確信]

§42

Das Wissen der Vernunft ist daher nicht die bloße subjektive  Gewissheit,(※1)sondern auch Wahrheit, (※2) weil Wahrheit in der Übereinstimmung oder vielmehr Einheit der Gewissheit und des Seins oder der Gegenständlichkeit besteht.(※3)

第四十二節[理性の確信]
  
理性の知識は、したがって、たんなる主観的な 確実性 ではなくて、むしろ 真理 でもある。なぜなら、真理とは、認識されたことと存在とが、あるいは客観性とが一致していること、あるいは、むしろその統一のうちにあるからである。

 

※1
 Gewissheit 
確信、確実性。知識をもっていること。ここではまだその知識が主観性にとどまっている。

※2
Wahrheit
真実、正しいこと、真理。
主観的な確信が、存在や対象の客観性と一致すること、もしくは、存在がその概念に一致していること。

※3
先の第二段において、自己意識が「不幸な意識」に至るのは、人間の意識が本来的に自己内分裂をその特性としているからである。
分裂した自己意識は、自己自身との不一致や他者との関係における矛盾、信仰における不和などに、必然的に「不一致と矛盾」に陥るから「不幸な意識」とならざるをえない。
しかし、この「不幸な意識」も、主人と従僕との関係や労働を通して、その「疎外」も克服して、ここで自己意識は理性として、主観と客観との統一を、その確実性と真理を確信するようになる。

しかし、この段階では、理性もまだ「表象」の確信にすぎないから、『精神の現象学』においては、そこからさらにすすんで、自然や有機体(生命)の観察や実験へと、さらには、道徳や人倫の領域へと入り込んで、自らの意志や行動を通して世界を変革しようとしたり(「徳の騎士」と「世路」との対立)しながら理性から精神へと移行してゆく。
カントの啓蒙哲学やフランス革命も検証され、「絶対精神」の領域である芸術、宗教、哲学(絶対知)へと向かう考察がくわしく展開されている。しかし、この『哲学入門』ではそれらは一切省略されている。

 


この『哲学入門』の「精神現象論」においては省略されている、『精神の現象学』の「Ⅴ 理性の確信と真理」および「Ⅵ 精神」の内容については、梗概か要約としてまとめておきたいと考えています。

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 中級  第三段  理性  第四十一節 [理性が洞察するもの]

2024年06月10日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

ヘーゲル『哲学入門』 中級  第三段  理性  第四十一節 [理性が洞察するもの]

§41

Oder was wir durch die Vernunft einsehen, ist: 1) ein Inhalt, der nicht in unsern bloßen Vorstellungen oder Gedanken be­steht, die wir für uns machten, sondern der das an und für sich seiende Wesen der Gegenstände enthält und objektive Realität hat und 2) der für das Ich kein Fremdes, kein Gegebenes, son­dern von ihm durchdrungen, angeeignet und damit eben so sehr von ihm erzeugt ist.(※1)(※2)

第四十一節[理性が洞察するもの]

あるいは、私たちが理性を通して理解するところのものは、1) 私たちが自分たちのために作った単なる表象や思考のうちにはない内容ではなく、むしろ対象に本来的に存在する本質を含んだ、そして客観的な実在性をもった内容であり、また、2) 「私」にとってその内容は疎遠なものではなく、また誰かから与えられたものでもなく、「私」によって洞察されて取り入れられ、そして、まさにその結果「私」によって作り出されたものである。

 

※1
was wir durch die Vernunft einsehen
理性によって私たちが認識するものは、「私」によって探求されて手に入れ、生み出された主観的な内容であるとともに、客観的であり現実性をもった内容である。それは私にとってよそよそしいものではない。この理性の段階において主観と客観の対立は統一され宥和する。

※2  
理性のこの段階に至った自己意識は、個別と普遍との統一とその実在性を確信する。しかし、「現象学」の理性の項においては、そこから自然や有機体の観察や実験へと、さらには道徳や人倫の領域へと展開していく。そこでよく知られている「徳の騎士」(革命家、若者)が「世路」(現実の法則、大人)に敗北する論理などは、ここではすべて省略されている。

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』  中級  第三段  理性  第四十節 [理性について]

2024年06月07日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

ヘーゲル『哲学入門』  中級  第三段  理性  第四十節 [理性について]

 Dritte Stufe. Die Vernunft.

§40

Die Vernunft ist die höchste Vereinigung des Bewusstseins und des Selbstbewusstseins oder des Wissens von einem Gegen­stande und des Wissens von sich. Sie ist die Gewissheit, dass ihre Bestimmungen eben so sehr gegenständlich, Bestimmungen des Wesens der Dinge, als unsre eigenen Gedanken sind. Sie ist eben so sehr die Gewissheit einer selbst, Subjektivität, als das Sein oder die Objektivität, in Einem und demselben Denken.(※1)

第三段  理性

第四十節[理性について]

理性とは、意識と自己意識の最高の統一である。つまり、対象についての知識と自己についての知識との最高の統一である。理性とは次のことを確信することである。すなわち、理性の規定が、私たち自身の思考として、まったく客観的であって、事物の本質についての規定でもあるという確信である。理性とは、一つの同じ思考にあって、存在や客観性とまったく同じように、自己自身や主観性を確信することである。

 

※1
「精神の現象学」の中で展開されているように、自己意識は長い格闘ののちに、ここにおいて理性の確信にたどり着く。
理性の規定は、客観的であり事物の本質であるとともに、それはまた自己自身や主観性との統一でもある。すなわち、真理であるという確信である。
「理性」は通俗的にも多用される概念であるが、ここでヘーゲルが規定しているように、哲学的には絶対知を把握する認識能力をいう。
自己意識が理性に至るまでにたどる道程は、『精神の現象学』においてはくわしく展開されているが、この『哲学入門』ではすべて省略されている。

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識  第三十九節  [自己意識の普遍性2]

2024年06月05日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識  第三十九節  [自己意識の普遍性2]


§39

Das Selbstbewusstsein ist sich nach dieser seiner wesentlichen Allgemeinheit nur real, insofern es seinen Widerschein in An­dern weiß (ich weiß, dass Andere mich als sich selbst wissen) und als reine geistige Allgemeinheit, der Familie, dem Vater­land u. s. f. angehörig, sich als  wesentliches Selbst  weiß. (※1)(Dies Selbstbewußtsein ist die Grundlage aller Tugenden, der Liebe, Ehre, Freundschaft, Tapferkeit, aller Aufopferung, alles Ruhms u. s. w.)(※2)


第三十九節[自己意識の普遍性2] 

自己意識が他者のうちに自身の反映を認め(他者が私を私自身として認めていることを、私が知っていること)そうして、家族や祖国などに属する純粋に精神的な普遍性として、自らを本質的な自己として知るかぎりにおいて、この自らの本質的な普遍性によって、自己意識はただ現実的になる。(この自己意識は、すべての徳、愛、名誉、友情、勇気、すべての自己犠牲、すべての名声といったものの基礎である。)

 

※1
意識はまず欲望の対象としての物や他者を介して、自己意識を確立するが、この自己意識は主人と従僕との関係において、服従と労働を通して普遍的な性格を形成していく。
自己意識はここで単なる個別的な存在から、普遍的な自己意識として他者や家族や市民社会、国家との関係において自己を認識するようになる。

※2
この『哲学入門』の「精神現象論」では、『精神の現象学』の中には詳細に展開されている「理性」の段階に至るまでの、自由を求めて苦悩し格闘する自己意識のたどる道程が、ストア主義や懐疑主義へと歩む不幸な意識の行き詰まりと絶望が一切省略されている。

 

 

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ふたたび「自由と民主政治の概念」について

2024年06月03日 | 政治・経済

 

ふたたび「自由と民主政治の概念」について

 

私のブログ「作雨作晴」の今日の「このブログの人気記事?」の中に、「自由と民主政治の概念」という昔に書いた論考が上がっていた。あらためて見ると、2006年1月30日に書いた論考である。改めてその内容を確認しておきたいと思った。

その記事の論考で主張したことは、まず

1、日本国民のすべてが、日本国の国家理念として「自由にして民主的な独立した立憲君主国家としての日本」を自覚し、追求すべきこと、

2、「自由党」と「民主党」の二つの基本的な政党が、それぞれが国民政党として、「自由にして民主的な独立した立憲君主国家」としての日本国の実現を目指していくべきこと、

この二点である。

当時の政治的な状況は、与党においては、自民党が小泉純一郎氏を党首として、首相の地位にあって、「郵政の民営化」を実行しようとし、その一方では、小沢一郎氏や鳩山由紀夫氏たちが結党した民主党にあって、前原誠司氏や岡田克也氏らがこの野党の政党幹部として、与党の政策に対決していた。

先に掲げた日本国の国家理念からも、日本の政党政治を健全なものとしていくためには、独立した立憲君主国家を追求する国民政党が日本の政治を担ってゆく必要があり、そのためには、まず民主党の内部から社会主義者や共産主義者たちの「全体主義」を清算して、当時の民主党を国民政党として生まれ変わらせる必要があることを訴えたものである。

民主党は、その党内に横路孝弘氏や赤松広隆氏など旧社会党出身者たちを多く抱えており、その一方では西村慎吾氏と松原仁氏らも同じ党内に所属していた。

この論考をブログに上げてから、すでに20年近くの歳月が過ぎようとしている。かって社会主義者や共産主義者の隠れ蓑となっていた「民主党」はすでになく、今はその系譜が「立憲民主党」という名前で生きながらえている。

私がこの論考で主張したことは、かっての民主党の国会議員の誰一人の耳にも届かなかったようだ。多少は期待した前原誠司氏などは、今は国民民主党も追い出されて政界をさすらっている。

その一方で、安倍晋三元首相が暗殺されていなくなった自民党はすっかりリベラル化して、保守党としての性格を失ってしまった。

日本国の国家理念が「自由にして民主的な独立した立憲君主国家」にしかありえないことは、今ももちろん変わりがない。そして、日本国の政党政治が、いずれもが国民政党である「保守自由党」と「民主国民党」によって担われるべきであるという主張にも変わりがない。この二つの政党によって、「自由にして民主的な独立した立憲君主国家としての日本」を追求していくのである。

 

 

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