夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

政治の貧困 ⎯と国家の理念(イデー)

2006年12月18日 | 概念論

政治の貧困 ⎯と国家の理念(イデー)

 

安部首相が指導力を発揮しないことによって、支持率を下げています。日本の政治が劣悪なものであるのは、今に始まったことではないでしょう。岸信介や大野伴睦らの政治屋たちが、右翼の児玉誉士夫たちの采配と取り仕切りのもとで金権政治を展開する様子が、日経新聞の12月から「私の履歴書」欄に掲載され報告されています。

そのなかで、読売新聞の元社長の渡邉恒雄氏が、自民党番記者として自民党の有力政治家たちに「密着」取材していた現役記者時代を回顧し記録しています。戦後焼け跡から経済復興しつつあった、いわゆる「高度成長期」の日本の政治の様子を描写していますから、そうした頃を知らない今の若者たちは、ぜひ読まれるとよいと思います。

そのころの日本の政治に生まれた金権政治体質はその後に田中角栄に引き継がれ、その派閥政治が残した膨大な借金政治の附けは現在と将来の日本国民が背負って解決してゆかなければならないものになっています。ある意味ではそうした日本政治の体質は、日本国民自体の体質であり、その反映でもあるわけですから、日本国民の体質が変わらないかぎり、日本の政治の体質も変わらないのも道理です。

政治の改革なくして日本の経済、文化、教育の再建がありえないことを、小泉政権の誕生によって国民も理解し始めたといえますが、そして一時期の、渡邉恒雄氏の描写しているような派閥政治の腐敗からはいくらかは改善の兆しは出始めたとはいえ、道のりは容易ではないようです。はたして国民は改革による痛みに耐え、克服できるのでしょうか。与党のみならず、民主党も人材を得られず混迷しているようです。

政治の混迷は、何も人材を得ないことだけから来るのではないと思います。何よりもその政治の理念(イデー)がはっきりとしていないからではないでしょうか。安部首相の「美しい国」のような情緒的であいまいなものでは、国家の理念として論理がないと思います。
日本政治の根本イデーを、日本国民がまずはっきりと自覚し、それを目的として追求してゆく必要があります。

政治の根本イデーとは、どのようなものでしょうか。それは日本国を自由と民主主義に立脚する自由民主主義国家とし、その政治的原理を基本的には、民主党と自由党による二大政党政治が担ってゆくことです。

そのためには、現在の自民党が合併する以前の、自由党と民主党へと再度に分割分離して、民主主義を原理とする民主党と自由主義を原理とする自由党に、それぞれ政治家を再結集し、政党政治を再構成しなおすことです。一方で、国民一人一人に対して、自由主義と民主主義についての教育を充実させてゆく必要があります。民主党と自由党の違いは、民主主義と自由主義のいずれに重点をおくかのニュアンスの違いであって、政策などは、八割方同じであってよいと思います。そして、さらにより完成した「自由にして民主的な独立した立憲君主国家、日本」の実現を根本的に追求することにおいては自由党も民主党も同じです

政治において、このような根本理念(イデー)を明らかにして追求してゆけばよいと思います。そして、政治家は、このような理念の追求と実現によって評価されるべきであると思います。政治家が先にありきではなく、理念が先にありきです。

それと併行して、「宗教改革」も実行されるべきでしょう。政治の改革は国民の体質を変えてゆく「宗教改革」の実行とその基礎の上にこそ、真に実の挙がるものになると思います。それはまた、100年、200年500年と幾世代もの積み上げの必要な息の長い仕事であると思います。歴史の歩みはゆっくりとしたものです。

参考までに

自由と民主政治の概念

宗教と国家と自由

 

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ヘーゲルのプラトン批判

2006年12月04日 | 哲学一般

ヘーゲルのプラトン批判

古代ギリシャ民主政治の根本的な欠陥を痛感していたプラトンは、みずからの理想国家を構想して『国家』に著した。プラトンは、哲人と称される理想的な人格が政治を指導するようになるまでは理想とする政治は実現できないと考えたのである。そのためには哲学が国家権力を指導するようにならなければならない。この意味でプラトンは全体主義の創始者といえる。


現代においては「全体主義」は悪の権化のようにみなされている。しかし真実の全体主義はそんなに安易に批判して済ませられるものではない。全体主義の評判が悪いのは、先の第二次世界大戦でドイツにおいてはヒトラー、イタリアにおいてはムッソリーニなどの独裁者に率いられた国家主義政治が、犯罪を国家レベルで指揮したからである。本来的には全体主義や独裁政治自体が「悪」であるとはいえない。独裁者が善を志向するか悪を志向するかによって決まるものである。


ただ現代においては独裁政治自体は自由主義の観点から批判されてはいる。それは独裁政治において、たとい善政が施行されるにしても、そこには自由がないという点において批判されるのである。ヘーゲルがプラトンの国家論を批判しているように、プラトンの哲人政治の根本的な欠陥は、その政治が個人の自由の上に成立していないことである。(岩波文庫版『精神哲学』下§176以下参照)


プラトンの生きた当時の古代ギリシャ民主主義の国家形態とプラトンやソクラテスの内面に目覚めつつあった自由の意識との間に生じつつあった矛盾をヘーゲルは指摘している。プラトンは真実の憲法や国家生活は「正義の理念」の上に、それが国民一般の自覚の上に築かれなければならないことを、哲学に主導される政治として表現したのである。この点についてはヘーゲルは、プラトンの歴史的な意義として評価をしている。

しかし、このプラトンの哲人政治は単に理念にのみとどまり、現実の政治になることはできなかった。それを限界として指摘している。実際にそれを準備したのは歴史的にはキリスト教であり、ルターの宗教改革であった。


わが日本の戦後の日本国憲法の民主主義体制の根本的な欠陥は、それが事実上はアメリカ駐留軍政下の指揮下において、国民主権を主張する日本国憲法として国家の原理として制定されておりながら、事実上、わが国においてはキリスト教は日本国の支配的な宗教にはなってはいないという矛盾から来るものである。この宗教の原理はいまだ国民の自覚的な国家原理にまで、現在に至るまで自覚されてはいないからである。

アメリカ合衆国は、プロテスタント・キリスト教そのものの中から生まれた国家である。民主主義のアメリカ合衆国のみが、純粋にキリスト教から生まれた自由と正義の上に立脚する理念に築かれた国家である。そのアメリカの主導によって日本国憲法が制定されておりながら、それに一致した倫理規範を国民が支配的な宗教的意識としてもたないことに、わが国の政治や文化における根本矛盾が存在している。

欧米の歴史的な伝統にあっては、「法と正義」は同じ概念である。「RIGHT=RECHT」には、法と正義の両義が含まれる。しかし、わが国民の法意識には正義の観念は含まれてない。それは、国民の間に支配的な宗教が欧米のそれとは異なる性格に由来するものである。

太平洋戦争の敗北を契機とするわが国の戦後民主主義は、国民に人権を自覚させることにはなったが、東大教授の樋口陽一氏や丸山真男氏たちの主張したキリスト教抜きの人権至上民主主義教育は、日本国民の間に人間の欲望の無制限な解放として帰結しただけであった。倫理的な規制をもたないその無国籍的な人権意識は、欲望民主主義として、また、戦前のゆがんで抑圧された滅私奉公の精神の裏返しとして、エゴイズムの利己主義の無制限な解放と国家社会における倫理の崩壊をもたらす結果になった。

国民の間に愛国心などがもし欠乏していたとすれば、それは一つには、戦後の自民党政治の利権政治といわゆる革新政党の自己抑制のない人権至上主義政治の帰結として生じたものであって、現行教育基本法そのものの欠陥によるものではなかった。


カトリック教徒の田中耕太郎による労作として制定された現行教育基本法は、その精神が忠実に実行されてさえいれば、決して愛国心や郷土愛を否定するものにはならなかった。現在にいたる戦後教育の欠陥は、戦後の自民党の実際の教育行政の欠陥と日教組の人権至上主義教育によって生じた国民倫理の崩壊によるのであって、田中耕太郎が展開した教育基本法の精神自体に根本的な欠陥があったためではない。

そして現在の自民党と公明党の与党政権は、みずからの手になる「品格」のないフランケンシュタインのような継ぎはぎだらけの奇形的な新しい日本国教育基本法によって愛国心を人為的に作ろうとして、偽善的な国民をさらに養成しようとしているにすぎない。


真実の宗教が国民の間に普遍的にならないかぎり、そして、それによって正義と法に基づく真実の国家の原理が現実の中に入ってこないかぎり、また、その上に国家の原理である憲法が制定されないかぎり、たとえどのような憲法が制定され、どのような教育基本法が新しく制定されようと、国家と国民の人倫性は回復されることはないに違いない。

 

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