◆踊る人 2004
2008年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 49号に掲載した記事を改めて下記します。
「風を入れる」 榛葉莟子
きのうとはまるでちがう今朝の明るさ。曇り硝子に写る木の枝々の影。葉の一枚一枚もくっきりと照らし出している窓の向こうの朝の陽。微かに揺れるそれが朝の陽のひかりの呼吸のように私の内に滲みてくる。猫の声に起こされた早起きの徳かしらなどと気の晴れない日々からの転機の単純を笑う。
季節の巡りはゆるやかに自然に発生し移行していく。そう自然にしぜんにシゼンに。そしていま春の尻尾と夏の頭が見え隠れする狭間の季節。この狭間の季節の曖昧模糊の独特は、其処此処の水田からの蒸発の湿り気と、今朝のような明るい陽のひかりの乾燥との調合が良い具合の雰囲気をつくり、香りを醸し出しているからだろうか。何かと何かの間、狭間に気持ちがいく。眼がいく。そこに隠れている存在が気にかかる。
風はそよそよと水面を走り一面のしぼを絶え間なくつくる。それは田植えのこの季節、いつまでものぞき込み魅入ってしまう水面の美しさ。そして、ついいましがた魅入った発見の感動をどのように言葉にできるだろうか。その水田の透明な水面に吹く微かな風は、さわさわと走る一面のしぼをつくる。そこへ、陽のひかりの魔法が加わった。細々とした緑の幼い苗を透かした透明な水面に、輝く光の糸で編まれた投網を広げたような影が一面ゆらめいた。そのひかりの網がしぼの影とは信じがたく、水田に射し込む陽のひかりがつくるひかりの網のゆらめきにしばし呆然と魅入った。しぼの揺れとともに、ひかりの網のめは縮んだり広がったり曲線を描きながら変形しゆらめく。ひかりの糸どうしよじりあいながら面を広げている。その網のめのひかりの糸の動き、構造はスプラングそのものと気づいた時、ほーらねと見せられた気がした。生き物のようにさわさわとゆらめいている薄い薄いもの。透き通ったひかりの薄布を目の当りに見ている現実に感動する。何事かの合図は予測なくやってくる気紛れ者だけれど、発見が解釈と理解に繋がった時には、うれしくて見えない何かの道案内にありがとうを言う。
射し込む陽のひかりが角度を変えたとたんひかりの投網は溶けるように消えた。世にも美しい束の間の時間のなかに出かけていたような思いで、しばらくは、透明な水面の奥に眼を透かしていた。幼い草色の稲の先がそよそよとかわいらしい。土、水、風、ひかり、角度。縮小と拡大、ゆがみ…自然界の調合のほどよいかげんの瞬間に隠れていたものはあらわれる。そのかげんは神のみぞしる?。経験を通さない感動はありえないけれど、そこに自身の問いの意識と接続し繋がる発見の喜びが感動を運んでくるのではないのかしら。すべては精神の磨かれように繋がりかたちを生む。もっとも密着した己の内部との駆け引きはおわることのない自由を含んでいる。
午後のこと、歩いているとすぐ先に烏が飛んできた。くちばしが何か丸いものくわえている。何かおいしいものを見つけたのだ。歩いていくと、上からその丸いものが落ちてきた。あっ、落としたと笑ってしまったがそうではない。この胡桃の実を割ってほしいということらしい。なるほど、いいですよ。えいっと胡桃を踏む。堅い鬼胡桃は二つに割れた。これでいいんでしょと電線に止まっている烏に言った。ありがとと言ったかどうかは聞こえなかった。それから少し歩いて振り返ると烏は器用に胡桃の白い実をついばんでいた。烏に頼まれごとをされたのも引き受けた親切も初めての経験だった。何か妙な感慨が沸いてきて顔がほころんだまましばらく歩く。
風を入れるという言い方がある。私の場合はこの散歩はその感覚で、ちょっと風を入れてくるという具合だ。作品をねかせておくというのも風を入れるのと同じたとえで、風にさらすというたとえとも似ている。そういえば文豪のヘミングウエイは書き上げた原稿はひとまず貸金庫に納めていたのだという。貸金庫の中で原稿は海風に吹かれて寝ているのだ。あの「老人と海」も一度は寝ていたのかもしれない。時を経て見返し推敲し、よしとなれば活字にする手続きに入るのだそうで、そうでなければ貸金庫へ逆戻りだそうだ。文豪ならずとも、金庫とはいかないが距離をおくとか、間をおくとか、密着から離れるということは絶対にある。当然であり、何もしていない製作中が続行していく。何かしている製作中のものと、何もしていない製作中のものが刺激しあい絡み合い論争を巻き起こし、刻々と風に晒されていくのだ。そうして時を経てよしの合図で筆をおくということになる。眼には見えない風のたとえは多い。風は空気の流れであり気とも息吹とも言う。風を入れるとはそこにある何かが滲みていくような気がしないでもないけれど。個展を控えた知人の画家は、ぷいと家を空ける。見ているとつい手を入れすぎるからと作品と距離をおくために自分にも作品にも風を入れる。どこで筆を置き手を止めるか。そのどこ、は分かっているのに分からないという苦しみがある。時には親切な締め切り日の存在に救われたとの経験をお持ちの方もおられることでしょう。果てしないのですよね。計算できないから。
2008年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 49号に掲載した記事を改めて下記します。
「風を入れる」 榛葉莟子
きのうとはまるでちがう今朝の明るさ。曇り硝子に写る木の枝々の影。葉の一枚一枚もくっきりと照らし出している窓の向こうの朝の陽。微かに揺れるそれが朝の陽のひかりの呼吸のように私の内に滲みてくる。猫の声に起こされた早起きの徳かしらなどと気の晴れない日々からの転機の単純を笑う。
季節の巡りはゆるやかに自然に発生し移行していく。そう自然にしぜんにシゼンに。そしていま春の尻尾と夏の頭が見え隠れする狭間の季節。この狭間の季節の曖昧模糊の独特は、其処此処の水田からの蒸発の湿り気と、今朝のような明るい陽のひかりの乾燥との調合が良い具合の雰囲気をつくり、香りを醸し出しているからだろうか。何かと何かの間、狭間に気持ちがいく。眼がいく。そこに隠れている存在が気にかかる。
風はそよそよと水面を走り一面のしぼを絶え間なくつくる。それは田植えのこの季節、いつまでものぞき込み魅入ってしまう水面の美しさ。そして、ついいましがた魅入った発見の感動をどのように言葉にできるだろうか。その水田の透明な水面に吹く微かな風は、さわさわと走る一面のしぼをつくる。そこへ、陽のひかりの魔法が加わった。細々とした緑の幼い苗を透かした透明な水面に、輝く光の糸で編まれた投網を広げたような影が一面ゆらめいた。そのひかりの網がしぼの影とは信じがたく、水田に射し込む陽のひかりがつくるひかりの網のゆらめきにしばし呆然と魅入った。しぼの揺れとともに、ひかりの網のめは縮んだり広がったり曲線を描きながら変形しゆらめく。ひかりの糸どうしよじりあいながら面を広げている。その網のめのひかりの糸の動き、構造はスプラングそのものと気づいた時、ほーらねと見せられた気がした。生き物のようにさわさわとゆらめいている薄い薄いもの。透き通ったひかりの薄布を目の当りに見ている現実に感動する。何事かの合図は予測なくやってくる気紛れ者だけれど、発見が解釈と理解に繋がった時には、うれしくて見えない何かの道案内にありがとうを言う。
射し込む陽のひかりが角度を変えたとたんひかりの投網は溶けるように消えた。世にも美しい束の間の時間のなかに出かけていたような思いで、しばらくは、透明な水面の奥に眼を透かしていた。幼い草色の稲の先がそよそよとかわいらしい。土、水、風、ひかり、角度。縮小と拡大、ゆがみ…自然界の調合のほどよいかげんの瞬間に隠れていたものはあらわれる。そのかげんは神のみぞしる?。経験を通さない感動はありえないけれど、そこに自身の問いの意識と接続し繋がる発見の喜びが感動を運んでくるのではないのかしら。すべては精神の磨かれように繋がりかたちを生む。もっとも密着した己の内部との駆け引きはおわることのない自由を含んでいる。
午後のこと、歩いているとすぐ先に烏が飛んできた。くちばしが何か丸いものくわえている。何かおいしいものを見つけたのだ。歩いていくと、上からその丸いものが落ちてきた。あっ、落としたと笑ってしまったがそうではない。この胡桃の実を割ってほしいということらしい。なるほど、いいですよ。えいっと胡桃を踏む。堅い鬼胡桃は二つに割れた。これでいいんでしょと電線に止まっている烏に言った。ありがとと言ったかどうかは聞こえなかった。それから少し歩いて振り返ると烏は器用に胡桃の白い実をついばんでいた。烏に頼まれごとをされたのも引き受けた親切も初めての経験だった。何か妙な感慨が沸いてきて顔がほころんだまましばらく歩く。
風を入れるという言い方がある。私の場合はこの散歩はその感覚で、ちょっと風を入れてくるという具合だ。作品をねかせておくというのも風を入れるのと同じたとえで、風にさらすというたとえとも似ている。そういえば文豪のヘミングウエイは書き上げた原稿はひとまず貸金庫に納めていたのだという。貸金庫の中で原稿は海風に吹かれて寝ているのだ。あの「老人と海」も一度は寝ていたのかもしれない。時を経て見返し推敲し、よしとなれば活字にする手続きに入るのだそうで、そうでなければ貸金庫へ逆戻りだそうだ。文豪ならずとも、金庫とはいかないが距離をおくとか、間をおくとか、密着から離れるということは絶対にある。当然であり、何もしていない製作中が続行していく。何かしている製作中のものと、何もしていない製作中のものが刺激しあい絡み合い論争を巻き起こし、刻々と風に晒されていくのだ。そうして時を経てよしの合図で筆をおくということになる。眼には見えない風のたとえは多い。風は空気の流れであり気とも息吹とも言う。風を入れるとはそこにある何かが滲みていくような気がしないでもないけれど。個展を控えた知人の画家は、ぷいと家を空ける。見ているとつい手を入れすぎるからと作品と距離をおくために自分にも作品にも風を入れる。どこで筆を置き手を止めるか。そのどこ、は分かっているのに分からないという苦しみがある。時には親切な締め切り日の存在に救われたとの経験をお持ちの方もおられることでしょう。果てしないのですよね。計算できないから。