夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

福田康夫氏の総裁選不出馬──日本政治の体質

2006年07月28日 | 国家論
 

九月に行われる自民党総裁選に福田康夫氏が出馬しないことになった。福田氏本人は、これまでも一度も総裁選出馬への意欲を明確に示したことはなかった。

小泉首相の靖国神社参拝問題が対中国や韓国との外交問題化し、その結果、日本国内にも小泉首相の靖国神社参拝に懸念を抱く人々の間に、靖国問題で慎重な姿勢を示す福田氏に支持と擁立の動きが見られるようになった。福田氏本人はそうした勢力の動きや世論の動向を見極めて態度を決しようとしていた。

そうした時に、北朝鮮のミサイル発射実験が行われて、それを契機として、国連安全保障理事会で対北朝鮮決議案が採択されることになった。その過程で、安部晋三氏等の外交努力とそれにともなう世論の安部氏支持と福田氏への支持の低下を見た福田氏は自民党総裁選の勝利の芽はないと判断して、はじめて公式に自身の総裁選不出馬を表明して、周囲の福田氏待望論を打ち消したものである。

このような一連の経過を見て分かることは、福田康夫氏が確固とした政策や政治理念をもった政治家ではなかったということである。もし、福田氏に政策に対する切実な欲求があったなら、勝敗を度外視しても、また、年齢などを言い訳にすることもなく、自民党の総裁選に立候補していただろう。かって小泉首相が自身の郵政民営化政策を実現するために、橋本龍太郎氏や小渕恵三氏ら旧角栄派の首相候補と総裁選で戦って、二度敗北を喫したように。

福田氏は結局、小泉氏のように政治理念に対する切実なミッションを持っていなかったのだ。福田氏は今回の不出馬の理由として、自身の年齢や靖国問題における国論の二分を懸念してなどという理由を挙げておられるが、それは本質的な問題ではない。福田氏自身に語るべき政策、理念がなかったということである。

しかし、それは単に福田康夫氏にのみにとどまらない。日本の「政治家」
の多くに共通している。彼らの求めるのは、政策や理念の実現ではなく、その本音の多くは「利権」である。だから、総裁選の出馬不出馬の判断の基準も、政策や理念の実現ではなく、首相の座を獲得できるかどうか、その勝敗のみが自己目的になる。現在の自民党員「政治家」の多くがそうである。


彼らが党派を組むのは、理念や政策が基準ではなく、権力の座にあることによる「利権」が核である。日本の政党は、共通の政策や理念の実現を目的とする政治家の集団たりえていない。その点においては、現在の自民党も民主党も旧態依然として本質的には同じである。利益選挙談合政治屋集団の水準から脱していない。その現実的な論理的帰結は、派閥政治である。日本政治は相変わらず、前近代的な派閥政治から脱却できていない。

今回の総裁選問題での森派閥会長の森喜朗元首相のように、派内の融和という政治屋の利権を優先して、国家の政策、理念論争という政治家としての根本的な大義を二の次にするということになる。

福田氏は自身の立候補によって、日本国内が靖国神社問題で国論の二分することに対する懸念を、不出馬の理由の一つとされているようであるが、それは言い訳に過ぎない。

たとえ、国内を二分するほどの大論争が存在したとしても、対中国や韓国などの外交問題に関しては、多数決原理に従って国論を一致させて対応するのが、真の自由民主国家の国民というものである。

たとえ国論を二分するようなテーマでも、その団結を失わず、自由な討論を展開するのが自由民主国家の姿である。もし福田氏が総裁選に立候補して、中国や韓国や北朝鮮の国民の目の前で、日本国民が靖国問題で国論を戦わせるならば、彼らの国と日本のいずれが本当の自由民主国家であるかを実証する機会にもなりえただろう。しかし、そうはなりえなかった。なぜか。中国も韓国も北朝鮮も、そして日本もその表向きの政治的な看板にかかわらず、その国家国民の体質はお互い似たもの同士だからである。

日本の政党政治は、かって論考したように、自由主義を理念とする自由党と民主主義を理念とする民主党の二大政党による政治以外にありえないと思う。日本の現実の派閥政治を、この政治の概念に近づけてゆくことが課題である。(「民主党四考」)

また、福田氏があえて論争を避けた小泉首相の靖国神社参拝問題については、小泉純一郎氏が一私人の個人の資格で靖国神社に参拝することを言明している限り、靖国神社に参拝するもしないも、正月に行くも秋季例大祭に行くも、また、八月十五日の日本の敗戦記念日にするも、小泉純一郎氏の完全な自由である。産経や朝日などのマスコミが、中国や韓国の尻馬に乗って、それを公的な問題にすること自体が問題である。それは、小泉氏の個人的な問題に過ぎない。その個人の自由を完全に保障するのが日本の国是である。まして、諸外国からの干渉の余地は全くない。(「小泉首相と靖国神社」)

 2006年07月25日

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世界史の進行

2006年07月14日 | 国家論

 

人類にとって平和はもっとも貴いものの一つである。しかし、平和も長く続くと、その貴重さも忘れ去られる。人間の悲しい性なのかも知れない。
先の北朝鮮のミサイル発射実験は、自国の安全を他国に委ねて自由と平和のうちに安眠してきた日本人に、あらためて国際情勢の危機と歴史の現実を教えることになった。

北朝鮮のみならず、イランの核問題や、さらに緊迫してきたイスラエル・パレスチナ問題がある。しかし、最近の出来事は、まだ本格的な歴史的転換を予感させるようなものではない。もし次に大きな歴史的転換点があるとすれば、その一つは、中国の民主化の問題であり、もう一つは、中東におけるイスラエル・パレスチナ問題の帰着だろう。もちろん、現在の北朝鮮問題も、日本にとっては切実な問題ではあるだろうが、やはりそれは極東アジアの地域的な問題であって、世界史的には根本的に重要な問題ではない。

個人的には、このような人類の歴史に何らかの目的を洞察できるのかという哲学的な問題もある。そして、もし洞察できるとすれば、それは何か。多くの歴史家は、こうした問題意識をもたない。彼らはただ、国内外の歴史的重大事件を単に時間的に配列し、記録してゆくだけである。哲学的歴史家だけが、その歴史の中に目的を予感し、あるいは認識して、時にはその必然性を論証しようとさえする。

北朝鮮の問題については、かって、日本人拉致問題との関連で少し考察したことがある。(「日本人拉致被害者の回復」) やはり、北朝鮮にはその国家体制に大きな問題があり、それゆえに周辺の利害関係国も関心を持たざるを得ない。「国際社会」が協力して、現在の「不幸な」北朝鮮のような国家体制を、自由で民主的な国家体制へと転換させてゆくことである。そのために私たちに出来ることは何か。

こうして北朝鮮が問題化することによって、かっての日清・日露戦争、さらに太平洋戦争前夜、そして、すでに半世紀以上も過去になった朝鮮戦争の歴史的背景を、あらためて、平和のうちに惰眠を貪っている日本人にも想起させることになる。朝鮮問題は極東アジアの歴史的な因縁問題でもあるが、ただ、過去と歴史的に異なるのは、曲がりなりにも日本が当時のように、2・26事件のようなクーデターを起こす国ではなくなっているということである。これは現在の日本国を買いかぶりすぎか。


かっての朝鮮戦争は、共産主義ソビエトおよび中国と資本主義、自由主義アメリカとの間の代理戦争として戦われた。北朝鮮の立場からすれば、この戦争は資本主義からの民族解放戦争の意義を持っていたはずである。しかし、二十一世紀に入った今日、すでに共産主義ソビエトは存在せず、社会主義中国は、すでに経済的にはれっきとした資本主義国である。少なくとも、共産主義対資本主義という図式においては、歴史的にはその決着はすでについている。そうした中、北朝鮮はキューバなどとならんで、余命を保っている社会主義諸国の中で、数少ない国の一つである。

そもそも人類の「解放」を目指して建国したはずの社会主義国家が必然的ともいえる過程をたどって軒並みに崩壊したのはなぜか、それ自体は興味あるテーマではあるが、それはここでは問題にしない。

今回の北朝鮮のミサイル発射は、北朝鮮の国家体制がその危機的な様相をさらに深刻化させていることの現れである。それには、ブッシュ政権の北朝鮮への金融封鎖などが効を奏している。制裁法案を成立させた日本も、北朝鮮の解放や拉致被害者の回復を目指して効果的に活用すべきである。地上の天国を目指して建国されたはずの国家がいまや地上の地獄と化している。

かってのクリントン民主党政府に比較して、現在のブッシュの共和党政権は対北朝鮮に対しては原則的に対応している。クリントンの北朝鮮に対する融和的な政策の付けを今支払っているということが出来る。遅かれ、早かれ北朝鮮問題には決着をつけなければならないときがくる。その時が近づいているのではないだろうか。アメリカは北朝鮮問題は極東アジアの問題として、二国間関係に持ち込もうとしている北朝鮮に応じてはいない。決着のカギはもちろんアメリカが握っているが、基本的にアメリカは極東問題に深入りはしたくないのだ。しかし、少なくともブッシュ政権はかってのクリントン政府よりは日本の国益に適っている。

私たちに差し迫った課題は、拉致された日本国民をいかにして取り戻すかである。多くの日本国民が拉致されて来たにも関わらず、それを憲法上の制約といった理由で、不作為の道徳的な退廃を日本国民は許してきた。イスラエルが自国の兵士が拉致されたという理由で、一度は撤退したガザ地区に、拉致兵士の回復のために激しいミサイル攻撃を加えているが、これが本来の国家の姿である。

こうした北朝鮮のような国家体制からその国民をどのように解放するか。さらに大きな歴史的視点で見るならば、軍事的にのみならず経済的にも勢力を拡大しつつある中国およびロシアに日本がどのように対処してゆくのか、そうした権威主義国家から、立憲君主国家日本の自由と独立をどのように確保して行くか。

中国やロシアにとって、北朝鮮がいわゆる自由主義陣営の傘下に入ることは、好ましいことではない。現在の中国、ロシアの政府にとって、アメリカに対して敵対的な政策をとる北朝鮮の存在は、これらの国にとっても防波堤としての役割を果たしている。似たもの同士ということわざがあるように、中国もロシアも北朝鮮とは本質的には似たもの同士だからである。北朝鮮の体制変革は、否が応でも、彼らに、とくに中国に対して自国の体制変革の危機の接近を自覚させることになる。その基本的な構図は、自由な海洋国家と集権的な大陸国家とのせめぎあいである。

今回の北朝鮮のミサイル実験は、日本人のぼやけた国防意識を少しは目覚めさせたという点でも意義がある。日本人も自分たちが守るべき国家の価値とは何かをもう少しまじめに悟り、それを守るためにはそれ相当の犠牲を払うことなくしては享受できないということを知って、道徳的にも謙虚になることだと思う。自由を他民族から与えられた国民は、自由の価値を知らず、それを確保する困難も知らない。国民の多数の現在のノーテンキな意識はそれを実証している。国防の義務について自覚することもない。

まず日本国が正真正銘の自由民主主義国家になり、自衛隊を国防軍に、防衛庁を国防省に改組し、スイスのように徴兵制を制定することである。そこからおのずから、北朝鮮だけではなく、真の目的でもある中国やロシアに対して日本の取るべき態度も決まってくる。今回の北朝鮮のミサイル発射実験もまた、さらに日本国が「真の国家」となってその概念を実現してゆく、歴史の必然的な道程の一コマである。

 

 

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民主主義の概念(1) 多数決原理

2006年07月08日 | 哲学一般

民主主義の概念(1) 多数決原理

哲学の祖で人類の永遠の教師プラトンは、「民主政治」に深い恨みを抱いていた。なぜなら、プラトンの愛するかけがえのない師ソクラテスの命を奪ったのは、古代ギリシャの民主政治だったからである。民主政治も腐敗と堕落の運命から免れなかった。プラトンの哲学の営みが、師ソクラテスの無念の死の意味を考えることを深い動機としていることは疑いのないところである。

また、イエスが十字架の刑に処せられたときにも、時のローマ帝国のユダヤ総督ピラトは、イエスが捕えられたのは民衆の嫉妬と憎悪によるものであることを知っていた。だから、ピラト自身は祭りの日の特赦としてイエスを解放しようとしたのだが、結局は民衆の多数意見におされて、イエスではなく、暴動で殺人を犯したバラバという男を身代わりに釈放した。

これらの事実を見ても、民主主義をその単なる一つの原理である多数決原理に帰着させることがどれほどに危ういものであるかが分かる。二十世紀の人民民主主義政治下のスターリニズムや中国の文化革命もその新しい例示であるだろう。

この「民主政治」の愚かさから真理を救うために、プラトンが構想し、その帰結として見出したのは、真理を悟った哲人が民衆を指導するという「哲人政治」だった。だから、ある意味では、プラトンこそ全体主義思想家の祖ということもできる。しかし、プラトンの国家は自由を知らなかった。真理が国家の原理となるためには、法治主義に基づかなければならないという思想に達することもなかった。


戦後、日本国憲法が公布されて六十年。民主主義ははいうまでもなく日本国憲法の原理の一つである。しかし、現代日本の民主主義が多くの点でその概念を十全に実現したものではないことは明らかである。「戦後民主主義」の欠陥を指摘する学者や思想家も少なくない。

民主主義の根本的な欠陥をその多数決原理に見出すことは困難ではない。その理由は簡単である。多数決それ自体は、その判断や選択の内容の真理を保証するものではないからである。この原理が明らかにするのは、相対的に多数の意見に基づいて政治が運営されるという形式だけである。その政治的な選択が正しいか誤っているかという内容には関わらない。

専門的な問題に関しては、素人の意見をどれほど多数に集積しても、一人の専門家の見識に敵わないということもある。多数意見の方が実際に愚劣であるということも少なくない。むしろ、歴史を切り開いてきたのは人類の全体からいえば少数の個人であるとも言える。ここから、「民主主義」についての絶望と嫌悪が生まれることにもなる。

民主国家の国民多数が無知で無能力で無教養であるとき、その国家は「愚者の楽園」になり、イエスやソクラテスのような人格にとっては、地獄となる。「船頭多くして船山に登る」と言うことわざもあるし、「枯れ木の賑わい」ということわざもある。このとき民主主義はもっとも劣悪な政治システムになる。それは鎌倉時代の北条時宗の高貴な治世などには及びもつかない。

それでは、「愚かな」国民や大衆が政治の指導権を握る民主主義を排して、哲人による「専制政治」が目指されるべきか。


それにも関わらず、民主主義が多数決原理に基づくのはなぜか。それは民主主義が能力の平等という観点ではなく、人格の平等という価値観に基づいているからである。能力に関しては平等ということはありえないが、この多数決原理の根本には、人格としての平等という思想がある。それは本来は神の前の平等という宗教的な背景を母胎にしている。

この余りにも崇高な理想を実行しようとすれば、多数決原理をとらざるを得ないし、この原理を実行するとき、その現実はもっとも愚かで醜いものに転化し得る。「民主主義」を少なくとも狂信することのない者は、民主主義の持つこうした欠陥を直視する必要がある。そして、問題は民主主義のこの形式的な欠陥を克服する要件は何かということである。

それは、おそらく、民主主義の担い手である個別的な人格が、プラトンのいう哲人の真理を国家の中に原理的に実現してゆく必然性を備えることだろうと思う。その要件は何か、がさらに問われなければならない。


いずれにせよ、官僚(公務員)や政治家に対する国民による自由な統制の実現できていないことなどに、日本の民主主義の未完成を読み取れる。それが行政や経済運営で多くの無駄や不合理を許すことになっている。客観的にみて現在の日本国民の国民性が民主主義の理想に適っているとは思えない。

民主主義が本当に機能し、その美点を最大限に実現して、国民一人一人が幸福な生活を享受するためには、まだ改革されなければならない点が多い。


そのためには何よりもまず、民主主義の概念を明らかにし、それが国家の原理として実現されてゆくために必要な条件とは何か、それを検討して行くことが必要であると思う。こうしたブログで、多くの人がこのような問題について考え議論しあうことも民主主義の健全な発達につながるのではないかとも思う。

それにしても相変わらず今日の学校では、民主主義は、制度としても精神としても能力としても十分に教育され、訓練もされていないと思う。教師自身が教えられておらず、その問題意識もない。それが現代日本を「品格なき国家」にし、また現代日本の悲喜劇の一つの原因にもなっている。今日の学校教育の根本的な欠陥の一つだと思う。問題は切実で大きい。(「学校教育に民主主義を」)

いろいろ問題のあるインターネットも、使い方次第では、そうした学校教育の欠陥を補うものになることが出来るのではないだろうか。

 

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