>> <<引き続き、尾高からのノート。
しかも、いかに現実が荒涼・殺伐たる有様に見えようとも、なおかつ「ここに薔薇がある、ここで踊れ」
— review (@myenzyklo) 2017年12月20日 - 23:26
(Hier ist die Rose, hier tanze .)といって、現実をば絶対に肯定・賛美しようとしたヘエゲルは、国際政治の最も殺伐・悲惨な面たる戦争についても、
単にこれを不可避と見るばかりではなく、その経過を楽観視、その結末を謳歌するのである。なぜならば、ヘエゲルによると、戦争は国家と国家との間の破壊的な衝突ではあるが、それにもかかわらず、国家は戦争を通じて互に承認し合い、互に他と結びついて行くのである。
— review (@myenzyklo) 2017年12月20日 - 23:26
国際法学者は、国家に対する国際法上の承認ということを問題にするが、ヘエゲルにしたがえば、国家の「承認」は言葉によって表明せられることを必要としない。
— review (@myenzyklo) 2017年12月20日 - 23:27
ナポレオンは、カンポ・フォルミオの平和にあたって、「フランス共和国は承認を必要としないこと、あたかも太陽が承認される必要がないのと同様である」といった。かように国家はその「存在の強さ」(die Staeke der Existenz)によって承認される。
— review (@myenzyklo) 2017年12月20日 - 23:27
強力な国家と国家とは、その強さにおいて互いに他を国家として承認する。したがって、国家が互いに激しく相争う戦争の間にも、国家相互の「承認」が行われ、それが紐帯となって、相たたかう国と国との間の結合が、いいかえるならば「平和」が成立する。
— review (@myenzyklo) 2017年12月20日 - 23:28
ゆえに、戦争そのものの中に、戦争は「過ぎ去り行くもの」であるという規定が含まれているのである。戦争は不可避であるが、不可避の運命によって勃発した戦争は、やがて必然の過程を経て平和に立ち戻る。かような戦争と平和の交替・錯綜の間に、強大な国家は隆昌し繁栄し、世界精神を担って発展する。
— review (@myenzyklo) 2017年12月20日 - 23:29
しかし、ある期間世界に覇を唱えた強国も、やがてまた他の強大な新興国家によって圧倒せられ、歴史の先頭から落伍して、衰退・没落の運命を辿って行く。東方国家・ギリシャ国家・ロオマ国家、ゲルマン国家という風に、相次ぐ制覇国家の興亡の跡は、それらの強大国家といえども
— review (@myenzyklo) 2017年12月20日 - 23:29
「有限」の精神でしかありえないことを物語っている。しかも、さような有限なる特殊精神の興亡・隆替の過程を通じて、普遍的な世界精神が自己を顕現せしめ、その最高の権利を行使する。それが「世界審判」(Weltgericht)としての「世界史」(Weltgeschichte)に外ならない。
— review (@myenzyklo) 2017年12月20日 - 23:30
(s.265)
— review (@myenzyklo) 2017年12月20日 - 23:51
※
尾高は、かなり正確にヘーゲル哲学を読解している。尾高朝雄の法哲学はヘーゲル『法の哲学』の読解と批判の上に築かれているといえる。この点が、現在の日本の多くの憲法学者たちと、樋口陽一氏や故奥平康弘氏などの三文憲法学者たちの「法哲学」なき憲法学と異なる点である。
まして、長谷川某や小林某などの五流似非憲法学者たちとは。そもそもヘーゲル法哲学批判を試みたことのないような憲法学は話にもならない。ただ、尾高のヘーゲル哲学批判については、納得できない点もあるので、いつか書評を書く中でこの点を明確にしておきたいと考えている。
— review (@myenzyklo) 2017年12月20日 - 23:51