§234補註
知性は単に世界をあるがままに受け取ろうとするに過ぎないが、意志はこれに反して世界をそのあるべき姿に変えようとする。直接的なもの、目前にあるものは、意志にとっては不変の存在ではなく、本来的に空無のもの、仮象に過ぎない。ここには道徳(Moralität)の立場に
— review (@myenzyklo) 2017年3月25日 - 14:00
立つ人々が空しくその解決を求める矛盾が現れる。これが実践に関するカント哲学の立場であり、フィヒテの哲学の立場でさえなおそうである。この立場によれば、善は我々が実現しなければならないもの、その実現のために働かなければならないものであり、意志とは活動しつつある善に他ならない。
— review (@myenzyklo) 2017年3月25日 - 14:04
もし世界があるべき姿を持っているとすれば、意志の活動はなくなるのであり、したがって意志はそれ自身、自己の目的が実現されないことを要求するものである。これは意志の有限性を正しく言いあらわしている。しかしこうした有限性のもとに立ちどまることは許されない。意志の過程そのものが、
— review (@myenzyklo) 2017年3月25日 - 14:07
こうした有限性およびその内に含まれている矛盾を揚棄する。矛盾の解決は、意志がその結果のうちに認識作用の前提へ戻り、かくして理論的理念と実践的理念とが統一されることになる。意志は、目的が自分自身のものであることを知り、知性は世界が現実的な概念であることを知る。これが理性的認識の
— review (@myenzyklo) 2017年3月25日 - 14:16
真の態度である。空無のもの、消滅するものは、世界の表面にすぎず、真の本質ではない。この本質こそ本来的かつ顕在的に存在する概念であり、かくして世界はそれ自身理念である。世界の究極目的が不断に実現されつつあるとともに、また実現されているのだということを認識するとき、満足を知らぬ
— review (@myenzyklo) 2017年3月25日 - 14:20
努力というものはなくなってしまう。一般的に言ってこれが大人の立場である。若いものは、世界が全く害悪に満ちていて、根こそぎ改革されねばならぬと思っている。宗教的意識はこれに反して、世界は神の摂理に支配されており、したがってそのあるべき姿に一致していると考える。
— review (@myenzyklo) 2017年3月25日 - 14:25
しかし、こうした「ある」と「あるべし」との一致は、硬化した、過程のないものではない。なぜなら、世界の究極目的である善は、常に自己を産出することによってのみ存在するからであり、精神の世界と自然の世界との間には、後者は不断に循環しているに過ぎないが、前者はそれのみならず
— review (@myenzyklo) 2017年3月25日 - 14:29
また発展するという相違があるからである。
— review (@myenzyklo) 2017年3月25日 - 14:29
§235
善が本来的かつ顕在的に達成されているということ、したがって客観的世界は本来的かつ顕在的に理念であると同時に、絶えず自己を目的として定立し、活動によって自己の現実を生み出すということ、このことによって善の真理は理論的理念と実践的理念との統一として定立されている。
— review (@myenzyklo) 2017年3月25日 - 14:34
⎯⎯⎯このように、認識の差別と有限性とから自己自身へと復帰し、そして概念の活動によって概念と同一となった生命が、弁証法的あるいは絶対的理念である。
— review (@myenzyklo) 2017年3月25日 - 14:37
※
ヘーゲルの哲学は、大人と若者とを比較して一般に若者を低く見るその立場から、「老人の哲学」とも称されることのあることはよく知られているが、実際にもヘーゲル自身も若くして老成したところがあったらしく、青年時代からも「老人」という綽名を友人たちからたまわっていたという。
この小論理学で述べられている若者と大人の立場の対立と比較の内容は、彼の処女作である『精神の現象学』においてもすでに、徳と世路(Die Tugend und der Weltlauf)の両者の対立として論じられている。そこでは若者は「徳の騎士」として、また、一方の大人の立場は「世路」として対比させられている。
若者に代表される「徳の騎士」の思考と意識は、現象学においては、たとえば次のように描写されている。
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「人類の福祉のためを思うて高鳴る心胸の鼓動は狂い乱れた自負の激昂へと移って行き、また意識が自滅に対して己を保とうとする焦燥の念へと移ってゆくが、この際意識が激昂し焦燥するのは、自分自身が転倒であり、逆しまであるのに、これを自分から投げ出して、自分とはちがった他者のことであると見なし、またそう言明するのに汲々としているからである。
そこで意識は普遍的な秩序をもって、心胸の法則と心胸の幸福との顚倒であると宣言し、そうしてこの顚倒は狂信的な坊主ども、豪奢にふける暴君たち、そうしてこれら両者から受けた辱めの腹いせに自分よりしたのものを辱め弾圧する役人たちによって捏造され操縦されて、欺かれた人類の名付けようもない不幸をもたらしたものであると声明するのである。」
(『精神の現象学』上巻、金子武蔵訳378頁)
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ヘーゲル『精神の現象学』の金子武蔵訳も必ずしも解りやすいとは言えないが、明らかにここにはフランス革命におけるロベスピエールら過激な革命家たちの言説とその運命、およびそれらに共鳴したに違いないまだ若き日のヘーゲル自身の記憶と反省が根底にあるにちがいない。
「徳の騎士」として登場する若き革命家たちの主張は、彼らにとって心胸のなかに宿り内在する特殊な法則こそが普遍であり、こうした徳を現実化し完遂して「人類の福祉」を実現しようとする。それに対して公共の秩序でもある「世路」は彼らの眼には転倒した世界として映じている。
「徳の騎士」と「世路」の両者の対立と矛盾の論理の展開は、現象学の中では第一部「B 理性的な自己意識の己自身を介する現実化(Die Verwirklichung des vernünftigen Selbstbewußtseins durch sich selbst)」以下に述べられている。
「徳の騎士」たち、つまりフランス革命の革命家たちの自意識は「錯乱する自負」として描かれており、それらは「思い込まれた私念」に過ぎず、やがて自己が非現実的なものに過ぎないことを彼らは経験する。徳の騎士たちは長口舌の演説口調で「世路」に対して反抗し刃向かうが、やがて敗北し「世路」の現実性こそが普遍的なものであることを悟るようになる。かくして「徳の騎士」である若者は成長し、「大人」になって自己の目の前に見出された世界を「理性的なもの」として和解をなしとげる。「徳の騎士」である若者が、カントの啓蒙哲学の「Sollen の立場」に、いまだ悟性的な意識と思考の段階にあるのに対して、公共の秩序を保つ「世路」、大人の思考と意識が理性的であるとされる。
自らの生涯を「悟性に対する理性の闘いである」と称したヘーゲルの哲学が保守的だとみなされる原因もこうした点にあるのかもしれない。
現象学の中での「世路 der Weltlauf」とは、「法の哲学」のいわゆる「市民社会」のことであり、マルクス主義の用語では「資本主義社会」のことであるが、このいわゆる「徳の騎士」=若者と「世路」=大人との二項の対立と矛盾の展開は、現実の世界や歴史においても、例えば中国文化大革命における「四人組」と「走資派」との対立抗争において、四人組の敗北と走資派の頭目、鄧小平たちの勝利の決着の過程などにも、その論理は洞察できるように思える。
(20170329)