夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

史上最大の問題作!全米大学生の必読書、プラトン『ポリテイア(国家)』とは|納富信留

2024年02月17日 | 哲学一般

史上最大の問題作!全米大学生の必読書、プラトン『ポリテイア(国家)』とは|納富信留

 

たまたま納富信留先生の短い講義を動画で見て、あらためて文庫本の『国家』や『饗宴』を読み直してみたいと思いました。『国家』は危険な本なのでしょうか。しかし、まとまった時間もとれず、いつのことになるやら。ただプラトンの哲学の本質については、私は次のような認識をもっていました。

ちょっと時間にまかせて、私のブログの中で「プラトン」で検索してみると、意外に多くの論考で触れていることがわかりました。

民主主義の概念(1) 多数決原理 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/bzatIz
哲学の仕事 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/QtrzRq
哲学の仕事② - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/v3MXx2
『薔薇の名前』と普遍論争 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/XXPXHK
ヘーゲルのプラトン批判 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/mhqEaV
「汝自身を知れ」(グノーティ・セアウトン) - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/t2bi3Q
国家指導者論 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/RIpauR
『法の哲学』ノート§2 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/LjpzOm
哲学の伝統 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/DPN3Ja
ロゴス(ho logos)・概念・弁証法 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/y1JNgU
8月26日(月)のTW:世界史と理性 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/OlvfsQ
民主主義の人間観と倫理観──皇室と民主主義 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/X5JJLP
2月3日(土)のTW:ソクラテスやプラトンの理解したノモス(nomos) - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/AmumTY
ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第七十節[礼節について] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/xmd6iP

これはヘーゲル哲学がプラトンからの深い影響の上に立っているせいかもしれません。

 

 

 

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シェリング

2023年11月29日 | 哲学一般

 

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・シェリング(Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling、1775年1月27日 - 1854年8月20日

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・シェリング
Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling

シェリングの肖像
生誕 1775年1月27日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国ヴュルテンベルク
死没 1854年8月20日(79歳没)
スイスの旗 スイス・バート・ラガーツ
時代 19世紀の哲学
地域 西洋哲学
学派 ドイツ観念論、ポスト・カント主義超越論的観念論、客観的観念論(1800年以降)、イエナ・ロマン派、科学におけるロマン主義、Naturphilosophie(ドイツにおける自然哲学
研究分野 自然哲学(Naturphilosophie)、自然科学美学形而上学認識論宗教哲学
 

 

Credit: De Agostini/Getty Images/DEA PICTURE LIBRARY

Credit: De Agostini/Getty Images/DEA PICTURE LIBRARY     (https://is.gd/C0BFh7)

 

※出典

フリードリヒ・シェリング - Wikipedia https://is.gd/UWaTYP

 

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フリードリヒ・シェリング

2023年11月29日 | 哲学一般

フリードリヒ・シェリング

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 

ヴュルテンベルク公国(現在のバーデン=ヴュルテンベルク州レーオンベルクで誕生。父はルター派の神学者・東洋学者・教育者であり、シュヴァーベン敬虔主義の支持者だった。シェリングは家庭の知的また宗教的雰囲気に強く影響されて育ち、早熟な天才ぶりをみせる。シュトゥットガルト近郊のニュルティンゲンラテン語学校、さらにテュービンゲンの一区域であるベーベンハウゼンの学校で学んだシェリングは、10代前半でギリシア語ラテン語ヘブライ語に通じた。

1790年、テュービンゲン神学校(テュービンゲン大学の付属機関)に特例により15歳で入学を許された(規定では20歳から入学)。同神学校には2年前、彼より5歳年上のヘーゲルヘルダーリンが入学しており、シェリングは寮で二人と同室になった。彼らは、フランス革命に熱狂し、カントに代表される新しい時代の哲学に関心を示し、進歩と自由を渇望し、そして牧師にはならず、思想あるいは文学の道へ進んでいく。そしてこの時期のシェリングが特に傾倒したのは、フィヒテであり、またスピノザであった。卒業後、家庭教師をしながら『悪の起源について』(1792年)『神話について』(1793年)などの哲学著述を続けていた。

1796年、ライプツィヒ大学で自然学の講義を聴講し始める。1798年、同年に著した『世界霊について』がゲーテに認められたことがきっかけとなり、イェーナ大学の助教授に就任する。1799年にはフィヒテがイェーナ大学を辞職し、シェリングは哲学の正教授となった。1800年、ヘーゲルをイェーナ大学の私講師として推挙した。

1802年、シュレーゲルの妻であるカロリーネとの恋愛事件を起こし、さらにイェーナで保守派と対立した。1803年、シュレーゲルと協議離婚したカロリーネを伴ってヴュルツブルクで結婚し、ヴュルツブルク大学に移籍した。1806年にはさらにミュンヘンに移住、バイエルン科学アカデミー総裁に就任した。

ミュンヘンで『人間的自由の本質』を執筆中だった1809年、妻カロリーネが療養先のマウルブロンで死去。シェリングはその後1813年、ゲーテの紹介でパウリーネ・ゴッターと再婚した。

1820年、エアランゲン大学哲学教授となり、さらに1827年、ミュンヘン大学創立に伴い哲学教授に就任。この時期、シェリングはバイエルン王太子マクシミリアンの家庭教師を務め、国政にも参画した。のちにその功績をもって貴族に叙された。

1841年、ベルリン大学哲学教授。1845年、同教授職を辞任した。ベルリン大学より引退した後、シェリングは以後公開の講義を行わなくなった。

1854年8月20日、療養に出かけたスイスバート・ラガーツで病を悪化させ、家族に見守られて生涯を終えた。

思想

時期区分

シェリング思想の時期区分には諸説あるが、『人間的自由の本質』(1809年、以下『自由論』と略す)以降を中期または後期思想とみなし、それまでの時期を前期思想と呼ぶのが一般的である。前期思想は、さらに自然哲学期(1797年から1800年頃まで)と同一哲学期(1800年頃から1809年まで)に細分されることが多い。中期思想という区分を立てる場合には、『自由論』『世界諸世代』(1813年)の時期を中期、『神話の哲学』『啓示の哲学』を後期とする。また論者によっては『自由論』を独立した時期とみなすものもある。

後年、1830年代のシェリング自身は自分の前期哲学を消極哲学、後期哲学を積極哲学と呼び、ヘーゲルら他の哲学者は消極哲学にのみ携わっているとみなしている。彼によれば消極哲学は "das Was"「あるものがなんであるか」にのみかかわっており、"das Dass"「あるとはどのような事態であるか」について答えていない。そして彼の後期の営みこそ、後者の問いに答える哲学であるとしている。

シェリングは、終始一貫した特長をもった思想家だったのか、それともクーノー・フィッシャーが「プロテウス・シェリング」と評したように、一貫した核をもたず変転する思想家だったのかは、哲学史上シェリングが注目されるようになって、絶えず問題とされてきた。19世紀後半から20世紀前半における、新カント主義ならびに新ヘーゲル主義の哲学史観においてはその変転が強調されることが多かった。一方、1956年以降のシェリング研究は、むしろ彼の思想の核に一定の関心と問題意識があり、その動径に彼の思想の全展開を考える傾向を示している。

後者の主張によれば、シェリングの思想は古代的なものへの関心と理性的なものへの志向、そして両者の緊張と差異が高次の同一性に支えられているという確信によって特徴付けられている。

前期( - 1809年)

最初期

前期シェリングに大きな影響を及ぼした思想家として、プラトン、カント、フィヒテ、スピノザ、ライプニッツが挙げられる。カントの影響については議論があり、フィヒテを介した影響をより重視する論者と、カントからの直接の影響をより重視する論者に分かれる。

ルター派正統神学の牙城であったテュービンゲン神学校で、シェリングは、友人ヘルダーリンやヘーゲルとともに、むしろ政治および思想上の進歩的動向に共感し、神学からは遠ざかり哲学へと転向する。神学校の監視の下で、当時進行中だったフランス革命に、またカントやフィヒテといった新しい哲学の動向に彼らは刺激され、時にはその言動について学校側から指導を受けることすらあった。神学校在学中のシェリングの著作、修士論文『悪の起源について』(1792年)、『神話について』(1793年)にも彼の非正統派的志向が表れている。

神学校卒業後、シェリングは立て続けに著作を刊行し、注目を集める。この時期シェリングはフィヒテの知識学を知り、フィヒテの紹介者として文壇に登場した。1794年以降、雑誌に『哲学の諸形式』(1794年)、『自我について』(1795年)、『哲学的書簡』などの論文を発表するシェリングは、フィヒテからも公衆からも、フィヒテの忠実な紹介者、支持者と思われていた。

自然哲学期

しかしすでにこのころから、シェリングはスピノザやライプニッツにも関心を示し、フィヒテとは独自の路線を歩みだしつつあった。「ぼくはスピノザ主義者になった」と宣言するヘーゲル宛書簡はよく知られている。また、フィヒテが生涯を通じて、哲学の対象としての自然に関心をもたなかった一方、シェリングの場合は彼が早くから親しんでいた古代哲学、とりわけプラトンの自然観が、その思想の展開に大きく寄与したことが、『ティマイオス草稿』(1794年)などからうかがえる。1796年から1798年、シェリングはライプツィヒに滞在し、同大学の講義を聴講し、当時はまだ「自然学」「自然哲学」などと呼ばれていた当時の自然科学に接した。生物学や化学、物理学について当時最新の知見を得た経験に刺激されたシェリングは、『イデーン』(1797年)をはじめとして自然の形而上学的根拠付けについての著作を精力的に発表する。ここでシェリングの自然哲学の中心概念となるのが有機体である。当時急速に増しつつあった生化学上の知見は、デカルト以来の機械論的自然観に対抗する有機体的自然の観念に注目を集めていた。シェリングは有機体を自然の最高の形態とみなし、それをモデルとして、力学等を含めた自然の全現象を動的な過程として把握する図式を提起しようとした。ここでシェリングの有機体理解に大きく寄与したと思われるのはライプニッツで、『イデーン』には『単子論』への言及が多くなされている。

また神学校卒業後、離れ離れになった仲間とシェリングは、相互に思想的影響を及ぼしあっていた。彼らは文通を交わし、お互いの仕事の進展や新しい着想を伝え合った。そのような思想的交流のひとつの産物として知られるのが、1795年から1796年のある時点にヘーゲルの手で筆記された執筆者不明の草稿、通称『ドイツ観念論の最古の体系計画』である。この草稿に出てくる概念のうち「新しい神話」はシェリングの大著『超越論的観念論の体系』(1800年)でも登場し、また同一哲学期にはシェリング芸術哲学の基本的概念のひとつとなる。

同一哲学期

1801年、研究者によっては1800年に、シェリング哲学の新たな時期がはじまる。無差別同一性 (Identität) を原理とし、絶対者の自己展開の叙述の学として遂行される哲学、いわゆる「同一哲学」である。

ところで研究者によっては同一哲学の端緒に分類される『超越論的観念論の体系』は、フィヒテとシェリングの間に、重大な亀裂を生じせしめるに至った。もともとフィヒテはシェリングの自然哲学への関心を好意的には受け止めていなかったのであるが、いまやシェリングは自然哲学と超越論的哲学を併置する。そのようなシェリングに対し、自然を他我とみなし従って哲学の対象とは原理的にみなさないフィヒテは、シェリングにあてた書簡などでシェリングの哲学理解に危惧を表明した。自著『私の哲学体系の叙述』(1801年)にフィヒテが加えた批判を契機に、シェリングのほうでも次第にフィヒテと自己との哲学的差異を自覚し、両者は完全に決裂する。フィヒテの転居を期にはじまったふたりの文通は1801年をもって止み、シェリングは対話篇『ブルーノ』(1802年)などの公刊著作で暗にフィヒテを批判した。1806年にはシェリングは名指しでフィヒテを批判するようになる。

同一哲学期にも、シェリングは自然哲学に関する著作を続けたが、それに加えて、芸術についての哲学的思索が集中的になされた。すでに『超越論的観念論の体系』で、芸術は超越論的哲学の系列の終極に位置づけられ、「哲学の真のまた永遠の証書であり機関」と呼ばれている。『ブルーノ』『学問論第14講』(1802/1803年夏講義)『芸術の哲学』(1802/1803年冬講義)では、この立場が、同一哲学の理論的前提の上で改めて展開されてくる。観念的なものの系列において、主観的な学、客観的な行為に対し、芸術は観念的なものの絶対的なポテンツとして、「芸術の宇宙において全を展示する」。このような芸術は、実在的な自然に対しては観念的な自然の像として優越性を保ちつつ併置され、また絶対的な哲学に対しては対像としてその完成の姿に予示を与える、いわば人間の最高の精神的所産かつ生産活動として理解される。そのような最高度の芸術は、ただ自然の十分な把握からのみ可能であるとシェリングは考え、古代人がもっていたそして近代人にとっては失われている神話に換わるものとして(シェリングはここで神話の理想的な姿をギリシア神話のうちに見出す)、まだ生み出されていない「新しい神話」を要請する。ここでの新しい神話の内実には諸説があるが、山口和子は、教訓詩としての自然哲学にその可能性をみており、またシェリングが自身そのような自然哲学を完成させる意欲をもっていたとしている(山口和子『未完の神話』晃洋書房)。

同一期への移行:有限性の導出根拠をめぐって

1800年、シェリングは、友人ヘーゲルが私講師としてイェーナ大学で教えるよう推挙した。1800年はまた、ヘーゲルの著書『フィヒテ哲学とシェリング哲学の差異』が刊行された年でもあった。シェリングは『ブルーノ』のなかで、ヘーゲルの就職論文『天体運動論』を全面的に借用している。また二人は1802年から共同で雑誌『哲学批判雑誌』を刊行した。この雑誌は主に自然哲学を扱い、1803年、シェリングがイェーナから転居したことを切っ掛けに廃刊になった。シェリングとヘーゲルの協力関係は、このころをもって終わったと考えられている。

カロリーネと結婚した1804年は、シェリングにとって私生活だけではなく、哲学上の転機の年ともなった。エッシェンマイヤーに「差別/有限性はどのようにして無差別から導出されるのか」と批判されたシェリングは、その問いに答える必要を感じ、『哲学と宗教』(1804年)を著した。そこでは彼の古い関心、「悪の起源の問題」が再び取り上げられており、有限性の生起は、本来同一であるものの頽落 (Abfall) によるとされた(なお、この著作自体の構想は1802年にはすでにあり、本来は『ブルーノ』の第2部として構想されていた。しかしシェリングとしてはなるべく早くこの問題を論じることを必要と感じ、著作を対話編としてではなく散文の論文で発表した)。しかしなぜ頽落が起こるのか、そのことはここでは十全には論じられていない(本著作のこの欠点はツェルトナーらによって指摘されている)。この問題は、1809年の『自由論』で再び大きく取り上げられることになる。

バイエルン王立アカデミーの総裁として、シェリングは、1807年、講演『造形芸術の自然への関係』を行った。この講演で、シェリングは同一哲学に立脚し、当時盛んだったヴィンケルマンの新古典主義的美術観に一定の価値を認めながら、しかし自然であれ古代芸術であり、外的な「死んだ形態」ではなく、そこに形態として現れてくる精神そのもの、「生きた自然」を把握し、表現するべきであると説いた。これは同地では非常に好評を博したが、しかしこの講演の内容を入手したヘーゲルはA・W・シュレーゲル宛て書簡で皮肉を交えた痛烈な批判を行った。少年時代からの二人の友情はいまや終わりに近づいていた。

同じ1807年に刊行されたヘーゲルの『精神現象学』でシェリングの同一哲学が批判された。シェリングにおいて絶対者は同一性にあるとして直観によって把握されるが、ヘーゲルはその無媒介性による把握の妥当性を批判し、むしろ概念による哲学を主張した。研究者によってはここで批判されているのは、シェリングではなくその追随者であるシェリング主義者であるとする(ヘーゲルも同様の釈明をシェリングあて書簡で行っている)が、「ピストルからずどんと飛び出す直観」「すべての牛を黒く塗りつぶす闇夜」などの表現がシェリングとその直観概念に結びつけられており、シェリングはこれを非常に心外に感じた。これをもってテュービンゲン以来の両者の友情は終焉し、以後ヘーゲルはシェリングにとってもっとも重要な論敵のひとりとなった。

中・後期(1809年 - )

1809年に出版された『人間的自由の本質』は、シェリングの思想の大きな転換点とみなされている。

シェリングはこの著作で人間的自由の根拠を問い、悪への積極的な可能性を人間のうちにみる。シェリングによれば、人間は悪を行う自由をもっている、それが人間的自由の本質であり、もって人間をすべての存在者の頂点においている。これはキリスト教また西洋思想における「悪をしない自由」としての自由把握とは正反対にある。そのような自由が人間に可能である根拠として、シェリングは神の存在様態について考える(神はここで人間の存在根拠に他ならない)。神のうちには、神の部分であって神そのものではない「神のうちの自然」があり、神自身と対立している。自らを隠し閉ざそうとする神のうちの自然は、自らを現そうとする神自身にとっての「根底」(Grund) であって、生まれ出ようとする憧憬と隠れようとする力との二つの方向性が神のうちに相争う。神は、自身のうちなるこの対立を自ら克服し、愛をもってこれを覆う。かくして神とその被造物は顕れ出る。そして被造物の頂点である人間のなかに、この目もくらむ対立は自由の可能性として再び現れてくるのである。

ここでシェリングは、彼がそれまで積極的に肯定してこなかった神の人格性を強く主張している。また、いまやシェリングにとって、必然性と自由の対立は、同一期においてそうであったように、たんに絶対者において、したがって本質においては無差別である観念的対立とはいわれていない。実在するもののうちにたしかに対立はあって、その対立を可能にする場とそのありよう、さらにはそのような対立を超えるものの可能性が、いまや問題とされてくるのである。

『自由論』は、シェリングがフリードリヒ・クリストフ・エーティンガーおよびカトリック神学者フランツ・フォン・バーダーを介して知ったヤーコプ・ベーメの思想に大きく影響されているといわれる。『自由論』の術語「神のうちの自然」「根底」「無底(底なし)」はベーメの用語法に由来する。シェリングは神秘思想には比較的好意的で、すでに同一哲学期から新プラトン主義との近親性も指摘されている(『ブルーノ』など)。また1812年の未発表の対話篇『クラーラ』では、エマヌエル・スヴェーデンボリの思想を好意的に紹介している。しかしシェリングはあくまでも神秘主義を全肯定しているのではなく、悟性的・論弁的理性主義が把握できない前理性的ないし非合理なものを神秘思想家が保持していることを評価し、しかし同時に、そのような表現自体は哲学の立場からみて限界があると考えていた。

シェリングは『世界諸世代』(未完)をはじめとする未刊行草稿の著述に努めるとともに、いくつかの講義を行っている。シュトゥットガルト私講義、エアランゲン講義などは、この時期のシェリングの体系を知る上で重要な意義をもつ。この時期、シェリングは『自由論』の思想を発展させ、神そのものの生成と自己展開の歴史としての世界叙述という壮大な構想に取り組んでいた。『世界諸世代』は世界の歴史をその原理である神の歴史として「神になる前の神」である「プリウス」(Prius) から説き起こす試みであり、過去・現在・未来の三部構成からなる予定であったが、実際に書かれたのは過去篇だけであった。過去篇の草稿は複数あることが現在知られている。いわば挫折したこの構想は、しかし後期哲学の『神話の哲学』『啓示の哲学』へとつながっていく。 

1841年に、ヘーゲルの死後空席となったベルリン大学哲学教授として招聘され、同地で『啓示の哲学』等を講じた。シェリングは保守的な思想家と考えられており、ヘーゲル主義者による急進的思想に対するいわば防壁となることをプロイセン王家は期待していたと考えられている。しかし思想界では実証科学が隆盛に向かい、ヘーゲル主義哲学が広まっていた当時のベルリンの思想界に、シェリングは実質的な影響を与えなかった。彼の『啓示の哲学』をフリードリヒ・エンゲルスセーレン・キェルケゴールが聴講していたことが知られているが、二人とも、違った観点から失望を表明している。キェルケゴールの失望に関しては、キェルケゴールが関心をもっていたのは人間の実存であるが、シェリングの関心は神の実存にのみあった、とも評される。

シェリングの後期思想は、同時代人にはほとんど理解者をもたず、ベルリンの彼の講義にはほとんど聴講者がいなかった。その後期思想が評価されるのは、ほぼ100年を待たねばならない。

テキスト

主要著作

  • 『悪の起源について』(1792年)
  • 『神話について』(1793年)
  • 『哲学の諸形式』(1794年)
  • 『自我について』(1795年)
  • 『自然哲学についての諸考案』(1797年)
  • 『世界霊について』(1797年)
  • 『超越論的観念論の体系』(1800年)
  • 『私の哲学体系の叙述』(1801年)
  • 『ブルーノ』(1802年)
  • 『芸術の哲学』(1802 - 1803年、講義)
  • 『哲学と宗教』(1804年)
  • 『全哲学、とりわけ自然哲学の体系』(1804年、遺稿)
  • 『造形芸術の自然への関係』(1807年、講演)
  • 『人間的自由の本質について』(1809年)
  • 『世界諸世代』(1811年、遺稿、他にいくつか改稿された版がある)
  • 『クラーラ』(1812年)
  • 『サモトラケの神々について』(1815年、講演)
  • 『神話の哲学』(1842年、講義)
  • 『啓示の哲学』(1854年、講義)

刊行状況

シェリングの著作中、生前に刊行されたのは、1809年の『自由論』が最後。死後に、著述の一部は息子K.A.シェリングにより編集され、コッタ書店より全集として出版された。これは生前刊行された著作と一部の講義録からなっていた。

この息子版「全集」を、20世紀半ば、シュレーターが再編集し、配列を変えた上でファクシミリ版を出版した。さらにこれに基づき一部を収録する形でシェリングの著作集がズーアカンプ文庫から出版された。

20世紀後半になり「全集」に収録されていなかった『世界諸世代』などの草稿が、単行本の形で出版された。

現在、バイエルンアカデミー監修・企画により、著作・書簡・草稿等からなる決定版全集が、長期間かけ刊行中である。本全集の出版計画から、後の刊行予定とされた重要な草稿(『ティマイオス草稿』など)は、単行本の形で出版され、また旧東独側に所蔵されていたベルリン時代の草稿の整理も、統一以降の1990年代より積極的に進んでいる。

主な日本語訳

1920年代から個別に著作が翻訳され、同一期から自由論まで著作大半の訳書がある。

網羅した全集等の出版はされていなかったが、同一期から後期を通観する下記が刊行中

  • 『シェリング著作集』全5巻・全7冊予定(京都・燈影舎)- 2006年より、2011年春に4冊目刊
    2018年9月より文屋秋栄に版元が変わり新版刊

文献情報

関連項目

外部リンク

※出典

フリードリヒ・シェリング - Wikipedia https://is.gd/UWaTYP

 

 

 

 

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6月15日(木)のTW:「平等」の強制

2017年06月16日 | 哲学一般

 

 ※20170621追記


ここで中川八洋氏の述べているように、抽象的な概念である「平等」を、それが認められる具体的で理性的な条件もわきまえずに、その限界を超えて抽象的一般的に狂信的に主張すること、つまり「悟性的な思考」によってもたらされるその破壊的な作用については警戒される必要があります。

たとえば、「親と子」「教師と生徒」「男性と女性」などの間に「絶対的平等」を主張すれば、秩序は崩壊し生命は死にます。

また「男女共同参画法」などのように、抽象的な男女平等イデオロギーに基づいて、法律的な強制によって男女の区別を無分別に解消しようとするとき、ときには男女の概念的本性を不自然に歪めて「角を矯めて牛を殺す」ようなことになりかねません。不合理な習俗文化、生活習慣などの改善は、法的な強制によるのではなく、できうるかぎり教育や啓蒙活動を通じて実現してゆくほうが弊害は少ないと思います。

もちろん「平等」概念の意義も、ただに全面的に一般的に否定されるのではなく、「平等」が正当に評価され、肯定される一定の具体的な条件を明らかにした上で認められるべきものです

要するに、「自由」や「平等」、「人権」、「平和」といった抽象的な概念についても、その意義の認められる限界を超えて、一般的に抽象的にその普遍性を狂信的に主張することによってもたらされる破壊性や害悪ついて認識する必要があります。

またたんに「平等」だけでなく、「民主主義」や「階級闘争史観」などのより複雑な抽象的概念についても同じことがいえます。「民主主義」や「階級闘争史観」などの概念、抽象的なイデオロギーを狂信して行われた政治的運動が、大衆の劣情を呼び起こして破滅を招くことになった事例は、古今東西において歴史的にも事欠きません。悟性的な政治運動ではなく、理性的な政治運動とは何か、が追求されるべきだと思います。
 

 

「平等」や「自由」「人権」などの、普遍的概念(抽象的概念)による「悟性的な思考」のもたらす問題については以下の論考などで論じています。

Allgemeine Begriffe(普遍的概念)がもたらす恐ろしい不幸

悟性的思考と理性的思考

「悟性的思考」と「理性的思考」2

10月10日(月)のTW:〔契約国家説批判〕

11月23日(日)のTW:天皇を「自然人」としてしか見れない奥平康弘氏

 

 

 

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5月2日(火)のTW:職業における義務(ヘーゲル『哲学入門』)

2017年05月03日 | 哲学一般





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8月2日(土)のTW:国家哲学の基礎としてのヘーゲル哲学

2014年08月03日 | 哲学一般

「8月1日(金)のTW:中川八洋掲示板を読んでつぶやいた、など」現代においてもなおヘーゲル哲学の意義はきわめて大きいと思います。この哲学は今もなお日本国においても国家哲学の基礎となるべきものです。 goo.gl/ym5Ivs


[exblog] 8月1日(金)のTW:中川八洋掲示板を読んでつぶやいた、など bit.ly/URhzmX


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Allgemeine Begriffe(普遍的概念)がもたらす恐ろしい不幸

2014年06月18日 | 哲学一般

 

 Allgemeine Begriffe(普遍的概念)がもたらす恐ろしい不幸

 

2014年06月18日 | ツイツター

【中川八洋掲示板 】尖閣(魚釣島)に標柱すら建立しない“鵺”安倍晋三──空母も建造しない、危険で有害な“口先だけの中共批判” - fb.me/6xDDBUAjI

 
 

村山富市さん、河野洋平さん、朝日新聞記者さんなども耳を傾けて聞いたら?後世の日本人のために。中共と朝鮮の属国になったときの日本人の運命は。【イザヤ・ベンダサン/世間知らずで無神経な「進歩的文化人」の一言が招き寄せる迫害 - goo.gl/tf9PXM

 
 

一般的な概念と大きなうぬぼれは、いつも恐ろしい不幸をひき起こす。(ゲーテ) Allgemeine Begriffe und großer Dünkel sind immer auf dem Wege, entsetzliches Unheil anzurichten.

shuzo atiさんがリツイート | RT
 
 

この場合の 「Allgemeine Begriffe」は「抽象的思考」と訳した方が良いと思います。抽象的思考とは悟性的思考のことで、「平等」「人権」 「平和」「民主主義」「博愛」「自由」などの抽象的な概念を、時場所をわきまえず、狂信的に振り回すことによってもたらされる害悪のことです。ポルポトの例などが あります。 RT @dt_reibunshu: 一般的な概念と大きなうぬぼれは、いつも恐ろしい不幸をひき起こす。(ゲーテ) Allgemeine Begriffe und großer Dünkel sind immer auf dem Wege, entsetzliches Unheil anzurichten. tl.gd/ndio4e

 
 

Allgemeine Begriffe und großer Dünkel sind immer auf dem Wege, entsetzliches Unheil anzurichten.悟性的思考とひどい自惚れは、いつも見ていられない混乱を引き起す。鳩山由紀夫さんへ。ゲーテ

 
 

Allgemeine Begriffe und großer Dünkel sind immer auf dem Wege, entsetzliches Unheil anzurichten. 悟性的思考とひどい傲慢は、いつも恐ろしい災厄をもたらす。橋下徹さんへ。ゲーテ。

 

 

 

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「存在」と「概念」

2014年01月06日 | 哲学一般

 

「存在」と「概念」の関係について、先日たまたまツィートすることがありましたが、概念と存在の関係については、重要なテーマでもあると思いますので、『小論理学』の中から、参考となる個所を引用しておきました。興味と関心のある方もどうぞ。

小論理学§51


その現存在がその概念と異なっているということが、しかもただこのことのみが、実際にあらゆる有限なものの本質なのである。これに反して神は明らかに「存在するものとしてのみ考えられるもの」でなければならず、神においては概念が存在をそのもののうちに含んでいる。

概 念と存在との統一こそ、神の概念を構成する。――このような規定はもちろんまだ神の形式的な規定にすぎず、したがって概念そのものの本性を言い表している にすぎない。しかし、概念が、まったく抽象的な意味においてもすでに、その内に存在を含んでいるということは極めて明らかである。

なぜな ら、概念は、その他どう規定されるにせよ、少なくとも媒介の揚棄によって生じるところの、したがってそれ自身直接的な、自己関係であるが、存在とはまさに こうした自己関係であるからである。――精神のもっとも内奥のものである概念が、存在というような貧しい規定、否、もっとも貧しい、 もっとも抽象的な規定すらその内に含まないほど貧しいとしたら、それは全く不思議と言わなければならない。(このことは自我についても言えるし、まして神 のような具体的な統体についてはなおさら言えることである。)思想にとっては、内容から言えば、存在という概念ほど貧弱なものはない。

もっとも、もっと貧しいものがあるにはある。それは、存在と言うときまず思いうかべられるもの、すなわち私の目の前にある紙のような外的な感覚的存在である。しかし、有限で消滅しうる事物の感覚的存在というようなものを、この場合問題にしようという人はあるまい。

――― とにかく、思想と存在とは別なものだというようなつまらぬ批判は、人間の精神が神の思想から出発して神が存在するという確信に到達する道を妨げることはで きるかもしれないが、それを奪い去ることはできないのである。直接知あるいは信仰の見地は、この移行、すなわち神の思考とその存在との不可分を回復したも のであるが、それについては後に述べることにする。

岩波文庫版『小論理学§51』( s 197 )

 

 

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wissenschaftlich をどのように訳すべきか―――ひとつの試案

2012年11月07日 | 哲学一般



wissenschaftlich をどのように訳すべきか。このテーマで考えてみたい。手元にある三修社の現代独和辞典では、wissenschaft は①学問、科学、②知識、学識 などの訳語が挙げられ, wissenshaftlich では学問の、科学の、学術の、などと訳されている。

wissen は①知識、学識、心得などの訳語が当てられている。-schaft と schaffenが語源的にどう関係しているのか、浅学にして不明だが、schaffen には①造り出す、創作する、②仕事する、成し遂げる、などの意味があるらしい。


とすれば、 wissenschaft  の意は「知識が創り出したもの」と解してよいのかもしれない。単に wissenschaft を学問、知識、科学などと訳すだけでは、もとの原語の語源的な意味は捉えられない。


-lich は形容語尾で使われる。 wissentlich は、知っていながら、意識しながら、さらに、故意に、などの訳語が当てれているのに対し、wissenschaftlich は、学問の、科学の、学術のなどと訳されている。

この語はとくに歴史的には、マルクスが der wissenschaftliche Sozialismus として、従来の Sozialismus 社会主義 に wissenschaftlich を形容詞に付すことによって、この語に彼自身の思想の独自性を含ませて「科学的社会主義」として主張したことで知られている。しかし言うまでもなく、この wissenschaftlich こそ、それ以前にヘーゲルが自身の哲学の特色として打ち出したものであった。

従来のPhilosophie(哲学)を、単に「愛智」というレベルではなく、wissenschaftlich の段階にまで高めたことがヘーゲルの功績であることは周知のことである。このwissenschaftlichは、だから、単に学問とか学術とか科学と 訳出するだけでは、その真意は出てこない。なぜなら、ヘーゲルの wissenschaftlich の性格は、その「知識が創り出したもの」が、論理必然性を概念的に証明するものであること、さらに体系的必然性と完結性を持つものであることである。しかし、現代の日本語でいう「科学」には、必ずしもヘーゲル由来のそういった意味は含意されてはいない。


とすれば、 wissenschaftlich の訳語として、ヘーゲル哲学用語法を踏まえて、これに「哲学的」という訳語を、科学的、学問的、学的、などと並んで、加えるべきではなかろうか。もちろん、多 くの人々は、伝統的にも 「哲学」という用語に、概念的論理必然性や体系的完結性という理解を含めるようなことはなかっただろう。

しかし、たといそうであるとしても、これからの日本の哲学史の伝統の形成において、日本語の「哲学的」という用語に、ヘーゲルの wissenschaftlich の用語法の原意を含めて使用してゆくべきだと思う。

これまでのヘーゲルの作品の著作において、これまで実際にどのように訳されてきたかというと、それは「学的」「科学的」「学問的」などと訳されてきた。確かに、これらに加えてさらに、wissenshaftlich に「哲学的」という訳語を加えるとするならば、従来の philosophische の訳語として確立している「哲学的」との区別をどうしてゆくかという問題が出てくるかもしれない。一つの提案としては、 philosophische の訳語としては、愛智学的、智学的などの訳語を当てればどうだろうか。

それともあるいは、「科学的」という語に、ヘーゲルの wissenschaftlich の原意を込めて使用してゆくという道もあるかもしれない。ただ、個人的な感想としては、これからの日本の哲学史の試みとしても、wissenschaftlich の訳語として、「哲学的」の語を使ってゆきたいと思う。

 そうして一方では、philosophie、philosophisch の訳語としては、愛智学、智学、愛智学的、智学的などの用語を使うようにしたいと思う。Wissenschaft、 wissenschaftlich の訳語としては、「哲学」、「哲学的」の語を当てたい。

 それほどにヘーゲル以降と以前 では「哲学」の根本性格が変わったのであるから、彼以降の wissenschaftlich の性格を受け継いでいる philosophie  のみに、名誉ある「哲学」の訳語を当て、それ以前の、あるいはヘーゲル以降の哲学であっても、本質的 に wissenschaftlich な性格を受け継がない単なる philosophie については「智学」とか「愛智学」と呼ぶようにすればいいので はないか。とにかく、ヘーゲル以降において philosophie  は根本的に性格が異なって、真の philosophie として従来のそれとは質を異にしたも のとなっているからである。

いずれにしても、wissenschaftlich を単に機械的に、「学問の、科学の、学術の、学的」などと訳して済ませている教授には、このような問題意識はないに違いない。

マ ルクスの der wissenschaftliche Sozialismus を 「科学的社会主義」 などと訳してきた共産党なども、もし、「哲学的社会主義」 とでも訳していたならもう少しまともな国際 運動になったかもしれない。いやむしろ、「哲学」という高貴な語を、彼らによって貶められることがなかったことこそ、幸いだったとすべきか。

 

 

 

 

 

 

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「悟性的思考」と「理性的思考」2

2012年06月20日 | 哲学一般
「悟性的思考」と「理性的思考」2

 

 インターネットのブログやサイトの記事や論文を読んでいて、最近とくに感じること考えることは、「悟性的思考」と「理性的思考」の相違ということだろうか。もっとも、それらがどう違うのか、また、そもそも悟性的な思考と理性的な思考とはどのようなものなのか、といった問題意識をもつ人自体が、ほとんどいないのが現状だと思うけれども、いずれにしても、思考の本質におけるこの両者の違いが、決定的に重要だ、ということを感じるようになった。

とくに、高名な学者、ジャーナリストや大学教授などにおいても、私の立場からすれば、その論考において「悟性的な思考」しか出来ていないな、という感想を持つ場合が少なくない。そして最近になって、とくに、そこでいわゆる「悟性的な思考」の破壊的な、否定的な働き、その現実的な作用を自覚するにつけて、ますます、この「悟性的な思考」の限界を、否定的な作用を人々に知らしめる必要を痛感するようになっている。また、ヘーゲルが自身の生涯を「悟性に対する理性の戦い」と表現せざるを得なかったことも、およそのところを推測できるようになったと思う。

もちろん、私自身も今のところ、悟性と理性の違いについて、明確に定式化できているわけではないし、また、「悟性的思考と理性的思考の相違」については、哲学上の根本テーマだと考えていても、まだ、この問題を完全に解決しているのでも自覚しているわけでもない。

ただ、およその輪郭だけここで述べれば、「悟性は分析し、理性は綜合する」ということだろうか。もう少しわかりやすくたとえて言えば、磁石を例にとって考えるならば、磁石には陽極(+)と陰極(-)がある。また、人間や動物などの生命体には生と死がある。しかし、現実においては、陽極(+)と陰極(-)との間、生と死の間には明確な境界はない。ところが、一方では私たちの認識においては、確かに生と死、+と-の差異は歴然としている。

そこで悟性的な思考は、矛盾し両立しないものとしてそれらの二者を分断――これは判断することでもあるけれども――することによって「生ける現実を殺してしまい、破壊してしまう」のである。いわゆる自称「革命家」や狂信的宗教信者の多くは、なぜ、彼らがそうした思想や認識を持つに至るのか、ということを問題として考えるようになって、おそらく、――まだ、はっきりと論証できているわけではないが――今では、彼らが「悟性的な思考」しかできないからではないか、という推理をするようになっている。

いわゆる革命と保守の立場の違いといったことも、おそらくこうした問題との関連などでさらに深化させて論じる必要があると思うが、哲学者ヘーゲルなども、彼の生きた時代に経験したフランス革命末期のロベスピエールたちが辿った政治的な顛末などを目撃して、そうした破滅的な事態を招いたことに、啓蒙哲学の特質である「悟性的な思考」の論理的な帰結を認めたのではないだろうか。

大阪市長に当選した橋下徹市長やそのブレインでもあるらしい大前研一氏らの思考にも「悟性的な思考」の片鱗と特徴がさまざまに見られるように思う。もちろん、橋下 徹氏や大前研一氏らの思想や政治的な活動を高く評価はしているのだけれども、どうしてもその反面において彼らの「悟性的な思考」の限界も「感じている」のが現状だ、というべきだろうか。いずれにしても歴史や「概念としての大衆」は、理性的に事柄の必然性にしたがって動いてゆくのだろうけれども。大げさかもしれないが、こうしたテーマについて、さらなる「国民的な自覚と議論」を期待したい。

 

悟性的思考と理性的思考(1)

http://anowl.exblog.jp/890902/  

 

 

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ヘラクレイトス

2012年04月24日 | 哲学一般

ラファエロ作『アテナイの学堂』に見るヘラクレイトス・中央の階段左付近で考え事をしている。ただ人物のモデルは、ミケランジェロといわれている。ヘラクレイトス(Ηράκλειτος Hērakleitos、 紀元前540年頃 - 紀元前480年頃?)は、ギリシア人の哲学者、自然哲学者。

ヘラクレイトス 

時代   古代ギリシャ
地域   古代ギリシャ

学派
特定の学派には属していなかったと考えられているが、後に支持者は「ヘラクレイトス派」となった。
研究分野
 形而上学、認識論、倫理学、政治
主な概念    ロゴス、流転 ※概念、Werden、成、生成

影響を与えた人物

パルメニデス、プラトン、アリストテレス、ヘーゲル、ニーチェ、ハイデッガー、ホワイトヘッド、カール・ポパー、その他大勢 
 
 
目次

1 生涯
2 著作
3 思想
4 言葉
5 参考文献
6 関連項目
7 外部リンク

1 生涯

エペソスで生まれた。王族の家系に生まれたという説があるが詳細は不明である。父はプロソンまたはヘラコンという。ヘラクレイトスがエペソスの貴族階級に属したことはおそらく間違いがない。政治に関しては民主制を軽蔑し、貴族制の立場を取った。誇り高い性格の持ち主で、友人のヘルモドロスがエペソスの民衆により追放されたことに怒り、政治から手を引いた。ディオゲネス・ラエルティオスによれば、のちにエペソスの人は国法の制定をヘラクレイトスに委託したが、ヘラクレイトスは友人を追放したエペソスの国制を悪しきものとみて、かかわることを拒否した。そしてアルテミス神殿に退いて子どもたちとサイコロ遊びに興じたため、人々が不審に思い理由を尋ねると「おまえたちと政治に携わるより、このほうがましだ」と答えたという。水腫に罹り、医者に見せることを拒んで、自分で治療を試みたが死んだと伝えられる。

2 著作

著書といわれる『自然について』は現存せず、引用によってのみ断片が伝わる。この書は『万有について』『政治について』『神学について』の三書を総合したものであるともいわれる。

 3 思想

アナクシマンドロスから対立と変化、ピュタゴラスからは調和の考えを受け継いだ(ピュタゴラスに対しては、しかし、いかさま師であると述べている)。

万物は流転していると考え、自然界は絶えず変化していると考えた。しかし一方で、その背後に変化しないもの、ロゴスを見ている。ヘラクレイトスはまたロゴスは火であるといった。変化と闘争を万物の根源とし、火をその象徴としたのである。燃焼は絶えざる変化であるが、常に一定量の油が消費され、一定の明るさを保ち、一定量の煤がたまるなど、変化と保存が同時進行する姿を示している。そしてこの火が万物のアルケーであり、水や他の物質は火から生ずると述べられる。

ただし、これらの考え方におけるアルケーの概念は、「万物のアルケーは水である」としたタレスなどのそれとは異なっている。この「生成」の思想は、パルメニデスの「存在」の思想としばしば対立するものとして見られてきた。もっとも、井筒俊彦によれば、実際には同じ事柄(形而上学における根源的な部分)を異なる面から述べているにすぎないという(『井筒俊彦全集1 神秘哲学』参照)。

ヘラクレイトスの言葉としては、プラトンが引用している「万物は流転する」(Τα Πάντα ῥεῖ (Ta Panta rhei). "everything flows" )がもっともよく知られているが、実際のヘラクレイトスの著作断片にこの言葉はなく(あるいは失われ)、後世の人が作った言葉であるともいわれる。「同じ河に二度入ることはできない」などの表現にその意味合いが含まれていると思われる(疑義もある)。また、「万物は一である」とも「一から万物が生まれる」とも述べ、哲学史上初めて、「根源的な一者」と「多くの表面的なもの」との関連を打ち出した人物としても注目されている。

その著作の難解さと厭世観から「暗い哲学者」、あるいは、「泣く哲学者」と呼ばれる。また、ヘーゲルなどの思想の源流として、弁証法の始まりを担う人としても考えられている。

 4 言葉

ロゴスはこのようなものとしてあるが、人間はそれを理解しない。(断片1)
互いに異なるものからもっとも美しいものが生じる。万物は争いより生じる。(断片8)
博識は分別を教えない。(断片40)
火は土の死により、空気は火の死により、水は空気の死により、土は水の死による。(断片76)
大多数は悪党であり、すぐれたものは少数。(断片104)
自然は隠れることをこのむ。(断片123)
万事に渡り、運命による定めがある。(断片136)

上記はディールス=クランツ『ソクラテス以前の哲学者断片集』「ヘラクレイトス B」1951年による。

5 参考文献

ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝(下)』岩波文庫(岩波書店)
 ISBN 4003366336
6 関連項目

レオロジー
 7 外部リンク
 ウィキメディア・コモンズには、ヘラクレイトスに関連するメディアがあります。
(百科事典)「Heraclitus」 - インターネット哲学百科事典にある「ヘラクレイトス」についての項目。(英語)
(百科事典)「Heraclitus」 - スタンフォード哲学百科事典にある「ヘラクレイトス」についての項目。(英語)

 出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「ヘラクレイトス」の項
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%88%E3%82%B9

※一部、改変してあります。

 

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ミネルバのフクロウ再論

2012年03月20日 | 哲学一般

 

ミネルバのフクロウ再論

以前に「ミネルバのフクロウ」と題して、哲学の意義について論じたことがある。そこで「ミネルバのフクロウ」に象徴される哲学というものは、「(歴史的な)現実が成熟した後に、その現実の中にひそむ実体を、知の王国として、観念の形態で、認識するに過ぎないということを言おうとしているのである。」と述べた。だから、そもそも哲学というのは「安っぽい理想論」を語ることでもなければ、思いつきの空想を述べることでもない。

とはいえ、それだけで哲学の特質を言い尽くしているかというと、もちろんそうではない。ヘーゲル哲学以降の近代哲学についてはとくにそのことが言える。なぜなら、ヘーゲル哲学のもう一つの特質として「必然性の徹底した追求」ということが挙げられるからである。

そして、ヘーゲルが自らの哲学のなかで、この論理必然性を追及してゆくことによって、従来のように単なる「愛智」(フィロソフィー)という立場に哲学がとどまるのではなく、「科学としての哲学」の立場を確立することになったのである。もちろん、ヘーゲル哲学の遺産を受け継がない、多くの自称哲学が、いまだ単なる「愛智」の域にとどまっているとしても。

ミネルバのフクロウに譬喩される哲学は、だから「新しい知恵の到来を告げ」るようなものではないにしても、その必然性の追求と認識によって未来の洞察への道を開くことになる。カントが自らの哲学によって、自由を歴史の目的として認識することによって、その普遍的な法則性を論証することによって、圧政や抑圧の崩壊の必然性を洞察したようにである。かくして歴史を科学的に探求する道も開いたのである。

カントとその弟子ヘーゲルの哲学に共通する特質は何よりも、必然性の追求という「哲学的科学」あるいは「科学的な哲学」としての性格である。それは必然的にさらに、もっとも抽象的にして普遍的な法則性としての「弁証法の論理」の解明に向かうことになる。

現実を科学的に研究するというのは、事物に内在する普遍性・特殊性・個別性を認識することでもある。哲学は、また哲学的な歴史学も、その必然性の洞察によって、もちろん「新しい知恵の到来を告げ」るようなものではないにしても、将来における未見の事実を予測しうる道を開いたと言える。

たとえば、現在の中華人民共和国政府と日本政府の両者の間に存在する尖閣諸島における領土問題の取り扱いの如何によっては、将来のいずれかの時において両国間における戦争に発展する可能性を、相当の確率で予測しているようにである。

 

 

 

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人間の欲望と二律背反

2011年04月15日 | 哲学一般

写真出典

360@旅行ナビ
http://www.360navi.com/blogn/index.php?e=520

人間の欲望と二律背反

今年も春が巡り来る。しかし、せっかくに巡り来た春を、もちろんに、心の底から賛美できないのは、この春先に東北地方に、地震、津波と、それに追い打ちをかけるようにして襲った、福島第一原子力発電所の破壊と放射能汚染事故があったからだ。

上野公園や造幣局などの花見にも例年のような浮ついた気分は見られず、日本国民の誰もが多かれ少なかれ、心の底のどこかに不安と哀しみの気持ちを宿している。

国家や企業が、この不幸な事故を、再び安全で強力な組織体制に生まれ変わらせる契機にして行くことができるかどうか、災い転じて福となすことができるかどうか。私たちの国家や企業の組織体制、人間観、さらにはその根底にある思想や哲学にどのような欠陥があって生じた事故なのか、その完全なる自覚と改革なくして真の復活はあり得ない。さもなければ、この世には何も新しいものはない。昔の過ちが繰り返されるばかりだ。

かって自然農法家の福岡正信氏は、人為は自然に必ず劣るという世界観を持っていた。そこにあるのは分別知にもとづく、現代科学のもたらす矛盾である。福岡正信氏の自然農法にふれて、以前に次のように書いたことがある。「自然は完全であり、したがって一切無用である。有限の存在である人間の見て行う世界は、完全なものを分解し分析した部分でしかないものであり、必ず不完全なものである。そこで、氏はすべての人為を捨て、完全な自然に同化して、自然に生かされる生き方の道を歩むことになる。」

昔お上の不興を買って「塩竃を見て参れ」と左遷されたお公家さんがいた。古来、東北、松島は、歌枕になるくらい美しかった。今回の地震と津波とによって、岡倉天心ゆかりの六角堂などもその風光とともに流されてしまった。あらためて自然や神の絶対的な威力を前に人間の有限さ空しさ儚さを思い知ることになる。神の眼からは、原発事故などは、トルに足らない些事に過ぎない。

しかしとはいえ、哲学的な問題としても、日本国を主権国家として、中国やアメリカ、ロシアからどうして独立させて行くか、国民の自由と主体性をどうして回復して行くか、といった課題の方がより深刻で切実である。

山の畑に訪れた今年の春(20110413) 

                      

                       

                            

 

まだ青いトマト

http://blog.goo.ne.jp/askys/d/20090726

福岡正信氏の自然農法

http://anowl.exblog.jp/8481994

山の恵み

http://anowl.exblog.jp10566374/  

 

 

 

 

 

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哲学概念としての「私」の確立

2010年07月20日 | 哲学一般

 

哲学概念としての「私」の確立

哲学の研究の対象が、思考であり世界観であり言語であるとしても、それはすべて、「自我」の産物、つまり、「私」による精神的労働の産物である。我が国において、哲学もまた西洋伝来の学問科学の移入と継承のうえに、学問分野として成立、確立したのであるが、その過程において、西洋の古典的哲学作品の翻訳を通じて、その内実を摂取し、消化してゆくしかなかった。そこには当然のことながら日本人にはまだ無縁な抽象的な観念も少なくなかったから、その観念や概念を日本語として移入してゆくためには、漢語の抽象的な観念の伝統から借用して、新しく造語して行くしかなかった。

そもそも哲学という語彙自体が、よく知られているように、古代ギリシャ語に語源を持つ「PHILOSOPHY」の訳語である。また、科学、国家、憲法、人権、真理、宗教、歴史など、近代・現代の科学や法律、工学などで分野で用いられているほとんどの観念や概念が、西洋の科学、学術の成果の我が国への移植の過程でもたらされたものである。

だから、我が国において、こうした学術で用いられる抽象的で普遍的な重要な概念が、私たちの日常的な生活の場面から長い時間と洗練を経て蒸留され形成されてきたものではなく、どうしても哲学的な思考というものも、西洋の伝統において以上に、その多くが一般大衆の日常生活で使われている生活用語に直接に根を持たない、むしろそれらとは切り離されたところで成立したものとなっている。

しかし、明治維新以来、科学・学問の、西洋から圧倒的な流入から一世紀半も経過しようとしている現状において、伝統的に大衆的になじみの薄かった西洋由来の観念や概念についても、従来の伝統的な日本人の生活と思考の中に、今一度捉え直し、検証し直して行く必要がある。それは、もちろん哲学的思考を概念規定も曖昧な日常的思考や用語の中に再び解消してしまおうということではない。

たとえば、先日の論考で取り上げた、「自我」という哲学的概念についてもそうである。ドイツ語の「Ich」や英語の「I」をなにも「自我」と訳す必要はなく、むしろ「私」と訳したほうがよい。なぜなら、カントやヘーゲルたちの哲学は、この「私=Ich」そのものを徹底的に研究し、その本質を認識してゆく過程で成立したものと考えられるからである。

哲学が主たる研究の対象としている、思考や言語、意識・自意識、精神といった問題は、要するに、古代ギリシャのアテネ神殿に掲げられていたといわれる「汝自身を知れ」という神託を、ソクラテス以来の西洋人たちが数千年にわたって営々と実行し、築き上げ深めてきた「私=汝」そのものを知ることの成果に他ならないからである。

 

 

 
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概念と自我

2010年07月16日 | 哲学一般

 

概念と自我

ヘーゲルは彼の主張するところの「概念」がどのようなものであるかを少しでも理解させようと、大論理学第二巻の冒頭の「概念についての概論」のなかで、自我と概念との関係を説明している。それは次のようなものである。概念を理解する上で自我の本質を把握することの重要性を次のように述べている。

>>

「概念とは、それ自身が自由であるような現実存在へと概念が到達しているその限りでは、自我あるいは純粋な自己意識にほかならない。自我はなるほど諸概念すなわち規定された諸概念をもっているが、しかし、自我とは概念として定在するにいたっている純粋概念そのものである。それだから自我の本性をなしている根本規定のことを考える場合には、なにか周知のもの、すなわち表象にとって熟知されているもののことが考えられているのだと前提されていよう。
だがしかし、自我はまず第一にこの純粋な自己へと関係する統一であり、しかもそうであるのは、直接にではなく、自我があらゆる規定態と内容とを捨象して、自己自身との制限されていない相等性という自由へと還帰することによってである。こうして自我は普遍性である。捨象する運動として現れるあの否定的なふるまいによってのみ自己との統一であり、そして、その統一はすべての規定された存在を自己のうちに解消して含んでいる。

第二に自我はまたまさに自己自身へと関係する否定性として直接的に個別的に絶対的に規定された存在である。そしてそれは自己を他者に対立させ、他者を排除しているところの、個体的な人格性である。その絶対的な普遍性は同時にまさに直接的に絶対的な個別性でもある。そして、それ自体で自立的な存在は端的に定立された存在であり、そして、定立された存在との統一によってもっぱらそれ自体で自立的な存在であるのだが、このような絶対的な普遍性が、それ自体で自立的な存在がまたまさに概念としての自我の本性をなしている。もしも上述の二つの契機、個別性と普遍性、それ自体で自立的な存在と定立された存在が、それらのそれぞれの観念的な姿と同時に、それらの完全な統一において把握されないならば、自我についても概念について何ものも概念的に把握することはできないのである。」


<<

<<

「自我は思考することによって対象を貫き通す。だが、対象は思考のうちにあってはじめて、それ自体で自立的である。対象が直観または表象のうちにあるときは、それはまだ現象に過ぎない。思考は対象がはじめにもって現れる直接性を揚棄して、そうして対象から一つの規定された存在をつくる。しかし、この対象の規定された存在は、対象のそれ自体の自立的な存在であり、言い換えれば、対象それ自体のもつ客観性である。それゆえに、対象はその客観性を概念のうちにもっており、そして概念はその中に対象を受け入れている自己意識の統一である。だから、対象の客観性あるいは概念は、それ自身が自己意識の本性であり、自我そのもの以外のいかなる諸契機または諸規定ももってはいないのである。」

<<

ここでヘーゲルが言わんとしているのは、要するに、彼のいう概念を理解するためには、自我の本性についての、すなわち思考の本質についての理解が前提とされるということなのだろう。なぜなら、概念と自我と思考は同一物でもあるからだ。これらの論述によっても、事物を概念的に把握するということがどのようなことであるかが、おおよそ推測できるだろう。

しかし、概念は本質とは異なる。どのように異なるのか。それは、本質が単なる反省のレベルの概念であり、概念においてこそ理念(真理)に関わるレベルの概念であることだろう。単なる本質は真理とは関わりを持たない。概念においてはじめてその真理性が問題になる。だから、本質についての判断は、反省の段階における判断であり、悟性的なレベルの判断であるといえる。


付録

日本語の本質と伝統のために、私たちは日常の生活語で、哲学的な思考と認識を展開することがなかなか難しい。(あるいは、それはドイツ語などでも同じであり、哲学することそのものの難しさであると言えるのかもしれない。実際のところはまだ私にもよくわからない。)が、しかし、いずれにせよ、心がけとしては、我が国における哲学の伝統の確立と品位ある国民の形成のためにも、日常の生活語で哲学して行く努力が必要だろう。現代日本国民に見るように、形而上学なき国民は、アニマルに等しいから。

ふだん哲学などとは無縁の世界に暮らしている人たちのために、老婆心ながら一言するなら、ここで「自我」とは「Ich」のことであり、「あなた」のことであり「わたし」のことである。すべての人間は、「わたし」であり、「自意識」 でもある。「自我と概念」という世人にはおどろしい標題になってしまったが、要するに考えようとしていることは、「わたし」あるいは「自意識」と「概念」との関係である。ただ、ここで言う概念は単なる思考規定に、悟性的なものには留まらない。「美」や「真理」「善」、「法則」、「論理」などといった理性的な概念と、普遍的な「わたし」=「自意識」との関係が問題にされている。

 

付記2  (哲学の大衆化と少数者)   2010・07・20

当初、この小文の標題を「概念と自我」として公表したにもかかわらず、どうにもそれが気に掛かっていた。それは付録1にも書いたように、少しでも哲学的思考の能力を日本国民も培う必要があると考えていて、そのためにも、一般日本人が日常生活で使っている生活語で哲学できるような哲学用語とはどのようなものであるべきか、という思いが潜在的にあったからである。抽象的な哲学的概念はもちろん、わたしたちの生活の中に根拠を持っているのだが、日本語の発生と成立の過程からいっても、日常生活における思考の道具としての常識的な用語と哲学的概念が明確に区別されて使われるのはやむをえないとしても、その距離が大きすぎるのである。それも程度の問題である。

日常的な常識的思考と精密な哲学的思考とはもちろん区別はされなければならないが、しかし、それでも哲学的思考が日常の一般的な社会生活のなかで行われている常識的な、自然発生的な思考に深く根拠を持つことも言うまでもない。というよりも、前者は後者を母胎として生まれてくるのであり、その精髄に他ならない。

封建時代から今日にいたるまで比較的に時間的にも日が浅く――まだ、二百年も経っていない――厳格な階級社会であった武家社会の伝統が長く、また儒教的な権威主義と事大主義の慣習の色彩の濃い我が国のような文化の環境のなかで、そのなかで「哲学」に従事した者には、とくに、西田幾多郎のような旧帝国大学の権威主義的な教授の多かったことにも、哲学が国民一般大衆とは縁の遠い、何か小難しい取っつきがたいもののような印象や先入観をもたれることになっている、その原因の一端をになっているのかもしれない。

とはいえ、たしかにそうした面もあるにはあるとしても、やはり「哲学」は遠く古代ギリシャの昔から、一般大衆とは縁の薄い、少数者の特権的な分野であったということはできる。人類の大多数は生存のために、日々のパンのために過酷な日常生活を強いられている。そうしたところに「哲学」に従事するという恵まれた余暇を持ちうるのは、その事柄からいって、少数者に限られている。まして、ヘーゲルやカントのように、生涯をその学問科学のために捧げるのは例外中の例外にすぎない。また、そこに哲学の意義も限界もあるのだから、哲学はそれを享受するしかないし、それに満足すべきなのである。哲学の大衆化といった愚かなことを考えるのは、哲学というものの概念をよく知らない者が犯す自己矛盾なのだ。

ヘーゲルは小論理学第二版の序文のなかで「真理の科学的な認識は、すなわち哲学は真理を意識する特殊な仕方であって、そうした仕事にしたがうのは、すべての人ではなく、ただ少数の人に過ぎない」とも語っている。 

 

 

 

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