夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

西行

2012年04月26日 | 芸術・文化

 Saigyo Hoshi drawn by Kikuchi Yosai

西行

西行法師(菊池容斎画/江戸時代)西行(さいぎょう)、元永元年(1118年) - 文治6年2月16日(1190年3月23日)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人。 父は左衛門尉佐藤康清、母は監物源清経女。同母兄弟に仲清があり、子に隆聖、女子(単に西行の娘と呼ばれる)がある。俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)。憲清、則清、範清とも記される。出家して法号は円位、のちに西行、大本房、大宝房、大法房とも称す。

勅撰集では『詞花集』に初出(1首)。『千載集』に18首、『新古今集』に94首(入撰数第1位)をはじめとして二十一代集に計265首が入撰。家集に『山家集』(六家集の一)『山家心中集』(自撰)『聞書集』、その逸話や伝説を集めた説話集に『撰集抄』『西行物語』があり、『撰集抄』については作者と目される。

目次
1 生涯
2 出家の動機
3 評価
4 逸話
4.1 出家
4.2 旅路において
4.2.1 源頼朝との出会い
4.3 晩年の歌
5 関連著作
6 備考
6.1 西行を題材にした作品
7 脚注
8 関連項目
9 外部リンク

1 生涯

秀郷流武家藤原氏の出自で、藤原秀郷の9代目の子孫。佐藤氏は義清の曽祖父公清の代より称し、家系は代々衛府に仕え、また紀伊国田仲荘の預所に補任されて裕福であった。16歳ごろから徳大寺家に仕え、この縁で徳大寺実能や公能と親交を結ぶこととなる。保延元年(1135年)18歳で左兵衛尉(左兵衛府の第三等官)に任ぜられ、同3年(1137年)に鳥羽院の北面武士としても奉仕していたことが記録に残る。和歌と故実に通じた人物として知られていたが、保延6年(1140年)23歳で出家して円位を名のり、後に西行とも称した。

出家後は心のおもむくまま諸所に草庵をいとなみ、しばしば諸国をめぐり漂泊の旅に出て、多くの和歌を残した。

出家直後は鞍馬山などの京都北麓に隠棲し、天養元年(1144年)ごろ奥羽地方へ旅行し、久安4年(1149年)前後に高野山(和歌山県高野町)に入る。

仁安3年(1168年)に中四国への旅を行った。このとき讃岐国の善通寺(香川県善通寺市)でしばらく庵を結んだらしい。讃岐国では旧主・崇徳院の白峰陵を訪ねてその霊を慰めたと伝えら、これは後代に上田秋成によって『雨月物語』中の一篇「白峰」に仕立てられている。なお、この旅では弘法大師の遺跡巡礼も兼ねていたようである。

後に高野山に戻るが、治承元年(1177年)に伊勢国二見浦に移った。文治2年(1186年)に東大寺再建の勧進を奥州藤原氏に行うため2度目の奥州下りを行い、この途次に鎌倉で源頼朝に面会したことが『吾妻鏡』に記されている。

伊勢国に数年住まったあと、河内国の弘川寺(大阪府河南町)に庵居し、建久元年(1190年)にこの地で入寂した。享年73。かつて「願はくは花の下にて春死なん、そのきさらぎの望月のころ」と詠んだ願いに違わなかったとして、その生きざまが藤原定家や僧慈円の感動と共感を呼び、当時名声を博した。

2 出家の動機

友人の急死説
現在、主流となっている説。「西行物語絵巻」(作者不明、二巻現存。徳川美術館収蔵)では、親しい友の死を理由に北面を辞したと記されている。

失恋説
『源平盛衰記』に、高貴な上臈女房と逢瀬をもったが「あこぎ」の歌を詠みかけられて失恋したとある。
近世初期成立の『西行の物かたり』(高山市歓喜寺蔵)には、御簾の間から垣間見えた女院の姿に恋をして苦悩から死にそうになり、女院が情けをかけて一度だけ逢ったが、「あこぎ」と言われて出家したとある。この女院は、西行出家の時期以前のこととすれば、白河院の愛妾にして(※ウィキペディア(Wikipedia)の記者はこのように書かれていますが、通常の意義での「愛妾」であったかどうかは、確証されているものではないと思います。)鳥羽院の中宮であった待賢門院璋子であると考えられる。
瀬戸内寂聴は自著『白道』の中で待賢門院への失恋説をとっているが、美福門院説もあるとしている。しかし、この典拠は不明である。
五味文彦『院政期社会の研究』(1984年)では恋の相手を上西門院に擬しているが、根拠薄弱である。

3 評価

『後鳥羽院御口伝』に「西行はおもしろくてしかも心ことに深く、ありがたく出できがたきかたもともにあひかねて見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。おぼろげの人、まねびなどすべき歌にあらず。不可説の上手なり」とあるごとく、藤原俊成とともに新古今の新風形成に大きな影響を与えた歌人であった。

歌風は率直質実を旨としながら、つよい情感をてらうことなく表現するもので、季の歌はもちろんだが恋歌や雑歌に優れていた。院政前期から流行しはじめた隠逸趣味、隠棲趣味の和歌を完成させ、研ぎすまされた寂寥、閑寂の美をそこに盛ることで、中世的叙情を準備した面でも功績は大きい。

また俗語や歌語ならざる語を歌の中に取り入れるなどの自由な詠み口もその特色で、当時の俗謡や小唄の影響を受けているのではないかという説もある。後鳥羽院が西行をことに好んだのは、こうした平俗にして気品すこぶる高く、閑寂にして艶っぽい歌風が、彼自身の作風と共通するゆえであったのかもしれない。

和歌に関する若年時の事跡はほとんど伝わらないが、崇徳院歌壇にあって藤原俊成と交を結び、一方で俊恵が主催する歌林苑からの影響をも受けたであろうことはほぼ間違いないと思われる。出家後は山居や旅行のために歌壇とは一定の距離があったようだが、文治3年(1187年)に自歌合『御裳濯河歌合』を成して俊成の判を請い、またさらに自歌合『宮河歌合』を作って、当時いまだ一介の新進歌人に過ぎなかった藤原定家に判を請うたことは特筆に価する(この二つの歌合はそれぞれ伊勢神宮の内宮と外宮に奉納された)。

しばしば西行は「歌壇の外にあっていかなる流派にも属さず、しきたりや伝統から離れて、みずからの個性を貫いた歌人」として見られがちであるが、これはあきらかに誤った西行観であることは強調されねばならない。あくまで西行は院政期の実験的な新風歌人として登場し、藤原俊成とともに『千載集』の主調となるべき風を完成させ、そこからさらに新古今へとつながる流れを生み出した歌壇の中心人物であった。

後世に与えた影響はきわめて大きい。後鳥羽院をはじめとして、宗祇・芭蕉にいたるまでその流れは尽きない。特に室町時代以降、単に歌人としてのみではなく、旅のなかにある人間として、あるいは歌と仏道という二つの道を歩んだ人間としての西行が尊崇されていたことは注意が必要である。宗祇・芭蕉にとっての西行は、あくまでこうした全人的な存在であって、歌人としての一面をのみ切取ったものではなかったし、『撰集抄』『西行物語』をはじめとする「いかにも西行らしい」説話や伝説が生まれていった所以もまたここに存する。例えば能に『江口』があり、長唄に『時雨西行』があり、あるいはごく卑俗な画題として「富士見西行」があり、各地に「西行の野糞」なる口碑が残っているのはこのためである。

4 逸話

4.1 出家
出家の際に衣の裾に取りついて泣く子(4歳)を縁から蹴落として家を捨てたという逸話が残る[1]。

                                                                  

4.2 旅路において

各地に「西行戻し」と呼ばれる逸話が伝えられている。共通して、現地の童子にやりこめられ恥ずかしくなって来た道を戻っていく、というものである。
松島「西行戻しの松」
秩父「西行戻り橋」
日光「西行戻り石」
甲駿街道「西行峠」
紀州宇久井村(現在の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町宇久井村)での歌
「目覚山下す有らしのはげしくて 高根の松は寝入らざりけり」
高野山にて修行中、人恋しさの余り人骨を集めて秘術により人間を作ろうとしたが、心の通わぬ化け物が出来上がったため恐ろしくなり、人の通わぬ所にうち棄てて逃げ帰ったという逸話がある。このように、西行の逸話にはその未熟さを伺わせるものが多く存在する。

4.2.1 源頼朝との出会い

頼朝に弓馬の道のことを尋ねられて、一切忘れはてたととぼけたといわれている。
頼朝から拝領した純銀の猫を、通りすがりの子供に与えたとされている。

4.3 晩年の歌
以下の歌を生前に詠み、その歌のとおり、陰暦2月16日、釈尊涅槃の日に入寂したといわれている。

ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ (山家集)

ねかはくは はなのもとにて 春しなん そのきさらきの 望月の比 (続古今和歌集)

花の下を“した”と読むか“もと”と読むかは出典により異なる。なお、この場合の花とは桜のことである。国文学研究資料館 電子資料館において続古今和歌集の原典を実際に画像で閲覧できる。詳しくはそちらを参照。

5 関連著作

『山家集 新潮日本古典集成』 後藤重郎校注、新潮社
『新訂 山家集』 佐佐木信綱校訂 岩波文庫 同ワイド版
『山家集』 風巻景次郎校注 日本古典文学大系29、岩波書店
『山家集』 伊藤嘉夫校註 日本古典全集・第一書房 1987年
『西行法師全歌集』 伊藤嘉夫編 第一書房 1987年
『西行全集』 久保田淳編 日本古典文学会、貴重本刊行会、1990年
『新訂増補 西行全集』 尾山篤二郎編著、五月書房、1978年
『西行全集』全2巻 伊藤嘉夫、久曾神昇編、ひたく書房、1981年
『西行物語』 桑原博史訳注、講談社学術文庫 1981年
『西行物語絵巻』 小松茂美編 〈日本の絵巻19〉 中央公論社
『新訳 西行物語』 宮下隆二訳 選書版:PHP研究所 2008年
『絵巻=西行物語絵』 千野香織編 〈日本の美術416号〉 至文堂 2000年

6 備考

西行庵(吉野山)西行庵 - 西行が結んだとされる庵は複数あるが、京都の皆如庵は明治26年(1893年)に、当時の庵主・宮田小文法師と富岡鉄斎によって、再建されて現在も観光名所として利用されている。その他にも、吉野山にある西行庵跡が有名である。
高杉晋作 - 「西へ行く人を慕うて東行く 我が心をば神や知るらむ」と歌い、東行と号した。ここでいう西へ行く人とは、他ならぬ西行を表している。一方、西行に敬意を払う高杉自身は東にある、将軍のお膝元の江戸幕府討伐を目指した。
6.1 西行を題材にした作品
[能 ]
江口
西行桜
[落語]
西行
西行鼓ヶ滝
[長唄]
時雨西行
[義太夫節]
軍兵富士見西行
[文学作品]
上田秋成『雨月物語』「白峯」
幸田露伴「二日物語」(全集第5巻)
白洲正子『西行』ISBN 4101379025
瀬戸内寂聴『白道』ISBN 4062638819
辻邦生『西行花伝』ISBN 4101068100
火坂雅志『花月秘拳行』ISBN 4043919050
中津文彦『闇の弁慶―花の下にて春死なむ』 ISBN 978-4396630164
[テレビドラマ]
平清盛 - NHK大河ドラマ。主人公・平清盛と出家前の西行(演:藤木直人)が親友だったという設定。本作においては、西行の出家の原因を、待賢門院璋子との愛憎劇によるものとしている。

7 脚注
[1]史実かどうかは不明だが、仏教説話としてオーバーに表現されている面はありうる。

8 関連項目

似雲
西行の娘
木下勝俊(木下長嘯子) - 最晩年、西行出家の寺の近くの寺、勝持寺に居を構えた。
「ペテロ」勝俊こと長嘯子の作風は、近世初期における歌壇に新境地を開いたものとも言われ、その和歌は俳諧師・松尾芭蕉にも少なからぬ影響を与えた。
奥の細道#福井あわら市 吉崎

9 外部リンク

西行の研究http://www.d4.dion.ne.jp/~happyjr/x_entrance.htm
山家集の研究http://sanka11.sakura.ne.jp/
digital西行庵http://www.saigyo.org/

10カテゴリ:

 佐藤氏   平安時代の武士  日本の僧  平安時代の歌人  鎌倉時代の歌人
 1118年生  1190年没

出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E8%A5%BF%E8%A1%8C&oldid=42074888
「西行」の項より※一部改変してあります。真言僧と神道の統一を一身に体現した人間として考察してみたい。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

4月25日(水)のTW:#原子力潜水艦、#アメリカ軍、#日高義樹、#小川和久、#軍事

2012年04月26日 | 政治・経済

22:29 from web
軍事評論家、小川和久氏のツイッターにフォローしたのに関連して、日高義樹のレポートをYOUTUBEで見ている。少し古い2007年のレポートだけれども、アメリカ軍事力とその世界戦略の一端を知る参考にはなる。>><「アメリカ軍最新式原子力潜水艦」youtube.com/watch?v=W3evQL…

by soratine on Twitter

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヘラクレイトス

2012年04月24日 | 哲学一般

ラファエロ作『アテナイの学堂』に見るヘラクレイトス・中央の階段左付近で考え事をしている。ただ人物のモデルは、ミケランジェロといわれている。ヘラクレイトス(Ηράκλειτος Hērakleitos、 紀元前540年頃 - 紀元前480年頃?)は、ギリシア人の哲学者、自然哲学者。

ヘラクレイトス 

時代   古代ギリシャ
地域   古代ギリシャ

学派
特定の学派には属していなかったと考えられているが、後に支持者は「ヘラクレイトス派」となった。
研究分野
 形而上学、認識論、倫理学、政治
主な概念    ロゴス、流転 ※概念、Werden、成、生成

影響を与えた人物

パルメニデス、プラトン、アリストテレス、ヘーゲル、ニーチェ、ハイデッガー、ホワイトヘッド、カール・ポパー、その他大勢 
 
 
目次

1 生涯
2 著作
3 思想
4 言葉
5 参考文献
6 関連項目
7 外部リンク

1 生涯

エペソスで生まれた。王族の家系に生まれたという説があるが詳細は不明である。父はプロソンまたはヘラコンという。ヘラクレイトスがエペソスの貴族階級に属したことはおそらく間違いがない。政治に関しては民主制を軽蔑し、貴族制の立場を取った。誇り高い性格の持ち主で、友人のヘルモドロスがエペソスの民衆により追放されたことに怒り、政治から手を引いた。ディオゲネス・ラエルティオスによれば、のちにエペソスの人は国法の制定をヘラクレイトスに委託したが、ヘラクレイトスは友人を追放したエペソスの国制を悪しきものとみて、かかわることを拒否した。そしてアルテミス神殿に退いて子どもたちとサイコロ遊びに興じたため、人々が不審に思い理由を尋ねると「おまえたちと政治に携わるより、このほうがましだ」と答えたという。水腫に罹り、医者に見せることを拒んで、自分で治療を試みたが死んだと伝えられる。

2 著作

著書といわれる『自然について』は現存せず、引用によってのみ断片が伝わる。この書は『万有について』『政治について』『神学について』の三書を総合したものであるともいわれる。

 3 思想

アナクシマンドロスから対立と変化、ピュタゴラスからは調和の考えを受け継いだ(ピュタゴラスに対しては、しかし、いかさま師であると述べている)。

万物は流転していると考え、自然界は絶えず変化していると考えた。しかし一方で、その背後に変化しないもの、ロゴスを見ている。ヘラクレイトスはまたロゴスは火であるといった。変化と闘争を万物の根源とし、火をその象徴としたのである。燃焼は絶えざる変化であるが、常に一定量の油が消費され、一定の明るさを保ち、一定量の煤がたまるなど、変化と保存が同時進行する姿を示している。そしてこの火が万物のアルケーであり、水や他の物質は火から生ずると述べられる。

ただし、これらの考え方におけるアルケーの概念は、「万物のアルケーは水である」としたタレスなどのそれとは異なっている。この「生成」の思想は、パルメニデスの「存在」の思想としばしば対立するものとして見られてきた。もっとも、井筒俊彦によれば、実際には同じ事柄(形而上学における根源的な部分)を異なる面から述べているにすぎないという(『井筒俊彦全集1 神秘哲学』参照)。

ヘラクレイトスの言葉としては、プラトンが引用している「万物は流転する」(Τα Πάντα ῥεῖ (Ta Panta rhei). "everything flows" )がもっともよく知られているが、実際のヘラクレイトスの著作断片にこの言葉はなく(あるいは失われ)、後世の人が作った言葉であるともいわれる。「同じ河に二度入ることはできない」などの表現にその意味合いが含まれていると思われる(疑義もある)。また、「万物は一である」とも「一から万物が生まれる」とも述べ、哲学史上初めて、「根源的な一者」と「多くの表面的なもの」との関連を打ち出した人物としても注目されている。

その著作の難解さと厭世観から「暗い哲学者」、あるいは、「泣く哲学者」と呼ばれる。また、ヘーゲルなどの思想の源流として、弁証法の始まりを担う人としても考えられている。

 4 言葉

ロゴスはこのようなものとしてあるが、人間はそれを理解しない。(断片1)
互いに異なるものからもっとも美しいものが生じる。万物は争いより生じる。(断片8)
博識は分別を教えない。(断片40)
火は土の死により、空気は火の死により、水は空気の死により、土は水の死による。(断片76)
大多数は悪党であり、すぐれたものは少数。(断片104)
自然は隠れることをこのむ。(断片123)
万事に渡り、運命による定めがある。(断片136)

上記はディールス=クランツ『ソクラテス以前の哲学者断片集』「ヘラクレイトス B」1951年による。

5 参考文献

ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝(下)』岩波文庫(岩波書店)
 ISBN 4003366336
6 関連項目

レオロジー
 7 外部リンク
 ウィキメディア・コモンズには、ヘラクレイトスに関連するメディアがあります。
(百科事典)「Heraclitus」 - インターネット哲学百科事典にある「ヘラクレイトス」についての項目。(英語)
(百科事典)「Heraclitus」 - スタンフォード哲学百科事典にある「ヘラクレイトス」についての項目。(英語)

 出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「ヘラクレイトス」の項
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%88%E3%82%B9

※一部、改変してあります。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

図書館検索サイト

2012年04月09日 | 教育・文化

 

「カーリル」という図書館検索サイトがある。それによって、ほとんど日本全国の、どこの図書館に、どのような本があるか、即座にわかるし、また貸し出しの予約も簡単にできるようになっている。とても便利になったと思う。

カーリル
http://calil.jp/

インターネットの普及にする時代になって、たしかに多くの点で実に便利になった。世界中の情報が、世界中の新聞や図書など、もちろん玉石混淆、いかがわしいものから、世界中の古典や名著、珠玉の作品に至るまで、家に居ながらにして閲覧できるようになった。このような情報社会の進展、科学技術の進展こそがもっとも強力な社会変革の条件をなすのだと思う。社会の経済的な基礎的な条件の、マルクス流に言えば「下部構造」の変革に比べれば、特定の個人や思想家、哲学者などの思想は、その社会変革に与えるインパクトも取るに足らない微弱なものでしかないのかもしれない。

一昔も前になるけれども、西尾幹二氏らが「新しい教科書を作る会」等を組織して、いわゆる「自虐史観」の克服を訴えておられた頃、千葉県舟橋市にある公共図書館で、そこに勤務する司書が西尾幹二氏らいわゆる「右派」とされる人たちの著書、図書を一括して廃棄したとして、裁判所に訴えられるという事件があった。

「最高裁(第一小法廷)平成17年07月14日判決」
〔憲法・公共施設・国賠1条-公立図書館司書による特定書籍廃棄と著者の権利/船橋西図書館〕
http://www.hiraoka.rose.ne.jp/C/050714S1.htm

「船橋焚書事件」
http://homepage2.nifty.com/busidoo/Shihou/funnsyo9.htm

たしかに公共の図書館というのは、特定の思想、党派、宗教に偏在することなく、機会均等の全面的な情報開示を原則とすべきだろう。たとい個人がどのような思想的立場にあるとしても、憲法によっても思想信条の自由や、宗教、学問の自由が保障されているように、公共の施設のあり方としては、あくまで公平で公正な図書閲覧の機会均等が保障されるべきだと思う。そうしてこそ、歪められることなく真理が顕らかにされる社会が構成されるのだと思う。

このうような図書検索システムが公衆に広く明らかにされ、その使用も公開されることは、そういった点からも、情報公開の原則と市民的な自由と拡大、強化に、さらに役立つことだろうと思う。

閉塞する時代には、進歩的な歴史観というのは概して軽蔑されがちだけれども、科学技術の、とくに情報技術の発展にともなって情報の開示の原則が深まり、さらに普遍的なものとなりつつあることは、その多くの否定的な側面を乗り越えて、明らかに肯定的に評価できるものだと思う。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする