夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

「山家集」私的註釈864

2019年06月24日 | 芸術・文化

 

「山家集」私的註釈864

こころざすことありて、扇を仏にまゐらせけるに、院より賜はりけるに、女房受けたまはりて、包紙に書きつけられける

864
ありがたき  法にあふぎの  風ならば  
    心の塵を  払へとぞ思ふ

仏道修行を思い立って、扇を仏様に献上しようとした折に、崇徳院から扇を賜りましたが、女房がそれをお受け取りになって、包紙に歌をお書きつけになられました

864
ありがたい仏法に出会うためにいただいた扇であおいだ風であるならば
   積もり積もった心の埃をお払いになったらよろしいかと思います


西行の和歌は単に花や雪、月などの自然の叙景や、死や別離、恋や孤独などを歌ったものばかりとは限らない。西行はまた真言僧でもあって、仏教の教えに関連する和歌も多く詠んでいる。と言うよりも正確には、西行にとって和歌を詠唱することそれ自体が、仏教の教えを実行する宗教的行為であったということができる。

 

 

 
 
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円位上人無動寺へのぼりて

2016年02月06日 | 芸術・文化

 

円位上人無動寺へのぼりて、大乗院の放ち出(はなちで)に湖を見やりて     
            
      にほ照るや 凪(な)ぎたる朝に 見わたせば 
      漕ぎゆく跡の 波だにもなし     
                        西行    
            
 帰りなんとて朝(あした)の事にてほどもありにし、今は歌と申すことは思ひ絶えたれど、結句をばこれにてこそつかうまつるべかりけれとて詠みたりしかば、ただに過ぎがたくて和し侍りし     
            
      ほのぼのと 近江の海を 漕ぐ舟の 
      跡なき方に 行く心かな     
                        慈円

円位上人(西行)が無動寺へ登った時に、大乗院にある放ち出から琵琶湖を見下ろしながら詠んだ歌、

朝凪に照り返る湖面を見渡しても、漕ぎゆく舟の跡には波さえもありません

都に帰ろうとする朝のことで時もありました。今は誓いを立てて歌を詠むということは思い絶っていましたが、最後の歌をここでこそお詠み申し上げるべきでしょうと言って円位上人がお詠みになったので、ただにお聴き過ごすこともし難く、上人に和して私もお詠みしました。

近江の湖をほのかに漕ぎわたってゆく舟の、波の跡もない方に向かって私の心も引かれ行きます 

 

 

 

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仮りの宿

2015年12月12日 | 芸術・文化

 

鞍馬山にあった石の水瓶


天王寺へまゐりけるに、雨の降りければ、江口と申す所に宿を借りけるに、貸さざりければ、


752
世の中を  いとふまでこそ  かたからめ
   仮の宿りを  惜しむ君かな

返し

753
家を出づる  人とし聞けば  仮りの宿
   心とむなと  思ふばかりぞ

(かく申して宿したりけり)

大阪の天王寺に参詣した折に、雨が降って来ましたので、神崎川の
江口と申す所で宿を借ろうとしたところ、貸さなかったので、

752

世の中を  いとふまでこそ  かたからめ
   仮の宿りを  惜しむ君かな

この世の中を 厭うほどにまで我執を離れて悟るのは難しいとしても、それにしても、あなたは一夜の宿さえお貸しになる事を惜しまれるのですね。

そうすると、応対に出た遊女と思われる宿の主らしい女が次のような歌を詠んで返しました。

753

家を出づる  人とし聞けば  仮りの宿
   心とむなと  思ふばかりぞ

この世を厭ってご出家なさった方と存じ上げますゆえ、仮の宿りに過ぎないこの遊女屋に泊まろうなど、ご執着なさらないよう思うばかりでございます。

(このように詠みつつお泊めしたそうです。)

謡曲の「江口」は、西行と遊女のこの和歌のやり取りに題材を取っている。

http://cubeaki.dip.jp/youkyoku/eguti/index.html

 

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撰集抄 巻五 第六  西行と待賢門院中納言の局が対面したこと

2015年01月14日 | 芸術・文化

 

撰集抄 巻五 第六  西行と待賢門院中納言の局が対面したこと

待賢門院に、中納言の局という女房がおられまし た。待賢門院がお亡くなりになられて後、出家剃髪して小倉山の麓に、仏道に帰依してお暮らしになっているとお聞き申し上げたので、長月のはじめの頃、かの 御室に参上し申し上げました。草深く繁っていて、行き交う道も跡絶えたように、尾花や葛の花が露に濡れて、軒にも間垣にも秋の月が澄み渡り、屋敷の前は野 辺が広がり、軒の端には山路が通っていましたので、虫の音もしみじみとして、猿の鳴き声もまことに心に寒々と響きます。荻の上を吹渡る風は枕元にも差し込 み、松の梢を吹き抜ける嵐は閨にも吹き込んで、まことに恐ろしい感じの住処でございました。

そうして、かの局と対面申し上げたときのはじめの言葉に、
「 浮き世を離れ出家し申しはじめた折りは、亡き女院のことがつねに心にかかって、ああ、どんな世界に去って行かれたのでしょうと悲しく思われ、あの人この人 のことも恋しく思われましたけれど、今はまったくに思い忘れて、つゆほども嘆く心もございません。やはり精進の甲斐がございましたのでしょうか、悲しみも 喜びも心に忘れてしまったようでございます。愚かな女の心でさえもそうですから、長年のあいだ世間を離れ、仏の道に思い立って月日を経なさったそなた様の 心の内は、どれほどに澄んでいらっしゃることでしょうね。」 とおおせられる。めったにないお気立てです。

まことに、憂きも喜びも心に忘 れてしまうのは、そのまま禅定の境地であるとは、昔の智者の言葉ですから、何とかして私も憂きも喜びも忘れてしまおうと思いましたけれど、心に思うように もならず止めることもできません。それなのにこの中納言の局は、喜びも悲しみも忘れ去ってし舞われたのでしょう、本当にこの世に一つの前世の善根を積まれ ただけでは決してないはずです。二三四五の仏様の前に多くの功徳をお植えなさったのが、ささやかな縁によって、生え出て来たにちがいありません。私は天性 劣っているといっても、世間を離れたことも、かの局よりもはるか先のことです。また、決して名利を思うことなく、ひとえに仏の道をとこそ思いますけれど、 すでにあの中納言の局のお気立てにも劣る気恥ずかしさよと思うと、帰る道すがらに、また考えることには、気臆れするように思うことこそ、悲しみ喜びの思い を断ち切れないことであると思って、また心を振り返ました。さてまたどのようにしたものかと考えあぐねて、小倉山を去り申しました。

その 後、三年ほど経って、この局が重篤の病にあることをお聞きしまたので、お見舞い申し上げようとお訪ねしましたところ、すでに息絶えなさっていた。西に向 かって掌を合わせ、威儀を正しくしてお亡くなりになっていました。憂きも喜びも心に忘れてしまったと申されたのは、真のことだったと心に刻みながら、泣く 泣く帰ったことでした。


<巻五第六 中納言局発心>http://goo.gl/0LVKD

待賢門院に、中納言 の局と云ふ女房をはしましき。女院におくれまいらせて後、さまをかへ、小倉の山の麓におこなひすましておはし侍りき。うけたまはりしかは、長月の始つか た、かの御室たとり/\罷にき。草深く茂りあひて、ゆきから道も跡たえ、尾華くす花露繁くて、のきもまかきも秋の月すみわたり、前は野へ、つまは山路なれ は、虫の音哀に、あい猿のこゑ殊に心すこし。荻の上風枕にかよひ、松の嵐閨に音信て、心すこきすみかに侍り。扨、かの局に対面申たりしに始の詞に、浮世を 出侍<り>し始つ方は、女院の御事の常には心にかけて、あわれいかなる所にか、いまそかるらんと悲く覚、誰/\の人も恋しく覚侍りしか共、いまはふつに思 忘れて、露はかり歎く心の侍らぬ也。さすか、行<ふ>かひ侍れはや、憂喜のこゝろに忘られぬるなるへし。。をろかなる女の心たにもしか也。年久く世を背、 実の道に思立て、月日重給そこの御心の中、いかにすみて侍らむとその給はせし。有難かりける心はせかな。誠に、憂喜心に忘れぬ<れ>は則是禅也と、昔智者 の詞なれは、いかにも是を忘れはやと思ひ侍れと、やゝ心と心に叶はてとめやらぬに、此局のわすられけん、けに此世一の宿善をうへ給へるか、聊の縁により て、おい出ぬる成へし。我はつたなしといゑ共、世をそむく事も、彼局よりは遥のさき也。又都名利をおもはす、偏仏の道にとこそ思ひ侍れ共、はや、彼局の心 はせにもおとり侍りぬるはつかしさよと思ひ、帰る道すから、又案するやうは、はつかしさ思ふこそ、憂喜の忘れぬなれと思ひとりぬ。帰て心を<物>たつれ は、さては又いかゝせむと思ひかねて、小倉山を出侍り。又其後、三とせ経て後、此局おもく煩ふよし承り侍りしかは、訪も聞えんとて罷たりしかは、はやいき 終にけり。西に向き掌を会<合>、威儀を乱すして終にけり。憂喜の心に忘れたりと侍りしは、実にて侍りけりと思定て、泣/\かへりにき。

 

  紅葉紀行(3)待賢門院璋子――青女の滝

 

 

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ゆかりにつけてもの思ひける人の

2013年09月12日 | 芸術・文化

 

ゆかりにつけてもの思ひける人の

ゆかりにつけてもの思ひける人の許より、などかとはざらんと、恨み遣はしたりける返事に

803     あはれとも    心に思ふ    ほどばかり
      言はれぬべくは    とひこそはせめ 

親類縁者を亡くして悲しんでいる人の許から、どうしてお悔やみに来てくださらないのですか、と恨み言を送ってきた返事に、

  ただお気の毒と  心の中に思う  ばかりです
      言葉に出して言ってしまえるぐらいなら   
      すぐにでもお訪ねしましたものを

残 念ながら資料がなくて、西行にとってどのような関係の人から送られてきた手紙に対する返歌だったのかはわからない。手紙の送り主が、女性だったのか男性 だったのかもわからない。ゆかりの人といっても、その悲しみの深さから身近な肉親であったらしい。その手紙の送り主ばかりでなく、亡くなったその人は生前 西行にとっても親しかったと思われる。手紙を遣わした人と同じように西行も悲しんでいたのだ。

誰にでも避けることなく訪れる死、この絶対的な制約の中に人は生きざるをえない。送る人も送られ、悲しむ人も悲しまれる。これは定められた人間の性でもある。西行の悲しみは三十一文字に刻まれてある。

はかなくなりて年経にける人の文を、 ものの中より見出して、女に侍りける人の許へ遣はすとて

804    涙をや  しのばん人は  ながすべき
   あわれに見ゆる  水茎の跡

亡くなられてすでに久しいある人から送られた手紙を、たまたま見つけだして、その人の娘であった人の許に、ご覧に入れようとお送りした折りに

   涙を  お父様を偲んでおられるあなたは
   流されるでしょうね  昔なつかしい 
   その筆跡をご覧になって

故人の手紙をいまさらその娘の許に送ることによって、娘がまた涙を流し悲しむことを西行は知っている。しかし、その深い悲しみの涙は彼女にとって慰めにもなったにちがいない。

 

 

 

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万葉考(1)

2012年06月08日 | 芸術・文化

万葉考(1)

天皇遊猟蒲生野時額田王作歌

二〇  あかねさす  紫野逝き  標野行き
                   野守は見ずや  君が袖振る

                       額田王

あかね草の植わった、紫野を過ぎて、私たちは御門の猟場にまで来ましたが
野を見張る番人は見とがめないでしょうか、あなたが私に向かって袖を振るのを。

皇太子答御歌  明日香宮御宇天皇諡曰天武天皇

二一  紫の  にほえる妹を  にくくあらば
                   人妻ゆゑに  われ恋ひめやも

                        天武天皇

紫の色の匂うような、高貴な美しさを秘めたあなたを、もし憎らしく思うのであれば
人の妻であるあなたを、私が恋しく思うでしょうか。

日々の生活に追われていると、万葉集をひもとくなどということは、なかなか思いもつかない。それでも、何かの折りに、昔に学校などで習った万葉集のいくつかの歌がふと頭をよぎって思い出されることがある。

私たちが生活のなかで繰り広げるさまざまな行動や、そこで出会うさまざまな体験、またそれらを通じて湧き起こってくる感情や思念が、かって過去において経験したことと重なることも多々ある。それを記憶が教えるとき、そうした現象は「デジャブ」とか「既視感」とも言われる。

過去の経験といっても、それは必ずしも私たちの現実に体験したことばかりとは限らない。単なる個人的な経験を越えるものであることも少なくない。詩歌、演劇その他の芸術を通じて疑似体験したこと、そうした無数の「経験」をも記憶に留めてもいるからである。それは学校教育などに典型的に見られるような、言語などと象徴的に結びついた文化環境でもある。

日々の暮らしのなかで引き起こされる情感は、すべて個別的で特殊な情感であるとしても、同時にそれらはまた、古代人の体験したものと同じ体験、同じ表象、そこから湧き出る同じ感情であることも多い。その思念や情感は現代人にも共通する普遍的なものでありうる。だからこそ万葉集などに記録された感情や思念は、今に生きる私たちの記憶や表象において蘇る。さもなければ、一五〇〇年も前の詩歌に共感を覚えるはずはない。

男と女が存在していて、互いに面識があり、それどころか袖を振りあって自らの存在を相手に知らしめようとするほどに、お互いに親近感を持っている。それは単なる親近感以上の恋愛感情にまで深まっている。

二〇番の「あかねさす」の歌には「天皇の蒲生野におん狩りせられし時に、額田王の詠める歌」という前書きが付せられている。このことからも、この和歌の背景には帝の狩りの行幸のあったことがわかる。しかし、この和歌が果たして実際の狩りの途中に詠まれたものか、あるいは、その後の宴の中かどこかで、狩りの記憶を留めながら詠まれたのかどうかを実証することはむずかしいと思う。しかし、いずれにしても、狩りの御幸のさなかに交わされた男と女の感情の交流がこの歌の主題であり、その折りの繊細な情感が和歌として象徴化されているという真実には変わりがない。

額田王が天智天皇と大海人皇子の二人の男性から実際に愛されたかどうかは、この歌の本質には係わらない。ここでは身分の差を超えて、世の中の男と女の常として、二人の異性から同時に思いを寄せられることのあったことさえわかればいい。それはいつでもどこでも、誰にでも普遍的に共有される感情でもある。しかし、それが身分や近親関係その他の社会的な禁忌に触れる場合、その感情の抑制はいっそう深刻なものとなる。

個人の自然的で自由な欲望も、社会という共同性の中に生きるという宿命のなかで、それが往々にして悲劇的な結末に至るということも少なくない。この歌に続く天武天皇の「紫の・・・」の応答歌の中に「人妻ゆゑに」という一句があることによって、紛れもなく疑う余地のないものとなっている。

額田王のこの詠唱は、そのような状況におかれた女性の不安と歓び、動揺と怖れなど入り混ざった複雑で微妙で繊細な、矛盾しあう感情の美しい表出となっている。額田王のこの不安は、やがてこの歌を詠じた大海人皇子(後の天武天皇)が、兄である天智天皇の崩御ののち、その皇子であり甥でもあった大友皇子と皇位をめぐって争い、敗れた大友の皇子は自害することになる。額田王の詠唱に見られる不安なおののきも、672年に起きた古代の内乱、「壬申の乱」と無関係とは言えないかもしれない。

万葉集に収めれた和歌は古代の日本人の思考や感情の記録を留めるもので、それらのより純粋な始源としての価値は揺るがない。仏教や儒教など人為的な道徳感情や形而上学にもいまだ冒されてはおらず、日本人の意識にそれらが深く浸透する以前の、素朴な古代人の純情が保存されている。貴族たちの技巧と洗練で作歌された新古今和歌集などの詠唱と比べれば、それは歴然としている。万葉集は天真爛漫で素朴な感情が滾々と湧き出ずる清流の源泉ともいえる。

現代人の思考や感情は複雑で紆余曲折があって、それが二重化された自意識の大人の産物であるとすれば、万葉人のそれは、まだ少年のように一面的で、それだけに単純で素朴である。また言語としての日本語の純粋さや原点を思い起こすときにも、万葉集は常に立ち還るべき原風景であり故郷でもある。また、日本の古代史探究の上でも興味は尽きない。

 

 

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西行

2012年04月26日 | 芸術・文化

 Saigyo Hoshi drawn by Kikuchi Yosai

西行

西行法師(菊池容斎画/江戸時代)西行(さいぎょう)、元永元年(1118年) - 文治6年2月16日(1190年3月23日)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人。 父は左衛門尉佐藤康清、母は監物源清経女。同母兄弟に仲清があり、子に隆聖、女子(単に西行の娘と呼ばれる)がある。俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)。憲清、則清、範清とも記される。出家して法号は円位、のちに西行、大本房、大宝房、大法房とも称す。

勅撰集では『詞花集』に初出(1首)。『千載集』に18首、『新古今集』に94首(入撰数第1位)をはじめとして二十一代集に計265首が入撰。家集に『山家集』(六家集の一)『山家心中集』(自撰)『聞書集』、その逸話や伝説を集めた説話集に『撰集抄』『西行物語』があり、『撰集抄』については作者と目される。

目次
1 生涯
2 出家の動機
3 評価
4 逸話
4.1 出家
4.2 旅路において
4.2.1 源頼朝との出会い
4.3 晩年の歌
5 関連著作
6 備考
6.1 西行を題材にした作品
7 脚注
8 関連項目
9 外部リンク

1 生涯

秀郷流武家藤原氏の出自で、藤原秀郷の9代目の子孫。佐藤氏は義清の曽祖父公清の代より称し、家系は代々衛府に仕え、また紀伊国田仲荘の預所に補任されて裕福であった。16歳ごろから徳大寺家に仕え、この縁で徳大寺実能や公能と親交を結ぶこととなる。保延元年(1135年)18歳で左兵衛尉(左兵衛府の第三等官)に任ぜられ、同3年(1137年)に鳥羽院の北面武士としても奉仕していたことが記録に残る。和歌と故実に通じた人物として知られていたが、保延6年(1140年)23歳で出家して円位を名のり、後に西行とも称した。

出家後は心のおもむくまま諸所に草庵をいとなみ、しばしば諸国をめぐり漂泊の旅に出て、多くの和歌を残した。

出家直後は鞍馬山などの京都北麓に隠棲し、天養元年(1144年)ごろ奥羽地方へ旅行し、久安4年(1149年)前後に高野山(和歌山県高野町)に入る。

仁安3年(1168年)に中四国への旅を行った。このとき讃岐国の善通寺(香川県善通寺市)でしばらく庵を結んだらしい。讃岐国では旧主・崇徳院の白峰陵を訪ねてその霊を慰めたと伝えら、これは後代に上田秋成によって『雨月物語』中の一篇「白峰」に仕立てられている。なお、この旅では弘法大師の遺跡巡礼も兼ねていたようである。

後に高野山に戻るが、治承元年(1177年)に伊勢国二見浦に移った。文治2年(1186年)に東大寺再建の勧進を奥州藤原氏に行うため2度目の奥州下りを行い、この途次に鎌倉で源頼朝に面会したことが『吾妻鏡』に記されている。

伊勢国に数年住まったあと、河内国の弘川寺(大阪府河南町)に庵居し、建久元年(1190年)にこの地で入寂した。享年73。かつて「願はくは花の下にて春死なん、そのきさらぎの望月のころ」と詠んだ願いに違わなかったとして、その生きざまが藤原定家や僧慈円の感動と共感を呼び、当時名声を博した。

2 出家の動機

友人の急死説
現在、主流となっている説。「西行物語絵巻」(作者不明、二巻現存。徳川美術館収蔵)では、親しい友の死を理由に北面を辞したと記されている。

失恋説
『源平盛衰記』に、高貴な上臈女房と逢瀬をもったが「あこぎ」の歌を詠みかけられて失恋したとある。
近世初期成立の『西行の物かたり』(高山市歓喜寺蔵)には、御簾の間から垣間見えた女院の姿に恋をして苦悩から死にそうになり、女院が情けをかけて一度だけ逢ったが、「あこぎ」と言われて出家したとある。この女院は、西行出家の時期以前のこととすれば、白河院の愛妾にして(※ウィキペディア(Wikipedia)の記者はこのように書かれていますが、通常の意義での「愛妾」であったかどうかは、確証されているものではないと思います。)鳥羽院の中宮であった待賢門院璋子であると考えられる。
瀬戸内寂聴は自著『白道』の中で待賢門院への失恋説をとっているが、美福門院説もあるとしている。しかし、この典拠は不明である。
五味文彦『院政期社会の研究』(1984年)では恋の相手を上西門院に擬しているが、根拠薄弱である。

3 評価

『後鳥羽院御口伝』に「西行はおもしろくてしかも心ことに深く、ありがたく出できがたきかたもともにあひかねて見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。おぼろげの人、まねびなどすべき歌にあらず。不可説の上手なり」とあるごとく、藤原俊成とともに新古今の新風形成に大きな影響を与えた歌人であった。

歌風は率直質実を旨としながら、つよい情感をてらうことなく表現するもので、季の歌はもちろんだが恋歌や雑歌に優れていた。院政前期から流行しはじめた隠逸趣味、隠棲趣味の和歌を完成させ、研ぎすまされた寂寥、閑寂の美をそこに盛ることで、中世的叙情を準備した面でも功績は大きい。

また俗語や歌語ならざる語を歌の中に取り入れるなどの自由な詠み口もその特色で、当時の俗謡や小唄の影響を受けているのではないかという説もある。後鳥羽院が西行をことに好んだのは、こうした平俗にして気品すこぶる高く、閑寂にして艶っぽい歌風が、彼自身の作風と共通するゆえであったのかもしれない。

和歌に関する若年時の事跡はほとんど伝わらないが、崇徳院歌壇にあって藤原俊成と交を結び、一方で俊恵が主催する歌林苑からの影響をも受けたであろうことはほぼ間違いないと思われる。出家後は山居や旅行のために歌壇とは一定の距離があったようだが、文治3年(1187年)に自歌合『御裳濯河歌合』を成して俊成の判を請い、またさらに自歌合『宮河歌合』を作って、当時いまだ一介の新進歌人に過ぎなかった藤原定家に判を請うたことは特筆に価する(この二つの歌合はそれぞれ伊勢神宮の内宮と外宮に奉納された)。

しばしば西行は「歌壇の外にあっていかなる流派にも属さず、しきたりや伝統から離れて、みずからの個性を貫いた歌人」として見られがちであるが、これはあきらかに誤った西行観であることは強調されねばならない。あくまで西行は院政期の実験的な新風歌人として登場し、藤原俊成とともに『千載集』の主調となるべき風を完成させ、そこからさらに新古今へとつながる流れを生み出した歌壇の中心人物であった。

後世に与えた影響はきわめて大きい。後鳥羽院をはじめとして、宗祇・芭蕉にいたるまでその流れは尽きない。特に室町時代以降、単に歌人としてのみではなく、旅のなかにある人間として、あるいは歌と仏道という二つの道を歩んだ人間としての西行が尊崇されていたことは注意が必要である。宗祇・芭蕉にとっての西行は、あくまでこうした全人的な存在であって、歌人としての一面をのみ切取ったものではなかったし、『撰集抄』『西行物語』をはじめとする「いかにも西行らしい」説話や伝説が生まれていった所以もまたここに存する。例えば能に『江口』があり、長唄に『時雨西行』があり、あるいはごく卑俗な画題として「富士見西行」があり、各地に「西行の野糞」なる口碑が残っているのはこのためである。

4 逸話

4.1 出家
出家の際に衣の裾に取りついて泣く子(4歳)を縁から蹴落として家を捨てたという逸話が残る[1]。

                                                                  

4.2 旅路において

各地に「西行戻し」と呼ばれる逸話が伝えられている。共通して、現地の童子にやりこめられ恥ずかしくなって来た道を戻っていく、というものである。
松島「西行戻しの松」
秩父「西行戻り橋」
日光「西行戻り石」
甲駿街道「西行峠」
紀州宇久井村(現在の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町宇久井村)での歌
「目覚山下す有らしのはげしくて 高根の松は寝入らざりけり」
高野山にて修行中、人恋しさの余り人骨を集めて秘術により人間を作ろうとしたが、心の通わぬ化け物が出来上がったため恐ろしくなり、人の通わぬ所にうち棄てて逃げ帰ったという逸話がある。このように、西行の逸話にはその未熟さを伺わせるものが多く存在する。

4.2.1 源頼朝との出会い

頼朝に弓馬の道のことを尋ねられて、一切忘れはてたととぼけたといわれている。
頼朝から拝領した純銀の猫を、通りすがりの子供に与えたとされている。

4.3 晩年の歌
以下の歌を生前に詠み、その歌のとおり、陰暦2月16日、釈尊涅槃の日に入寂したといわれている。

ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ (山家集)

ねかはくは はなのもとにて 春しなん そのきさらきの 望月の比 (続古今和歌集)

花の下を“した”と読むか“もと”と読むかは出典により異なる。なお、この場合の花とは桜のことである。国文学研究資料館 電子資料館において続古今和歌集の原典を実際に画像で閲覧できる。詳しくはそちらを参照。

5 関連著作

『山家集 新潮日本古典集成』 後藤重郎校注、新潮社
『新訂 山家集』 佐佐木信綱校訂 岩波文庫 同ワイド版
『山家集』 風巻景次郎校注 日本古典文学大系29、岩波書店
『山家集』 伊藤嘉夫校註 日本古典全集・第一書房 1987年
『西行法師全歌集』 伊藤嘉夫編 第一書房 1987年
『西行全集』 久保田淳編 日本古典文学会、貴重本刊行会、1990年
『新訂増補 西行全集』 尾山篤二郎編著、五月書房、1978年
『西行全集』全2巻 伊藤嘉夫、久曾神昇編、ひたく書房、1981年
『西行物語』 桑原博史訳注、講談社学術文庫 1981年
『西行物語絵巻』 小松茂美編 〈日本の絵巻19〉 中央公論社
『新訳 西行物語』 宮下隆二訳 選書版:PHP研究所 2008年
『絵巻=西行物語絵』 千野香織編 〈日本の美術416号〉 至文堂 2000年

6 備考

西行庵(吉野山)西行庵 - 西行が結んだとされる庵は複数あるが、京都の皆如庵は明治26年(1893年)に、当時の庵主・宮田小文法師と富岡鉄斎によって、再建されて現在も観光名所として利用されている。その他にも、吉野山にある西行庵跡が有名である。
高杉晋作 - 「西へ行く人を慕うて東行く 我が心をば神や知るらむ」と歌い、東行と号した。ここでいう西へ行く人とは、他ならぬ西行を表している。一方、西行に敬意を払う高杉自身は東にある、将軍のお膝元の江戸幕府討伐を目指した。
6.1 西行を題材にした作品
[能 ]
江口
西行桜
[落語]
西行
西行鼓ヶ滝
[長唄]
時雨西行
[義太夫節]
軍兵富士見西行
[文学作品]
上田秋成『雨月物語』「白峯」
幸田露伴「二日物語」(全集第5巻)
白洲正子『西行』ISBN 4101379025
瀬戸内寂聴『白道』ISBN 4062638819
辻邦生『西行花伝』ISBN 4101068100
火坂雅志『花月秘拳行』ISBN 4043919050
中津文彦『闇の弁慶―花の下にて春死なむ』 ISBN 978-4396630164
[テレビドラマ]
平清盛 - NHK大河ドラマ。主人公・平清盛と出家前の西行(演:藤木直人)が親友だったという設定。本作においては、西行の出家の原因を、待賢門院璋子との愛憎劇によるものとしている。

7 脚注
[1]史実かどうかは不明だが、仏教説話としてオーバーに表現されている面はありうる。

8 関連項目

似雲
西行の娘
木下勝俊(木下長嘯子) - 最晩年、西行出家の寺の近くの寺、勝持寺に居を構えた。
「ペテロ」勝俊こと長嘯子の作風は、近世初期における歌壇に新境地を開いたものとも言われ、その和歌は俳諧師・松尾芭蕉にも少なからぬ影響を与えた。
奥の細道#福井あわら市 吉崎

9 外部リンク

西行の研究http://www.d4.dion.ne.jp/~happyjr/x_entrance.htm
山家集の研究http://sanka11.sakura.ne.jp/
digital西行庵http://www.saigyo.org/

10カテゴリ:

 佐藤氏   平安時代の武士  日本の僧  平安時代の歌人  鎌倉時代の歌人
 1118年生  1190年没

出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E8%A5%BF%E8%A1%8C&oldid=42074888
「西行」の項より※一部改変してあります。真言僧と神道の統一を一身に体現した人間として考察してみたい。

 

 

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HIROSIMA MON AMOUR――広島、私の愛しい人

2010年01月31日 | 芸術・文化

 

HIROSIMA  MON AMOUR――広島、私の恋人


もうすっかり古い映画になってしまっていたが、その名前だけは聴き知っている映画というものも、決して数少なくない。先日YOUTUBEを見ていた時に、たまたまそうした映画の一つで、「HIROSIMA  MON AMOUR」が投稿されているのを発見した。アラン・ルネ監督、マルグリット・デュラス脚本作品である。時間の合間に見た。これまでもこの映画の存在自体は知っていたが、DVD版でも購入して見るほどでもないだろうと思っていた。また、フランス語など、ラテン系の言語についてはまったく盲目の私にとっては、フランス語の映画にも縁が遠かった。YOUTUBEの投稿映画には英語の字幕がついていたので、何とか映画の内容も追いかけることが出来そうなので見た。

Hiroshima Mon Amour 1/9
http://www.youtube.com/watch?v=Hgh5zH0yZXo&feature=related

この作品は、ほとんど抽象化された名前も持たない二人の男女が主人公である。この映画の邦題が「二十四時間の情事」」となっているように、フランスから来た女優と日本の建築家の男性との間の、24時間のrendez-vousをめぐって物語は展開して行く。映画の冒頭は、クローズアップされた二人の肉体の絡み合いに象徴されるエロスのなかで交わされる対話から始まる。

広島で出会った男は、フランスから来た女に向かって、「あなたは広島に来て何も見なかった」と言う。それに対して、女は「原爆博物館を四回も見学し、広島の原爆について多くの説明も聞き、まだ、原爆被害者の多くの入院している病院を訪れ、悲惨なその被害も実際に見、多くのニュースフィルムも見て、広島の原爆と戦争の現実を十分に知っている」と言う。
 
この映画の冒頭に、広島の原爆被害の記録フィルムをドキュメントとして映画の中に挟み込むことによって、この映画はドキュメントとしての性格を、先の第二次世界大戦の歴史的な記録性をも留めている。そうした歴史的な事実の上に、一人の女と男が、しかもフランスと日本という互いに遠く離れた国籍を持つ男女を関わらせることによって、この映画に、さまざまな象徴的な意味をもたせようとしている。

男と女がベッドの上で交わす会話のなかで、それぞれの過去が明らかになってくる。二人はいずれも、先の第二次世界大戦という戦争の西と東で戦われた惨劇の傷を深く心に刻んだ個人であることがわかる。女は今は女優となり、その仕事から撮影する反戦映画に出演するために広島を訪れる。広島は人類史上戦争ではじめて原子爆弾が投下された土地として、人々の意識に深く刻み込まれている。だからこそ、この女優でもある女は、いまや反戦平和の象徴ともなっている広島を訪れ男と出会う。そして、それぞれ戦争の傷を深く抱え込んだ被害者同士の出会いが、合わせ鏡のように、それぞれの心の戦争の傷を互いにさらけ出すようになる。

女は今は女優として、反戦映画にかかわっている。しかし、先の世界大戦では敵国ドイツの兵士を愛したことで、故郷ヌベールの人々から屈辱を受け、両親の家からも追い出されるようにパリに出ることによって、彼女には戦争の記憶が深いトラウマになって残っている。しかし彼女にとって故郷ヌベールの記憶は、ドイツ兵との初恋の記憶とも重なる。彼女がつらい記憶から忘れ去ろうとしていたドイツ兵は初恋の人でもあり、また、村を流れる川の岸辺の美しい土地の記憶は、同時に一方で、故郷の人人から屈辱を受け、また地下室で狂乱の日々を暮らした精神的な深い傷を残した場所でもある。

だから彼女にとって、その記憶を失うことは、苦しみから救われることでもあるが、また、ドイツ兵との初恋の思い出を記憶として喪失してしまう恐怖にもなる。いずれにしても、彼女は故郷ヌベールの刻印とそれへの憎しみの呪縛とから解放されない。たとえ、その記憶の古傷の痛みのために、表面的にはその記憶は狂気によって無理矢理に喪失させられているとしても、いつでも、どこでも、きっかけさえあれば、その記憶の古傷は蘇ってきて、現在の彼女を苦しめる。

それゆえに、彼女は自分の古傷を思い出させる男、広島に対して怒りの叫びで抗議をする。戦争は深い傷跡を残す。第二次世界大戦で、人々に、人類に残したその精神的なトラウマのもっとも深刻で象徴的な事件の起きた場所が、広島でありアウシュビッツである。また、女がフランスの故郷ヌベールで体験したような悲劇は、小アウシュビッツ、小広島のような事件として、戦争の行われたところならいずこにも無数に存在した。

この作品が撮られたのは、1958年から1959年に架けてである。だから、まだ戦後14、5年しか経っていない。この映画にも、広島も原爆の惨劇から復興し始めている町並みが撮され記録されているとは言え、まだ多くの原爆被害者たちも病院の至るところで見られる。また左翼による反戦活動や、原水爆禁止運動などが激しく戦われていた時代の背景も記録されている。映画の中に、反戦映画の撮影現場自体を画面に登場させることによって、たとえ皮肉なかたちによるとしても、この映画もまた兵器としての原子爆弾の現実を告発している。フランスではこの映画の作られた翌年の1960年にはフランスにおいても、世界でアメリカ、ソ連、イギリスに次いで第4番目に核爆発実験を成功させている。

映画の冒頭で女が原爆博物館に訪れる画面で映し出される、広島が深く刻み込んでいる戦争の記憶は、女に昔のトラウマをふたたび呼び起こす。戦争が深い精神的な傷を刻み込んでいるということでは、男にとっての広島も、女にとってのヌベールも変わりがない。

彼女がふたたび不可能な愛を見出してしまった広島の男もまた、家族を失って戦争の深い傷を抱えた男であり、男は広島の象徴として存在し、この男の出会いは、彼女につらい記憶の傷の痛みから忘れ去ろうとしていた初恋のドイツ兵のことを思い出させる。

故郷ヌベールの記憶は、ローレの美しい川に象徴される甘くなつかしい記憶とともに、敵国ドイツ兵との恋愛ゆえに、彼女が故郷の人々から受けた屈辱や、地下室で過ごした狂気のつらい記憶も留めている。彼女はその心に受けた傷によって、過去の記憶をすべて忘却の淵に流し去っていたのだ。しかし日本の広島で彼女は男を愛することによって、そして広島のつらい戦争の記憶を自分のものとすることによって、フランスで忘れ去れようとしていた故郷ヌベールのつらい自分の記憶とともに、異国の土地日本の広島の男との不可能な恋の記憶とともに生きようとしている自分に気づく。

戦争をどのように理解するか。その象徴としてのヒロシマやアウシュビッツをどこまで理解しうるか。この映画が問題提起するそのレベルも人によってさまざまだろう。また、人間にとって記憶がどのような意味をもつのか、またその記憶が、心に刻み込まれる精神の傷として残されたとき、人はその傷とどのように関わりながら未来の日々を生きてゆくべきか?この映画はたしかに、愛がそのための勇気を与え、癒し、救う可能性を秘めたものとして描いてはいる。

映画を構成する一つの要素である音楽の効果も優れている。すだく虫の音が、多くの画面でBGMのように使われている。カメラワークが映し出す復興しはじめた当時の広島の街と人々の暮らしの様子。この映画には戦後まだ十四年しか経っていない広島の街や夜の歓楽街と人々の暮らしが、美しく記録されている。女を演じているまだ若いエマニュエル・リヴァも、彼女がフランス人の女優であったからこそ、まだ復興し始めたばかりの広島の古くさくみすぼらしい街並や駅の構舎の光景にも、それほど違和感も感じさせずに溶け込んでいるのかもしれない。アメリカ人女優やアメリカ映画に、果たしてこの映画のような共感と情感はかもしだせただろうか。

 

 

 

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映画「亡国のイージス」を見る

2009年06月14日 | 芸術・文化

映画「亡国のイージス」を見る

6月14日のテレビで「亡国のイージス」という映画を見た。もちろん、娯楽作品ではあるけれども、曲がりなりにも、わが国の国防についての問題提起をおこなっている作品であるとは言える。言うまでもなく、イージス艦はレーダーや最新の情報処理システム、対空ミサイル・システムなどを装備した現代科学の粋を集めて建造された艦艇である。

しかし、イージス艦のように、たとえどれだけ軍事科学の粋を集めて建造された軍艦といえども、それは守るべき価値ある国家、国民が存在してこそのイージス艦であって、この前提のない国家国民が所有する軍艦など、軍事産業屋の金儲けのネタか軍人の高級玩具になり終わるにすぎない。

根本的に重要なことは、価値ある国家の形成、守るに値する文化、伝統、自由を尊重する人間の存在である。戦後民主主義の日本人には、せいぜい守るべきものがあるとしても、それは営々と蓄積してきた富のほかにはないのではないか。たしかに、多くの人間にとっては、富のみが守るに値する。

映画「亡国のイージス」が公開された2005年は、戦後60年という巡り合わせもあって、「男たちの大和」「ローレライ」などの軍隊物映画が公開され、その後も「出口のない海」などの戦前の日本軍を回顧するような作品も発表されている。このような傾向を、日本の「右翼化」として「憂慮」する人たちもいるようである。

しかし、戦後60年が経過して、文化の植民地化が徹底的に浸透した現代の日本においては、戦前の日本を描こうにも、それを演じきれる人間、俳優がいない。香港やフィリッピンその他かつての被植民地などに多く見られる、無国籍アジア人の体質をもった俳優には、戦前の日本人やまして旧大日本帝国軍人などはもう演じられなくなっている。そこまで文化的な断絶が深くなっているということである。



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敗戦国民の焼き印――「浮雲」―成瀬巳喜男監督作品から

2009年01月17日 | 芸術・文化

 

敗戦国民の焼き印――「浮雲」―成瀬巳喜男監督作品から

もう1月も半ばを過ぎて、お正月気分ももうどこかへ消えかかっているが、お正月休みの時、テレビ番組も低俗でマンネリ化していてつまらないので、久しぶりにDVDで今は亡き成瀬巳喜男監督の「浮雲」という古い作品を取り出して見た。

浮雲
http://www.geocities.jp/yurikoariki/ukigumo.html

主演女優は高峰秀子、男優は森雅之である。こうした一昔前の俳優は今の人にはすでに忘れられて知らない人も多いかもしれない。成瀬巳喜男の監督した作品は芸術として事実を淡々と描写して行くだけで、社会批判や理屈をとくに大上段に振り上げているわけではない。しかし、この「浮雲」のなかで高峰秀子さんが演じていた「ゆき子」も、太平洋戦争の日本の敗戦の過程でみずからの運命を大きく変えられ、薄幸のうちに亡くなった一人の無名の女性だった。現代国家の運命は女性や子供も含めて国民ひとりひとりの運命に直結している。

映画の発端となる舞台は太平洋戦争で、日本軍が仏領インドネシアに進駐するに従って農林省の技官であった富岡(森雅之)も日本から出張してくる。その時に事務所にタイピストとして働きに来ていたのが、ゆき子(高峰秀子)だった。そこでふたりは知り合うが、富岡は現地に単身で赴任してきており、日本に妻を残していた。だから、ふたりの関係はいわば不倫の関係であった。そして当時のすべての日本人がそうであったように、敗戦によってふたりの運命は暗転する。

映画「浮雲」の批評そのものはまた別の機会に語りたいと思うけれども、要するに、主人公の「ゆき子」は、空襲によって荒廃した日本に終戦にともなって帰国したものの、すでに妻のいた富岡との復縁もかなうことはなく、それでとうとう食い詰めてオンリー(進駐軍兵士専門の娼婦)に身を落としてしまう。敗戦後も間もなく流行した「星の流れに」という歌の中にも、「こんな女に誰がした」という歌詞があったが、主人公ゆき子のような境遇の事例は数多くあったのだと思う。実際にも多くの日本人女性が戦争花嫁としてアメリカなどに渡っていった。ゆき子のつらく悲しい生涯に戦後の日本が象徴されている。

日本の敗戦によって威信や信用を失ったのは、だれよりも旧大日本帝国軍の軍人たちだった。実際どのような国においても、敗戦国の軍人や男性が信頼や価値を失うのはやむをえないといえる。とくに戦前の日本はかならずしも民主化が十分に進んでおらず、封建時代の名残もあって軍隊には階級意識や権威主義、事大主義が濃厚で、偉ぶっていた軍人も事実として多かった。だから、敗戦をきっかけに旧日本国軍や軍人たちが国民の信用を大きく失うことになったのもやむをえない面があったといえる。

それに輪を掛けたのがGHQなどの占領軍の手によって行われた占領政策だった。日本をアメリカに二度と対抗できない国にするための戦後教育を受けて育った女性たちには、旧日本国軍人についてとりわけ悪印象を植え付けられている。彼女たちの多くが兵士について抱いているイメージと言えば、売春宿の入口で眼の色かえて「順番待ち」をしている脂ぎって汚れた兵士たちの顔であったり、二等兵をいじめている醜い顔の軍曹であったりする。

こうした軍人観がとくに戦後の日本女性の多くの中に戦後教育や映画などを通じて刷り込まれているために、軍隊や軍人たちに対して、さらにはそこから父や兄弟など男性そのものに対して尊敬心など持てなくなってしまっている場合が多いのではないだろうか。少なくとも潜在意識の中ではその傾向にあるといえる。とくに法政大学教授の田島陽子女史や東京大学の上野千鶴子教授など教育を受けたインテリ女性ににその傾向が顕著に見られるように思える。

しかし、国家と国民の身体、生命、財産の安全を、みずからの命を呈して守ろうとする軍隊や軍人に対して尊敬の念を持てないでいる国民は不幸で哀れだ。アメリカやイギリスなど、かって大きな敗戦をこうむったことのない国民の間では軍隊や軍人ははるかに尊敬されているし憧れられてもいる。日本の自衛隊のように、たんに占領時代に制定された憲法上ばかりでなく、これほどに多くの国民から白眼視されている「軍隊」の存在も他国には例を見ないだろうと思う。

映画「浮雲」の女性主人公ゆき子に象徴されているように、戦争では多くの女性が薄幸の運命を担わされた。満州からの避難民や広島、長崎の原爆、東京大空襲のような悲惨な体験をした日本の女性の多くに軍隊や軍人に対する嫌悪や忌避の傾向の強いのも仕方がないと思う。また、戦後の日本の教育をになった教師などに共産主義者も多かったから、彼らは自分たちの階級闘争史観から戦前の旧大日本国帝国軍隊や軍人を全否定する教育を行ってきた。

その教育宣伝による意識形成の典型が先の田島陽子女史やノーベル賞作家の大江健三郎氏なのだと思う。彼らの軍隊観、軍人観には肯定的な要素はまったく見られない。自国の軍隊や軍人の道義性に対する信頼やその意義についての認識が完全に失われているのである。しかし、このような国が日本以外にあるのだろうかと思う。占領統治が終わって戦後60数年も経った現在もなお軍人、軍隊に対するコンプレックスを克服しえていない現状には、日本国民の資質に、とくに主体的な民主化能力に欠陥があるというしかない。そのコンプレックスは今なお、茶髪や一重まぶたの整形手術にも現れている。

評論家の櫻井よし子さんは、戦後の女性の変化に触れ、次のように述べておられる。
「手本となる先人に思いを馳せその学びを新しい年に生かしたい」
http://yoshiko-sakurai.jp/index.php/2009/01/03/

>>
「戦後の日本でいちばん大きく深刻に変わったのが女性ではないかと、私は感じている。家庭のあり方が妻や母たる女性の価値観や姿勢で決定づけられるように、戦後の日本社会の変化は、男性よりも、女性によってなおいっそう促されたと思う。だからこそ、かつて世界の人びとを感嘆させた日本人と日本社会のすばらしさの原点が、控えめながらも芯の強い、公の意識を持った女性たちであった面を思い起こし、その実例を知ってほしいのだ。」
>>

女性解放が声高に叫ばれる現代においても、とくに「女性解放」の遅れていると言われる日本では、確かに女性はいまだ社会の表面では表だって目立つ存在でないかもしれない。しかし、社会のあり方を決める上で女性の存在のあり方が決定的に重要であることは、「女性解放」などという安っぽいスローガンが叫ばれる以前に、封建時代と言われる江戸時代においても現代においても変わりがない。

とくにわたしたちの話すことばが母語とも言われるように、人は誰でも、まず母親から感化されるのである。民族の文化はとくに母親を通じて受け継がれてゆく。ユダヤ人社会でも、母親がユダヤ人であれば子供もユダヤ人になる。父親がユダヤ人であるだけではユダヤ人とは見なされないのである。

だから、母親の受け継いでいる伝統文化や倫理が歪められ損ねられた民族は崩壊してゆくだけである。もし明治期に優れた人物を多く輩出したとするなら、その背景には彼らを生み育てた明治の立派な母親たちの存在を抜きにしては考えられない。その母親たちは、たしかに田島女史や上野女史のように社会的にも有名にもならず歴史に名も残さずひっそりと消えていったかもしれないけれど、その誰にも知られない生涯の価値は決して見過ごされてよいものではない。女性はその国家、民族の気質、伝統を守り育てる母胎である。

だから、ある国家、民族を崩壊させようと思えば、その女性の気質を破壊すればいいのである。そのために田島陽子女史のようなもっとも亡国的なウマシカ女性を無数に作り出せばよいのである。

さらに、日本の軍隊や軍人に対する忌避や軽べつの感情の根源には、日本の敗戦のために、日本軍人による過失や戦争犯罪を、日本軍自身の手による軍法会議などによって自律的に裁く機会を持ち得なかったということもある。日本の敗戦のために、日本の将兵たちの過失や戦争犯罪を旧日本国軍みずからの軍法会議で裁くことができず、それらをすべてこの戦争の勝者である連合国占領軍の手にゆだねざるをえなかった。

そのために軍人政治家から参謀本部の指導者、末端の将兵にいたるまで、日本軍人の過失や戦争犯罪を日本の軍法会議や司法の権限で裁きにかけることができなかった。そのことも、日本軍人に対する国民の信用をさらに大きく失墜させることになった。

日本軍兵士たちが戦争の混乱にまぎれて非戦闘員である女性や子供たちに対して犯した戦争犯罪や軍規違反、またインパール作戦のなどの戦略上の重大過失を、日本軍の軍法会議や一般司法裁判所で自律的に糾弾し処断することができていれば、もう少しは日本軍人たちの名誉も信用も権威も保つことができたかもしれない。

敗戦によって一切の権威と権力を失っていた旧日本軍には、みずからの軍法会議と司法によって、戦争の混乱のどさくさにまぎれて行われた日本軍の将兵たちの戦争犯罪を、旧日本軍自身がみずからの手で主体的に厳しく断罪することはできなかった。

もし旧日本国軍がそれだけの自浄能力を備えていれば、後世幾世代にもわたって同じ日本国民から、とくに日本女性たち自身から、彼女たちの祖父や父や兄弟に当たる旧日本国軍人に対する、あることないこと一切合切の軽べつの罵詈雑言その他の言辞を投げつけられるような哀れな状況を避けることができたかもしれない。

 

 

 

 
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短歌と哲学(4)

2008年10月23日 | 芸術・文化

 

ここで古典作品の二三を検討することで、短歌における芸術と哲学の関係について考察してみたい。

まず『伊勢物語』の中からいくつかの作品を取りあげてみる。

第九十七段  四十の賀の歌

むかし、堀川のおほいもうち君と申す、いまそかりけり。四十の賀、九条の家にてせられける日、中将なりける翁、

櫻花ちりかひ曇れ老ひらくの来むというなる道まがうがに

この和歌の中にも多くの事柄が語られている。「堀川のおほいもうち君」という人物が、「むかし」という言葉によって、歴史的に存在した人物として記録されている。この太政大臣が藤原基経であること、そして、基経の四十歳の誕生を祝う祝賀会が九条通にあった基経の屋敷で開かれていた事実も歴史的な背景を探ることによって明らかになっている。しかし、和歌、短歌としては、そうした個別具体的な歴史的な真実についての知識や認識を和歌の鑑賞の必須要件としているわけではない。

確かにこの和歌には、「太政大臣」という平安時代の官職制度や、中将という地位にあった在原業平とおぼしき人物など、これらが短歌の背景であり舞台となった歴史的な事実も記録されているし、またこの短歌を手がかりにさまざまな歴史的な真実を探ることもできる。

しかし、言うまでもなく和歌によって詠われている主題は、そうした個別具体的な事実を超越したところに成立する。それは観念的に昇華された普遍的な真実であり、そこに芸術としての意義もある。この短歌においても、桜花の散り舞い落ちる道という具体的な美的な形象のうちに「老い」への道程を断ち切ることを願う人間的な真実が詠い込まれている。

一個の独立した芸術ジャンルとしての短歌は、三十一文字の裡に言い現された美と真実の統合のうちに、そのとき歌人が揺り動かされた心への実存的な共感に、その価値を見出すのだろう。もちろん、それが時代と個人のその歴史的な記録性としての価値をもつとしても、それは従属的な副次的なものである。

次の歌は、儀礼的な環境で詠まれた先の四十の賀の歌よりは、真率な感情が詠われている。

第百二十五段(伊勢物語)

むかし 男わづらいて 心地死ぬべくおぼえければ

つひに行く道とはかねて聞きしかどきのふけふとは思はざりしを

ここでは、人間にとって絶対的な制約である死が歌の主題になっており、それがひとりの人間に対してどのように臨んだかを和歌の詠唱という形式において明らかにされている。哲学が散文的に概念的に死の意義を論じるのに対して、短歌においては直観的に感覚的に訴える点において、そこから受ける印象は哲学以上に強烈であるといえ、また概念的ではないだけ大衆的でもある。

この歌には死が何らかの具体的な表象において描かれてはおらず、もっぱら死という普遍的な人間の真実に「きのうけふ」直面した人間の心情が率直に詠われているだけである。
業平はもちろん自然発生的な感情に駆り立てられてこの和歌を詠ったのであって、現代的な意味で死を哲学的な自覚において作歌したとは考えられない。

しかし、もし「死」が植物、動物をはじめあらゆる生命として存在の、したがって同時に人間としての究極的な原理の一つで絶対的な限界であるとするなら、業平によって詠まれたとされるこの短歌の主題は、まぎれもなく哲学と共通している。

死は確かに個別具体的な「事実」ではあるけれども、その事実も、またその際に人間にもたらす精神的な「感動」も、それが「短歌」という形式において作られることによって、死のもつ意義を感情的にまた反省的に捉えることができる。それは言語をもつことによって本来的に「観念的」な動物となった人間のみに可能なことである。人間の感情はすでに言語を介在させたものになっている。言語をもたない動物は「死」を反省的に捉えることはできない。

すでにここでは短歌が芸術と哲学の接点において詠われていることは明らかである。万葉歌人にはまだ死をこのように反省的に捉える段階には達していなかった。実際「死」というような哲学の主題ともなりうる事柄が、業平によって象徴的に感情的に詠われはじめたことに短歌の発展が見られるといえる。

ただ短歌においてはそうした抽象的な主題が、感覚的に感情的に表象することに意義がありまたそこに限界もある。個別芸術としての短歌はそれに満足するしかないが、しかし、業平の時代とは異なって、はるかに深刻で分析的な意識を持った現代人が歌を作るときには、そこにより自覚的に哲学的な主題を短歌に設定することもできるだろう。

西行の『山家集』の中には次の歌がある。

六波羅太政入道持経者千人集めて、津の国和田と申す所にて供養侍りけり。やがてそのついでに万燈会しけり。夜更くるままに、燈火の消えけるを、各々点しつぎけるを見て

862   消えぬべき  法の光の  燈火を  かかぐる和田の  泊まりなりけり

西行や紫式部の和歌は、もはや万葉歌人のように天真爛漫のものではありえない。彼らの歌には当時の時代思潮である仏教思想が浸透している。仏教の観念を意識した人間によって詠まれている。その意味で歌人もまた時代と民族の子である。時代の不安に仏教に救いを求めて出家した西行の意識が、この和歌の中にも色濃く反映している。

当時の没落しつつあった貴族社会に流布していた末法思想の不安な世相の中で、万燈会に点された灯火が今にも消え入るように揺らいでいる。和田の泊まりの海面は、そのおびただしい灯火を映している。それを見た西行の不安な心象風景が、美しく妖しく幻想的に詠まれている。

この短歌の詞書きには、この歌の詠まれた背景がくわしく語られている。それによって私たちはこの和歌の詠われた背景をくわしく知ることによって、この和歌の鑑賞においてより深く味わうことも可能になる。

時代の混乱と不安の中におかれたこの現世で、西行が出会い見つめた美しい光景の一瞬がこのように詠まれることによって、一個の短歌の作品として象徴的で普遍的な独自の存在価値をもった創作として記録されている。

西行は平安期末の京都を中心とした日本という特殊な環境に生きたのであり、それが彼の運命であったのだが、それは西行に限らず、どんな人間においても、その生存は特定の地理的な場所と歴史的な時間の制約にある自然的および社会的な環境の下に生きざるをえない。場所と時間は人間がその生活を営む舞台である。

現代に伝わる万燈会

人間は時代と空間に規定されている。個人はすべて時代と民族の子である。そして、短歌はそのような運命におかれた人間の生存の記録としての意義ももちうる。西行のこの歌はそれを示している。

これらの三つの作品によっても、伝統的な従来の短歌が、今日でいう哲学的な主題をどのように取りあげているかを見ることができる。とりわけ西行の「消えぬべき」などの短歌は、芸術と哲学の境界の上に咲いた美しい花といえる。

最後にもう一つ言い置かれなければならないことは、あるいは、言うまでもないことかもしれないが、西行であれ業平であれ、彼らの和歌に彼らの置かれた社会的な地位や身分が反映されていることである。

当時の社会の中では彼らは貴族階級に上流階層に属し、彼ら自身は生産的労働に直接的に従事しなくてもよい身分にあったらしいことである。生活に余裕がなければ、彼らのような歌もまた詠まれることはなかった。その意味でも、彼らの詠唱はこの上ない贅沢の上に成り立った産物であるということができる。

 

 

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短歌と哲学(3)

2008年10月22日 | 芸術・文化



文学は言語のもつリズム、音韻によって本来的に音楽性を含んでいる。また言語は概念と表裏一体である同時に、たとえ抽象的ではあってもその表象が色彩や形象をもつ点で美術の性格の側面も併せもっている。それゆえ言語芸術である文学は芸術と哲学の境界に位置する。

その文学の一ジャンルである短歌は、もちろん個別芸術としてそれ自体の自立的な完全性をもち、独自の価値を追求する。その自立的な完全性は、短歌の形式である三十一文字のもつ音韻とリズム、その言語のもつ表象の象徴性のなかにある。

しかし、文学としての簡易な様式のゆえに短歌は、ちょうど画家にとってのスケッチやデッサン、あるいは音楽家にとっての練習曲のような役目も果たしうる。ちょうど画家がデッサンやスケッチにおいて絵画の基礎的な訓練を怠らないように、またピアニストがバッハなどの練習曲につねに慣れ親しむように、短歌の制作において日常生活の中から素材を発掘し、メモをとりながら主題を発想し、同時に言語の表象を彫琢し、用いる概念を洗練する。

また、その制作の推敲の過程で感性を鋭くし作品としての造型性を深めて、芸術品の創作の価値と能力を向上させてゆくなかで、どのジャンルに属する芸術においても修練としての効用をもちうるのである。もちろんその質的な内容の向上のためには、短歌においても、あらゆる芸術がそうであるように、一定以上の量的な訓練の消化を必要とすることは言うまでもない。

短歌の制作のみならず一般に芸術品の制作において、人間は文化的な社会的な存在として自然や同類である他者に関係する。人間は社会的動物であると同時に文化的な動物として、歴史的に社会的に形成された何らかの認識や行動の枠組みを学習しながら成長する。文化とはそうした思考と行動の様式でもある。

その典型が言語である。言語は人類の歴史的な産物であり文化の頂点にたつ。そして個人は日本語なり英語なり特定の言語を思考の枠組みとして取り入れることによって社会的な存在として生きる。

その意味では文化とは、人間が世界を眺めるときの「先入観」を形作るものである。そうした認識のための枠組としての道具、「パラダイム」は歴史的に社会的に作られるのであるが、その文化も弁証法的であって、人間は文化を形成するとともに、またその属する文化によって規定もされる。すべての個人は民族の子、時代の子として属する文化のもつ価値観、行動様式などの影響を受ける。 

短歌は日本を象徴する一つの文化である。その風土と歴史のなかで発展してきたもので、長く深い伝統をもっている。短歌は日本人が自然や人間などの世界を芸術として捉える一つの型である。

日本人の感覚が短歌において捉えうるものは、その生活の舞台である独自の地理や気候や風俗であり、自然や社会の物象であり事象である。歌人にとってそれらの事物、現象は、その背後に存在するもののシンボル、象徴として現れてくる。そのとき象徴されるものは、現象の背後に隠れている普遍的で恒久的なものとしての本質あるいは概念である。歌人が作歌においておいて捉えようとするものは、その象徴によって映されるさまざまな現象の背後に存在する本質もしくは概念である。

というよりも、歌人が言語によって事物の姿を捉え映そうとするとき、自ずから本質的で普遍的な事柄を現すことになる。なぜなら、言語は本来的に普遍的で抽象的な事柄しか言い現しえないからである。

そして、短歌においてもこの普遍的な事柄の言い現しにおいて、感動の基礎にあった感覚の対象としての個別具体的なものは、その作品で言い現そうとしている事柄すなわち概念の裡に保存されアウフヘーベンされている。そして、そのとき短歌はもとの個別具体的な素材から切り離されて、それ自体の独立した価値をもつにいたる。それが完成された芸術品としての短歌である。このとき短歌は、哲学の目的でもある概念を事柄として捉えることができる。ここに短歌における哲学の可能性を求めることができるのではないだろうか。

もちろん、従来の普通の歌人は歌人として心に受けた感動を言葉に言い表すだけであって、こうした哲学的な自覚は歌人にとって本来の作歌の目的ではない。カントは物自体は認識できないものとして不可知論に終始したけれども、また、現象の総体に本質を見るヘーゲルは汎神論者に誤解されるということはあったとしても、芸術であれ哲学であれ、それらが本来的に捉えようとしたものは、現象に象徴されるものの背後に存在する恒久的で普遍的なものである。この点において短歌も簡易な形式ではあるけれどもその他の芸術や宗教、哲学と同じ意義をもつことができる。

 

 

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短歌と哲学(2)

2008年10月10日 | 芸術・文化

 

芸術作品に共通する特徴の一つとして、その軽やかな美しさというものがある。その典型が音楽である。音楽はあらゆる芸術の中でももっとも抽象的で、それゆえあらゆる現実存在の重苦しさからは解き放たれている。それは時間と空間のもっとも抽象的な世界へと私たちを誘うものであり、音楽は一つの啓示である。少なくとも啓示とはどのようなものであるかを予感させるものである。音楽はその意味で純粋な形而上の世界のミメーシスであるといえる。

文学もまた芸術の一つのジャンルとして、言語の表象とリズムによる「影の国」を形成する。それは音楽よりは具体的ではあるかもしれないが、それでも「影の国」としてあるいは「光の国」として、現実存在から自由に解き放たれた精神はその饗宴に遊ぶ。

そして、それぞれの芸術もまた多くの分野で特殊な発展を遂げている。音楽にも交響曲のような重厚長大の作品から小夜曲にいたる小品までさまざまな様式がある。絵画も同様で巨大な壁画、天井画からデッサンやスケッチの類までさまざまである。

短歌という様式はもちろん文学の中の一ジャンルではあるけれど、また詩歌に属するが、とくに五七五七七音と三十一文字という日本語に特有の音韻にそって歴史的に発展してきた。それゆえ当然のことながら、その形式のもつ特殊性のゆえに、短歌においては長編小説のように深刻な人間ドラマや哲学的な主題をその中で具体的に展開することも追求することもできない。

しかしまた、その軽薄短小としての形式として弱点は、一方では長所とも利点にもなりうる。短歌の近隣芸術である俳句などと同様に、その形式の簡易さ単純さゆえに、より大衆的な要素を備えている。実際にも短歌は俳句などとならんで日本においては、農民、商人、教師、主婦などの勤労者、大衆の間にもっとも広く普及している伝統的な芸術様式である。

短歌については、今においてももっともその本質を規定しているのは、やはり古今和歌集の仮名序の中に紀貫之が語っている次の言葉だろう。貫之は次のように述べている。

「やまと歌は人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事わざしげき物なれば、心に思ふ事を見る物きく物につけていひ出せるなり。花になく鶯、水にすむ蛙の聲をきけば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をもいれずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の中をも和げ、猛き武士の心をも慰むるは歌なり。」

だからこの本質を外れるものは、もはや短歌ではないといえるかもしれないが、しかし、この本質を原点としながらも、短歌がその歴史の中でさまざまに発展してきたことも事実である。それは和歌の初心としての万葉集から始まり、古今集などのさまざまな勅撰和歌集へと、さらに歴史的にさまざまな停滞と変革と発展を遂げながら今日に至っている。

その中で初心を失い完全に様式化されてしまう時代の来ることも避けられない。独自のみずみずしい豊かな発想も失い、マンネリズムにおちいって芸術としても停滞してしまったと言われる古今集以降、あるいは江戸期を経て、今日に至るまで短歌の世界もさまざまな革新の試みがなされてきたようである。学校における文学史の学習でも、とくに近代においては明治維新後の西洋文化の影響を受けて正岡子規らによってなされた短歌・俳句の革新運動がよく知られている。

そうした歴史的な発展の足跡については、別に専門書で調べていただくとして、この小論で明らかにしておきたかったことは、要するに単なる自然に対する叙情や恋愛感情の発露に過ぎないと思われてきた短歌にも、ただに芸術的な意義のみならず、宗教的な、さらには哲学的な短歌としての可能性を見出しうるのではないかということである。

この立場は、従来の伝統的な短歌の立場に立つ人にとっては「邪道」であるかもしれないけれども、短歌のそうした可能性の一つの方向を追求できないか、哲学の立場からそれを問うのも自由であるはずだ。

この発想をもつようになっていた背景には、国民的な歌人である西行の和歌はすでに単なる美的な叙情にとどまらず宗教的な感情や認識をその和歌に示していることがあった。

さらに直接の契機になったのが、日経新聞の毎週木曜日の夕刊に、「現代短歌ベスト20」と題して佐佐木幸綱氏が入門講座を連載されていたのを読んだことがある。その中でとくに渡辺直己、故宮柊二氏の短歌を詠んで啓発されたことである。

そこで取りあげられた現代短歌に、美的な感情表現と同時に、何よりも短歌が人間の日々の生活の中で実存的な記録性をもちうることに気付かされたからである。確かにそれらに着目することを短歌入門の契機とするのは、短歌への道としては本来的でもオーソドックスでもないかもしれない。

一方で、概念のもっとも無味乾燥の世界に終始するのが哲学である。そうした仕事の中で短歌は比較的に短時間のうちに芸術的な表現欲を充足させてくれる貴重な形式である。その点において時間にも余裕の少ない者にも都合がよい。また、短歌の日常的な制作が、その制作上での修練が、言語のもつ表象力や概念の彫琢、吟味の素養の上で果たしうる意義も、また、さまざまな発想や認識の記録としても、決して小さくはないと思われることである。

 

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短歌と哲学(1)

2008年10月09日 | 芸術・文化

 

1507    雲につきてうかれのみゆく心をば山にかけてをとめんとぞ思ふ

西行は山の麓に流れ行く雲を見ている。と同時にその雲に誘われるように自分の心に漂泊への思いの兆し始めているのを自覚している。もちろん私たちには西行がどのような場所でこの歌を詠じたのか知るよしもない。

峠を上りつめたところ正面にその山容を眺めたのか。しかし、この歌は、時の過ぎゆくままに流れゆく雲と、その一方で時間を超越したかのごとくに泰然自若として不動の姿を見せている山との、その静と動のコントラストをしっかりと捉えているのであるから、この和歌を詠じた主体である西行自身が動いていてはその対比は捉えきることはできない。

おそらく、隠棲していた庵の窓から、流れゆく雲と、それを遮りつなぎ止めるような大きな山を西行は眺めていたのかもしれない。この歌から読みとる情景は私たちに自由に想像できるし、またそうするしかない。けれども、ただ、この歌から確実に読みとれるのは、流れ行く雲が旅や漂泊に対するやむにやまれぬ憧憬に西行を誘うその一方で、その心を押さえ殺そうとしている西行自身の矛盾した心である。

雲に付き従って行こうとする心、それは旅に出ること、また歌を詠じることであったが、それを「うかれのみゆく」と詠うことによって、仏道修行の真摯さや信心の堅固さを象徴する山と比較している。そして西行は自らを責めているのである。

1508    捨てて後はまぎれし方はおぼえぬを心のみをば世にあらせける

世間を捨てて出家してからは、世俗の煩わしい出来事や執着に思い乱れることはなくなったけれど、ただそれでも、わが心は妻と娘を置き去りにしてきた世の中にいつまでも残されたままである。

このような中古の和歌を深く正当に鑑賞するためには、西行の生きた平安末期という世紀末的な時代の転換期の背景を知っておくことも必要なことだろう。出世間の願望は、すでに平安の貴族である光源氏に象徴的に見られたように、仏教思想の流布とともにまず支配層から浸透していった。そして貴族の社会から武士の時代に移行するとともに禅仏教の思潮が色濃くなってくる。

西行も聖と俗の二律背反をよく自覚し、西方浄土への悟りへの道程の中で、出家と漂泊の間に揺れ動く矛盾する自らの心を詠うことを和歌の主題としていた。だから西行の時代においては、和歌はすでに古今、万葉の時代の伝統的な自然美や単なる恋愛感情の詠唱の段階から、宗教的な感情や表象を主題とする、いわば形而上的な対象を和歌の主題にするという段階に入っていたのである。

[短歌日誌]②2008/10/09

ふたたび「マディソン郡の橋」をDVDに見て

アイオワの夏の宵に深南部米国人の熱き情語りたる

 

 

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業平卿紀行録8

2008年05月04日 | 芸術・文化

 

在原業平は825年(天長2年)に生まれ、そして紀貫之は866年(貞観8年)頃に生まれたというから、ちょうど昭和の人間が明治の人間を思い出すように、業平の人間像も貫之の世代の人たちにはまだ鮮明に記憶されていただろう。貫之が子供のころには業平はまだ生きていたし、彼は紀貫之と同じ紀氏有常の娘を妻にめとっていた。まして業平は桓武天皇の曾孫でもあり、光の源氏のように浮き名も高かった業平の人間像の伝説は隣人のようにその輪郭も明らかだっただろう。


616     起きもせず    寝もせで夜を    明かしては
                  春のものとて    ながめくらしつ  

この歌も古今和歌集の恋歌三の巻に収められてあるもので、そこには次ぎような詞書きが添えられてあるだけである。

「弥生の一日より、しのびに人にものを言ひて後に、雨のそぼ降りけるによみてつかはしける」

この歌も後朝の思いを女に遣って詠んだもので、伊勢物語には第二段に取り入れられている。その女性が人並み外れて美しかったこと、西の京に住んでいたこと、奈良の都から遷都してまだ間もないころの出来事であったことなど、この歌の詠まれた背景がさらに詳しく物語られている。

747     月やあらぬ    春やむかしの    春ならぬ
                  わが身ひとつは    もとの身にして

仁徳天皇のお后が五条の后と呼ばれていたこと、お后の姪の藤原高子がお后の屋敷の西の対に住んでいたこと、この女性を業平が恋い焦がれたこと、かっては忍んで通い親しく語り合いもしたのに、やがて高子が宮中に上って業平の手の届かないところに行ってしまったことなどが明らかにされている。

梅の花盛りのころ、女性がいなくなってがらんどうになった部屋の板敷きに伏せりながら月が西に沈むまで眺めながらこの歌を詠んだという。

梅の花や月などの自然の景物に、自然の悠久と春の反復を感じる業平の時間意識を感じることができる。そこに同時に業平は自分たちの恋だけが反復を許されないという人間の宿命の悲しみを詠う。その心情は、西洋の近代で詩人哲学者のキルケゴールがレギーネとの恋の反復の不可能を嘆いたものと同じである。私たちの生は反復も不可能な、不可逆な時間の宿命におかれている。このことは業平の時代も近代もまた現代も、洋の東西を問わず変わりはない。

 

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