・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

似た曲

2010年05月23日 | Weblog
あれ、この曲はどこかで聴いた、そう思うことがときどきある。
はじめのほうのフレーズが似ているとその感じは強くなる。

似た曲だと思わせないためにも、はじめが肝心らしい。

上海万博のあの曲は、岡本真夜の「そのままの君でいて」に似ていてひと騒ぎあった。
私の耳には、またそれが山下達郎の「クリスマス・イブ」に似て聞こえる。

まだあった。
クイーンの「伝説のチャンピオン」は「マックザナイフ」に似ていないかな。

お怒りめさるな、似て聞こえるものは仕方がない。

訓練地拡散

2010年05月21日 | Weblog
戦闘訓練は、同じ場所で繰り返しやるよりアウェイのほうが効果がありそうだ。
大リーグも移動して戦うではないか。

抑止の対象は元来仮想のもの、ひとつところで同じようなことを繰り返すより、まったく環境の違うところでやったほうが効果的。
遠隔地に迅速に移動するのも訓練のうちではないか。

伝える

2010年05月20日 | Weblog
「鼓は声、間、音」と、人間国宝の亀井忠雄師が話していた。

やや間抜けな質問「音は三番目ですか」
答       「順番はありません」

叩いているだけでは何も伝わらない、鼓もそうだった。

議員資格を正すには

2010年05月19日 | Weblog
今の国会をダメにしている最大原因は、職業政治家制だ。
議員になるだけで生活が成り立つことが間違っている。
こういう制度のもとでは、ほんの一握りの例外を除いては、議員の資格を保つことだけ、椅子取りだけの「継続は力」が一生の仕事になってしまう。

それなら議員になることだけでは生活が成り立たないようにすれば、この問題は一挙に解決する。
具体手法は、議員の歳費を10~20%にすること。
10~20%カットと読み違えては困る。 カット80~90%、そうすれば、生活のカテ議員はたちまちいなくなる。
議員をとりまくアマタレ・ベタベタ構造も崩壊するから、政治は本来あるべき姿を取り戻し、清浄にかつ正常になる。

議員名法

2010年05月18日 | Weblog
もうだいぶ前のことだが、分裂病が統合失調症と改名された。
本質を表した名前の方が確かにわかりやすい。

議員先生方の名前も、本質を表した「議員名」にしなければならないことを、法律で決めたらどうだろう。

この法の主意は次のとおりとする。
1.立候補のときは、議員名で立候補し、投票ももちろんその名前で行われ、当選したら任期が終わるまでその名前を使う。
2.次の立候補のときは、前の任期中の言動・活動・議員生活態度などに合うような議員名をつけなければならない。
3.もし名前で表現されたことと違うことをした場合、すなわち名が体をあらわさなかった場合は、議員の資格を失うことにする。

やっていることと名前が一致しなければ、議員の資格もなくなり、次の立候補資格も与えられない。
あれは党の昔の話でむにゃむにゃなどという言い訳もきかなくなる。

協同

2010年05月17日 | Weblog
産学協同ということがよく言われるが、政学協同というのはどうだろう。
政治は実務の世界、そこに理念を盛り込まなければ立派な政治はできない。
理念には学が要る。 
政治家の安直学でひねり出したまやかし理念は、このややこしい世の中には通用しない。
政治に理念を盛り込むには、御用学者でない者の清真な学理が要る。
そこに政学協同の意義がある。

猫商い

2010年05月16日 | Weblog
野良猫の餌代に200万円とられることになった人がいる。
野良猫がかわいそうで連れてきては餌をやっていたら、近所の人に訴えられた。
餌をやるのをやめなさい、そして迷惑料に200万円払いなさいと審判された。

猫も急に食場を失って大いに迷惑なのだが、猫に小判という人間の作ったことわざがあるのでカネはもらえない。
200万円はどこに行くのか、猫嫌いの人に行く。
猫嫌いの人が猫の餌を食うのか。

この手で猫を使った商売を考えた人がいる。
猫好きで野良猫を見ると放っておけない人を探す。
はじめは空き腹猫1匹をうろうろさせておき、猫好きが食いついて仮飼い主になったらだんだん増やす。
ぼつぼつぶつぶつ苦情を言いながら、しかし仮飼い主があきらめないように、巧みに被害実績を積み上げていく。
ころあいを見て告発する。
猫の餌代がぐるっと回って迷惑料に化け、うまくいったら次の町へ。
さすらいのルーピーキャッター。

「こころ」を読む

2010年05月15日 | Weblog
あるきっかけから、高校教科書に最も多く採用されているという漱石の「こころ」を読み直してみた。
読み直しと言っても、記憶にあったのは書名だけで、初めて読んだのと変わらない。
いまさら買って読む元気もないので、図書館から3冊借りてきた。
なぜ3冊もか、ここにいわくあり。

図書館から本を借りる場合、ネットで検索し予約しておき、知らせが来たら借りに行くことにしている。
「こころ」「漱石」で検索し、ぞろぞろ出てきたなかから、文字の小さい文庫本を避け、全集なら読みやすかろうと平凡社の「世界名作全集」を選んで予約した。

貸し出しの用意ができたと連絡があってとりに行くとき、受け取るだけならと眼鏡を持たなかった。
「これでよろしいですか」と言われて背文字を見たが、はっきり見えない。
古ぼけた小型のものをこれが全集かと思いながらとにかく借り出し、帰ってからよく見ると、その全集が、字は7Pと8Pの間の6号ぐらい、版の大きさは文庫並みだった。昭和34年の版で紙もだいぶ焼けている。
全集が大判本とは限らなかった。

これはだめだと、また別の日に図書館まで出かけて行って探した。
あるある、漱石全集は4~5種類もあった。
ほるぷ出版の漱石全集は、文字が大きくいちばん読みやすいが「こころ」が入ってない。
仕方なく角川の「日本近代文学大系」から探し出した。
これは、字は10Pぐらいでまあまあだが、全部の漢字にふりがながついている。
「私が愈立とう」に「わたくし いよいよた」とおまけがつく。
長いふりがなは文字の間隔をわざわざ広げなければおさまらないので、行が間延びしたものになる。
おまけにこの印刷は行間に余裕がない。
詰めたほうがよいところは広がっていて、空間の欲しいところは詰まっている。
目がちらちらしてまことに読みにくい。

これもだめだと、もう一度ネットで書名と出版社を条件にして検索、ようやくほるぷの「日本の文学」に入っているのを借りることができた。
10Pより大きい5号活字で行送りも8ミリ以上あって、これは読みやすい。
本はやはり現物を確かめてから買ったり借りたりした方がよい、とあらためて思った。

さて、この本は、図書館の整理シールを見ると、なんと児童図書館の蔵書になっている。
三角関係の果てに自殺で終わる本が、なぜ児童図書なのか、また国語の教科書に載るのか、理解に苦しむところだ。
蔵書の場や掲載を決めるときに、書名と著者しか見ていないのではないか。

それはともかく、中身のことに触れなければ話にならないので、本題に入る。

暮らしの中で、余計なことは知りたがらない、余分なことは話さない、これが普通の人間のこころのように思っていた。
知って欲しくないことを打ち明けてしまうには、命と引き換えの覚悟がいることさえある。
一方、知ってどうするというようなことを、無闇に知りたがる人もあちこちにいる。そんなことが書かれている。

前世紀の終わりごろから、情報化という化け物のお陰もあって、知りたい、聞きたいという身勝手な興味のままに、相手のことを考えずにキリやノミで突っつき散らすような人が増えてきた。そして、自分の興味がある程度満たされた人は、それでコミュニケーションがはかれたなどと得意顔になる。

こころのうちをわかるまでに至らず、知ったつもりになるだけでも、発掘研究者のような執念がなければできない。
また、こころのうちの最もだいじなところを知らしめ理解させようとするには、ヌーディストに宗旨替えするような勇気がいる。
心の病をもっていて気の毒な状態にある、あるいは人に危害を加える心配がある、そんな人のことでないなら、お互いにもう少しさらっと付き合うように、そうすれば世の中もっと住みやすくなるだろうと、あらためて感じた。
            (7年前のメモから)

使わない新語

2010年05月14日 | Weblog
普段使わない言葉を使おうとすると、読んだり聞いたりした人にうまく通じない。
読み取ったり、聞き取ったり、そこまではなんとかしてくれるだろう。
何のことかはわかっても、それで読み手も聞き手も気分はすっきりしない。

何年か前の「文学界」誌に誰かの芥川賞受賞第一作というのが載っていて、そこにこんな風景のことが書かれていた。
「窓から送電塔が見えた」
ものがそこにあってそれを指す場合は、普通に使われる呼び方が必ずある。
それを確かめずに、普通では使われない呼び方を発明してしまうと、自分ではうまいと思っても、通じただけという結果になる。
送電線の鉄塔は、送電鉄塔とは呼ばれても、送電塔とは言わない。
MS-IMEで変換したら、最初に「宗電灯」と出てきた。
送電塔というと、広い電気栽培の農場があって、そこに電気を送るための装置を入れた無闇に高い建物が立っている、そんな風景を想像してしまう。

相川音頭に、海に落ちた弓を、鉄塔を使って拾い上げるという文句がある。
「エ」と思ったが、調べたらこの鉄塔とは熊手のことだった。

送電塔という呼び方に文句をつけるつもりはないが、この作の読みはじめに持っていた興味が、送電塔のくだりを過ぎてから、すーっとさめてしまった。
作者がちょっとした努力を怠ると、折角の読者が去って行ってしまうのではないか、そんな気がしたのである。

転嫁文化

2010年05月10日 | Weblog
フェリーが岸壁に衝突した事故が報道された。
原因は、速度が落ちなかったからだという。
速度が落ちなかったのではなく、減速しそこなったのではないのか。
 
船を操る人は、機械が悪かった、操縦が下手だったのではないと、とにかくがんばる。
その場ですぐにごめんなさいといってはだめと子供のころからしつけられているのだろうか。

弁護士という職業が大いにもてはやされている国では、裁き以前には責任を自分以外のところ、テンポラリー・ルームに追いやっておく習慣があるようだ。
転嫁文化という名を献上しようか。
ジョージ・ワシントンと桜の木の伝説のある国に、転嫁文化がなぜ浸透したのか。
もとはエコだろう。すぐ後にいるのはノミーちゃん。そこでのロジー君はまたテンポラリー・ルーム行き。

ある職業につく人が大勢いるところでは、その人たちの仕事が増えるように、人々はいろいろなことを考える。
そのためのシステムがうまく出来上がっていけば、エコばんざい。

カツゼツとにごり

2010年05月08日 | Weblog
羽田空港ターミナルの BIG BIRD をビックバードと放送するアナウンサーがいた。
日本人どうしなら、ビックと呼んでも big と聞き取るが、そうでない人もいるだろう。

古くからのクルマに、紳士好みといわれる Buick というのがあった。
カタカナにするとビュイックだが、こう聞いた覚えはない。ビウイックと書く人もいるがこうも読まれない。耳に残っているのはビックだけ。

何の話か見当がつけば big も Buick もビックで聞き分けられる。
クでもなくグでもないように、ビでもビュでもないように聞こえるように発音するのが日本語だろう。

新しい辞書だけに載っている滑舌という業界用語がある。
MS-IMEにもなかったのでいま登録した。
滑舌をよくしなさいと仕込まれるのだろう、アナウンサーと呼ばれる人たちの発音は、一音一音が区切られたようになっていて、いかにも歯切れよさそう聞こえてくる。
だがこれはデジタル式発音だから、音の歯切れがよくても、言葉の歯切れは必ずしもよくない。切り口上の部類に属して耳障りなのである。
放送原稿がカナでビックバードと書かれることもあるだろう。
放送されるとき、クでもなくグでもない発音で読まれれば耳に障らないのだが、それでは滑舌が悪いとされるのか、刃物で突き刺すような声でビックバードと叫ぶ。
これを聞いては、天気がよいから羽田にでも行って見ようかという気持ちにならない。

字で書いたように言うのが現代発音法なのか。
どこかで順序が逆転してしまっている。

新熟語ダメ

2010年05月07日 | Weblog
[流格]
一流、二流、三流ということばがある。超一流というのもある。
この類をなんと呼ぶか。
流のクラス分けなら流級でよさそうだが、この場合は分類だけではなく質の上下関係もあるから、流の格、流格か。

スポーツの放送では、応援や野次に負けまいとアナウンサーもとかく大声を出す。
何日か続けば声がかれてくる。普段の声も出なくなる。
そうなったのどを、また自慢げに別の放送をする。
怒鳴って声をからすのは、声の流格でいえば一流あるいは超一流の格には入らないだろう。

からさずに声を出す発声法もあるはず。
適度に会場の雰囲気を伝えながら放送がはっきり聞き取れるような雑音調整の装置もできるはず。
放送の流格は、アナウンサー個人だけでなく、放送システムの流格がどうかということになりそうだ。

蛙の卵

2010年05月06日 | Weblog
河津桜がまだ咲きはじめのころ、どんな様子かと見に行った。
男の児が2人で水溜りをあさっている。
「何がいるの」
「蛙の卵」
それから30分もたたない帰り道で、もう収穫を見せてもらえた。

♪ かわずが卵の時分には、かわず桜もまだつぼみ

蛙の子は蛙というから、蛙の卵も蛙か。何か忘れちゃあいませんか。
おたまじゃくし、これを忘れるのは音符の読めない人か。

おたまじゃくしで思い出す。
捕ってきた10匹ほどのおたまじゃくしを、これが全部蛙になったらどう始末するかなどと考えながら水槽に入れておいたら、翌朝1匹残らず姿を消していた。
先に水槽にいた金魚が全部始末してくれたのだ。
金魚め、きれいな姿をしていても、食うことにかけてはなりふりかまわずか。
それなら食っているところを見たかった。頭からなのか尻尾からなのか。

興味というものは、確かめても仕方のないところに湧くものじゃの。

面白散歩

2010年05月04日 | Weblog
散歩するなら初めての道、知らない道が面白い。初めて目にすることがあるから。
訓練でなければランニングもそうだろう。

大根の花、海岸でハマダイコンをたくさん見たあとだったので、これもはじめはハマダイコンに見えたが、畠にあるのだからそうではない。ハマダイコンよりも色が白い。
ずっと一つのものを見続けていると、似ているものがみなその仲間に見える。どんなことにもこういう錯覚はありそうだ。

花は種を採るためのものだろうか。その脇に大根を寝かせておくのは何かのまじないか。
干すのなら畠の土の上にじかに置くことはしない。それに時期はずれ。
この間たくあん屋の爺さんに聞いた話では、暖かくなると大根が乾かなくなるから、たくあん作りは2月までということだった。
大根と花、その脇に立ったときはぼやっと見ていて気づかなかったが、根が寝ていても花は天に向かってまっすぐ立って咲くのだった。

錯覚が二つも重なると、おも面白い。どもったように面白い。