夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

ヘーゲルの国家論――「法の哲学」ノート(1)

2008年02月29日 | 国家論

ヘーゲルの国家論――「法の哲学」ノート(1)


ヘーゲルの「国家論」が他の多くの凡庸な政治学者や国家論者に比較して卓越している点は、何よりもヘーゲルが哲学者として「哲学の観点と方法」をもっていたことにある。そのことによって、彼の『法の哲学』は――この書が「自然法と国家学概要」という別名を副題にもっていることからもわかるように、――――「法」の研究が単なる実証法の研究に終わることなく、その根底にある絶対的な「自然法」の論理を明らかにすることになった。


そして同時に、近代においては「法」の概念が「国家」と必然的に結びついていることを、あるいは、「法の概念」が必然的に国家として帰結するというその論理を明らかにしている。他の一般の法学者、国家学者と比較して、ヘーゲルをして並はずれて優れたものとしているのは、いうまでもなくこの哲学における彼の能力である。


歴史学についても同じことが言える。歴史を単なる実証学としてしか記述できない凡庸な歴史家と違って、彼が歴史的発展の論理をとらえようとしていることも、彼の歴史学の特徴である。それを可能にしたのが、彼独自の哲学的方法、いわゆる弁証法的認識法であり、そのことによって近代において哲学は科学として復活することにもなった。


法哲学の中で、国家を一つの有機体としてとらえることができたのも、彼が生命を把握する論理をもっていたためである。生命をとらえる論理とは何か。それは一つの事柄における対立する契機の存在とその運動である。この両者の矛盾が運動を引き起こす。ヘーゲルの功績は、これを明確に認識し、その矛盾と進展の論理を体系として論理学の中に定式化したことにある。それは自然における法則そのものであり、彼においては絶対的な最高の真理として認識されている。この自然法則によって、この矛盾の論理によって、すべての事物は、内在的に変化し運動し、発展してゆく。


生命とは何よりもこの自己の内にある矛盾によって自己運動するものである。そして、彼の国家理論も、法の概念が一つの有機体としての国家にまで進展する論理を記述したものであって、国家という一つの人倫的な世界を、そのあるがままの現実の姿としてとらえようとしたものである。それは、ありきたりの道徳家が夢想するような「国家のあるべき姿」について説教をたれようとしたものではない。そうして国家の原理を明らかにした彼の法哲学は、教会の権威ではなく、自我による思考そのものの証明のうえに立とうとする近代人の指向を示してしている点においても、近代プロテスタンチズムの原理の産物でもあった。


 


 


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ピタゴラス派の教育論

2008年02月21日 | 国家論

ピタゴラス派の教育論

古代ギリシャの昔も極東の現代日本も、親が子供の教育のことで、頭を悩ますのは同じなのかもしれない。昔のギリシャで、かってある父親がピタゴラス派の一人の学徒に、どうすれば自分の息子にもっともよい教育を授けることが出来るかと訊ねたそうである。その問いに対して、彼は「良く統治された国家の市民にすることだ」と答えたそうだ。

今の日本が良く統治された国家であるかどうかは今は問わない。ただとにかく、現代の教育においては、個人は家族の中で育てられないのみならず、また、地域社会の中で育てられるということが忘れられているだけでなく、さらに祖国の中とか、国家の中で育てられるという意識もまったく失われてしまっている。戦前の日本国民は、たとえそれが建前であったとしても、天皇陛下のため、お国のために生きていた。しかし今、「グローバリゼーション」の嵐の吹き荒れる中で、かっての時代の寵児ホリエモンさんのように、祖国とか国家という言葉が死語になった人たちであふれている。

あの太平洋戦争の敗北が日本国民の国家意識に深いトラウマとなって残っている。国家というものは悪なるもの、国民を抑圧するもの、国民を引っ立てて死に追いやるものとしてとらえられている。だから、国家が正義(法)の執行機関であり、神の意志の代理機関であるという意識など国民には毛頭ない。

そこには国家観の根本的な倒錯があると思う。たしかに、その倒錯には根拠がないわけではない。しかし、日本国民の精神の奥深くに刻み込まれているこの国家に対するトラウマは癒される必要がある。このことは、いまだ真実に自由で民主的な「自分たちの」政府や国家を、日本国民が自力で形成できていないという事実と無関係ではない。それが市民革命と呼ばれるものであるのだろうけれど。

はたして、どちらの国家観が国民を幸福にするか。少なくとも「民主主義国」を自称するのであれば、国民は、自らの意志と行動で、国家を正義(法)の執行代理人として自覚できるまで、みずから努力して形成してゆく必要がある。

そのためには、まず国民が自分たちの倫理意識を高めて、悪しき政治家、利己的で無能力な政治家、公務員たちを国家と政府の舞台から追放してゆくことだ。そして、日本国が、たとえ極東の小国であるとしても、真実に「自由」で「民主的」な祖国となって「良く統治された国家」となるとき、はじめて国民は正義(法)の国家の中に生きているという実感を自らのものにできる。そこで初めて個人は家族の中で育てられ、そして、市民社会の中で、次いで祖国という国家の中で育てられて、真実に自由な国民の規律の許に置かれることになる。そのときにこそ古代ギリシャのピタゴラス派の無名の一学徒の教育論も真実になるのだろう。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国家の選択――マルクス主義か、ヘーゲル主義か

2008年02月20日 | 国家論

 

国家の選択――マルクス主義か、ヘーゲル主義か

 

この二十一世紀の時代に生きる私たちの世界を見回して見ると、とくに、世界に存在する国家の姿を見ると、国家の形というものもそれほどに多くあるわけではないことがわかる。いくつかの形態に集約されているといえる。

その代表的なものがアメリカに見るような「大統領制民主主義国」である。共和主義国家といってよい。フランスやドイツなどはこれに準じる国である。

また、中華人民共和国のような「人民民主主義国」がある。これも民主主義の特殊な形態とも言えるが、かっての共産主義国に見られる国家形態である。1989年のベルリン壁の崩壊以後は東欧をはじめとして、この国家体制は世界的な規模で崩壊していった。そして今では北朝鮮やキューバ、中国などいくつかの国にその形をとどめているだけである。

そして、今ひとつの国家形態としてはイギリスに典型的に見られるような「立憲君主国」がある。その多くは北欧諸国に見られ、デンマークやスェーデン、ノールウェイなどの国がそうである。わが国も一応、「立憲君主国」と言われている。

これらの国家形態にイスラム教色の加わったイスラム共和国などがあるが、現代国家の基本的な国家形態は、この三つに分類できるといえる。ただ、そこに軍事独裁国家なども含まれるが、人類の歴史の大局的な流れから言えばそれは例外的で特殊なものである。

この三つの国家体制に共通して言えることは、それらがいずれも民主主義の具体化された特殊な形態であることだ。いずれも近代現代の進展に応じて形成されてきた歴史的な産物でもある。

そして民主主義の出現でもっとも象徴的な世界史的事件がフランス革命であって、この政治的事件は思想が政治革命を主導した点においても画期的なものだった。

こうした人類の歴史を大局的に見れば、それは民主主義の発展の歴史ともいえ、哲学者のカントなどはそれを洞察して自由の実現こそが人類の歴史の目的であるととらえることになった。ヘーゲルもそれを受けて、自由を理念としてとらえなおした。たしかに世界史を観察してみればそうした哲学者の認識も承認できる。

民主主義や自由の理念は以上のように、実際にも三つの特殊的な国家形態として具体化されているといえる。そして、カントの後を受けてその歴史の進展を、一つの必然として論証しようとした哲学者にヘーゲルとマルクスがいる。その歴史的進展の論理を明らかにしようとしたものが前者にあっては『法哲学』であり、後者においては『資本論』だった。

そして、ヘーゲルが『法哲学』において「立憲君主国家」こそが近代の理念であることを論証したのに対して、マルクスは『資本論』においてプロレタリアートの独裁の必然性を論証しようと試みた。だから、世界史の現代はなお、この二人の哲学者の論証の正否の承認をめぐる闘争の舞台であるともいえる。そして、ヘーゲルの真理観からいえば、概念に一致した存在こそが真理であり、真理のみが歴史のなかにつらぬかれることになる。二十世紀の現実の世界史は、人民民主主義の崩壊で幕をおろすことになったが、共和国と立憲君主国は存続している。それはなによりも人民民主主義国家が国家の概念に一致しなかったからではないか。

ベルリンの壁が崩壊したあと東欧諸国に見られたような社会主義国のドミノ倒しの要因について、計画経済がその効率性において市場主義経済に敗北したことに求める論調が多かった。たしかにそれも一つの理由であるには違いない。しかし、もっと根元的な要因としては、やはり、自由の問題を見なければならないと思う。カントがその人類史の考察で結論づけたように、自由は歴史の目的である。にも関わらず、人民民主主義国は立憲君主国以上の自由を実現することが出来なかったからである。マルクス主義の人民民主主義国では、市民の自由に意義を認めず、それを否定的にのみとらえたために、人民民主主義国家は国家としてそれを真に止揚することが出来なかったからである。

だから現代においてもなお、いやむしろ人民民主主義国家の限界の見えている現代だからこそ、あらためて家族、市民社会、国家の論理を明らかにしたヘーゲル主義は生きかえる。ヘーゲルの国家のみが市民社会を正しく止揚するものだからである。
マルクス主義かヘーゲル主義か、その選択の問いは今も生きている。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

音楽と詩

2008年02月19日 | 芸術・文化

音楽と詩

音楽には色彩も形象もない。絵画には視覚でとらえる対象がまだ残されているけれど、音楽においてはもはや視覚は役に立たない。物質性をもたないこの「音」をとらえるには聴覚しかない。だから音楽は絵画よりもさらに抽象的で観念的である。そして、その抽象性、観念性のゆえに、音楽は私たちのもっとも奥深い心の内面に入り込んでくる。

音楽それ自体は一つの抽象的な「話し言葉」にもたとえることが出来る。愛する人の話言葉のように心に響いてくる。それはカンデンスキーやミロの抽象画が「書き言葉」としてその印象が私たちの意識に伝わってくるのに似ている。しかし音楽は抽象絵画より以上に、そこから伝わる色彩も形象も抽象的である。ただその印象は視覚からではなく、聴覚を通じて心に達するゆえにその色彩も形象も観念的であり、絵画のように客観的な物質性をもたない。絵画の世界においても印象派からピカソ、ブラック、さらにミロやカンデンスキーへと進むにつれて、次第に具象性を失っていったが、それでも絵画にあってはまだ色彩と形象が残されている。

とはいえ、こうした抽象的な音楽であっても、器楽音だけで純粋に構成されるソナタや組曲や交響曲と違って、アリアなどの声楽曲はそこに言葉が伴われるだけ、具体的でわかりやすい。

話し言葉ももともと「音」によって伝えられるから、言葉には本来的に音楽性が含まれているけれども、ただ言葉には人間のコミュニケーション手段として、意味が分かちがたく結びついている。だから、単なる嘆きや叫声の段階から言葉がさらに表象や意味(概念)と結びつけられるとき、抽象的な世界である言語の世界も、再び、具体性を獲得してゆく。そのもっとも洗練された姿が「詩」であることは言うまでもないが、この詩が音楽と結びついたとき、音楽による感情表現はより具体的な明確な輪郭をもって私たちの意識に伝えることができる。

そして、単なる感情の洗練や浄化の段階からさらに進んで高まると、何らかの思想や理念を作曲家や詩人は伝えようとする。ソナタやパルティータなど純粋な器楽曲と比べて、カンタータなどの声楽曲は言語表現をともなうだけ、その音楽の表象や思想をより具体的に把握しやすい。

先に取り上げたエマ・シャプランの歌う「VIDE MARIA」などの曲も、音楽の中により具体的な言語が入り込んでくるために、その抽象性はよほど失われ、具体的により表象的に音楽のテーマである感情や思想を把握しやすくなっている。

しかし、その歌曲が外国のものであって、しかもその言葉を解することが出来なければ、再びその音楽からは具象性は失われてしまう。外国語もその意味を解することが出来なければ、その声は私たちの耳には、あたかも一つの器楽音楽のように響いてくる。

とはいえ実際に私たちが日常聴いている海外の多くの歌曲についても、その歌詞の意味内容がわからないとしても音楽鑑賞には本質的には差しつかえはない。たとえ器楽や音声によって伝えられたその具体的な意味がわからなくとも、私たちは十分に楽しむことは出来るし、さまざまの喜怒哀楽の感情は浄化されて何らかのカタルシスをもたらしてくれる。それは音楽が言葉よりもさらに根元的で感情的な言語であるからだ。

「VIDE MARIA」でもシャプランが歌っている言語はイタリア語らしく、私には全く経験がなかったので聴いても意味がわからなかった。時折「マリア」とか「マドンナ」とか、耳にしたことのある固有名詞がいくつかわかるくらいで、歌われているその詩の内容はまったくわからない。

十分に歌曲自体は楽しめたけれども、同じ歌曲で誰かが映像を編集し、歌詞を英訳して投稿したものが同じYOUTUBEに見つかった。それを見てこの歌で歌われているらしい意味内容を何とか理解することができたけれど、イタリア語はからきしわからないから、この「英詩」が原詩をどれだけ忠実に訳し出しているのかもわからない。

それでも、この歌の英訳らしきものを手がかりにこの歌曲の原意をたどろうと思いついた。イタリア語から英語に翻訳するのは、それらはインド・ヨーロッパ語族として同じ語系に属していて、語源や語順を本質的に同じにしているし、かつ、民族的にも近接しているから、日本語に翻訳するよりも遙かに容易で、原作に忠実に訳しやすいように思われる。

ただ日本の多くの歌謡曲をみてもわかるように、歌曲においては、そこで歌われる詩自体は必ずしも優れている必要はない。むしろ、そこでは曲に一致していることが重要であって、詩としての洗練度はあまり問われない。

詩の内容は、愛することの悩みが歌われているらしい。こうした感情は万国共通で普遍的であるからこそ、外国産のこうした歌曲も私たちの共感の呼ぶのだろうし、そこに人類としての一体感も感じることもできる。

冬の野原が詩の舞台であるようで、そこで恋に悩む娘がマリアに祈る内容になっている。いかにもカトリックの国のイタリアにふさわしい。言語には民族や国民の固有の伝統や宗教の感情が分かちがたく結びついて表現されているから、そうした伝統や宗教的感情の異なる言語には翻訳するのはむずかしい。

英訳詞は誰が訳されたのかはもちろんわからないが、簡潔な力強い語句で、深い情感を現わしている。韻などは踏まれてはいないけれども、英語の詩的表現の情感の深さ、豊かさの一端を知ることはできる。

その後、ネットで原詩を探してみると見つかった。原文はイタリア語であるらしい。ドイツ語や英語なら何とかほんの少しぐらいなら意味をとれるけれども、イタリア語については全くだめである。誰かこの言語に堪能な人に訳し出していただければうれしい。

  Vedi Maria

L'aurora, a ferir nel volto,
Serena, fra le fronde, viemme
Celato in un aspro verno
Tu viso, il sdego lo diemme

Silentio, augei d'horrore !
Or grido e pur non ô lingua...
Silentio, 'l amor mi distrugge,
Il mio sol si perde,
Guerra, non ô da far...

Vedi Maria
Vedi Maria
Ardenda in verno,
Tenir le, vorrei,
Il carro stellato !
Madonna...

In pregion, or m'â gelosia
Veggio, senza occhi miei
Il canto, ormai non mi sferra E, nuda, scalzo fra gli stecchi

Aspecto, ne pur pace trovo
E spesso, bramo di perir
Aitarme, col tan' dolce spirto
Ond'io non posso E non posso vivir...

Vedi Maria
Vedi Maria ( etc... )

Che è s'amor non è ?
Che è s'amor non è ?

Vedi Maria...
Vedi Maria...
Madonna, soccorri mi
 
 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Vedi Maria(見て、マリア)

2008年02月18日 | 芸術・文化

Vedi   Maria(見て、マリア)       Vedi   Maria  (Emma Shapplin

小枝の間から、                                    Between  the   branches  
飛び降りてきて私の顔をぶった。            Down  just   hit   my  face
そして、あなたは怒りをあらわにする。        And  anger  shows  me  yours
凍てつき、乾ききった冬。              frozen  in an   arid  winter
  静けさ。                             Silence
いやな小鳥たち。                      Birds  of  horror
私は口もきけずに叫んだ。                 I  shout  with  no  tongue
  静けさ。                         Silence
愛は私をうち砕き、                     Love  destroys  me
私のお日様もどこかに消えてしまう。        And my sun lost it's  way
だけど、私には戦いを挑む気持ちもない。 But  I  have  no  wish  to  wage  war
見て、マリア。                          See  Maria
見て、マリア。                          See  Maria
私は冬のさなかにも燃えているの。         I'm  burning  even  in winter
そう、私は止めたいの、               And   I    would   like  to  stop
駆けめぐる馭車座の星々を。              The  chariot  of   stars
聖母さま。                              Madonna
                      
嫉妬は私を虜にし、             Jealousy   is  holding  me  prisoner
私は眼に見ることもなく見る               And   I  see  without  eyes
この歌はもうこれ以上私を傷つけない。       This  song  hurts  me  no  more
私は裸足で走る。                       And  I  run  barefoot
野イバラの間を駆け抜けて。               among  the  brambles
私は待つけれど、安らぎを見つけられない。   I  wait  and  cannot  find  pease
ああ、どうすれば私は消えてしまえるの。       Oh  how  I  wish   could  perish
            
私はいくども叫ぶけれど、                    I  often    shaut
私は生きることも出来なければ死ぬことも出来ない。But  I  can  neither  live with
このような優しいマリアさまなくして。  Nor  live  without   Such  a  gentle  ghost
                                    
見て、マリア                           See  maria
見て、マリア                                                            See  maria

私は冬のさなかにも燃えているの。         I'm  burning  even  in winter
そう、私は止めたいの、               And  I  would  like  to stop
駆け巡る馭車座の星々を。               The  chariot  of   stars     
聖母さま。                              Madonna 

これは何?もし、これが愛でないとしたら、      What  is  this ,  if  not  love
これは何?もし、これが愛でないとしたら。      What  is  this ,  if  not  love

見て、マリア。                            See  maria
見て、マリア。                                                               See  maria
聖母さま、来て、私を救って。            Madonna     come   save  me !

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする