◆橋本真之、初期林檎作品(1970年、鉄、銅)
2000年12月20日発行のART&CRAFT FORUM 19号に掲載した記事を改めて下記します。
連載1 造形論のために
『造形的発端について③』 橋本真之
一個の存在には緊密な世界構造が成立している。それを読み取る力を観照力という。ここには科学も美術も文学もありはしない。ただひたすら観ることを廻って、それぞれの方法的世界が総動員されるのであって、一個の存在の前で、その人間の洞察する力が試みられるのである。そこでは、観照者の力に応じて、存在はその深度を顕わす。
一本の林檎の木を上手に育てることよりも、一個の林檎を上手に描くことの方が、優れた仕事だと、誰が考え得ようか?あえて、そのように考えるためには、どこかで錯術が必要だ。それが文化というものである。このパスカルの「パンセ」(注)の変奏に過ぎない考えが、青年期の私をおびやかし続けた。「一個の林檎の隣りで、造形作品とは何ものであるか?」それが最初の問いの形であった。「そして、一個の林檎の成熟の前で、造形の方法論とは何であるのか?」私は考えあぐねてしまった。あたかも自分以前には「造形芸術」というものがなかったかのように、あるいは、それらがすでに破産した因習に過ぎぬことを実感して、私は自らのために固有の造形論をあみださねばならなかったのである。それは、いかなる時と場処からでも、それぞれの出発が可能でなければならないという自覚であり、もしも、自らの時と場処からの出発ができないのであれば、西欧の造形論理に荷担することも、自国の伝統に連なることも、共に自らの生をあざむくことであるというものであった。
自分の播かれた場処に不平を言っても始まらぬ。この場処で今育たねば、いつまで過っても痩せた土地は痩せたままだ。顧みられない痩せた荒野であればこそ、この環境の栄養素を、徹底的に吸い上げて育って見せよう。おそらく、栄養不良の果実が実るには違いない。しかし、それが私の果実である他はないのである。前例などいらぬ。前例は自らが成れば良いと覚悟した。
大学三年になって、私は鍛金を専攻した。殆ど偶然としか言いようのない、鍛金技術との出会いを、今あえて思い返えせば、何か理由が見つかりそうにも思えるが、青年期の混乱した思考の中で、私は行き暮れていた。私にはその選択に、生理的な理由以上に確たるものはなかったようだ。油絵具に吐き気を覚えるようになってしまった私の内臓が、硬質でさっぱりとした鉄のマテリアルを許容したと言うべきだろうか?それまで私は鍛金作品というものを見たことがなかったし、鍛金という技術は、私の視界の中に全く入ってなかった。大学二年次の始めに課された、実在実習のカリキュラムのひとつに、私がたまたま鍛金を選択したからであった。未知の鍛金を選択したのは、学生仲間の噂によれば、その実習の課題において、鍛金には自由制作があるという、単純な理由だった。それまでの愚劣な課題に辟易としていた私は、その自由制作に鉄で林檎を作ったきっかけで、その年の夏休み、鍛金の工房に行き、その課題がまだ終わっていないという理由にして制作を続けた。三井安蘇夫教授は、ひと夏工房で制作していた私を呼び止めて、「君は、何に成りたいのか?」と質問した。私はデザイナーよりも、作家になりたいと答えた。当時、東京芸大の工芸科には、デザイン志望の者と工芸志望の者とが工芸科の中に同居していたのである。私は入学当初には、グラフィツクデザイナーに成るつもりでいたのである。私は油絵描きになりたいとも答えたのだが、すでに迷っている状態だった。「そうか、それなら君は油絵描きになるのでも良いから、鍛金に来たらどうだ」と妙な論法で誘われたのである。その夏、私は四つの林檎を作った。三井教授はその作品については、一言も批評めいたことを言わずじまいだった。教官室をのぞくと、教授は制作中の作品にダガネを入れているところだった。言葉をかけることができずに私は通り抜けた。その時、私はこの教授の教室ならば、居心地良く制作ができるかも知れないと思ったのだが、将来、鍛金によって自らの仕事を見い出すことになるとは思いもしなかったし、期待もしていなかった。実際、実習のオリエンテーションに助教授が持って来て見せた、精巧なカニの置物や器物の類は、私には全く関心が持てない代物だった。鍛金は私にとって、金属を扱う古風な技術のひとつに過ぎなかった。しかも怖しく手間ひまのかかる、いつかは省られなくなってしまいそうな、秘儀めいた技術に思えた。こんなに不自由な技術から新たな何かが始まるとは、とうてい思えないのに、あえて鍛金を専攻したのは、金属を扱う技術が、私の身体にとって奇妙に心地良い感触を与えたからであろう。それは少年時の、祖父のガタピシした仕事場の片隅で、万力にはさんだ鉄片を削ったり、ベーゴマを削った、工作の感触につながっていたのかも知れない。それよりも何よりも、鍛金の仕事の肉体労働によって、私は健康になって来たのである。
ひとは、いかなる理由によって、ひとつの方法に出会うのか?いくつもの偶然が重なり合い、仮にそのひとつの偶然が起こらなかったなら、出会いはしなかった程の、あえかな経緯をたどって、ひとつの方法に出会うのである。その偶然を重ねて、自らの必然とする選択の自由の後には、その方法の不自由を起点に思考が動き始める。素材の抵抗がエネルギーを呼んで、造形思考をうながすのである。思考の方位はある。ひとはそれをイマージュと呼ぶのであろうか?形跡もない方位だけが、自らをかり立てるのだが、それをイマージュと呼ぶには、あまりに闇雲な状態である。素材の抵抗を前にして、方法を持たずには為すべききっかけさえ持ち得なかっただろう。
鳥や蜂や蟻が自らの生のままに巣作りを成しているようには、私達の技術は生理化していない。理知が様々な発明・発見をもたらしはしたが、生を充足させ得ない便宜が次々と欲望を誘い、疲れさせるばかりである。小動物達のささやかな充足の隣りで、人間の造る巣は竪穴式住居くらいまでが、その居住者の質にふさわしいのかも知れない。その上に、あえて造形行為を積むのを、文化的錯術と呼ばれても止むを得まい。人の自我の肥大した歴史を欲望史と呼ぶとしても、自我の健全なる消滅がついに不可能であるのならば、あえて自我の積極策に出ることを選ばざるを得まい。私は宗教に寄らず、その積極の極みに、生存の悦楽が倫理的次元を獲得し得ることを願望していた。造形行為における自我の勝利などというものはあるまい。一体何に勝利するのか?仮想の敵すらないところで勝利など有り得まい。一個の林檎の前で、私達は自らの次元を変革する他にないのである。確かに物はできる。物質の変容を為すところに造形の運動がある。そのことによって、空間の変質をせまるとしても、空間は物質の間にあって、あるいは物質と関わって、その様態を示すのである。仮に空間そのものに手を加えることが可能であるとすれば、そのことによって物質を変容させることも可能であるに違いない。空間そのものに手を加えることができないのであれば、私には物質そのもの私との間で起きる出来事を、ていねいに生きるより他にないと思えた。それが芸術的な営為であるかどうかは、いずれ後々の判断の問題であると、留保せざるを得なかったのである。
延々と、私は林檎ばかりを作っていた。 (つづく)
(注)『絵画とは、なんとむなしいものだろう。原物には感心しないのに、それに似ているといって感心されるとは。』(パスカル・「パンセ」断章134・前田陽一・由木康訳)
2000年12月20日発行のART&CRAFT FORUM 19号に掲載した記事を改めて下記します。
連載1 造形論のために
『造形的発端について③』 橋本真之
一個の存在には緊密な世界構造が成立している。それを読み取る力を観照力という。ここには科学も美術も文学もありはしない。ただひたすら観ることを廻って、それぞれの方法的世界が総動員されるのであって、一個の存在の前で、その人間の洞察する力が試みられるのである。そこでは、観照者の力に応じて、存在はその深度を顕わす。
一本の林檎の木を上手に育てることよりも、一個の林檎を上手に描くことの方が、優れた仕事だと、誰が考え得ようか?あえて、そのように考えるためには、どこかで錯術が必要だ。それが文化というものである。このパスカルの「パンセ」(注)の変奏に過ぎない考えが、青年期の私をおびやかし続けた。「一個の林檎の隣りで、造形作品とは何ものであるか?」それが最初の問いの形であった。「そして、一個の林檎の成熟の前で、造形の方法論とは何であるのか?」私は考えあぐねてしまった。あたかも自分以前には「造形芸術」というものがなかったかのように、あるいは、それらがすでに破産した因習に過ぎぬことを実感して、私は自らのために固有の造形論をあみださねばならなかったのである。それは、いかなる時と場処からでも、それぞれの出発が可能でなければならないという自覚であり、もしも、自らの時と場処からの出発ができないのであれば、西欧の造形論理に荷担することも、自国の伝統に連なることも、共に自らの生をあざむくことであるというものであった。
自分の播かれた場処に不平を言っても始まらぬ。この場処で今育たねば、いつまで過っても痩せた土地は痩せたままだ。顧みられない痩せた荒野であればこそ、この環境の栄養素を、徹底的に吸い上げて育って見せよう。おそらく、栄養不良の果実が実るには違いない。しかし、それが私の果実である他はないのである。前例などいらぬ。前例は自らが成れば良いと覚悟した。
大学三年になって、私は鍛金を専攻した。殆ど偶然としか言いようのない、鍛金技術との出会いを、今あえて思い返えせば、何か理由が見つかりそうにも思えるが、青年期の混乱した思考の中で、私は行き暮れていた。私にはその選択に、生理的な理由以上に確たるものはなかったようだ。油絵具に吐き気を覚えるようになってしまった私の内臓が、硬質でさっぱりとした鉄のマテリアルを許容したと言うべきだろうか?それまで私は鍛金作品というものを見たことがなかったし、鍛金という技術は、私の視界の中に全く入ってなかった。大学二年次の始めに課された、実在実習のカリキュラムのひとつに、私がたまたま鍛金を選択したからであった。未知の鍛金を選択したのは、学生仲間の噂によれば、その実習の課題において、鍛金には自由制作があるという、単純な理由だった。それまでの愚劣な課題に辟易としていた私は、その自由制作に鉄で林檎を作ったきっかけで、その年の夏休み、鍛金の工房に行き、その課題がまだ終わっていないという理由にして制作を続けた。三井安蘇夫教授は、ひと夏工房で制作していた私を呼び止めて、「君は、何に成りたいのか?」と質問した。私はデザイナーよりも、作家になりたいと答えた。当時、東京芸大の工芸科には、デザイン志望の者と工芸志望の者とが工芸科の中に同居していたのである。私は入学当初には、グラフィツクデザイナーに成るつもりでいたのである。私は油絵描きになりたいとも答えたのだが、すでに迷っている状態だった。「そうか、それなら君は油絵描きになるのでも良いから、鍛金に来たらどうだ」と妙な論法で誘われたのである。その夏、私は四つの林檎を作った。三井教授はその作品については、一言も批評めいたことを言わずじまいだった。教官室をのぞくと、教授は制作中の作品にダガネを入れているところだった。言葉をかけることができずに私は通り抜けた。その時、私はこの教授の教室ならば、居心地良く制作ができるかも知れないと思ったのだが、将来、鍛金によって自らの仕事を見い出すことになるとは思いもしなかったし、期待もしていなかった。実際、実習のオリエンテーションに助教授が持って来て見せた、精巧なカニの置物や器物の類は、私には全く関心が持てない代物だった。鍛金は私にとって、金属を扱う古風な技術のひとつに過ぎなかった。しかも怖しく手間ひまのかかる、いつかは省られなくなってしまいそうな、秘儀めいた技術に思えた。こんなに不自由な技術から新たな何かが始まるとは、とうてい思えないのに、あえて鍛金を専攻したのは、金属を扱う技術が、私の身体にとって奇妙に心地良い感触を与えたからであろう。それは少年時の、祖父のガタピシした仕事場の片隅で、万力にはさんだ鉄片を削ったり、ベーゴマを削った、工作の感触につながっていたのかも知れない。それよりも何よりも、鍛金の仕事の肉体労働によって、私は健康になって来たのである。
ひとは、いかなる理由によって、ひとつの方法に出会うのか?いくつもの偶然が重なり合い、仮にそのひとつの偶然が起こらなかったなら、出会いはしなかった程の、あえかな経緯をたどって、ひとつの方法に出会うのである。その偶然を重ねて、自らの必然とする選択の自由の後には、その方法の不自由を起点に思考が動き始める。素材の抵抗がエネルギーを呼んで、造形思考をうながすのである。思考の方位はある。ひとはそれをイマージュと呼ぶのであろうか?形跡もない方位だけが、自らをかり立てるのだが、それをイマージュと呼ぶには、あまりに闇雲な状態である。素材の抵抗を前にして、方法を持たずには為すべききっかけさえ持ち得なかっただろう。
鳥や蜂や蟻が自らの生のままに巣作りを成しているようには、私達の技術は生理化していない。理知が様々な発明・発見をもたらしはしたが、生を充足させ得ない便宜が次々と欲望を誘い、疲れさせるばかりである。小動物達のささやかな充足の隣りで、人間の造る巣は竪穴式住居くらいまでが、その居住者の質にふさわしいのかも知れない。その上に、あえて造形行為を積むのを、文化的錯術と呼ばれても止むを得まい。人の自我の肥大した歴史を欲望史と呼ぶとしても、自我の健全なる消滅がついに不可能であるのならば、あえて自我の積極策に出ることを選ばざるを得まい。私は宗教に寄らず、その積極の極みに、生存の悦楽が倫理的次元を獲得し得ることを願望していた。造形行為における自我の勝利などというものはあるまい。一体何に勝利するのか?仮想の敵すらないところで勝利など有り得まい。一個の林檎の前で、私達は自らの次元を変革する他にないのである。確かに物はできる。物質の変容を為すところに造形の運動がある。そのことによって、空間の変質をせまるとしても、空間は物質の間にあって、あるいは物質と関わって、その様態を示すのである。仮に空間そのものに手を加えることが可能であるとすれば、そのことによって物質を変容させることも可能であるに違いない。空間そのものに手を加えることができないのであれば、私には物質そのもの私との間で起きる出来事を、ていねいに生きるより他にないと思えた。それが芸術的な営為であるかどうかは、いずれ後々の判断の問題であると、留保せざるを得なかったのである。
延々と、私は林檎ばかりを作っていた。 (つづく)
(注)『絵画とは、なんとむなしいものだろう。原物には感心しないのに、それに似ているといって感心されるとは。』(パスカル・「パンセ」断章134・前田陽一・由木康訳)