2000年12月20日発行のART&CRAFT FORUM 19号に掲載した記事を改めて下記します。
或る午さがり、鉛筆を削っていると、犬の吠える声に混じってこんにちわの声がした。窓からのぞくと知人のKさんだった。Kさんは車で15分程のところに工房を持つ陶芸の作家だ。アクの強いオブジェ的な作品も素晴らしいが、静かな気配が漂う器ものが私は好きだ。どうぞどうぞと言いながらコーヒーを入れる。今日のKさんは浮かない顔をしている。灰皿にたばこをぎゅつともみ消した。コーヒーを一口飲んだ。Kさんの身体全体から何やら重たげなため息が漏れている。確かKさんの個展は数ケ月後に決まっていたはずだ。制作進んでます?いやぁ‥‥といいながらKさんはまたたばこに火をつけた。それから、なんにも出て来なくってさと苦笑いしながら言った。造ったって売れないしねえとも言った。ははーん、なんにも出てこなくなった素はこれだなと思った。本当は心にもない事を口にしてしまうKさんの内部にいま、嵐が吹き荒れている。眼の前の的に占領されてしまっているのだなあと解かり、嵐よ静まれとあれこれの力ずけの言葉もむなしい。かといって‥‥その化物に呑み込まれてほしくない。どうしてよいか手段の尽き果てた時こそ、天地瞑寞になってしまった場合こそ、人間は最もよく生きている。そこには生命の火花が散っている。と、好きな作家のこんな文章を思い出し口にしてみる。様々な障害と力くらべの綱引きのなかで、何やら試されているなあと言うことは常に感じる。Kさんはふっと笑った。それから硝子越し遠くに眼をやった。いつの間にか陽は傾き、庭の落ち葉に夕焼けが染み、いつそう赤みが濃くなっていた。きれいだねえとKさんがつぶやく。みる間に、あたりは夕闇となる。
午さがり私は鉛筆を削っていた。
短いものや長いもの、六角形の角からゆっくりと、けれどもすっすっと、3センチ程ナイフを滑らせていく。無垢の木肌の六つの面とその境の六本のシャープな線を保ちながら、鉛色の芯7ミリ程の先端に向かう。六つの面に支えられ芯はすっくと尖ってくる。10数本削り青色の硝子のカップに納める。窓からさしこむ光を吸収し鈍く光る硝子や尖り屋根の六角柱の林立。眺めているといつしか小人の眼になつたり、ガリバーの眼になったりしてくる。くるっと三日月にカーブしている削りクズの小山をふと見ればこれもまた何事かを刺激してくるのでクズなどと失礼な事はいえない。なぜか子供の頃から鉛筆削りが好きだった。どんなにちびた鉛筆もサックをつけて削った。それでも間に合わなければ鉛筆のおしりに糊をつけてちびた二本を繋げて削った。こうなると単に貧乏性ということになりそうで、それもあると認めながらも、子供ながらにその時間が好きだった面があるなと、いまの自分に重なりそう想う。そう、習字の時間も好きだった。墨をすっている時がいいのだ。漆黒の硯の中のわずかな透明な水の表面を撫ぜるように優しくゆっくりと、墨を持つ手は行ったり来たりを繰り返す。墨のいい匂いの蒸発。風にも似た墨をするかすかな音の重なり。リズム。静寂。空っぽ状態でありながら、けれども密度の濃い透明がゆったり動き流れていたような不思議な空間だったなあと思い出される。
母親の胎内とはこんなふうではなかったのかしらと、ふと想われた。母胎。
はい、止めてなどと先生は言わない。自分自分の身体全体が、頃合を感じ取る。
鉛筆を削っている時や、墨をすっている時、確かに眼の前のそのことをしているのだけれども、心は何処かに飛んでいる。遠い彼方に出かけているような虚ろな夢見感覚が重なっているようだ。そういえば胎児は胎内での10カ月の間に太古の祖先が歩んだ進化の過程を追体験するという。私たちはみな胎内での壮大なドラマが身体の細胞の一つ一つに染み記憶されているということになる。いま、この瞬間にも休みなく記憶されている訳だ。自分もかって胎児であったように、私たちを産み出した母胎に再び引きよせられる。奥底からはしきりに寄せてはかえす波音の呼びかけが聞こえてくるようだ。臍のうを潜りぬけた彼方はどんなふうであるのだろうか。あの教室で経験した茫茫とした沈黙の静けさが満ちているのだろうか。そこも母胎にみえてくる。
ニャッと声がして猫が入ってきた。ストーブの傍らでもう丸くなっている。猫は四六時中夢の中ではずいぶん遠方に出かけているのだろう。もしかしたら猫の現実はあちらで、時々、あちらから人間を喜ばせに、こちらにやってくるのじゃないかしら。
或る午さがり、鉛筆を削っていると、犬の吠える声に混じってこんにちわの声がした。窓からのぞくと知人のKさんだった。Kさんは車で15分程のところに工房を持つ陶芸の作家だ。アクの強いオブジェ的な作品も素晴らしいが、静かな気配が漂う器ものが私は好きだ。どうぞどうぞと言いながらコーヒーを入れる。今日のKさんは浮かない顔をしている。灰皿にたばこをぎゅつともみ消した。コーヒーを一口飲んだ。Kさんの身体全体から何やら重たげなため息が漏れている。確かKさんの個展は数ケ月後に決まっていたはずだ。制作進んでます?いやぁ‥‥といいながらKさんはまたたばこに火をつけた。それから、なんにも出て来なくってさと苦笑いしながら言った。造ったって売れないしねえとも言った。ははーん、なんにも出てこなくなった素はこれだなと思った。本当は心にもない事を口にしてしまうKさんの内部にいま、嵐が吹き荒れている。眼の前の的に占領されてしまっているのだなあと解かり、嵐よ静まれとあれこれの力ずけの言葉もむなしい。かといって‥‥その化物に呑み込まれてほしくない。どうしてよいか手段の尽き果てた時こそ、天地瞑寞になってしまった場合こそ、人間は最もよく生きている。そこには生命の火花が散っている。と、好きな作家のこんな文章を思い出し口にしてみる。様々な障害と力くらべの綱引きのなかで、何やら試されているなあと言うことは常に感じる。Kさんはふっと笑った。それから硝子越し遠くに眼をやった。いつの間にか陽は傾き、庭の落ち葉に夕焼けが染み、いつそう赤みが濃くなっていた。きれいだねえとKさんがつぶやく。みる間に、あたりは夕闇となる。
午さがり私は鉛筆を削っていた。
短いものや長いもの、六角形の角からゆっくりと、けれどもすっすっと、3センチ程ナイフを滑らせていく。無垢の木肌の六つの面とその境の六本のシャープな線を保ちながら、鉛色の芯7ミリ程の先端に向かう。六つの面に支えられ芯はすっくと尖ってくる。10数本削り青色の硝子のカップに納める。窓からさしこむ光を吸収し鈍く光る硝子や尖り屋根の六角柱の林立。眺めているといつしか小人の眼になつたり、ガリバーの眼になったりしてくる。くるっと三日月にカーブしている削りクズの小山をふと見ればこれもまた何事かを刺激してくるのでクズなどと失礼な事はいえない。なぜか子供の頃から鉛筆削りが好きだった。どんなにちびた鉛筆もサックをつけて削った。それでも間に合わなければ鉛筆のおしりに糊をつけてちびた二本を繋げて削った。こうなると単に貧乏性ということになりそうで、それもあると認めながらも、子供ながらにその時間が好きだった面があるなと、いまの自分に重なりそう想う。そう、習字の時間も好きだった。墨をすっている時がいいのだ。漆黒の硯の中のわずかな透明な水の表面を撫ぜるように優しくゆっくりと、墨を持つ手は行ったり来たりを繰り返す。墨のいい匂いの蒸発。風にも似た墨をするかすかな音の重なり。リズム。静寂。空っぽ状態でありながら、けれども密度の濃い透明がゆったり動き流れていたような不思議な空間だったなあと思い出される。
母親の胎内とはこんなふうではなかったのかしらと、ふと想われた。母胎。
はい、止めてなどと先生は言わない。自分自分の身体全体が、頃合を感じ取る。
鉛筆を削っている時や、墨をすっている時、確かに眼の前のそのことをしているのだけれども、心は何処かに飛んでいる。遠い彼方に出かけているような虚ろな夢見感覚が重なっているようだ。そういえば胎児は胎内での10カ月の間に太古の祖先が歩んだ進化の過程を追体験するという。私たちはみな胎内での壮大なドラマが身体の細胞の一つ一つに染み記憶されているということになる。いま、この瞬間にも休みなく記憶されている訳だ。自分もかって胎児であったように、私たちを産み出した母胎に再び引きよせられる。奥底からはしきりに寄せてはかえす波音の呼びかけが聞こえてくるようだ。臍のうを潜りぬけた彼方はどんなふうであるのだろうか。あの教室で経験した茫茫とした沈黙の静けさが満ちているのだろうか。そこも母胎にみえてくる。
ニャッと声がして猫が入ってきた。ストーブの傍らでもう丸くなっている。猫は四六時中夢の中ではずいぶん遠方に出かけているのだろう。もしかしたら猫の現実はあちらで、時々、あちらから人間を喜ばせに、こちらにやってくるのじゃないかしら。