夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識   第三十五節[主人と従僕の自由、および真の自由]

2024年04月29日 | ヘーゲル『哲学入門』


ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識   第三十五節[主人と従僕の自由、および真の自由]

§35

Diese rein negative Freiheit, die in der Abstraktion von dem natürlichen Dasein (※1)besteht, entspricht jedoch dem Begriff der Freiheit (※2)nicht, denn diese ist die Sichselbstgleichheit im Anders­sein, teils der Anschauung seines Selbsts in andern Selbst, teils der Freiheit nicht vom Dasein, sondern im Dasein über­haupt, eine Freiheit, die selbst Dasein hat. Der  Dienende  ist selbstlos und hat zu seinem Selbst ein anderes Selbst, so dass er im Herrn sich als einzelnes Ich entäußert und aufgehoben ist und sein wesentliches Selbst als ein anderes anschaut. Der  Herr  hingegen schaut im Dienenden das andere Ich als ein aufgeho­benes und  seinen einzelnen Willen als erhalten  an. (Geschichte Robinsons und Freitags.)(※3)

 

第三十五節[主人と従僕の自由、および真の自由]

しかし、自然的な存在を捨て去ることのうちに存在する、この純粋に否定的な自由は、自由の概念とは一致しない。というのも、自由とは他者の存在内における自己同一性であり、一面においては、他の自己のうちに自分自身を直観することであり、一面においては、そこにある存在からの自由ではなく、そこにある存在一般のうちにある自由であり、それは自身の存在をもつ自由である。従僕 は自我をもたず、そうして自己自身に代えて他人の自我をもつのであり、その結果として従僕は、固有の自我としての自分を主人のうちに手放し、自身を主人に預けている。そうして彼本来の自我を他者として見ている。主人はそれとは反対に、自分の自由になる他人の自我を従僕のうちに見るとともに、彼固有の意志が従僕のうちに収まっている のを認めるのである。

(ロビンソン・クルーソーとフライデーの物語)

※1

Diese rein negative Freiheit , die in der Abstraktion von dem natürlichen Dasein
「自然的な存在を捨て去ることのうちに存在する、この純粋に否定的な自由」とは、要するに、我が命さえをも自ら投げ捨てることのできる「自由」のことである。これも確かに「一つの自由」ではあるが、しかし、それは葉隠的な「死の哲学」における自由であり、それを「否定的な自由」としてとらえている点においても、ヘーゲルの哲学は「死の哲学」ではなく「生の哲学」である。

※2
der Begriff der Freiheit   「自由の概念=真の自由」
ここでヘーゲルは「真の自由」すなわち「自由の概念」をどのようなものであると考えているかがわかる。真の自由は「何かを捨て去ること」にあるのではなく「他の存在のうちに自己の存在を保つこと」のうちにある。

参照:ヘーゲル『哲学入門』第一章 法 第三節 [個人の自由意志と法の普遍性] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/jFA85g

※3
「ロビンソン・クルーソー物語」イギリスの作家、ダニエル・デフォーの作品。主人公のロビンソン・クルーソーは船で遭難し孤島に漂着する。その島で生き延びていくなかで出会った原住民の一人フライデーは彼の忠実な従僕となる。主人と従僕の関係の具体的な例として、ヘーゲルはこの物語を取りあげている。「精神の現象学」においても、哲学的な主題の具体的な例としてギリシャ神話や聖書、「ラモーの甥」その他さまざまな文学作品をとり挙げている。

 

 

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飯山陽(あかり)さんを支持する理由について(R6 03/05 日本保守党 記者会見)

2024年04月19日 | 教育・文化

 

R6 03/05 日本保守党 記者会見

 

※20240418追記

 

飯山陽(あかり)さんを支持する理由について

先月の3月5日に、東京第15区の衆議院議員補欠選挙に立候補するにあたって、中東研究者の飯山陽(あかり)氏が日本保守党の江東区支部長に就任することになり、その際に党代表の百田尚樹氏と事務総長の有本香氏の二人を伴って記者会見が開かれました。その動画がYoutubeに上がっていたのでこのマイナーなブログにも共有させていただいておりました。その際に何かコメントを書きたいと思っていましたが、その時間もなかなか取れませんでした。

飯山陽氏にについては、YouTubeを始められた頃から、彼女の見識に触れ、感心してこれまでもそれなりに視聴させていただいていました。その中で、現在のどちらかといえばパレスチナ寄りの日本のアカデミズム界と、それと連携する外務省の一方的で公式的な中東政策、および、それを支えて来られた学者の池内恵氏や篠田英朗氏らに対して、飯山氏は自ら「場末の中東研究者」と称して批判的な見解をこれまでも明らかにされてきました。

私もそうした彼女の考えに少なからず共感してきましたが、しかし、百田直樹氏や有本香氏と飯山氏との接点についてはよく知りませんでした。だから、飯山氏が日本保守党の東京江東区の支部長に就任するというニュースをYouTubeで知って驚きました。

しかし、いずれにせよ飯山陽氏が日本保守党のような政党から出られて、少しでも国家としての日本が一つの家族のような性格を取り戻すのに貢献されるのは賛成ですし、日本国民がさらに一つの家族のようになれば、日本国民の幸せはより深まるだろうと思っています。

もともと日本保守党が生まれたのは、作家の百田尚樹氏とジャーナリストの有本香さんの提唱によるものですが、そのきっかけといえば、自民党が安倍晋三前首相の亡き後に稲田朋美氏や岸田首相らが中心になって国民多数の反対するLGBT法案を強行採決したことでした。

そもそも田中角栄政権以来、自民党は保守党としての性格をすっかり失っていましたが、岸田内閣の成立とLGBT法案などの強行採決によって、リベラル政党としてのその本質をさらにあらわにし始めたといえます。こうした自民党の傾向に対して、これまで自民党を支持してきた保守的な岩盤支持層を旧来より構成してきた人々が、自民党に対して反旗を翻し離反し始めたのだと思います。百田氏や有本氏らの行動はその現れだと思います。

もちろん博士号保持者の飯山陽博士と比較するにはあまりも僭越だと思いますが、私も「場末の哲学研究者」として、日本国の国家理念や政党政治のあり方について、それなりに関心をもち、また私のブログなどにこれまでもその考えを明らかにしてきました。

その中で、かねてより日本国民は「自由にして民主的な独立した立憲君主国家としての日本」を国家の理念として追求すべきだと考えてきましたし、その理念を具体的に実現していくためには、基本的に我が国の政党政治は「保守自由党」と「民主国民党」の二大国民政党によって担われるべきだと思い、またそのように主張してきました。そのせいもあって、来るべき東京第15区での衆議院議員補欠選挙に、日本保守党から立候補された飯山陽氏の主張には共感できるところも少なくありませんでした。

ところで日本国内の現在の支配的な政治思想は、多かれ少なかれマルクス主義の影響をそれも深刻に受けています。現首相の岸田文雄氏もその一人です。また日本共産党は言うまでもないですし、立憲民主党も「立憲共産党」と揶揄されていることからわかるように、それに引きづられています。

それを例えてみれば、ちょうど兄弟姉妹のたくさんいる大家族があったとします。そのうちのある一人が、長男が祖父母から譲り受けた田んぼとその屋敷を見て、自分にもなぜ遺産分けしてくれないといって、長男や祖父母に対して恨み憎しんでやまず、兄弟姉妹たちに対して家族の中でもいつも喧嘩腰の態度でいるようなものです。また、祖父は中国で悪いことをしたと、頭から信じ込んで祖父の置かれたさまざまな事情に思い至ることもありません。これではこの家族の中にはいつまでたっても和やかな家族愛は育まれることはないでしょう。

リベラルや共産主義の考え方や行動は、また、その源はマルクスの国家観や歴史観、それは階級闘争史観といわれていますが、その実際はこのようなものだと思います。私が今回の東京第15区の衆議院議員補欠選挙で、立憲民主党やその他の候補者ではなくて、日本保守党の飯山陽氏を支持するのも以上のような理由からです。

R6 03/05 日本保守党 記者会見 - 作雨作晴 https://is.gd/ZuayDw

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識   第三十四節[自由よりも生命をえらぶ従僕]

2024年04月18日 | ヘーゲル『哲学入門』

ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識   第三十四節[自由よりも生命をえらぶ従僕]

§ 34

Indem von zwei einander gegenüberseienden Selbstbewusstsein jedes sich als ein absolutes Fürsichsein(※1)gegen und für das andere zu beweisen und zu behaupten streben muss, (※2) tritt dasjenige in das Verhältnis der Knechtschaft, welches der Freiheit das Leben vorzieht  und damit zeigt, dass es nicht fähig ist, durch sich selbst von seinem sinnlichen Dasein(※3) für seine Unabhängigkeit zu abstrahieren.(※4)

第三十四節[自由よりも生命をえらぶ従僕]

互いに対立して存在する二つの自己意識は、反対するにせよ賛同するにせよ、それぞれが一個の絶対的な自覚的な存在として、自己を他者に対して証明し主張するよう努めなければならないから、自由よりも生命を選び、その結果として自己の独立性のために自分の肉体的な存在を捨て去ることのできない自己意識は隷従の関係に置かれることになる。

 

※1
 ein absolutes Fürsichsein 一つの絶対的な「自覚的な存在」。意識の自己分裂の結果、自己を自己として自覚する。「独立的な存在」「自立的な存在」とも訳せる。

※2
自己意識は他の自己意識との対立を通して自己を確認する。

※3
「sinnlichen Dasein 感覚的なそこにある存在、肉体的な存在」
それぞれの「自己意識」の承認をめぐる闘争において、自由のために肉体的生命をすてることのできないものは、隷従の立場に陥る。

※4
これまでの叙述の展開からも分かるように、ヘーゲルの処女作『精神の現象学』で詳細に考察された意識の進展が、この哲学入門の第二課程の「精神現象論」おいて簡潔に叙述されている。意識は、「1、感性的意識」から「2、知覚」へと、さらに「3、悟性」をへて「自己意識」に至る。「自己意識」は「欲望」を経て、この第三十四節で「自己意識」は他の自己意識との関係に入る。それは対立的な関係であり「支配と隷従の関係」である。この過程をへて自己意識は第三段の「理性」に至る。

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 中級 第二段 自己意識 第三十三節[主人と従僕の関係の発生]

2024年04月11日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識   第三十三節[主人と従僕の関係の発生]

§33

Aber die Selbstständigkeit  ist die Freiheit nicht sowohl  außer  und von dem sinnlichen, unmittelbaren Dasein, als vielmehr in demselben. Das eine Moment ist so notwendig, als das andere, aber sie sind nicht von demselben Werte.(※1)

第三十三節[主人と従僕の関係の発生]

しかし、自立するということは外部にあって 肉体的な直接的にそこにあるものから自由であるということではなく、むしろ内面における自由である。一つの契機は他の契機と同じように必然的なものであるが、しかし、それらの価値については同じではない。

Indem die  Ungleich­heit  eintritt, dass dem einen von zweien Selbstbewusstsein die Freiheit gegen das sinnliche Dasein, dem andern aber dieses gegen die Freiheit als das Wesentliche gilt, so tritt mit dem gegenseitigen Anerkanntwerdensollen in der bestimmten Wirk­lichkeit das Verhältnis von Herrschaft  und Knechtschaft  zwi­schen ihnen ein; oder überhaupt des Dienstes  und Gehorsams, insofern durch das unmittelbare Verhältnis der Natur (※2) diese Verschiedenheit der Selbstständigkeit vorhanden ist.

二つの自己意識のうちの一方は、肉体的な存在よりも自由を本質的なものとみなし、もう一方はそれに対して、自由よりも肉体的な存在を本質的なものとみなすという 不平等の  生じることから、お互いが認められたいという特定の現実のなかにおいては、両者のあいだに主人と従僕の関係が生まれてくる。言いかえれば、自立することについて、生まれつきの直接的な関係を通してこの区別が存在するかぎりは、奉仕服従 の関係が一般に生まれてくる。

 

※1
Das eine Moment ist so notwendig, als das andere
「一つの契機は他の契機と同じように必然的である」
私たちの自由には、「精神面の自由」と「肉体面の自由」があるということである。いずれの自由も人間にとって必然的なものであるが、いずれに価値を見出すかは同じではない。

※2
durch das unmittelbare Verhältnis der Natur
「生まれつきの直接的な関係を通して」
自然の世界においては、諸動物の間に典型的に見られるように、また人間の場合においてもそうだが、能力、素質、環境、遺伝などの側面において、剥き出しの不平等、区別が存在する。その結果として弱肉強食の関係が、主人と従僕の関係が生まれる。

 

 

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