1995年10月20日発行のART&CRAFT FORUM 2号に掲載した記事を改めて下記します。
東京テキスタイル研究所の今年の特別講義は「糸」がテーマであり、現在までに「生糸」「藤糸」「苧麻」「綿」が終了し、残るは「葛布」のみとなった。実際に現場で生産や指導に携わっている方々のレクチーを受け、実技を実習できるという貴重な体験講座である。天然繊維の糸は、それぞれに民族の歴史を重く背負う土着の伝承技術であったが、現在では大規模な生産ラインに乗るものと、人目につかないところで滅びかけているものとに分かれてしまった。しかし大量生産品の絹と綿糸も、個人の生産ベースでは同じように滅びてゆく要因を持ち合わせている。良い素材を作る、あるいは持ち味を引き出す為の工夫や知恵は、どれも人手に負うところが多く、その手間ひまが応分の現金収入に結び付かないからである。所謂「ハレ」と「ケ」は古来の衣料では晴れ着と普段着であり、現在原始布と呼ばれているものの多くは「ケ」の部類に入る地味な日用品であった。その材料は身近な山野にあって、日常生活のサイクルの中で糸にされ、女性達の手で織り上げられたものだった。いま藤布やシナ布、太布、芭蕉布、上布等の市場価格はあまりにも高く、珍品扱いの「ハレの品」となってしまった。市場にはけっして出回らない藤糸の値段を見て「自分で作ればもっと安くできる」と考えがちであるが、山に入って藤蔓を切りそれを持ち帰って中皮を取り出し……という全工程を識り、その技術水準の高さを目の当たりにすると、この値段は妥当なのだろうと妙に納得してしまった。生産者側から見れば、これでもほんの僅かな手間賃程度なのかも知れない。原始布の持つ素朴な美しさと逞しさも理解する人は少なく、たとえ理解されたとしても、その高価な布を実生活の中でどう使うかということになると、名刺入れやバッグ、帽子等の小物として細々と出廻っているだけである。勿論一間巾いっぱいのドーンとしたシナ布の暖簾を、作家ものとして見かけることはあっても、それはとうてい庶民の手が届くようなものではない。
好事家か金持の所有物になってしまったかっての日用品を、芸術とか美術品と呼ぶ人はあまり居ないが、糸そのものを優れた素材として入手できる窓口があって、さらにもう少し安価であれば、手仕事をする者や表現を試みる者の手を経て「ハレの舞台」に登ることもあるし、静かに日常生活の中で息づく「ケのインテリア」になることもあろう。
講座で学んだことで高い完成度を求めなければ、自分達でこれ等の糸をなんとか作ることはできる。そして繰り返しによって技術は上達する。かいこを飼って繭を取り、糸にしたり、綿を栽培して糸を紡ぎ、布に織る技をみせる人々とも、知り合えるようになった。商業ベースに乗らないレベルでこれ等の技術を静かに追い求めている人々の存在は趣味の域を脱し「ハレ」や「ケ」の枠を越えた、新しい価値を形成しているように思われる。
東京テキスタイル研究所の今年の特別講義は「糸」がテーマであり、現在までに「生糸」「藤糸」「苧麻」「綿」が終了し、残るは「葛布」のみとなった。実際に現場で生産や指導に携わっている方々のレクチーを受け、実技を実習できるという貴重な体験講座である。天然繊維の糸は、それぞれに民族の歴史を重く背負う土着の伝承技術であったが、現在では大規模な生産ラインに乗るものと、人目につかないところで滅びかけているものとに分かれてしまった。しかし大量生産品の絹と綿糸も、個人の生産ベースでは同じように滅びてゆく要因を持ち合わせている。良い素材を作る、あるいは持ち味を引き出す為の工夫や知恵は、どれも人手に負うところが多く、その手間ひまが応分の現金収入に結び付かないからである。所謂「ハレ」と「ケ」は古来の衣料では晴れ着と普段着であり、現在原始布と呼ばれているものの多くは「ケ」の部類に入る地味な日用品であった。その材料は身近な山野にあって、日常生活のサイクルの中で糸にされ、女性達の手で織り上げられたものだった。いま藤布やシナ布、太布、芭蕉布、上布等の市場価格はあまりにも高く、珍品扱いの「ハレの品」となってしまった。市場にはけっして出回らない藤糸の値段を見て「自分で作ればもっと安くできる」と考えがちであるが、山に入って藤蔓を切りそれを持ち帰って中皮を取り出し……という全工程を識り、その技術水準の高さを目の当たりにすると、この値段は妥当なのだろうと妙に納得してしまった。生産者側から見れば、これでもほんの僅かな手間賃程度なのかも知れない。原始布の持つ素朴な美しさと逞しさも理解する人は少なく、たとえ理解されたとしても、その高価な布を実生活の中でどう使うかということになると、名刺入れやバッグ、帽子等の小物として細々と出廻っているだけである。勿論一間巾いっぱいのドーンとしたシナ布の暖簾を、作家ものとして見かけることはあっても、それはとうてい庶民の手が届くようなものではない。
好事家か金持の所有物になってしまったかっての日用品を、芸術とか美術品と呼ぶ人はあまり居ないが、糸そのものを優れた素材として入手できる窓口があって、さらにもう少し安価であれば、手仕事をする者や表現を試みる者の手を経て「ハレの舞台」に登ることもあるし、静かに日常生活の中で息づく「ケのインテリア」になることもあろう。
講座で学んだことで高い完成度を求めなければ、自分達でこれ等の糸をなんとか作ることはできる。そして繰り返しによって技術は上達する。かいこを飼って繭を取り、糸にしたり、綿を栽培して糸を紡ぎ、布に織る技をみせる人々とも、知り合えるようになった。商業ベースに乗らないレベルでこれ等の技術を静かに追い求めている人々の存在は趣味の域を脱し「ハレ」や「ケ」の枠を越えた、新しい価値を形成しているように思われる。