夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

ヘーゲル哲学史2

2006年02月26日 | 概念論

フィヒテ哲学批判

ヘーゲルはフィヒィテ哲学をカント哲学の継承者であると考えている。「フィヒテの哲学はカントの哲学の完成であり、特にその首尾一貫した展開である。」岩波全集哲学史下三(p129)


フィヒテは「知られることの少ない本格的な思弁哲学」と「通俗哲学」を残したが、彼は後者によって多く知られている。ibid(p131)

一.本来のフィヒテ哲学

ヘーゲルはフィヒテの功績を次のように述べている。
カント哲学の欠陥を、「全体系に思弁的な統一を欠く没思想的な不整合」に見たヘーゲルにとって、フィヒテこそ、その不整合を止揚した人に他ならなかった。ibid(p132)
フィヒテの心を捉えてやまなかったのは、この不整合を揚棄する絶対的な形式だった。

フィヒテの哲学は「自我を絶対的な原理とするから──それは同時に自己自身の直接的な確実性である──宇宙の全内容がその所産として叙述されなければならない。」ibid(p132)

フィヒテもヘーゲルにとっても、自我とはこのような存在であった。すなわち言う。
「直接現実になっている概念と、その概念になっているこの現実──しかもこの統一を超えた第三の観念はなく、また、それは差別や統一をその中に含むものである──それが正しく自我なのである。自我は自己を思考の単純性から区別し、また同時に、この他者を区別する手段も直接的に自我に等しく区別されない。したがって自我は純粋な思考でもある。」ibid(p133)


フィヒテが原理とするこの自我は、概念的に把握された現実である。なぜなら、他者を自意識の中に取り込むことこそ、「概念的に把握する」ことに他ならないからである。そして、概念の概念とは、概念的に把握されるものの中に自意識が自己の確実性を見出すことである。これが絶対的な概念であり、絶対知である。しかし、フィヒテは、ただこの概念の原理を提起したのみであって、概念そのものを展開して、学を、絶対知を確立するまでには至らなかった。ibid(p134)


これを実現したのがヘーゲルであり、彼の精神現象学だった。

 

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ヘーゲル哲学史

2006年02月22日 | 概念論

久しぶりにヘーゲル哲学史を読む。インターネットの時代では、このヘーゲルの哲学史のテキストも、国内外のネットで検索して自室に居ながらにして読める。ただ、日本語訳「ヘーゲル哲学史講義」はまだネット上には上梓されていないように思われる。日本語ではまだ無条件に公開されているサイトはない。国民の税金を使ってなされた仕事なら、無条件に国民に公開すればよいのにと思う。商業上の利用は駄目だそうである。商業に対する偏見があり、文化的にも閉鎖的なのだ。

ネットの普及に応じて、ヘーゲル研究などのサイトも少しずつ充実してきているように思う。けれど、まだ、世界の最先端を行くような充実した研究サイトはないようである。大学での「象牙の塔」の内部での研究形態も変えてゆくかもしれない。

哲学史の第三部は、悟性哲学批判である。ヒュームやバークレイの主観的観念論、スコットランドの経験哲学、フランスの唯物論哲学を検証したのち、フランス大革命の観念的な実現であるドイツ啓蒙思想を経て、ヤコービとカント哲学の批判にはいる。

ヤコービの哲学

ヤコービも信仰を知識や思考と対立して捉えるが、ヘーゲルとっては、「思考とは普遍的な知識であり、直観とは特殊な知識である」であるから、ヤコービにおける直観に基づく信仰も特殊な知識にすぎないというのである。思考が媒介された知識であるのに対して、ヤコービの信仰は直接的な知識である。(岩波ヘーゲル全集哲学史下三p67  )
私たちが今知っているものは、無限に多数に媒介された結果である。   (ibidp69) にもかかわらず、ヤコービもまた、直接知の立場に、直観の立場にとどまっている。カントと同様にヤコービもまた、「思考の確信にとっては外的なものは何らの権威をもたず、一切の権威は思考によってのみ有効である」ことを主張しはしたが、ただ、カントの信仰は彼の不可知論によって単なる理性的な要請にもとづいたものにすぎないし、また、ヤコービのように「私の胸の中に啓示される」というだけでは、いずれにも証明も客観性もない。

ただ特殊なもの、偶然的なものを追い払う思想によってのみ、原理は客観性を得て、その客観性は単なる主観性から独立して、潜在的かつ顕在的な(必然的な)ものになる。絶対的観念論者ヘーゲルはこう批判する。

ヘーゲル批判の特色は、それぞれの哲学の意義と限界を明らかにし、その限界を、矛盾を内在的に弁証法的に克服して、より高い真理へと発展させることにある。  ibid(p70)こうして、ヘーゲルは彼に先行する二人の哲学を批判し克服してゆく。

カントの哲学

ヘーゲルはカント哲学を執拗に批判する。カント哲学はヘーゲル哲学の母胎だから。カントは自由や必然、存在と概念、有限と無限、一と多、部分と全体などを悟性的に規定するのみで、概念的に把握しない。
ヘーゲルのカント哲学批判の核心は、物自体を現象と分離した悟性的なカントの二元論、不可知論批判である。

カントは、事物を「概念的」に把握しない。カント哲学は、「悟性的な認識の方法を組織化した形式的な体系」にすぎない。  ibid(p104)

だから、カントたちが理解した、存在や有限や一などは概念ですらないと言う。カント哲学にあっては、自我は対象とは相互に他者として分離されたままである。しかし自我と外的対象は弁証法的な関係にある。(精神現象学を見よ。)

「カントの著作は思考しようという試み、言い換えると、物質という表象を生み出さざるをえない思考規定を明らかにする試み」である。だから、概念──テーゼ(正)、存在──アンチテーゼ(反)、真理──ジンテーゼ(合)が絶対的な形式として、カントにも予感されているが、それらは概念的に、演繹的に把握されてはおらず、カントにあっては経験的な感性と悟性が特殊のまま外的に結合されるにとどまっている。

ヘーゲルは、カントのあの有名な百ターレルの例を取り上げて、概念と存在を分離したことを批判する。これが、カント批判の眼目であると思う。ヘーゲルにあっては単なる観念の百ターレルが現実の百ターレルに移行する。このヘーゲルの概念観は誤解されて、ほとんど正確に理解されていないのではないだろうか。


ヘーゲルの概念観は、それをわかりやすい比喩でたとえるなら──このこと自体、悟性的な説明であって、概念の進展の必然性の論証はない──概念とは建築士の頭の中にある家の設計図か青写真のようなものである。それはもちろん実際の家ではない。しかし、この青写真・設計図は材料と労働を媒介にして現実の家となって実現し、この建築士の概念や表象は「揚棄」されて客観的な存在となる。


また、人間という「概念」は精子や卵子の内部に観念的に含まれる。ヘーゲルにとって存在はすべて内部にこのような概念を含むものとして理解されている。だから、目的とは「一つの概念が対象の原因とみなされる限りにおいて、その概念を対象化したもの」である。  ibid(p119)

そして事物はすべてそのような概念の自己展開として「概念的に把握」されてこそ、その真理性が客観的に実証されると言うのである。ヘーゲルにあって概念がカントやヤコービらの「単なる概念(観念)」と異なるのは、概念が潜在態から顕在化して自己を必然性をもって展開してゆくダイナミックなものとして捉えられていることである。

ヘーゲル哲学に対する批判や誤解は、その多くはこのヘーゲルの概念観に対する無理解から来ているように思われる。

また、ヘーゲルはカントが、特に自然論において、物質を原子からではなく、力と運動から構成しようとしている点も評価している。この点は、アインシュタインの相対性理論によってもその正しさが証明されているのではないだろうか。カントのダイナミックな自然論を評価しそれをヘーゲル独自に発展させた彼の自然哲学は、悟性的な現代物理学と比較しても、今日においても興味のあるところではないかと思う。

こうした哲学史などを読んでいつも感じることは、カントにせよヘーゲルにせよ、西洋哲学の著しい特色は、この自我や自意識についての分析の深さ鋭さである。この背景にはおそらくキリスト教の存在があると思う。キリスト教民族以外に、このような自我意識を形成できるだろうか。

ヘーゲルにとってもカントにとっても自我は個別性にあってなお直接的に本質的であり普遍的であり客観的である。この個別にして有限の自我の内部に無限と永遠が開示される。それはすでにキリスト教において準備されていた事柄だった。カントが有限性と無限性を悟性的に分離したの対して、ヘーゲルにあっては有限性が自己の内部の矛盾を克服して、無限性の高みへと登りつめる。ibid(p107)

世界はただ一つの種子から永遠に咲き出でる花にほかならない。ibid((p134)

いずれにせよ、ヘーゲルの法哲学講義や哲学史講義は、ヘーゲル哲学体系そのもののよき解説書であることは言える。彼の哲学の理解は、全体を理解しなければ細部が分からず、細部が分からなければ全体も分からないという構図があるのかもしれない。漸進的に読解してゆくしかないようである。

それにしても、ヘーゲルの概念論は現代においても意義をもつか。
私は以前に自由民主政治の概念至高の国家形態の小論文を書いたことがある。これらはいづれも、ヘーゲルの概念論を踏まえた、理念の具体化の試みである。少なくとも私にとっては意義がある。

ヘーゲルの概念論は引き続き勉強して、まとめてゆきたいと思う。あまり深く研究されていないヘーゲルの概念論と自然哲学は引き続きテーマにしてゆきたいと思っている。

もし、こうした問題に興味や関心をお持ちの方があれば、議論し切磋琢磨してお互いの認識を深めてゆきましょう。

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概念論③

2006年02月12日 | 概念論


メモ

ヘーゲル哲学においては、事物の存在がその概念に一致していることが真理であるとされることは先に述べた。(概念論②)

この概念は根拠としての存在から、自己を展開したものであり、存在を自分の内部に本質と統一された直接性として持っている。

ヘーゲルの真理概念は、対立物の統一という意味ももっているが、だから概念は存在と本質の両者を止揚するものとして真理である。
それはまた、自己を実現しつつある実体的なものとして力でもあり、必然的なものでもある。


この概念は、三つの要素を、すなわち普遍性、特殊性、個別性を含んでいる。普遍性と個別性は分離されず、その特殊性において結びついている。判断は、「個別は普遍である」と論理形式で現されるから、判断は、概念の特殊性である。

個──特──普

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至高の国家形態

2006年02月09日 | 国家論

皇室典範の改正問題を小泉首相が提起することによって図らずも、国民の世論が分裂しかねない危機を招いている。愚かなことである。最低の政治的な選択というほかはない。皇室典範(伝統として確立された「自然法」としての)については、本来的に改変ということはありえない。なぜなら、皇室典範の概念からいってそれは過去を踏襲し、将来に世襲してゆくこと自体に意義があるからである。この問題について前に論じたことがある。

男系天皇制か女系天皇制か──皇室典範に関する有識者会議をめぐる議論

保守と改革──守るべきもの改めるべきもの

これらの問題について、もう少し考察してみたい。

至高の国家形態とは、すなわち国家の概念は、その現実的な形態としては立憲君主制を取る。それは自由秩序が相互に緊張しながら調和している国家である。

自由は人間にとって至高のものであって、人間にとって光や空気がなければ肉体が死ぬように、精神的な存在である人間にとっては、自由がなければ精神は死ぬのである。だから自由のない国家は悲惨である。

しかし、神ならぬ人間はこの自由を正しく行使できず逸脱する。自由は専横でもなければ恣意でもない。自由とは守るべき秩序を正しく守ることがほんとうの自由である。

しかし、フランス革命や中国、カンボジアの文化大革命に見られたように、秩序なき「自由」において人間の悪は往々にして多数者の暴虐に帰結する。それは、過去の革命国家に例を見るように、いわゆる「人民民主主義」国家が、国家としての概念に一致せず、いわば奇形国家だからである。そうした国家ほど国民に不幸をもたらすものはない。

もっとも完成され調和の取れた、理念として正しく安定した国家は、君主の人格の中に国家全体の秩序を見る国家である。この秩序の中に国民の自由は最大限に確保されるのである。

秩序は君主制において実現される。君主制の中でも、もっとも純粋な君主制は一系君主制である。人間は男性と女性しかないから、現実には男系君主制か女系君主制かのいずれかでしかない。日本は伝統的に男子一系君主制に従ってきた。そして、君主制とは世襲そのものに意義があるから、日本にとっては従来どおり男系君主制を過去と同様に未来においても持続することがもっとも正しい選択である。もし日本が伝統的に女子一系君主制をとってきたのであれば、将来においても女系君主制を維持してゆくのが最善の選択である。男女同権とか男尊女卑といった、悟性的な浅薄な論議ではない。


欧米にも君主制があるが、それは、日本の男子一系君主制ほどその世襲は純粋なものではない。にもかかわらず、わが国が世界にもまれに貴重な男子一系世襲制を取り替えて、そこに女系君主制を導入するのは、世襲制の純粋を損なうものであって、君主制の本来の概念からいって、改悪というほかはない。それは、タリバンのバーミヤンの佛像破壊などとは比較にならない、過去の貴重な伝統遺産の破壊以外の何ものでもない。小泉首相をはじめ「有識者」と称される人々は、悟性的な理解力しか持たない人には、それが理解できないのである。君主制の価値を正しく理解するのは最も困難なことである。(欧米人の多くも理解できない)

明治の大日本帝国憲法で、伊藤博文は、「立憲君主制」の理念にしたがって、日本国を、正しい国家概念へと、「至高の国家」へと形成するのに少なからず貢献した。しかし、「立憲制」についての、すなわち「民主主義」について、伊藤博文をはじめ国民の理解に未熟と欠陥があったために、昭和の初期に、正しい「立憲制」を逸脱して「全体主義」にいたる道を開けてしまった。

自由とは共同体の意思が国民の個々の意思と一致することにある。民主主義が自由と不可分の関係にあるのはそのためである。戦前の大日本帝国憲法の「立憲君主制」では、その「立憲」における民主主義の未熟のために、「全体主義」を許し、太平洋戦争の開戦を抑止し切れなかった。現在の日本国憲法が今後改正されるに当たっても、この過去の教訓に深く学んで、より完成された民主主義と君主制にもとづく「立憲君主制」の理念を新しい憲法で追求してゆく必要がある。

曲がりなりにも保持しているわが国の「立憲君主国家」体制は、至高の国家体制である。日本国民は、自らの国家体制に誇りを持つべきであるし、さらに、国家と国民は「立憲君主制」国家の理念を追求してゆくべきだと思う。

アメリカなどに見られるような大統領制国家は、剥き出しの市民社会国家であって、ただ多数であることだけが「真理」とされる、恣意と悟性の支配する、往々にして品格と理性に欠ける国家であることを日本国民は忘れるべきではないだろう。

 

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自由と民主政治の概念

2006年02月05日 | 国家論

自由にして民主的な国家の形成は、現代国家国民の課題である。しかし、わが日本において、この理念が明確に自覚され追求されいるかどうかは疑わしい。
小泉首相や竹中総務相らによって遂行されつつある、いわゆる小泉改革は、日本の自由と民主主義に発展にとっていささか貢献しつつあるが、それでも、その政治がまだ理念と哲学に十分な裏付けを持っているとは思えない。

特に緊急の課題を要するのは、民主党の改革である。自民党の改革は小泉首相の手によってかなり実行された。それに対して、指導者の力量の不足もあって、いまだ民主党が政党として成熟せず、十分な使命を果たしえていないことが、小泉改革による日本政治の跛行状態をいっそう大きいものにしている。
将来の日本の政党政治において重要な働きを果たすべき民主党の混迷振りは目に余る。
前原誠司党首は、この際、民主党の内部での亀裂を恐れず、政策論争をし、特に、横路氏等の社会民主主義者たちを民主党の内部から理論的に清算する必要がある。そうして、民主党を真の民主主義政党として再建する必要がある。横路氏らは理念的により近い社民党や共産党と共闘すればいいのである。彼らは中国や北朝鮮の独裁国家に道を開く。特に民主党に隠れている、旧社会党出身者らの社会主義の残滓を清算する必要がある。
以前、小泉郵政総選挙での民主党の敗北を契機に、日本の政治の概念と民主党の再建について、考察した。今もなお有効であるので再録したい。

民主党四考

民主党の再建と政界の再編について

(一)

今回の総選挙では民主党は大敗した。小選挙区制では、得票率以上に獲得議席数に差が出る。自民党に敗北を喫したとはいえ、自民党と民主党との間に得票数でそれほど悲観するほど差があったわけではない。


再建のために、民主党のこれからはどのようにあるべきなのか。先に敗因の分析で明かにしたように、方向性としては民主党が根本的に国民政党へと脱皮することである。


国民政党に脱皮するとはどういうことか。少なくとも自民党は今回の総選挙で、小泉首相の意思によって従来の支持基盤であった特殊利益団体の関係を切り捨てて、国民全体の利益本位の立場に立つ政党になろうとした。自民党は特定郵便局という従来の支持母体の利益に反しても、郵政民営化という国民全体の利益の方向へと軸足を移したのである。


このように特殊利益団体の関係を切り捨ててでも、自民党は国民全体の利益本位の立場に立つ政党になろうとし、また国民もそれを認めて、自民党に勝利を得させた。


もちろん、いまだ自民党には農協や一部の大企業や銀行、金融会社という多くの特殊利益団体の支持を得ているが、少なくとも、今回の総選挙を見ても分かるように、これらの特殊利益団体と国民全体の利益が矛盾し、反する場合には、自民党は特定の利益団体の既得権益よりも、国民全体の利益を優先する国民政党の性格を明確にしはじめた。


これに対し、民主党はどうか。旧社会党勢力の生き残りを党内に色濃く残しており、その支持基盤である官公庁や大企業の労働組合などの特殊利益団体の意向を無視し得ないでいる。民主党はまず国民全体の普遍的な利益を、国益を最優先する政党に生まれ変わり、自民党と同じように、もし国民全体の利益と労働組合などの一部の特殊利益団体の利害が矛盾する場合は、躊躇なく国民全体の利益を優先する政党にならなければならないのである。民主主義に立脚する国民政党とはそのようなものである。


今日労働組合の組織率が低下し、引き続き都市化が進み、無党派層が有権者のなかで比重を増しているとき、このような民主主義の国民政党に変化しなければ、政権を担うことは難しい。そのためには何よりも民主党の指導者は、旧社会党の勢力を統制し、彼らの社会民主主義を排除する意思と実力を持たなければならない。


それは、外交・教育・軍事などの国家の根本政策においては現在の自民党とほぼ同じ政策を選択することになる。


これはなにも政権を獲得するために政略的にそうした政策、思想を採用するのではない。現在の菅直人氏や岡田克也氏は左よりの思想に過ぎると思う。これでは国民は絶対に民主党に政権を託すことはできない。前原誠司氏などの、より右よりの(岡田氏らと比較してである)政治家が民主党を指導できるようにしなければならない。現在の自民党とほぼ同じような政策、思想を主体的に確立するのでなければ、国民政党になれず、したがって政権党にもなれないということである。もし、それができないのであれば、政権を担うという大それたことは考えない方がよい。

(二)

岡田民主党では国民政党に成りきれないのは、まず党内の支持基盤である労働組合に対して、小泉首相が特定郵便局という支持基盤を蛮勇をもって切り捨てたようには切り捨てられなかったことである。もう一つは、外交政策において、とくに岡田克也氏はアメリカとの関係について、60年、70年の安保闘争世代の影響を受けてか、意識的無意識的に反米的色彩が見え隠れする。まあ、それは言い過ぎであるとしても、国民政党の指導者は民主主義者であると同時に正真正銘の自由主義者でなければならない。


岡田克也氏は民主主義者であることは認めるるとしても、自由主義についての理解が不足している。そのためにアメリカという国の本質を捉えきれないのである。イラクの撤退を口にするなどというのは、自由主義者のする思考ではない。


世界に自由を拡大しようというアメリカの歴史的使命をもっとよく理解し、さらには、「自由」の人間にとっての哲学的な意義を理解しなければならない。さもなければ、アメリカ人がなぜ基本的にブッシュ政権のイラク侵攻を支持し、北朝鮮への人権法案を制定したか理解できないだろう。日本の民主党の指導者たちは、特にアメリカの建国の精神である「自由の理念」をよく理解しなければならない。自由主義国家であるイギリスと、アメリカの民主党が共和党の対イラク政策にほぼ同調している意味をよく考えるべきである。にもかかわらず、愚かにも岡田民主党は、12月の自衛隊のイラク撤退を口にしている。


対イラク問題や対米政策については小泉首相の選択は基本的に正しいのである。民主党は自民党と対イラク政策で基本的に同調することに躊躇する必要はない。たとい政策を同じくしたとしても、それが民主党の主体的な思想の選択であれば、全然問題はない。むしろ、民主党は、アメリカでは民主党も共和党も国家の外交や教育など国家の基本政策にほとんど差がないことを知るべきである。イギリスの二大政党の場合も同じである。民主党は自民党と国家の基本政策で一致することをためらう必要はない。


それにしても、日本の政治がもっと合理的に効率的に運営されるためには、どうしても、政党を再編成する必要がある。どう考えても、西村慎吾氏と横路孝弘氏が同じ政党に所属することなど本来ありえないのである。少なくとも政党が理念や哲学に従って党員を結集している限り。


日本の政党は理念や哲学に基づいたものにはなっておらず、民主党も自民党も一種の選挙対策談合集団になっていることである。これは日本の政党政治の最大の欠陥である。早く政界は改革されなければならない。


具体的には、自民党と民主党はそれぞれ再度分裂して、自由主義に主眼を置く政治家と民主主義に主眼を置く政治家が、それぞれの理念に従って自由党と民主党の二つの政党で再結集し、二十一世紀の日本の政治を担って行くべきだ。もちろん自由党は経営者・資本家の立場を代弁し、民主党は勤労者・消費者の利益と立場を代弁することになる。そして、自由主義と民主主義のバランス、両者の交替と切磋琢磨によって日本の政治を運営して行くのが理想である。もちろん、自由党も民主党も、両者とも、まず国家全体の利益を、国益を優先する国民政党であることが前提である。

(三)

教育、外交、軍事、社会保障などの国家の根本的な政策では、自由党も民主党も八割がた一致していてよいのである。また、そうでなければ、国民は安心して民主党に政権をゆだねることができない。民主党の新しい指導者たちは、これらの点をよくよく考えるべきだと思う。


岡田克也代表の辞任を受けて、後継者選びが民主党で本格化している。しかし、その経緯を見ても、民主党が、その党名にもかかわらず、日本国民を「民主主義」をもって指導し、教育できる政党ではないことを示している。


党代表の選出にあたって、選挙ではなく、どこかの料亭で、「有力者」(鳩山由紀夫、小沢一郎氏など)が話し合い(談合)によって、決定しようというのだから。

この一件をもって見ても、鳩山氏らの民主主義の理解の浅薄さが分かる。
民主党の幹部の体質の古さは、昔の自民党以上である。


民主主義とは、言うまでもなく、決して党内の個人の意見を画一化することではない。党の構成員の意見が異なるのは当たり前で自明のことである。むしろ、指導者は党員の意見が互いに相違して、議論百出することを喜ぶぐらいでなければならないのに、鳩山氏は、「選挙になると必ずしこりが残るから」という。


党内での多数決意見が組織の統一見解として採用されたからといって、個人は自己の意見を変える必要はない。少数意見の尊重という民主主義の根本が、分かっていないのではないか。


会議のなかの議論を通じて少数意見者に認識に変化があり、自らの意見を多数意見に変更するかどうかは全く次元が異なるのである。納得が行かなければ、多数意見に変更する必要はない。


またそれと同時に、少数意見の持ち主は党内で議決された多数意見には規律として従うという民主主義の最小限のマナーも弁えない者が、民主主義を標榜する民主党の中にいる。


組織としての党の決定に、規律に従うことと、個人の信条として多数意見に反対であることが両立するのでなければ民主主義政党であるとは言えない。この民主主義の基本さえ十分に理解されていないように思われる。だから、鳩山氏や小沢氏は党代表選挙を避けようとするのである。
これでは、民主党は国民に対する民主主義教育という重大な職責さえ果たせないだろう。


民主党は何よりも、識見、モラルともに卓越した真の民主主義者の集団であるべきであるのに、未だそうなってはいない。民主党員が、とくに、その指導者たちが民主主義の思想と哲学をさらに研鑚され、民主党を真の民主主義者の集団として自己教育を実現することによって、国民にとって民主主義者の模範となり、尊敬を勝ち取れるように努めてほしい。そうなれば国民も安心して民主党に政権を託すようになるだろう。


また、自由党の党員もまた、自由主義者として自由の哲学をしっかりと身につけ、国民の幸福にとって不可欠な自由の護民官として活躍することである。日本の政治は一刻も早く、自由党と民主党の二つの政党で交互に担われ、切磋琢磨しあうようになることを願うものである。国民もこの「政治の概念」をしっかりと理解し、それが実現するように行動すべきだと思う。

05/09/13

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必然性と運命

2006年02月02日 | 哲学一般


「自分の身にふりかかることを自分自身の発展とのみ見、自分はただ自分の罪を担うのだということを認める人は、自由な人として振舞うのであり、その人は自分の身にどんなことが起こっても、それは少しも不当ではないのだという信念を持っている。」
 ヘーゲル「小論理学§147(p100)」

これは小論理学で可能性と現実性の統一としての「必然性」について考察しているときに、ヘーゲルが必然性の問題を哲学的なカテゴリーから逸れて、「人間の運命」の問題として補注の中で考察したときの言葉である。この論考に見ても分かるように、この哲学者が、人間や人生の機微にも深く通じていたことが分かる。

同じ個所では、哲学と宗教の認識方法の違いにも触れて、次のようにも述べている。

「われわれが世界は摂理によって支配されているという場合、この言葉のうちには、目的はあらかじめ即自かつ対自的に(絶対的に)規定されたものとして働くものであり、したがってその結果はあらかじめ知られ、欲せられていたものと一致するということが含まれている。世界が必然によって規定されているという考え方と、神の摂理の信仰とは、決して相容れがたいものではない。
神の摂理ということの根底に横たわっている思想は、後に示されるように概念である。概念は必然性の真理であり、そのうちに必然を止揚されたものとして含んでおり、逆に必然性は即自的には概念である。必然性は概念的に把握されていない限りにおいてのみ、盲目なのである。
したがって、歴史哲学が、生起したことの必然性を認識することをその任務と考えているからといって、それが盲目的な宿命論だという非難ほど誤ったものはない。むしろ、歴史哲学は、そうすることによって、弁神論の意義を持つようになるのであり、神の摂理から必然を排除するのが神の摂理を敬うことになるのだと考えている人々は、その実こうした捨象によって、神の摂理を盲目的で理性のない恣意へ引き下げているのである。
素朴な宗教意識は犯すべからざる永遠の神意について語るが、これは必然が神の本質に属することをはっきり承認しているのである。神でない人間は、特殊な考えや欲求を持ち、気まぐれや恣意によって動くから、彼が望んでいたものとは全く別なことが、その行為から生じてくるということが起こる。しかし、神は自分が欲することを知っており、その永遠の意志は内外の偶然によって定められることがなく、自分の欲することは必ず遂行する。──必然という見地は、われわれの信条、および態度にかんして、非常に重要な意義を持っている。」(ibid  p96)

ここには、ヘーゲルの歴史意識と宗教観との密接な関係が読み取れる。彼にとって、歴史哲学の探求は、歴史の中に働く理性を認識することであり、弁神論の意義をもっていた。彼の哲学は必然性の追及でもあったが、それは、宗教的には神の意志の探求に他ならなかったことが分かる。

現在の世界史の進行は、神の意志の現れであり、その摂理である。この摂理の探求の中から、多くの歴史家、哲学者が、盲目的な宿命ではなく、法則として理性として、神に自覚されている目的として認識したものが自由であった。その意味で、自由は歴史の概念である。ヘーゲルのこの歴史観は必ずしも独創ではなく、カントの歴史観を継承し発展させたものである。

またここでは、ヘーゲル独自の概念観もよく現れている。彼にとって概念とは、マルクスが誤解したような単に抽象された観念ではなく、いわば事物に内在する魂であり、宗教的に表現すれば、神の意志でもあった。しかし、唯物論者は、観念的な実在としての概念を認めず、運動の究極的な根拠として物質しか認めないが、唯物史観では、人格的な精神的な概念である自由をどのように説明するのだろうか。どちらが現実をよく説明するか。唯物論では意志の自由の問題をどのように扱うのだろうか。

繰り返し述べているように、宗教と哲学の違いは前者が表象的な認識であるのに対して、後者が概念的な認識であるということにある。しかし、表象的な認識はもちろん「誤れる認識」のことではない。それによっても法則や真理は認識される。宗教を単に阿片として切り捨てるだけでは(そうした側面のあることはヘーゲルも認めている)片付かないだろう。ただ、宗教の認識は、その形式上の不完全から、必然的に哲学に移行せざるをえないということである。宗教の克服はこの面で実現されるだけである。宗教に含まれる真理を感情的に否定し去ることはできない。


私たちの目の前で進行している世界史。イラク問題やパレスチナ問題、さらには北朝鮮問題など、多くの偶然の集積の中から必然性の貫徹と自由の実現という歴史の究極的な目標を洞察すること、それが歴史哲学の任務であることは今日でも同じである。これは個人と人類の運命の探求でもある。

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