夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

ヘーゲル『哲学入門』第二章 国家社会 第三十一節 [諸国家と世界史]

2021年07月26日 | ヘーゲル『哲学入門』

ヘーゲル『哲学入門』第二章 国家社会 第三十一節[諸国家と世界史]

§31
Das  ausere Staatsrecht betrifft das Verhaltnis selbststandiger Volker durch deren Regierungen zu einander und beruht vor-nehmlich auf besondern Vertragen: Volkerrecht.

第三十一節[諸国家と世界史]
国外法(Das  ausere Staatsrecht  )は、独立した諸国民がその政府を介して相互に関係することにかかわるもので、おもに特殊な条約に基づいている。国際法。

Erlauterung.
説明

Die Staaten befinden sich mehr in einem natur-lichen als rechtlichen Verhaltnis zu einander.(※1) Es ist deswegen unter ihnen ein fortdauernder Streit vorhanden, so dass sie Ver-trage unter einander schliesen und sich dadurch in ein recht-liches Verhaltnis gegen einander setzen. Auf der andern Seite aber sind sie ganz selbststandig und unabhangig von einander.

諸国家の相互の関係は法的な関係にあるというよりも、それ以上に一つの自然の関係のうちにある。そのために諸国家の間には不断に紛争が生じるから、その結果として諸国家は相互に契約を締結して、それによってお互いを法的な関係のうちにおこうとする。しかし、その一方で、諸国家はそれぞれ完全に自立しており、相互に独立している。

Das Recht ist daher zwischen ihnen nicht wirklich. Sie konnen also die Vertrage willkurlich brechen und mussen sich daruber immer in einem gewissen Misstrauen gegen einander befinden. Als Naturwesen verhalten sie sich zu einander nach der Gewalt, dass sie sich selbst in ihrem Recht erhalten, sich selbst Recht schaffen mussen und also dadurch mit einander in Krieg geraten.

だから諸国家の間には法は実在しない。そこで諸国家は好き勝手に条約を破ることになるし、その結果、諸国家は互いにつねにある種の不信の状態に置かれることになる。だから自然的な存在として、諸国家は互いに暴力的にふるまう。諸国家は自分自身で権利を維持し、自分自身で権利を確保しなければならず、かくして、そのために互いに 戦争  に至ることになる。


※1
Die Staaten befinden sich mehr in einem natur-lichen als rechtlichen Verhaltnis zu einander.
国家と国家の関係は法的な関係というよりも、むしろ自然の関係である。
それに対し、国内法においては、国家に所属する諸個人の関係は法的な関係にある。というのも、諸個人の上には国家権力が存在して諸個人は強制的にその法的な関係のもとにおかれることになる。だから、個人の間に争いがあっても、暴力によらず裁判に訴えて各人の是非曲直を国家権力によって裁定することもできる。(理性的な関係)

しかし、諸国家の関係においては、個人と異なってそれらの上位にあって裁定する権力が存在しない。たとい今日においては国際連合があるといえども、それは決定的な強制力をもって諸国家を裁定する究極的な権力機構ではない。したがって諸国家の権利、利害、その是非曲直はそれぞれの国家が自身で自力で維持し確保せざるをえない。(自然的な関係)

そこで、結局のところにおいて、それぞれの国家の主張する「是非曲直」は暴力によって、すなわち戦争によって決着をはからざるをえない。つまり、世界史の次元においては、「正義」を担保するものは暴力なのである。

だから諸国家の関係はその結果として、ちょうどアフリカ大草原におけるライオンやシマウマ、象やトラなどの諸動物の関係と同じく、弱肉強食の、究極的には剥き出しの暴力によって物事の決着がはかられることになる。ヘーゲルがここで論証しているように、いまだ今日においても世界史における諸国家の関係は、建前として倫理的な志向を示しているとはいえ、本質的にはむき出しの「自然の関係」と同じである。

さきに太平洋を挟んで行われた大東亜戦争(太平洋戦争)もおなじで、日本とアメリカとの利害の対立は、もちろんに当然のことながら、それぞれに言い分はあり自己正当化できるものであるが、誤解を恐れずにいえば、結局のところ「勝者、強者が正義である」ということになる。そして勝者は「自己は正義、敵は悪」という立場で敗者に、占領国に対してゆく。

この立場を象徴的に表現するものが、「東京裁判史観」と呼ばれるものであり、この戦争の遺産として残されたものが、現行日本国憲法であり、いわゆる「平和憲法」を象徴する憲法前文と第9条である。



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価値は消費者のニーズで決まる⎯⎯マルクス「労働価値説」のまちがい

2021年07月13日 | 法の哲学
 
価値は消費者のニーズで決まる⎯⎯マルクス「労働価値説」のまちがい
 
以前の記事の再録です。
高橋洋一氏も「価値は消費者のニーズで決まる」ことを指摘されて、マルクスの「労働価値説」の愚説であることを説明されています。
価値の実体について、ヘーゲルの「法の哲学」における説明をマルクスはきちんと正しく受け継ぐことのできなかったことがわかります。


事物の価値と欲求 ⎯⎯⎯ 価値の実体について - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/MPGE0B


事物の価値と欲求 ⎯⎯⎯ 価値の実体について

先に拙訳だけツイッターで投稿して済ませたものですが、この§63において行われている、事物の使用価値と、その特殊な質から抽象された普遍性である価値の実体との関係についてのヘーゲルの考察は、アダム・スミスらによって 明らかにされてきた「労働価値説」や、さらにはマルクスの資本論における「投下労働価値説」や「生産価格論」の不十分さやその矛盾など、価値の本質をあらためて考えるのに参考になると思います。さらに原文もあわせて記録しておきました。
また「das Bedürfnis」 を「欲求」と訳すべきか「欲望」と訳すべきか、あるいは、それとももっと適当な訳語があるのか迷っています。よい意見があれば教えていただければうれしい。

§ 63
Die Sache im Gebrauch ist eine einzelne nach Qualität und Quantität bestimmte und in Beziehung auf ein spezifisches Bedürfnis. Aber ihre spezifische Brauchbarkeit ist zugleich als quantitativ bestimmt vergleichbar mit anderen Sachen von derselben Brauchbarkeit, so wie das spezifische Bedürfnis, dem sie dient, zugleich Bedürfnis überhaupt und darin nach seiner Besonderheit ebenso mit anderen Bedürfnissen vergleichbar ist und danach auch die Sache mit solchen, die für andere Bedürfnisse brauchbar sind. Diese ihre Allgemeinheit, deren einfache Bestimmtheit aus der Partikularität der Sache hervorgeht, so daß von dieser spezifischen Qualität zugleich abstrahiert wird, ist der Wert der Sache, worin ihre wahrhafte Substantialität bestimmt und Gegenstand des Bewußtseins ist. Als voller Eigentümer der Sache bin ich es ebenso von ihrem Werte als von dem Gebrauche derselben.
Der Lehnsträger hat den Unterschied in seinem Eigentum, daß er nur der Eigentümer des Gebrauchs, nicht des Werts der Sache sein soll.

§63[事物の価値、価値の実体]


使用される事物は、質的にも量的にも規定せられた一個の個体であり、そして特殊な欲求にかかわるものである。しかし、それらの特殊な有用性は同時に、同じ有用性のある他のものと量的に比較の可能なものであり、それによって充足される特殊な欲求は、欲求一般であり、
そして欲求一般という点において、その特殊性にしたがって同じく他の欲求と比較が可能であり、そして、そこからまた事物はそのようなものとして、他の欲求に対して使用される事物とも比較できる。この事物の普遍性は事物の特殊性から生じてくる単純な規定性であって、したがって、その特殊な質から抽象されるのであり、この事物の普遍性とは、事物の価値のことであり、その事物の価値の中に、その真の実体性が規定されており、そして意識の対象となる。事物の完全な所有者として私はその使用についてと同じく、その価値についても完全な所有者である。


中世の家の子郎党らは、その所有においては、彼らは単に、使用権の所有者にすぎないのであって、事物の価値の所有者ではないという違いがある。



※20190114追記
ここでは「die Sache」を「事物」と訳したが、「事柄」とも、単に「もの(物)」とも訳すこともできる。人間の所有の対象はかならずしも「物」のみに限らないから、とりあえずここでは「事物」と訳しておいた。「die Sache」と 「die Dinge」の違いがここではよくわからない。
この「die Sache」はのちにマルクスが「商品(die Ware)」として、資本論のなかで詳細に分析し、そのなかに含まれる要素として、使用価値と交換価値 Gebrauchswert und Wert(Wertsubstanz, Wertgrose) を見出し、さらに、その価値の実体として人間の労働力を対象としたことで知られる。
しかし、価値の実体とは、ここでヘーゲルが明らかにしているように、欲求一般という普遍性であり、「特殊な欲求」を抽象化することによって、その真の実体として「価値」を人間の意識の対象としたものである。したがって事物の真の実体、価値の実体は「人間の欲求」であって、「人間の労働力」ではない。

 
 
【左翼の末路】『長谷川が見た 逃走・裏切り・内ゲバ』
 
 
 
 
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ヘーゲル『哲学入門』第二章 国家社会 第三十節 [国内法としての憲法]

2021年07月05日 | ヘーゲル『哲学入門』
§30

Die Staatsverfassung bestimmt als  inneres Staatsrecht  das Verhältnis der besondern Gewalten    (※1)   Regierung, ihrer obersten Vereinigung, als zu einander, so wie das Verhältnis der Bürger dazu oder ihren Anteil daran.

第三十節[国内法としての憲法]

国内法 としての国家の憲法は、さまざまな特殊な権力とその最高の統一体である政府との関係を規定するとともに、特殊な権力相互の関係、市民とその政府との関係もしくは市民の政府への参画についても規定する。



(※1)

「さまざまな特殊な権力」とは、いわゆる「三権分立」として知られる立法権、行政権、司法権などが考えられている。現行日本国憲法においても、第四章 国会、第五章 内閣、第六章 司法、として規定されている。
「市民とその政府との関係もしくは市民の政府への参画」については「第三章 国民の権利及び義務」として規定されている。




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