<骨太って何だ>
「骨太の方針」という日本語離れした奇妙な形容詞のついたことばが、近ごろ当たり前のように使われている。
「論理は個々の言語に内在する事情によって多様でありうる」(外山滋比古「日本の修辞学」)という名言があるが、この「多様でありうる」ことには、でたらめやたがの外れたことばは含まれていないだろう。
骨太とは、私の感覚からすれば、骨が太いことを表すことばであって、骨格の芯の部分がしっかりしていいるというたとえことばであったと思う。
想像するに、はじめにこのことばを使った人は、政策の方針がしっかりしたゆるぎないものであることを示そうとしたのではないだろうか。
そのとき、「骨太」という表現をお気に召した方が、政策の根幹を「ここに示すのは骨太の方針である」と言ったのではないだろうか。
「示した方針は骨太であるぞ」と言ったつもりが、基本方針のことを骨太の方針と名付けたものと聞き誤ったか、言い換えられてしまったのか、それはわからない。
「基本方針が骨太である」という形容のつもりが、「骨太とは太い骨のことつまり基本方針そのものである」となってしまったのではないかと思う。
ことばを言い換えたり、もののたとえに使いまわしたりすることは、それがその場限りならば罪はないが、珍語、珍訳、珍用法に定義めいた解釈がつけられ、メディアがその普及の役目を面白がって引き受けたりすると、奇妙な日本語ができてしまう。
この種のことばが国語として教育の場にまで定着してしまうと、私たちの国のことばはどんどん乱れていく。
まことに辛く悲しいことである。