無と有は同じものであるという命題を嘲笑したり、あるいは、さまざまの背理を持ち出して、これがその命題の帰結であり適用であるというような誤った主張をしたりするのには、たいした機智はいらない。例えば人々は、右の命題に従えば、私の家、私の財産、呼吸する空気、この町、法律、神、a
— review (@myenzyklo) 2017年9月25日 - 21:56
精神などというものも、有るも無いも同じことになってしまうと言う。これらの実例の前半においては、当面の問題が特殊な目的、すなわち或るものが私に対して持っている効用とすり替えられて、そして有用なものがあってもなくても、私にはどうでもいいのかという質問がなされている。事実哲学とは、
— review (@myenzyklo) 2017年9月25日 - 22:00
人間を無数の有限な目的や意図から解放して、人間をそれらに対して無関心にし、そうしたものがあってもなくても同じことだと思わせるようにする教えではある。しかしながら何らかの内容が問題になっている以上、それとともに、価値あるものとして前提されている他の存在、目的、等々との連関が
— review (@myenzyklo) 2017年9月25日 - 22:07
規定されているのであって、特定の内容があってもなくても同じこととかどうかということは、そうした前提に依存させられているのである。つまり、内容を持った区別が、有および無という空虚な区別とすり替えられるのである。⎯⎯次に上述の 諸例の後半においては、それ自身本質的な目的、
— review (@myenzyklo) 2017年9月25日 - 22:24
絶対的な理念が、 単に有および無という規定のもとにおかれている。このような具体的なものは、単に有るものとか無いものとかであるにとどまらず、 また全く別のものである。有および無は最初の規定にすぎないから、存在するもののうちで最も貧しい規定であって、これら貧しい抽象物は、
— review (@myenzyklo) 2017年9月25日 - 22:27
右に述べたような具体的な対象の本性を示すには、全く不十分である。真実な内容というものは、このような抽象物そのもの、およびそれらの対立をとっくに超えているのである。⎯⎯一般に無思想な人が具体的なものを、有および無とすり替える場合には、 無思想の人の常として、問題になっている事柄とは
— review (@myenzyklo) 2017年9月25日 - 22:37
まったく別のことを思い浮かべ、そしてそれについて語るものであるが、ここで問題になっているのは単に抽象的な有および無にすぎないのである。(小論理学§88)
— review (@myenzyklo) 2017年9月25日 - 22:38