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— review (@myenzyklo) 2017年10月30日 - 17:06
法の究極にあるところの法の本質は、法の根底に在って法を動かし、法を通じて自己自らを実現していくところの”創造的な力”を意味する。それは法ちの本質といわんよりも、むしろアリストテレスにならって、法の「形相」(eidos)と名づけられるべきであろう。
アリストテレスの哲学によれば、すべての事物は「素材」(hyle)を もつ。素材のない純粋の理念は、実在性をもたない。だから、素材から切りはなされた事物の本質を求めてみても、それは実在する事物の本質とは言えないのである。けれども、逆にまた、単なる素材だけを取り出してみても、
— review (@myenzyklo) 2017年10月30日 - 17:06
それで事物の実体の可能態であるにすぎない。かように、素材の中に可能態として潜在しているところの事物の実体を、現実態にまで発展せしめ、顕在化して行くものは、そのものの「形相」である。その意味で、形相は、或るものを正にそのものたらしめる本質であるにとどまらず、事物に内在しつつ、
— review (@myenzyklo) 2017年10月30日 - 17:11
そのものに不断の自己発展の力を与える原動者であり、そのものの本来あるべき姿を顕現せしめて行くところの「目的因」(causa finalis)である。法の中にも、そうした意味での形相がなければならぬ。例えば、夫婦の関係、親子の関係は、動物にも人間にも共通する家族の素材である。
— review (@myenzyklo) 2017年10月30日 - 17:40
しかし、人間の場合には、その素材が単なる素材で在るだけではなく、色々な形の家族制度として構成され、変化して行く。そこに、家族法の形相がなければならない。夫婦の関係や親子の関係を素材としつつ、家族の真にあるべき姿を顕現せしめて行く家族法の形相は、はたしていかなるものであろうか。
— review (@myenzyklo) 2017年10月30日 - 17:42
そこに問題がある。現実の特殊の法現象の中にひそむかような法のエイドスを、家族法とか、財産法とかいう特殊領域を超えた法一般のエイドスとしてとらえることができるならば、それこそ法を動かし、法を発展せしめ、法に法たる生命を与える原動者に外ならないであろう。法の究極に在るものは、
— review (@myenzyklo) 2017年10月30日 - 17:54
かくのごとき形相としての意味をもつところの法の本質なのである。
— review (@myenzyklo) 2017年10月30日 - 17:55
法の形相としての法の本質は、別の言葉をもってすれば、法の「理念」(idea)であるといってもよいであろう。法は理念をもつもの、理念を実現しつつあるもの、ラアドブルッフにしたがえば、
「法の理念につかえるという意味をもつところの実在」である。故に、法の根底にある理念を捉えることは、正に法の究極に在るものを明らかにする所以に外ならない。(尾高朝雄『法の究極に在るもの』s.7~9)>> <<
— review (@myenzyklo) 2017年10月30日 - 17:55
※久しぶりに、というか学生時代に読んだ記憶のある尾高朝雄の著書『法の究極に在るもの』をたまたま見つけたので、少し読み直してみた。最近になって国民の支持を失いつつある「左翼」が、人気を挽回するためにか、マルクス主義という正確な用語ではなく、彼らの政治的な立場を「立憲主義」という
— review (@myenzyklo) 2017年10月30日 - 18:02
多くの国民には聞き慣れない、したがって、あいまいでよく分からないような言葉でゴマかすようになったこともあるのかもしれない。先の総選挙で「希望の党」から排除された民進党の一部の政治家たちによって立ち上げられた政党の名も「立憲民主党」(=^▽^=)だった。
— review (@myenzyklo) 2017年10月30日 - 18:25
そもそも、この「立憲主義」という言葉の流行は、憲法九条を後生大事にする憲法学者たちが、「安保法制」の集団自衛権をめぐる憲法解釈の問題で国会で参考意見を述べた折に、安倍内閣と法制局の制定した「安保法制」が違憲である、と主張しはじめたことがもともとの発端である。
— review (@myenzyklo) 2017年10月30日 - 18:56
カントの考えたような「規制原理」(regulatives Prinzip)としての理念は、ここにいう法の理念ではない。さらに言い換えると、単に現実を「規正」(richten)するだけであって、自分自身は、永遠に現実化されることのない理想、シュタムラーの法哲学が法の導きの星として
— review (@myenzyklo) 2017年10月30日 - 23:50
掲げているような法の理念は、ここに求める法の窮極者ではない。もちろん、法の窮極に在る理念は、現実のものではなく、現実の目標であり、現実に対する価値の尺度となるであろう。その意味で、法に内在する理念も、これらの二元論的理想主義哲学の掲げるようなイデアと同じく、実定法に対する
— review (@myenzyklo) 2017年10月30日 - 23:53
価値判断の標準としての意味をもつであろう。(ibid.,s. 9)
— review (@myenzyklo) 2017年10月30日 - 23:53