ART&CRAFT forum

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「Arte Sella」上野正夫

2016-05-28 10:28:13 | 上野正夫
◆Arte Sella 上野正夫
Italy September 1998
1.5m×70m
bamboo,spruce

1999年2月10日発行のART&CRAFT FORUM 13号に掲載した記事を改めて下記します。

 ARTE SELLA         上野正夫(造形作家)

 成田を11時にたったAlitaliaのミラノ行き直行便は、十数時間の平凡な飛行の後、同日の現地時間午後4時すぎには美しいアルプスの上空を飛行する。天候がよければ、眼下にアルプスの山々を見下ろすことができる。旅客機がアルプスの氷河を越えて、数分たつと窓から緑の牧草地が見えてくる。アルプスの南側斜面で、ここが南チロルと呼ばれる地方だ。

 この地方は古くから、オーストリアに塩を供給していたので、オーストリアとの関係が深かったが、第一次世界大戦でオーストリア・ハンガリー君主国が崩壊した際にイタリアに併合された。当時、イタリアとオーストリアの国境にあるこの地域は激戦地となった。この戦争で、未来派の代表的な作家であるUmberto Boccioniは落馬し33才の若さで戦死した。戦争はその後の未来派の活動にも大きなダメージを与えた。

 私達が招待されたARTE SELLAという名前の現代美術展は南チロルの山あいにある標高1200m程のセラという村で2年ごとに開催される環境美術のビエンナーレだ。ヨーロッパでは最も知られた環境美術の展覧会で、98年には6名の美術評論家からなる選考委員会が世界各地から14名の招待作家を選考した。日本からは私が招待された。

◆ジャネット・ジッベル  1998
 私が8月の末に宿舎のマルガ・コスタに到着した時は、ドイツのシュトットガルツからJeanette Zippelが来て制作していた。マルガ・コスタはレストランを改装したもので、暖炉がある部屋を含めて、寝室6室、屋根裏部屋、ホール、ダイニングキッチン、で構成されていた。この宿舎の前には大きなブナの木があって、その木の葉がARTE SELLAのシンボルマークになっていた。招待された作家は7月の上旬から9月の末にかけて都合のいい時期に一ヶ月ほど滞在し制作していくシステムになっている。ジャネットはミツバチを研究していて、蜂の巣を彫刻作品として制作する作家だ。蜂の集団の動きを視覚化した抽象絵画も制作する。蜂の集団の動きは人体の「氣」の変化に似ているそうだ。落ち込んだ時には、アルプスを背景によく太極拳をやっていた。湖に廃棄されていた木造のボートからていねいに塗料を取り除いてミツバチの巣を制作していった。
◆ディミトリー・クセナキス   1998
 私が着いた日に、パリからバイクでやって来たフランスのDimitri Xenakisは遠近法の概念を特定な場所に持ち込む作品を制作し続けている。まだ30代前半の若い作家で、パリの郊外に工場を借りて制作している。ディミトリーは1週間ほどの滞在の後、自ら選定した傾斜地に遠近法を利用した巨大な作品を設置する計画案を完成した。作品の完成までにはかなりの困難が想定されたが、彼の頑強な身体はその困難をなんなく乗り越えた。両親はギリシャ人で、彼がまだ子供の頃に一家そろってフランスへ移住したと言う。少年の頃にギリシャの美しい自然を体験した事が、彼を野外での制作に駆り立てたようだ。私の場合も祖母と父が山歩きが好きで、幼少の頃、よく故郷の信州の山を登った。そんな体験が現在の私の制作に結びついているに違いないとあらためて思った。

 宿舎は麓のBorgo-Valsuganaの町から車で40分程の牧草地の中にあって、宿舎から車で5分程の所にレストラン・カルロンがある。他にはチーズを作っている牛舎が一棟あるだけで、近くにはなにもない。みんな制作に全力を尽くすので、夜、ボルゴの町まで食事にいく余裕はない。疲れ切ってカルロンで食事するだけの毎日だ。

 レストラン・カルロンはARTE SELLA協会指定の食堂で、40席程度の食堂と、カウンターと二つのやや広いテーブルのあるパブと、外には広いテラスがある。夜になると私たち三人は協会から支給された食券を持っていって、カルロンの特別コースをいただいた。コースの選択肢はいくつかあって、南チロル独特の風味のややこってりとした味付けだった。昼間のカルロンには山歩きの観光客が来て、野外のテラスまでいっぱいになった。夜になると付属のパブに近くの林業者達のグループが仕事の後で集まった。

 カルロンでの会話は、お互いの国の話になった。シュトットガルツから来たジャネットは、自宅の近くに日本人の作家が住んでいて、アートに対するサポートが最悪の国だとか、日本の事情をよく知っていた。特に日本語にはなぜ男言葉と女言葉があるのか、不思議に思っているようだった。パリから来たディミトリーは美術史を教えていた事もあり、国どうしの文化的背景の違いによる誤解について、よく話した。時々、ARTE SELLA協会の創立メンバーで画家のエマニュエルも会話に加わった。彼はあの有名な画家ジオットの子孫の一人だ。日本映画をよく見ていて、MizoguchiやOzuの映画手法についてよく話した。夜も更けると、ワインの他に、強いお酒のグラッパやへんてこなパラパンポリも出てきた。

◆クリス・ブース  1998
 9月の上旬になって初雪が舞った。その頃、ニュージーランドのカレカレからChris Boothが来た。クリスはニュージーランドを代表する彫刻家で、ここ10年ほどは石に穴をあけてステンレスワイヤで結んだ作品を作り続けている。彼は若い頃にバーバラ・ヘップワースとマリオ・マリーニに師事していて、イギリスやイタリアでも活躍している。私が90年に招待されて制作したイギリスのグライズデール彫刻公園に彼も93年に招待されて制作していた。私のグライズデールでの作品についてはよく知っていた。イギリスのグライズデール彫刻公園は70年代の初期に始まった、生態系を重視した彫刻公園で、いち早くアーチスト・イン・レジデンスを取り入れて成功したと言う点でも、世界の美術界のパイオニアであった。ここでは、地元の林業労働者達が招待された彫刻家と対等に対話した。その結果、デビット・ナッシュやアンディ・ゴールズワージー等の多くの作家を生み出した点でも、世界的に注目された。クリスがグライズデールを体験していると言うことで私とクリスの間にはある種の安心感があった。ある種の共通の感覚を身に付けていると想定できるし、共通の友人もいるからだ。驚いた事には、彼は1948年12月30日の生まれで、私はその三日後の生まれだった。海外で制作していると、同世代の作家によく出会う。

◆Chingiz  1996
 ある日、ディミトリーが森の中で制作していて一つの銃弾を拾った。80年前の戦争の落し物だった。私も森の中で、すり鉢の形をした穴をいくつか見つけた。大砲が作った痕跡だそうだ。これでレストラン・カルロンの壁にかけられている、あのシュールシアリズム風の戦争画の意味も解けたような気がした。この絵は食事の時に毎日目に入った。この地域に住んでいる人々もイタリア語を話す人とドイツ語を話す人が混在している。ヨーロッパには、歴史的背景が複雑な場所が多い。だから、民族問題にも敏感で、この問題に関する軽率な発言はできるだけ避けているようだ。ここの人々は、80年前の戦争のことも50年前の戦争のこともあまり触れたがらないし、私から見ると忘れようとしているようにも思えた。けれども、都会のミラノやパドヴァでは、軍服を着て、帽子に羽をつけた若者のグループをよく見かけた。ネオ・ナチに共感する若者達だそうだ。イタリアの絵画やデザインの世界では新未来派という言葉もよく使われていた。

 クリスは、森の中で見つけたすり鉢の形をした大砲が作った穴の上に再生を象徴する石の彫刻を作った。この地方では、古代、山々の聖地にヒンズー教のリンガに似た石の彫刻を作る習慣があって、彼はそれについてよく研究していた。彼がここで制作した作品についての評価は別れた。地元の人達の中には、忘れようとしていることをあえて思い出させる作品なので、嫌いだという意見もあった。

 9月の中旬になってノルウェーからHelge Roedがきた。60年代のランド・アートやアース・ワークの影響をうけた作家で画家でもある。その華々しい経歴にもかかわらず温和な性格で、短期間のうちに大きな作品を制作していった。

 私は100個の竹篭をスーツケースの中に衣類といっしょにたたんで持っていって、現地で組み立てて、杭の上に取り付けた。国境を象徴する98本の杭の上に、繭の形の篭を一個づつ取り付けた。杭の間隔は、野生の鹿が通り抜けられるように、1mほどにした。国と国との境界で様々な文化が交差する中から、何か新しい物が生まれる事を期待しての造形だ。作品のタイトルはつけなかった。展覧会の初日には4000人がALTE SELLA98を見に来た。竹の繭が風に揺れて動くのが面白くて、多くの人達がわざわざ急な坂を登って、私の作品を見に来てくれた。
◆ジュリアーノ・マウシガ  1992
 滞在中には多くの人々に制作を手伝ってもらった。主として、ボルゴの町役場の林業部門の職員が仕事として手伝ってくれたのだが、その人たちを指揮するのが、ボランティアのマリアーノだ。マリアーノはスキーのコーチの仕事を引退して悠々自適な生活を送っている陽気なイタリア人だ。英語とわずかなフランス語しか話さない日本人の私に辛抱強くイタリア語を教えてくれた事は今でも忘れられない。通訳をしてくれた高校の先生のローラやマルチェロ。写真家のアルド。宿舎の掃除をしてくれたアントネーラ等、多くのボランティアの人々の支えでこの展覧会が成り立っていることは、とてもうらやましかった。
 Nils-UdoやGiuliano Mauriを生み出し、1986年から続いているこの展覧会は、多くのボランティアに支えられ、今後も陽気に展開していくにちがいない。
◆宿舎の近くから見た風景


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