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竹がつくった空間 上野正夫

2015-12-15 12:43:04 | 上野正夫
1996年9月25日発行のART&CRAFT FORUM 5号に掲載した記事を改めて下記します。

 この夏、私が住んでいる千葉県鴨川市で「場所と表現」をテーマに第2回安房ビエンナーレが開催された。ここで日米芸術文化交流基金の招待によって来日中のアメリカ人彫刻家Roy.F.Staab氏と制作する機会があった。彼はSite Specific Sculpture(その場特有な彫刻作品)を作る現代美術の作家だ。特定の場所から受ける印象を重要な要素としてその場所に彫刻作品を設置するのだ。自己主張を絶対的な根拠として風景を変質させていく近代の作家達とは少し違う位置にいる新しいタイプの作家と言える。アメリカでは葦を使って作品を制作しているが、日本へ来る前に私の所に手紙が届いて、日本では竹を使ってみたいと書かれていた。

 ロイ・スターブ氏の先生はキネテイックアート(動きのある芸術作品)のLaszlo.Moho-ly Nagy(1895-1946)の弟子だった。ハンガリー生まれのモホイ・ナジは、ロシア構成主義の強い影響を受け、ドイツのバウハウスで教え、その後にアメリカに渡って、アメリカの現代美術の基礎を作った作家の一人だ。20世紀の美術の中心に居続けた作家と言える。ロイ・スターブ氏の作品にもロシア構成主義の影響が強く感じられた。95年には、Homage to Tatlinというウラジミール・タトリンに捧げる作品も作っている。タトリンはロシア構成主義の指導者の一人で、彼が1919年に計画した高さ400mほどもある第三インターナショナル記念塔は、その後、世界の各地でミニチュアが制作されている。スターブ氏はその時、葦を編んで第三インターナショナル記念塔のように上昇しながら半径を小さくしていくスパイラルを作った。

 彼は、アメリカの美術大学を卒業してからしばらくの間、パリで抽象画家として活躍する。幾何形態を使った線による表現が多かったようだ。1983年頃からアメリカに帰り、以前はキャンバスに描いていた幾何形態を風景の中に、そこでみつけられる素材を使って描きはじめる。水辺で葦を採集して風景のなかに巨大な幾何形態を編み込むのだ。葦がない時は、石、海草、貝殻、新聞紙など、その場にあるものは何でも利用する。地面に棒切れで幾何形態を描いただけの作品もある。

 彼の使う葦は北アメリカでは、River Cane,Swamp Cane,Caneと呼ばれている。Caneと言っても藤とはまったく別のものだ。 Diane DixonとSteve Domjanovichによる「Native North American Cane Basketry」には、この葦は「Arundinariaとその変種で、北アメリカにある竹科の植物である。」と書かれている。Arundinaria gigantea、Arundinaria tecta等のことだ。北米インディアンは300年以上も前からこれらの竹で篭を作っていたと言われている。だから彫刻家ロイ・スターブ氏は北アメリカにおける竹の作家とも言える。日本で竹を使ってみたいと思ったのは、経験によって洗練された彼の直感からすればあたりまえの事だ。

 アメリカから来たこの竹の作家は、鴨川での制作場所として水田を選んだ。まず、水を張った水田の中でロープと竹の棒を使ってコンパスを作り、地面に幾何形態を描いた。次の日には、地面に描かれた幾何形態に沿って長さ5.5mの雌竹を30cmくらいの間隔で200本ほど垂直に立てた。最後に私が作った長さ8m程の真竹のヒゴを水面から2.5mの高さで水平に編み込んだ。3日目の夕方になると、田んぼの中に縦20m横15mの巨大な結び目が出現した。大地に作った大きな篭にも見えるし、水田に竹を挿した生け花とも言える。作品はWater Interlacing in Kamogawaと名づけられた。画家の高梨けい氏がこれを見て「水結び鴨川」と翻訳した。2.5mの高さに水平に編まれた単純な幾何形態が水面に映って、この映った映像が作品の本体だ。実体が作品ではなくて、実体が風景に作用した結果うまれた水田の風景全体が作品と言える。

 私は湖の上で8mの真竹の竹ヒゴを60本編んで直径10mの円を作った。輪口編みという手法で編んだ円は中心に直径4m程の丸い穴が出来て、その周りが四ッ目で編まれている。ゆるやかな流れの上に浮かんだ輪の編み目に水の流れが干渉して、水が編み目を作る。輪の中心では編み目が水流を静止させて風景を映しだす。水が作った編み目と中心に映し出された風景が作品の主要な部分だ。この作品も実体そのものより実体が風景に作用した結果うまれた現実全体が作品だ。これは影絵のように影を作品として考える発想とも似ているし、間を実体の様にとらえる事とも共通する。この発想に共通するのは、運動と関係性を重要な要素として考えているところだ。ロイ・スターブ氏の作品を映しだす水面は、かすかな風でいつもゆらいでいるし、私の作品が作りだした水流は絶えず振動していた。

 鴨川市民ギャラリーで7月28日に行われたスターブ氏のレクチャーでは、作品があまりにも日本的なのはなぜか、というような意味の質問が多かったような気がした。水田に作られた彼の作品を見に来た人たちの中からも、縄文的という感想や呪術的という意見があった。本人は特に東洋哲学を勉強したわけでもない。鴨川での作品は、彼が創作した数学的な形態を風景の中に残していくという手法の結果うまれたものだ。ただ自然素材で拡大された編み目を編むという方法がきわだっていた。竹は、編む時に人間が竹を持ち上げてそれぞれの部材を交差させる。この時に竹に作用した人間のエネルギーが、竹どうしが反撥しあう力として編まれた物の中に蓄積される。この蓄積されたエネルギーが編まれた形をささえているのだ。竹が反撥しあうエネルギーが、編まれた物全体をじょうぶにしているとも言える。だから竹で編まれた物体は、まさにプリミティブなエネルギー集積装置なのだ。縄の場合はもっと単純だ。ワラを何本かまとめて縄を作る時には、ワラをねじった時に人間が加えた力が縄に蓄積されているエネルギーだ。縄を分解して放置しておくと、しばらくしてねじった部分がもとにもどる。このもとにもどる力が縄の内部に蓄積されていたエネルギーだ。この力学的な現実が暗示する記憶によって、数学的に作られたスターブ氏の作品が不思議な生気を発散しているのだ。むしろ数学的であるからいっそう、素材や技法や風景の特性を顕在化させて見せてくれるのかもしれない。もしかすると、彼の作品は数学の特性さえも顕在化させているのかもしれない。

1996年8月 安房鴨川にて


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