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「ジョロウグモがいた」 榛葉莟子

2017-10-02 10:12:00 | 榛葉莟子

2008年1月10日発行のART&CRAFT FORUM 47号に掲載した記事を改めて下記します。

「ジョロウグモがいた」 榛葉莟子


 多分、ふつうめったに見かけない珍しい昆虫を二種類、目のあたりにした。ある日、帰宅してドアノブに手をかけたすぐそこに、小枝と見まがうナナフシが、帰りを待っていましたとばかりに緑色のドア板に張り付くようにとまっていた。あっ、ナナフシとすぐその名が口に出たわけではない。冗談のようなその姿、知ってる知ってるこの虫の名前、なんだっけなんだっけと思い出せないまましげしげと観察した。10センチほどの灰色がかった小枝そっくりなその細い棒状のからだ、いまにも折れそうな六本の足、昆虫図鑑の擬態の頁には必ず登場している昆虫ナナフシだ。見れば見るほどその擬態ぶりに感心する。けれども天てきから身をまもるために隠れたつもりで木の枝に似せた擬態とはいえ、実際木の枝から離れたナナフシはすごく目立つのが妙に可笑しい。どうしてこんなところに、どう見ても羽根があるようには見えない。家の猫に見つからないうちにと桜の木の枝に移した。するとナナフシは小枝のひとつになってしまったかのように見えにくくもう分らない。さっき図鑑をめくってみると、羽根を広げたトビナナフシの絵があった。あのナナフシは飛んできたのだったと判明。それからもうひとつは虫は虫でも昆虫の部には入らない蜘蛛。八本足の蜘蛛は節足動物の仲間だという。スーパーマーケットの地下駐車場の換気孔の下の陽だまりに、大きな網を張っていたのが目にはいった。こんなに大きくて派手な色の蜘蛛をはじめて見た。これが噂のジョロウグモではないかと半信半疑つくずくと眺めた。やっぱり蜘蛛の名前はジョロウグモで雌だと図鑑で確認した。よく見る一面の丸い網とはちがう変形の網が複雑に張られ層状に造られているようで、ぐるぐる巻にされたいくつもの獲物の玉がそこここにある。見つけてからもう二ヶ月はゆうに経つ。そこへ行くたびに確認するのだけれど獲物の玉が増えて気のせいかジョロウグモの腰回りが大きくなっていっそう色鮮やかだ。お掃除のおばさんに見つかることもなくこの陽だまりのジョロウグモの陣地はいつまであるのだろうか。蜘蛛は冬眠だってするだろうし…それにジョロウグモの名前は子供の図鑑にもある。よその国でもこの蜘蛛をジョロウグモと言うのだろうか。ただ単にコガネグモと呼んでいるとしたらなんてつまらない。

 蜘蛛。糸状の材料を四六時中手にして何かを造形していた訳だから、蜘蛛の糸や網に目が向かないはずはないけれどその目線は詩的感情に傾く。蜘蛛は神さまだと思ってしまった日があった。ガラス窓の向こうでさかんに網造りに励む現場を感心しながらながい時間眺めていた日がある。網にかかった小さな虫をくるくる巻にしていくのを黙って見ていた日がある。透明な水滴を首飾りのようにいっぱいつけた蜘蛛の糸に、朝陽の反射は赤や緑や青や鮮やかな宝石色を一瞬見せてもらった日がある。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」ではないけれど、寝転がって天井に目を浮かせていたら、ところどころ細くひかるものにきずいて何だろうと目を凝らすと、高い天井から蓮の糸のような糸が伸びてきている。そして先端に小さな黒い蜘蛛。ふっと糸に息を吹きかけるとすごい勢いで糸を昇っていく蜘蛛を見送った日がある。蜘蛛そのものというよりも、たとえ玄関先でも陽に照らされてきらきらひかる見事な造形美の蜘蛛の網を取り払うのはちゅうちょする。

 ふと憶い出す絵があった。あの絵の前に立ちいまの自分の眼でもう一度の願いのメモが頭の隅に、宿題のようにひらひらしているのをふと憶いだす。好きだとか懐かしいだとかというのではなく、あの時の自分を確認したいような感情も含まれている。それは十数年前にプラド美術館で観たゴヤの犬の絵だ。大御所のゴヤの作品は、その気になれば印刷物では当たり前のこととして触れる機会はあるけれども、なぜかあの絵をみることはない。美術館のあの部屋の入り口から、左の壁に沿った奥に小振りの縦長のその絵はあった。その絵の前で反応したからだの中を走り抜けた緊張が、たったいまのことのように蘇る。じりじりと砂の動く音が聞こえてくるような、絵のなかの犬の体は除々に砂の中に沈んでいく恐怖。この手をつかんでと叫びたい衝動が沸き起こったあの時。子犬のような愛らしい顔の犬の眼は何かを見上げ救いを求めていた。そして、十数年ぶりにその絵を再びみた。図書館に昆虫図鑑を借りに行ったついでに、本棚に手がのびて借りた分厚い本の中にあの絵の犬がいたのには驚いた。その時思わず何かに感謝した。目の前に突然出現したナナフシやジョロウグモの手引きかもしれない。印刷物ではあるけれど再会したその絵の題名は「砂に埋もれる犬」だった。なるほど、真の恐怖は底無しの混沌だ。あの時この絵に漠とした恐怖を観たのだろう。大声ではない地味なその画面からは、恐怖というよりも観る者が手をさしのべたくなる人間の素の感情、生きとし生けるものの根源をノックしてくる音がどこか果てから聞こえてくるような。いまならそう感じる。観るその人のその時が在る。見る者は常につくられていく当然がみえてくる。


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