試し撮り第3弾。
遠景もまあまあ、この設定でいこう。
試し撮り第2弾。
画像モードを 2048×1536 に格上げした。
まあこんなところか、次は遠景で試そう。
(♪ すみれの花咲く頃)
カメラの絞りが効かなくなった。
日陰の撮影はなんとかそれらしく写っても、明るい屋外は全くダメ。
細かい花は、細かく写らなければ写真にならない。
筆で描くものなら細かさを省いて絵になるが、ボケた写真でそう見てくださいは通じない。
この写真は、実際の花の時期から10日後に「発表」されました。
「不確かな情報に惑わされることなく、落ち着いて」ユキヤナギと見てくれる「可能性」にいくら「期待」をよせても、「しっかり」撮影されたものではないので、そう見てくれる「可能性」は「当然のことながら」「極めて少ない「可能性」があるものと「冷静な受け止め」ようとしているところであります。
さて、このカメラメーカーの工場があるのは東北だった。
これは参ったぞ。
津波の跡ではない、浜の物置小屋の裏側。
ひどく散らばっているようでも、なにがしかの分散配置意識は感じられる。
ものの置き場で、いちばん効率の悪い使い方は、むやみに積み上げることと、いらなくなったものに未練を持ち続け、いつまでも一緒に置くことだ。
一得二捨
何かが一つ増えたら、二つ捨てるぐらいでちょうど良い。
見上げれば 被災地に続く 青い空
N さんはこう詠んだ。
( http://k23ot.at.webry.info/201104/article_1.html )
空からも、海からも攻められることになった。
天災ではない。人間が、未開技術と時の流れに身を任せ、自分たちで頭を固く弱くしてきたからだ。
これを天罰と呼んだ人もいたが、天罰ではない。
現代人は、だいじなことを、ちゃんと伝えるように言葉を使ってこなかった。 その場の都合や、そのときの暮らし向きに合わせることでしかものを言ってこなかった。
そのバチが当たったのだ。
圧力釜も穴が開いてしまって、猛爆発の惧れはだいぶ遠のいた。
これからよほどへまをしなければ、空からの攻めは弱まる。
しかしそれも、風まかせのこと。
見渡せば 被爆地に続く 青い海
見える穴なら、ふさぐ手はある。
あいた理由はわかっていても、場所のわかわからない穴は、ふさぎようがない。
目で確かめる以前に、「なぜ」が先にわかってしまうことは、ヌエとの戦いのように、そら恐ろしい。
だが、恐ろしかろうが、難しかうが、つくり出し拡げてしまった戦いの場は投げ出すわけにいかない。
役目を背負った人は、言っただけのことはしなければならない。肝を据えてかからなければ、し遂げられない。
全身全霊などという言葉や、むやみに歩き回り飛び回って見せるだけでは、事は片付かないのだ。
季節が来れば花は咲く。
だが、今年のソメイヨシノはぐずっている。
ハマダイコンは咲き出したが、まだ昼の陽に光るほどではない。
元気に声をかけられるのを、待っているかのようだ。
桜餅の包み葉は去年のものだが、この桜の新緑は去年のではない。
花は大地震のときすでに終りに近かった。
河津桜はいつも早い。
春の陽にきらきら、と書きたい新緑も、何かくすんで見える。
桜の葉のせいでも、おひさまのせいでもない。
自分の霞んだ眼のせいなのだが。
はっきりものを言わない報道官たちの、うつむきの、カメラを正視できない姿を毎日見ていると、眼も霞んでくる。
平穏なときなら、ゆったりとして心を穏やかにしてくれる春霞。
環境放射線モニタリングシステムで、きょうはまだ大丈夫と確かめてはある。
だが、霞の正体に疑念を持ちながらそれに包まれるのは、悲しい。
浜辺に立つ二人が、また同じように海を眺められるのは何年後になるのか。
いまのうちにと歩く人が、この先、ここで何日続けられるか。
気休めでなく答えられる人は、この世に一人もいない。
犬だけが元気そうだ。