夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

価値は消費者のニーズで決まる⎯⎯マルクス「労働価値説」のまちがい

2021年07月13日 | 法の哲学
 
価値は消費者のニーズで決まる⎯⎯マルクス「労働価値説」のまちがい
 
以前の記事の再録です。
高橋洋一氏も「価値は消費者のニーズで決まる」ことを指摘されて、マルクスの「労働価値説」の愚説であることを説明されています。
価値の実体について、ヘーゲルの「法の哲学」における説明をマルクスはきちんと正しく受け継ぐことのできなかったことがわかります。


事物の価値と欲求 ⎯⎯⎯ 価値の実体について - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/MPGE0B


事物の価値と欲求 ⎯⎯⎯ 価値の実体について

先に拙訳だけツイッターで投稿して済ませたものですが、この§63において行われている、事物の使用価値と、その特殊な質から抽象された普遍性である価値の実体との関係についてのヘーゲルの考察は、アダム・スミスらによって 明らかにされてきた「労働価値説」や、さらにはマルクスの資本論における「投下労働価値説」や「生産価格論」の不十分さやその矛盾など、価値の本質をあらためて考えるのに参考になると思います。さらに原文もあわせて記録しておきました。
また「das Bedürfnis」 を「欲求」と訳すべきか「欲望」と訳すべきか、あるいは、それとももっと適当な訳語があるのか迷っています。よい意見があれば教えていただければうれしい。

§ 63
Die Sache im Gebrauch ist eine einzelne nach Qualität und Quantität bestimmte und in Beziehung auf ein spezifisches Bedürfnis. Aber ihre spezifische Brauchbarkeit ist zugleich als quantitativ bestimmt vergleichbar mit anderen Sachen von derselben Brauchbarkeit, so wie das spezifische Bedürfnis, dem sie dient, zugleich Bedürfnis überhaupt und darin nach seiner Besonderheit ebenso mit anderen Bedürfnissen vergleichbar ist und danach auch die Sache mit solchen, die für andere Bedürfnisse brauchbar sind. Diese ihre Allgemeinheit, deren einfache Bestimmtheit aus der Partikularität der Sache hervorgeht, so daß von dieser spezifischen Qualität zugleich abstrahiert wird, ist der Wert der Sache, worin ihre wahrhafte Substantialität bestimmt und Gegenstand des Bewußtseins ist. Als voller Eigentümer der Sache bin ich es ebenso von ihrem Werte als von dem Gebrauche derselben.
Der Lehnsträger hat den Unterschied in seinem Eigentum, daß er nur der Eigentümer des Gebrauchs, nicht des Werts der Sache sein soll.

§63[事物の価値、価値の実体]


使用される事物は、質的にも量的にも規定せられた一個の個体であり、そして特殊な欲求にかかわるものである。しかし、それらの特殊な有用性は同時に、同じ有用性のある他のものと量的に比較の可能なものであり、それによって充足される特殊な欲求は、欲求一般であり、
そして欲求一般という点において、その特殊性にしたがって同じく他の欲求と比較が可能であり、そして、そこからまた事物はそのようなものとして、他の欲求に対して使用される事物とも比較できる。この事物の普遍性は事物の特殊性から生じてくる単純な規定性であって、したがって、その特殊な質から抽象されるのであり、この事物の普遍性とは、事物の価値のことであり、その事物の価値の中に、その真の実体性が規定されており、そして意識の対象となる。事物の完全な所有者として私はその使用についてと同じく、その価値についても完全な所有者である。


中世の家の子郎党らは、その所有においては、彼らは単に、使用権の所有者にすぎないのであって、事物の価値の所有者ではないという違いがある。



※20190114追記
ここでは「die Sache」を「事物」と訳したが、「事柄」とも、単に「もの(物)」とも訳すこともできる。人間の所有の対象はかならずしも「物」のみに限らないから、とりあえずここでは「事物」と訳しておいた。「die Sache」と 「die Dinge」の違いがここではよくわからない。
この「die Sache」はのちにマルクスが「商品(die Ware)」として、資本論のなかで詳細に分析し、そのなかに含まれる要素として、使用価値と交換価値 Gebrauchswert und Wert(Wertsubstanz, Wertgrose) を見出し、さらに、その価値の実体として人間の労働力を対象としたことで知られる。
しかし、価値の実体とは、ここでヘーゲルが明らかにしているように、欲求一般という普遍性であり、「特殊な欲求」を抽象化することによって、その真の実体として「価値」を人間の意識の対象としたものである。したがって事物の真の実体、価値の実体は「人間の欲求」であって、「人間の労働力」ではない。

 
 
【左翼の末路】『長谷川が見た 逃走・裏切り・内ゲバ』
 
 
 
 
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事物の価値と欲求 ⎯⎯⎯ 価値の実体について

2019年01月16日 | 法の哲学

 

事物の価値と欲求 ⎯⎯⎯ 価値の実体について


先に拙訳だけツイッターで投稿して済ませたものですが、この§63において行われている、事物の使用価値と、その特殊な質から抽象された普遍性である価値の実体との関係についてのヘーゲルの考察は、アダム・スミスらによって 明らかにされてきた「労働価値説」や、さらにはマルクスの資本論における「投下労働価値説」や「生産価格論」の不十分さやその矛盾など、価値の本質をあらためて考えるのに参考になると思います。さらに原文もあわせて記録しておきました。

また「das Bedürfnis」 を「欲求」と訳すべきか「欲望」と訳すべきか、あるいは、それとももっと適当な訳語があるのか迷っています。よい意見があれば教えていただければうれしい。

 

§ 63

Die Sache im Gebrauch ist eine einzelne nach Qualität und Quantität bestimmte und in Beziehung auf ein spezifisches Bedürfnis. Aber ihre spezifische Brauchbarkeit ist zugleich als quantitativ bestimmt vergleichbar mit anderen Sachen von derselben Brauchbarkeit, so wie das spezifische Bedürfnis, dem sie dient, zugleich Bedürfnis überhaupt und darin nach seiner Besonderheit ebenso mit anderen Bedürfnissen vergleichbar ist und danach auch die Sache mit solchen, die für andere Bedürfnisse brauchbar sind. Diese ihre Allgemeinheit, deren einfache Bestimmtheit aus der Partikularität der Sache hervorgeht, so daß von dieser spezifischen Qualität zugleich abstrahiert wird, ist der Wert der Sache, worin ihre wahrhafte Substantialität bestimmt und Gegenstand des Bewußtseins ist. Als voller Eigentümer der Sache bin ich es ebenso von ihrem Werte als von dem Gebrauche derselben. 

Der Lehnsträger hat den Unterschied in seinem Eigentum, daß er nur der Eigentümer des Gebrauchs, nicht des Werts der Sache sein soll. 

 

 §63[事物の価値、価値の実体]

使用される事物は、質的にも量的にも規定せられた一個の個体であり、そして特殊な欲求にかかわるものである。しかし、それらの特殊な有用性は同時に、同じ有用性のある他のものと量的に比較の可能なものであり、それによって充足される特殊な欲求は、欲求一般であり、
そして欲求一般という点において、その特殊性にしたがって同じく他の欲求と比較が可能であり、そして、そこからまた事物はそのようなものとして、他の欲求に対して使用される事物とも比較できる。この事物の普遍性は事物の特殊性から生じてくる単純な規定性であって、したがって、その特殊な質から抽象されるのであり、この事物の普遍性とは、事物の価値のことであり、その事物の価値の中に、その真の実体性が規定されており、そして意識の対象となる。事物の完全な所有者として私はその使用についてと同じく、その価値についても完全な所有者である。

中世の家の子郎党らは、その所有においては、彼らは単に、使用権の所有者にすぎないのであって、事物の価値の所有者ではないという違いがある。
 
 
 
 

※20190114追記

ここでは「die Sache」を「事物」と訳したが、「事柄」とも、単に「もの(物)」とも訳すこともできる。人間の所有の対象はかならずしも「物」のみに限らないから、とりあえずここでは「事物」と訳しておいた。「die Sache」と     「die Dinge」の違いがここではよくわからない。

この「die Sache」はのちにマルクスが「商品(die Ware)」として、資本論のなかで詳細に分析し、そのなかに含まれる要素として、使用価値と交換価値 Gebrauchswert und Wert(Wertsubstanz, Wertgrose) を見出し、さらに、その価値の実体として人間の労働力を対象としたことで知られる。

しかし、価値の実体とは、ここでヘーゲルが明らかにしているように、欲求一般という普遍性であり、「特殊な欲求」を抽象化することによって、その真の実体として「価値」を人間の意識の対象としたものである。したがって事物の真の実体、価値の実体は「人間の欲求」であって、「人間の労働力」ではない。

 

 
 
 
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1月13日(日)のTW:#事物、#価値、#欲求

2019年01月14日 | 法の哲学

 

 

 

 

 

※20190114追記

ここでは「die Sache」を「事物」と訳したが、「事柄」とも、単に「もの(物)」とも訳すこともできる。人間の所有の対象はかならずしも「物」のみに限らないから、とりあえずここでは「事物」と訳しておいた。「die Sache」と     「die Dinge」の違いがここではよくわからない。

この「die Sache」はのちにマルクスが「商品(die Ware)」として、資本論のなかで詳細に分析し、そのなかに含まれる要素として、使用価値と交換価値 Gebrauchswert und Wert(Wertsubstanz, Wertgrose) を見出し、さらに、その価値の実体として人間の労働力を対象としたことで知られる。

しかし、価値の実体とは、ここでヘーゲルが明らかにしているように、欲求一般という普遍性であり、「特殊な欲求」を抽象化することによって、その真の実体として「価値」を人間の意識の対象としたものである。したがって事物の真の実体、価値の実体は「人間の欲求」であって、かならずしも「人間の労働力」ではない。

 

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§286d〔公共の自由と君主権の世襲、理性的な国家体制(憲法)〕

2018年11月04日 | 法の哲学

 

§286d〔公共の自由と君主権の世襲、理性的な国家体制(憲法)〕

Im organischen Verhältnisse, in welchem Glieder, nicht Teile, sich zueinander verhalten, erhält jedes die anderen, indem es seine eigene Sphäre erfüllt; jedem ist für die eigene Selbsterhaltung ebenso die Erhaltung der anderen Glieder substantieller Zweck und Produkt.

有機的な関係においては、部材ではなくて肢体としてお互いを保持し合うが、それぞれの肢体は自らの固有の役割を充足させるかぎりにおいて、それぞれ他の肢体を保持する。各肢体にとって、固有の自己を保全することと同様に他の肢体を保持することは、重要な目的でありまた結果である。

Die Garantien, nach denen gefragt wird, es sei für die Festigkeit der Thronfolge, der fürstlichen Gewalt überhaupt, für Gerechtigkeit, öffentliche Freiheit usf., sind Sicherungen durch Institutionen.

ここで求められている保証は、それが王位継承の確かなものとするためや、君主権一般の確立のためにであれ、正義や公共の自由その他のためであれ、諸制度を通して確固としたものとなる。

Als subjektive Garantien können Liebe des Volks, Charakter, Eide, Gewalt usf. angesehen werden, aber sowie von Verfassung gesprochen wird, ist die Rede nur von objektiven Garantien, den Institutionen, d. i. den organisch verschränkten und sich bedingenden Momenten.

主観的な保証としては国民の愛や、気質、誓い、権力などが考えられる。しかし、国家体制(憲法)について語られるときには、ただ客観的な保証のみが、諸制度についてが問題になる。すなわち、有機的に規制しあい、そして自ら依存しあう諸要素が問題になる。

So sind sich öffentliche Freiheit überhaupt und Erblichkeit des Thrones gegenseitige Garantien und stehen im absoluten Zusammenhang, weil die öffentliche Freiheit die vernünftige Verfassung ist und die Erblichkeit der fürstlichen Gewalt das, wie gezeigt, in ihrem Begriffe liegende Moment.

そうして、公共的な自由一般と王位の世襲とは、自ら相互に保証しあうものであり、また絶対的な関連の中において成り立つものである。というのも、公共の自由とは理性的な国家体制(憲法)であり、また君主権の世襲だからである。この君主権の世襲は、すでに明らかにしたように、君主権の概念のなかに存在している要素である。

有機体においては、胃や心臓などの臓器が壊れると、腕や足や目などの各部位もその機能を果たすことができない。公共的な自由一般と君主の世襲も、相互に保証しあう関係にある。君主権の世襲される国家体制(憲法)は理性的であり、また君主権の世襲は、君主権という概念自体にふくまれる契機である。そして君主の認可による法の公布とその国家目的は、さらに具体的な法律、制度をもって遂行されなければならないが、その施行は君主の使命ではない。それは統治権として、君主とは別個に、司法権や行政権としてその特殊な使命は遂行されなければならない。その必然的な展開はさらに「b統治権 §287 」以下に明らかにされてゆく。

 
 
 
 
 
 
 
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§286c 〔封建的君主制、専制政治の荒廃と破壊の歴史〕

2018年10月25日 | 法の哲学

 

§286c〔封建的君主制、専制政治の荒廃と破壊の歴史〕

Die ehemaligen bloßen Feudalmonarchien sowie die Despotien zeigen in der Geschichte darum diese Abwechslung von Empörungen, Gewalttaten der Fürsten, innerlichen Kriegen, Untergang fürstlicher Individuen und Dynastien und die daraus hervorgehende innere und äußere allgemeine Verwüstung und Zerstörung,

かっての単なる封建的君主制は、専制政治とおなじように、叛乱や支配者の暴虐、内乱、支配者個人や王朝の没落によってもたらされるこれら支配者の交替と、そして、そこから生じた国内外の一般的な荒廃と破壊を、その歴史の中で示している。


weil in solchem Zustand die Teilung des Staatsgeschäfts, indem seine Teile Vasallen, Paschas usf. übertragen sind, nur mechanisch, nicht ein Unterschied der Bestimmung und Form, sondern nur ein Unterschied größerer oder geringerer Gewalt ist. So erhält und bringt jeder Teil, indem er sich erhält, nur sich und darin nicht zugleich die anderen hervor und hat zur unabhängigen Selbständigkeit alle Momente vollständig an ihm selbst.

その理由は、国家事業を分割するこのような状態においては、国家事業の分担が家臣や高官などに任せられるために、ただ機械的になり、使命や形式の違いによってではなく、そうではなくその違いは単に権力が大きいかあるいは小さいかだけである。そうして、それぞれの部門は、自己を保持しながら、ただ自己のみを、そして、そこでは同時に他者を生み出すということはなく、それぞれの部門は、他と関わりを持たない独立したものとなって、すべての要素を完全に自己自身のもとに持つことになる。


封建的君主制や専制政治が荒廃と破壊の歴史をたどるのは、その体制の国家事業の分担が有機的な関係を失い、ただ権力の大小によって区別されるのみで、それぞれの部門が他者とは無関係な完全に自立した存在と化すためである。それぞれが独立してその生存をめぐって排他的に競合しあうことになるためである。フランス革命の末期にも権力は分裂して恐怖政治を招いて破滅することになる。認識論においては、悟性は分断(判断)をもたらし、理性は統一(宥和)をもたらす。



 
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§286 b 〔理性的な国家体制としての立憲君主制と公共の自由〕

2018年10月22日 | 法の哲学

 

§286 b 〔理性的な国家体制としての立憲君主制と公共の自由〕

Die monarchische Verfassung zur erblichen, nach Primogenitur festbestimmten Thronfolge herausgearbeitet zu haben, so daß sie hiermit zum patriarchalischen Prinzip, von dem sie geschichtlich ausgegangen ist, aber in der höheren Bestimmung als die absolute Spitze eines organisch entwickelten Staats zurückgeführt worden, ist eines der späteren Resultate der Geschichte, das für die öffentliche Freiheit und vernünftige Verfassung am wichtigsten ist, obgleich es, wie vorhin bemerkt, wenn schon respektiert, doch häufig am wenigsten begriffen wird.

長子相続にしたがって堅実に確立された継承へと、君主制の国家体制をつくりあげること、それをもって家父長的な原則へと、しかし、それも歴史的な起源としての家父長的な原則から、有機的に発展した国家の絶対的な頂点としての家父長的な原則へと、さらにより高められた規定に回帰させることは、歴史における最近の成果の一つであり、公共の自由と理性的な国家体制にとってもっとも重要な成果の一つである。ただそうであるとしても、前にも述べたように(§279、§281)、(君主制の国家体制は)かねてより尊重はされてはいても、それは往々にしてもっとも理解されることの少ないものである。



近代において有機的に発展した国家における頂点としての家父長的な原則について、すなわち、立憲君主国家体制としての君主制については、「公共の自由」と「理性的な国家体制」にとってもっとも重要な歴史的な意義をもつ成果としてヘーゲルは評価している。それと同時に「君主制の意義」がもっとも理解されることの困難なものであるとしている。

「公共の自由」に対する君主制の意義についてのこの指摘は、自由の価値を知る者にとってはとりわけ重要だと思います。

「天皇制」と民主主義は両立しない、と断言して亡くなられた東大名誉教授で憲法学者の奥平康弘氏がもし生きておられれば、「皇室」の存在と「公共の自由」との関係についてたずねてみたい。立憲君主国家体制における皇室の存在は「公共の自由」を毀損するかどうか?

 

 

 

 
 
 
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§ 286a〔君主権を客観的に保証するもの〕

2018年10月17日 | 法の哲学


§ 286a〔君主権を客観的に保証するもの〕

Die objektive  Garantie der fürstlichen Gewalt, der rechtlichen Sukzession nach der Erblichkeit des Thrones usf. liegt darin, daß, wie diese Sphäre ihre von den anderen durch die Vernunft bestimmten Momenten ausgeschiedene Wirklichkeit hat, ebenso die anderen für sich die eigentümlichen Rechte und Pflichten ihrer Bestimmung haben; jedes Glied, indem es sich für sich erhält, erhält im vernünftigen Organismus eben damit die anderen in ihrer Eigentümlichkeit.

 

王位の世襲についての合法的な継承など、君主権の客観的な保証は、この(君主権の)領域が、理性を通して規定された他の要素(行政権や司法権、立法権など)とは別個の現実性をもつように、同様に、他の要素も自己のためにその使命としての固有の権利と義務を持っているということのうちにある。
理性的な有機体においては、それぞれの肢体は、それ自身を自己のために保持するかぎりにおいて、まさにそのことによってその他の肢体もそれ独自の固有性を保持している。


ヘーゲルの国家論の特色は、その他の凡庸な憲法学者や国家論者と異なって、国家を一個の有機的な組織として捉える論理をもっていることである。有機体としての人体において、胃や心臓などの臓器は、腕や足などの肢体とは異なった独自の機能を持っているが、また同時に胃や心臓がなくなれば腕や足はその機能を果たすこともできない。それぞれは相互依存の不可分の関係にある。君主権も行政権や司法権と不可分な関係にありながら、同時にそれ独自の使命をもっている。ヘーゲルは以下の注釈において、往々にしてほとんど正しく十分に理解されることのない君主権の意義を明らかにしてゆく。

 

 

 

 
 
 
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§ 285〔君主権の普遍性、君主の良心と憲法〕

2018年10月13日 | 法の哲学


§ 285〔君主権の普遍性、君主の良心と憲法〕

Das dritte Moment der fürstlichen Gewalt betrifft das an und für sich Allgemeine, welches in subjektiver Rücksicht in dem Gewissen des Monarchen, in objektiver Rücksicht im Ganzen der Verfassung und in den Gesetzen besteht; die fürstliche Gewalt setzt insofern die anderen Momente voraus, wie jedes von diesen sie voraussetzt.

君主権の三番目の要素は、本来的に(必然的に、絶対的に)普遍に関係するもので、その普遍というのは、主観的な観点においては君主の良心の中にあり、客観的な観点においては、国家体制の憲法の全体の中に、そして法律の中に存在するものである。君主権が他の要素(行政や立法)を前提としているかぎりにおいては、その他の要素のそれぞれが君主権を前提とするのと同じである。



君主権もまたその他の概念と同様に三つの要素(Das Moment  ⎯ 普遍–特殊–個別)を含んでいる。君主権についての考察は、個別から始まる(§275以下参照)。もちろん総体としての個別はまた、そのうちに特殊と普遍を含んでいる。
 
自我(私、自意識)が個別的であると同時にまたもっとも普遍的であるように、君主権もまた個別的であると同時に普遍的な存在でもある。§275以下に君主権に含まれる個別性、特殊性を論証してきたヘーゲルはこの第285節以下において君主権の普遍性について論じる。

この君主権の普遍性は主観と客観の両面から考察される。その普遍性は主観的側面としては君主の自我、君主の良心のうちに存在し、客観的側面としては、国家体制の中に、憲法などのさまざまな法律のうちに存在する。

この君主権のうちに含まれる三つの要素(Das Moment  ⎯ 普遍– 特殊–個別)はまた、概念そのものがそうであるように、それぞれ区別されていると同時に、観念的に統一された有機的な存在として、それぞれは相互依存の不可分の関係にある。君主権は統治権や立法権なくしては存在せず、また立法権や統治権も君主権なくしては存在しない。
 
 
 
 
 
 
 
 
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§ 284〔立憲君主国家における君主の無答責〕

2018年10月09日 | 法の哲学

 

§ 284


Insofern das Objektive der Entscheidung, die Kenntnis des Inhalts und der Umstände, die gesetzlichen und andere Bestimmungsgründe, allein der Verantwortung, d. i. des Beweises der Objektivität fähig ist und daher einer von dem persönlichen Willen des Monarchen als solchem unterschiedenen Beratung zukommen kann, sind diese beratenden Stellen oder Individuen allein der Verantwortung unterworfen; die eigentümliche Majestät des Monarchen, als die letzte entscheidende Subjektivität, ist aber über alle Verantwortlichkeit für die Regierungshandlungen erhoben.

第二八四節〔立憲君主国家における君主の無答責〕

決定の客観性や、内容や状況の認識、法的なその他の決定の根拠など、すなわち、その客観性を証明できて、そして、したがって、それらが君主の人格的な意思とは別に区別される助言にその責任のみを帰することのできるかぎり、もっぱらこれらの諮問機関(内閣)もしくは諸個人(官僚)のみが責任を担う。最終的な裁可を下す主体としての君主に固有の尊厳性は、しかし政府の行動に対する全ての責任を超越したところにある。


立憲君主国家体制における君主の尊厳は、政府の統治行為に対して一切その責任を問われることがない。君主に対して諮問し助言する立場にある内閣や官僚がすべてその責を負う。

大日本帝国憲法下の日本も立憲君主国家体制を原理としており、したがって当然に君主である天皇は政府の統治行為に対して責任を問われることはなかった。

 
 
 
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§ 283〔君主と諮問機関とその官僚〕

2018年10月06日 | 法の哲学

 

§ 283〔君主と諮問機関とその官僚〕

Das zweite in der Fürstengewalt Enthaltene ist das Moment der Besonderheit oder des bestimmten Inhalts und der Subsumtion desselben unter das Allgemeine. Insofern es(※1) eine besondere Existenz erhält, sind es oberste beratende Stellen und Individuen, die den Inhalt der vorkommenden Staatsangelegenheiten oder der aus vorhandenen Bedürfnissen nötig werdenden gesetzlichen Bestimmungen mit ihren objektiven Seiten, den Entscheidungsgründen, darauf sich beziehenden Gesetzen, Umständen usf. zur Entscheidung vor den Monarchen bringen. Die Erwählung der Individuen zu diesem Geschäfte wie deren Entfernung fällt, da sie es mit der unmittelbaren Person des Monarchen zu tun haben, in seine unbeschränkte Willkür.

 

君主権に含まれている第二の要素は特殊の要素であり、もしくは、規定された内容であり、そしてそれを普遍の下に包摂することである。規定された内容が一個の特殊な存在を含む限り、それは最高の諮問機関であり諸個人である。それらは発生する国家業務の内容や、あるいは既存の必要性から客観的側面において必要とされる法的な規定、意思決定の根拠、それに関連する法令、様々な諸状況などを君主のもとに決するために持ち来る。これらの職務のために個人を選任することは、解任する場合と同じように、彼らはそこで君主の直接の人格と関係することから、君主の無制限な恣意に任される。


ヘーゲルの弁証法的な論理は、概念の進展に従ってつねに、普遍 ⎯→ 特殊 ⎯→ 個別 へと展開されます。普遍的な存在としての君主は、その概念の展開に即してさらに統治権へと、特殊な諮問機関としての内閣や官僚などを含む行政や立法、司法などの特殊な領域へと進展してゆきます。その概念が動的に立体的に必然的に展開されてゆく点がモンテスキューたちの三権分立論などと大きく異なるところです。また、ヘーゲルの概念論を誤解し、観念論Idealismusを理解しなかったマルクスなどの唯物論者たちは、このヘーゲルの弁証法論理をもって「論理的汎神論的神秘主義」とよび、倒錯しているとか神秘化しているなどと批判しています 。

※1

指示代名詞 es を、とりあえず「規定された内容」として訳しました。das Allgemeine が正しいのかもしれない。

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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§ 282〔君主の尊厳と恩赦〕

2018年10月03日 | 法の哲学

 

§ 282〔君主の尊厳と恩赦〕

Aus der Souveränität des Monarchen fließt das Begnadigungsrecht der Verbrecher, denn ihr nur kommt die Verwirklichung der Macht des Geistes zu, das Geschehene ungeschehen zu machen und im Vergeben und Vergessen das Verbrechen zu vernichten. 

君主の主権から、犯罪者に対する恩赦権が生じる。なぜなら、起きたことを起きなかったことにすること、そして、赦しと忘却において犯罪を消し去るという精神の力の実現は、君主の主権のみに属するものだからである。

Das Begnadigungsrecht ist eine der höchsten Anerkennungen der Majestät des Geistes.
- Dies Recht gehört übrigens zu den Anwendungen oder Reflexen der Bestimmungen der höheren Sphäre auf eine vorhergehende. - Dergleichen Anwendungen aber gehören der besonderen Wissenschaft an, die ihren Gegenstand in seinem empirischen Umfange abzuhandeln hat (vgl. § 270 Anm. Fn.). 


恩赦権は精神の尊厳についてもっとも深く認識することである。− この権利は、ちなみに、より高い領域の規定をそれに先行する前の領域の規定へ適用もしくは反映させることである。このような種類の適用は、しかし、その経験的な範囲においてその対象を取り扱わなければならない特殊な科学に属している。(§270註釈、脚注参照)※1

- Zu solchen Anwendungen gehört auch, daß die Verletzungen des Staats überhaupt oder der Souveränität, Majestät und der Persönlichkeit des Fürsten unter den Begriff des Verbrechens, der früher (§ 95 bis 102) vorgekommen ist, subsumiert, und zwar als die höchsten Verbrechen, [und] die besondere Verfahrungsart usf. bestimmt werden. 

− 国家一般の毀損、あるいは、君主の主権や尊厳、およびその人格性に対する侵害が先に(§95から§102まで)に示した犯罪の概念のもとに包摂されるのも、かつ同じく最高の犯罪として、(そして)特別な取り扱いなどが決定されるのもまた、このような適用に属する。※2

Zusatz.
Die Begnadigung ist die Erlassung der Strafe, die aber das Recht nicht aufhebt. Dieses bleibt vielmehr, und der Begnadigte ist nach wie vor ein Verbrecher; die Gnade spricht nicht aus, daß er kein Verbrechen begangen habe. Diese Aufhebung der Strafe kann durch die Religion vor sich gehen, denn das Geschehen kann vom Geist im Geist ungeschehen gemacht werden. Insofern dieses in der Welt vollbracht wird, hat es seinen Ort aber nur in der Majestät und kann nur der grundlosen Entscheidung zukommen. 

補註

恩赦は刑罰を免除するものであるが、刑罰の権利を廃棄してしまうものではない。刑罰の権利は、むしろ残っており、赦免されたものはなお依然として犯罪者でありつづける。恩赦の恵みは彼がいかなる犯罪をも犯していないことを意味するものではない。この刑罰の廃棄は、宗教を通して行うことができる。なぜなら、起きてしまったことは、精神の中で精神によって起きなかったことにすることができるからである。このことが世俗において行われる限りにおいて、恩赦はただ(君主の)尊厳の中においてのみその場所をもち、そして、ただ(君主の)無条件の決定のみから生じることができるのである。

 

※1

「§270註釈、脚注」の個所において論じられているのは、宗教と国家との関係ですが、国家における君主の犯罪者に対する恩赦と、宗教における、神の悪人に対する罪の赦しとの、対比において考察される。君主と国民、神と人との関係が、いずれも、より高い領域からより低い領域への適用、もしくは反映として論じられている。君主の恩赦の権限ついての規定は、現行の日本国憲法においても、第七条の天皇の国事行為として、大赦、特赦、減刑などが行われることになっており、下位法として恩赦法があります。

※2

刑法第二編の「公益に関する重罪軽罪」の第一章、第七十三条から第七十六条に規定されていたいわゆる不敬罪としての規定、皇室に対する罪に関する規定は、GHQの占領統治下において改正されて削除されています。国家に対する犯罪、いわゆる国事犯については第二章以下に「内乱に関する罪」として規定されています。国家や君主に対する犯罪が特別なものとして扱われていることがわかります。

 

 
 
 
 
 
 
 
 
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§281 補註〔国家体制における君主と支配者〕

2018年09月25日 | 法の哲学

 

§281  Zusatz.〔der Monarch  und   der  Herr  in der Verfassung

Wenn man die Idee des Monarchen erfassen will, so kann man sich nicht damit begnügen, zu sagen, daß Gott die Könige eingesetzt habe, denn Gott hat alles, auch das Schlechteste gemacht. Auch vom Gesichtspunkt des Nutzens aus kommt man nicht weit, und es lassen sich immer wieder Nachteile aufweisen. Ebensowenig hilft es, wenn man den Monarchen als positives Recht betrachtet.

§281 補註〔国家体制における君主と支配者〕

人が君主という概念を理解しようとするとき、神が国王を任命したのだということでは自分自身を納得させることはできない。というのは神は全てのものを、最悪のものすらもまた造ったからである。また効用の観点からいってもさらに納得しうるものではない。そしてその裏にはいつも再び欠陥を見せつける。もし人が君主について肯定的な正義(法)として取り扱ったとしても少しも役に立たない。

Daß ich Eigentum habe, ist notwendig, aber dieser besondere Besitz ist zufällig, und so erscheint auch das Recht, daß einer an der Spitze stehen muß, wenn man es als abstrakt und positiv betrachtet. Aber dieses Recht ist als gefühltes Bedürfnis und als Bedürfnis der Sache an und für sich vorhanden. Die Monarchen zeichnen sich nicht gerade durch körperliche Kräfte oder durch Geist aus, und doch lassen sich Millionen von ihnen beherrschen.

私が財産を持つことは必然的であるが、しかし、この特殊な占有は偶然的である。そして、同じように、(君主が)一者として(国家の)頂点に立たなければならないという正当性も、人がもしそれ(一者)を抽象的かつ肯定的に見なしても、また同じように偶然のように見える。しかし、この正当性は感じられた欲求として、そして本来的に(必然的に)事柄そのものの欲求として存在している。君主は肉体的な力や精神的な力において必ずしも際立っているものではないが、それでもなお幾百万の人々をして彼に服せしめている。


Wenn man nun sagt, die Menschen ließen sich wider ihre Interessen, Zwecke, Absichten regieren, so ist dies ungereimt, denn so dumm sind die Menschen nicht: es ist ihr Bedürfnis, es ist die innere Macht der Idee, die sie selbst gegen ihr anscheinendes Bewußtsein dazu nötigt und in diesem Verhältnis erhält. Wenn so der Monarch als Spitze und Teil der Verfassung auftritt, so muß man sagen, daß ein erobertes Volk nicht in der Verfassung identisch mit dem Fürsten ist.


いまもし人々が彼らの利益や目的、意向に反して自らを支配せしめている、と言うなら、これは条理に反している。なぜなら人々はそれほどまで愚かではないからだ。彼らの表向きの意識に反して彼ら自身を君主に服するように強制し、そして、この関係の中に彼ら自身を引き留めるのは、それは彼らの要求であり、理念の内的な力である。そこでは君主は国家体制の頂点として一部として現れるけれども、征服された民族の場合は、国家体制の中で君主と支配者は一致しない、と言わねばならない。


Wenn in einer im Kriege eroberten Provinz ein Aufstand geschieht, so ist dies etwas anderes als eine Empörung in einem wohlorganisierten Staat. Die Eroberten sind nicht im Aufstande gegen ihren Fürsten, sie begehen kein Staatsverbrechen, denn sie sind mit dem Herrn nicht im Zusammenhang der Idee, nicht in der inneren Notwendigkeit der Verfassung, - es ist nur ein Kontrakt, kein Staatsverband vorhanden. "Je ne suis pas votre prince, je suis votre maître", erwiderte Napoleon den Erfurter Abgeordneten.

戦争によって征服された地方で暴動が起きたとしても、それはよく組織化された国家における反乱とは異なる別のものである。征服された者たちは彼らの君主に対して反乱を起こしてはおらず、彼らは国家反逆罪に何ら関与しているわけではない。なぜなら、彼らは支配者と理念上の関係にあるわけではなく、支配者と国家体制の内的な必然性の関わりの中にもないからである。
そこにはただ一つの契約があるのみで、国家的な結合は何ら存在しない。
「私はお前たちの君主ではない。私はお前たちの支配者(主人)である。"Je ne suis pas votre prince, je suis votre maître"」ナポレオンはこのようにエルフルトの議員たちに答えたのである。

 

一つの国家体制(憲法)において、君主と支配者は必ずしも一致しない。このことはヘーゲルの時代にナポレオンがドイツとの戦争に勝利してテューリンゲン州の州都エアフルト(Erfurt)を支配した時のように、日本においても先の第二次世界大戦での敗北の結果、GHQのマッカーサーが天皇の上に立って主人として日本国民を支配した。

この時の日本国民とマッカーサーとの関係は、もちろん日本国民と天皇との関係とはまったく異なるものである。国家体制や憲法との関係において、天皇と日本国民は理念上の、国家的な結合関係にあるけれども、戦争に敗北した被征服民族としての日本国民と勝利者としてのマッカーサーとの関係はたんに支配と隷属の関係でしかない。しかし君主と国民との関係は、支配と隷属の関係ではない。

 

 

 

 
 
 
 
 
 
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§281c〔 最悪の制度としての君主選挙制〕

2018年09月15日 | 法の哲学

 

§281c〔 最悪の制度としての君主選挙制〕

⎯   Deswegen  darf  auch nur  die Philosophie diese Majestät denkend betrachten, denn jede andere Weise der Untersuchung als die spekulative (※1) der unendlichen, in sich selbst begründeten Idee hebt an und für sich die Natur der Majestät auf. 


⎯ したがって、哲学のみにこの君主の尊厳を思考として考察することが許される。というのも、透視的な(※1)無限の自己創造的な理念(の概念的な把握)以外の他のどのような研究の方法も本来的に(必然的に)、(君主の)尊厳の本性を廃棄してしまうからである。


⎯ Das Wahlreich scheint (※2)leicht die natürlichste Vorstellung zu sein, d. h. sie liegt der Seichtigkeit des Gedankens am nächsten; weil es die Angelegenheit und das Interesse des Volkes sei, das der Monarch zu besorgen habe, so müsse es auch der Wahl des Volkes überlassen bleiben, wen es mit der Besorgung seines Wohls beauftragen wolle, und nur aus dieser Beauftragung entstehe das Recht zur Regierung.

⎯  選挙君主制(選挙公国)がもっとも自然な考えであるようにみえる(※2)。言い換えれば、それが思想の浅薄さに最も近いところにあるということである。君主の配慮すべきことは、国民の関心事と利益であり、そうして、また国民の福祉の世話を誰に委ねたいかは国民の選択に委ねなければならないし、そして、この委託のみから統治の正当性が生まれるのだからと。

Diese Ansicht, wie die Vorstellungen vom Monarchen als oberstem Staatsbeamten, von einem Vertragsverhältnisse zwischen demselben und dem Volke usf., geht von dem Willen als Belieben, Meinung und Willkür derVielen aus - einer Bestimmung, die, wie längst betrachtet worden, in der bürgerlichen Gesellschaft als erste gilt oder vielmehr sich nur geltend machen will, aber weder das Prinzip der Familie, noch weniger des Staats ist, überhaupt der Idee der Sittlichkeit entgegensteht.


こうした見方は、君主についてそれを最高の公務員とみなす考え方や、君主と国民との間の関係を契約とみなす考え方などと同じように、多数者の利便、思い込み、恣意としての意志から出てくるものであり、⎯ このような考えは、ずっと前に考察されたように、市民社会において第一のものとして認められ、あるいはもっとさらには市民社会においてのみ通用するような考え方であるが、しかしそれは家族の原理でもなければ、まして国家の原理でもなくて、むしろ概して倫理の理念に背くものである。

⎯  Daß das Wahlreich vielmehr die schlechteste der Institutionen ist, ergibt sich schon für das Räsonnement aus den Folgen, die für dasselbe übrigens nur als etwas Mögliches und Wahrscheinliches erscheinen, in der Tat aber wesentlich in dieser Institution liegen. Die Verfassung wird nämlich in einem Wahlreich durch die Natur des Verhältnisses, daß in ihm der partikulare Wille zum letzten Entscheidenden gemacht ist, zu einer Wahlkapitulation, d. h. zu einer Ergebung der Staatsgewalt auf die Diskretion des partikularen Willens, woraus die Verwandlung der besonderen Staatsgewalten in Privateigentum, die Schwächung und der Verlust der Souveränität des Staats und damit seine innere Auflösung und äußere Zertrümmerung hervorgeht.


選挙君主制が諸制度の中で最悪のものであるということは、すでに、もろもろの経験からも悟性推理にとっても明らかになっている。ところで、その事実はただ偶然的なものか、見かけだけ本当らしいものに見えるけれども、実際にはしかし、この選挙君主制という制度そのものに本質的に存在しているものである。

選挙君主制においては、すなわち国家体制(憲法)は、特定の意志が究極の決定要因になるというその関係の本性からいって、一つの選挙協定によって、すなわち、特殊な意志の方向性に国家権力が支配されることになる。そこから、特殊な国家権力が私有財産へと転じ、国家の主権の弱体化と喪失、そして、その結果として国家の内部からの解体と、外からの破壊がもたらされることになる。


アメリカやロシアなどの大統領制をとる共和国は、君主を選挙で選出するという意味で、ここでヘーゲルのいう「das Wahlreich 」(選挙君主制・選挙公国)にほかならない。ロシアのプーチン大統領やアメリカのトランプ大統領の例に見るように、
悟性推理にすら、事実に強制されて大統領制(君主選挙制)が劣悪なものであることを理解している。

また「学者」でありながら、そうした観点からしか君主制を理解できず、日本の皇室を批判して止むことのない日本の多くの憲法学者たち、また彼らによって権威とされている憲法学者の樋口陽一氏などにとっては、君主としての天皇についても「最高の国家公務員」とか「国民のロボット」といった見方しかできない。


 (※1)die spekulative

ここでは「透視的な」と訳したけれども、多くの翻訳では「思弁的な」と訳して済まされている。しかし、それでは単に語句をドイツ語から日本語に置き換えただけで、その実質的な理解は得られないと思う。

die  Weise der Untersuchung  als  die spekulative  der unendlichen, in sich selbst begründeten Idee」「透視的で無限な自己自身に根拠をもつ理念としての研究の方法」とはヘーゲル哲学の体系そのもののことにほかならない。そこに明らかにされているヘーゲルの論理学のように、絶対的に必然的な弁証法的な展開についての洞察、透視なくしては、君主の尊厳の価値も理解し得ないのだ、というのだろう。

※2)sheinen  〜にみえる

ヘーゲルにおいては、sheinen はあまりいい意味には使われない。「外見上はそう見えるが、実際は〜〜である」としてヘーゲルらしく現象と本質との関係において事柄が見られている。



 
 
 
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§281b〔君主の世襲制の根拠〕

2018年09月08日 | 法の哲学

 

§281b〔君主の世襲制の根拠〕

Geburts- und Erbrecht machen den Grund der Legitimität als Grund nicht eines bloß positiven Rechts, sondern zugleich in der Idee aus. - Daß durch die festbestimmte Thronfolge, d. i. die natürliche Sukzession, bei der Erledigung des Throns den Faktionen vorgebeugt ist, ist eine Seite, die mit Recht für die Erblichkeit desselben längst geltend gemacht worden ist.

出生と相続は、単なる実定法の根拠としてのみではなく、同時に理念のうちにある根拠として(世襲の)正当性を構成する。
⎯  確定した王位継承を、すなわち自然な継承を通して、王座の就任をめぐる派閥の抗争は予防されるということは、それはずいぶん前から世襲そのものに対して正当に主張されていた一面である。

Diese Seite ist jedoch nur Folge, und zum Grunde gemacht zieht sie die Majestät in die Sphäre des Räsonnements herunter und gibt ihr, deren Charakter diese grundlose Unmittelbarkeit und dies letzte Insichsein ist, nicht die ihr immanente Idee des Staates, sondern etwas außer ihr, einen von ihr verschiedenen Gedanken, etwa das Wohl des Staates oder Volkes zu ihrer Begründung.

この一面はしかしながらただ帰結に過ぎない。それが根拠としてうけとられると君主の尊厳を(小理屈の)推論の領域に引き摺り下ろしてしまうことになる。この前提のない直接性と、そして究極の内在性という(君主の尊厳の)性格が、国家の内在的な理念ではなくて、尊厳の外にある何かに、尊厳とは異なった思想の一つに、国家もしくは国民の福祉とかいったものに、君主の尊厳の根拠が与えられることになる。

 Aus solcher Bestimmung kann wohl die Erblichkeit durch medios  terminos  gefolgert werden; sie läßt aber auch andere medios terminos und damit andere Konsequenzen zu, - und es ist nur zu bekannt, welche Konsequenzen aus diesem Wohl des Volkes (salut du peuple) gezogen worden sind.
 
確かにこのような判定から、媒辞を通して(理由づけられて)、世襲が導き出されるかもしれない。;しかし、それはまた、他の媒辞をも、そして、そのために別の結果をも許すことになる。 - そして、民衆のこの福祉 (salut du peuple) という理由づけから、どんな結果がもたらされたかはあまりにもよく知られている。
 
 
 
 
ここでヘーゲルは、君主の世襲制の根拠は何か?君主の地位が世襲される理由は何なのか、を問題にしている。多くの場合、君主の地位の世襲が、君主の地位の交替に際しての、君主の地位をめぐる党派間や派閥間の抗争をめぐる混乱や軋轢の生まれるのを予防することができるといったことを理由とするものである。たしかに、君主の地位を巡って権力闘争に火がつけられて、その結果として悲惨な現実がもたらされたことは、我が国の壬申の乱にその例をみるように歴史的にも明らかである。
 
しかし、そのような有限な理由づけは、君主の地位の尊厳の根拠を、他にも、たとえば「国民の福祉」のためといったことに理由を求めることを許すことになる。それは世襲される君主の地位の尊厳の根拠の一面に過ぎないし、そうした有限な根拠は、君主の世襲についての正当な根拠にはならないという。実際にも、たとえば「民衆の福祉」 (salut du peuple)という大義をもって行われたフランス革命が、その結末に血を血で洗う権力抗争をもたらした歴史的な現実をヘーゲルは目撃している。

 
 
 
 
 
 
 
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§281[国家の団結を守る君主]

2018年08月15日 | 法の哲学

 

 §281[国家の団結を守る君主]

Beide Momente in ihrer ungetrennten Einheit, das letzte grundlose Selbst des Willens und die damit ebenso grundlose Existenz, als der Natur anheimgestellte Bestimmung, - diese Idee des von der Willkür Unbewegten macht die Majestät des Monarchen aus. In dieser Einheit liegt die wirklicheEinheit des Staats, welche nur durch diese ihre innere und äußereUnmittelbarkeit der Möglichkeit, in die Sphäre der Besonderheit, deren Willkür, Zwecke und Ansichten herabgezogen zu werden, dem Kampf der Faktionen gegen Faktionen um den Thron und der Schwächung und Zertrümmerung der Staatsgewalt entnommen ist.


不可分の統一のなかにある二つの要素、つまり意志の究極の何らの制約もないそれ自体と、そして、それでもって当然に、自由な規定にある自然として何らの制約もない現実の存在、⎯⎯(すなわち)恣意によっては動かされないこれらの理念(考え方)が君主の威厳を構成している。
この統一において、国家の現実の団結は存在するのであり、これらの国家の内部および外部の可能性の直接性を通してのみ、この団結こそが、恣意性や、目的や、見解などがさまざまに導き出される特殊性の領域において、王座をめぐる派閥と派閥との闘いや、国家権力の弱体化や崩壊から免れさせるのである。

 

君主制の意義についてのヘーゲルの評価は上述にみるように的確であると思う。それに対して共産主義者のマルクスなどは、君主制の否定的側面のみをみて、肝心のその意義を正しく理解できなかった。またマルクス主義の影響を強く受けた日本の多くの戦前戦後の知識人も、憲法学者樋口陽一氏や故奥平康弘氏などの憲法学に見られるように、戦前の国体主義者たちによって歪められた「天皇制」という現象に囚われて、「君主制」の意義を正しく理解できず、「たらいの水と一緒に赤子も流してしまう」ことになった。在野であれアカデミズムであれ、日本の憲法学者たちも今一度ヘーゲルの「法の哲学」を再検証されて、折しも今上陛下の御譲位をお迎えしようとしている時に当たって、君主制の意義を、日本の「皇室」についての正しい理解を深められることを期待したいものです。

 

 

 

 
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